第壱話から第伍話にかけて、地の文の加筆・修正、会話の整合性を取るための修正を行いました。
「相変わらずインスタントな食事ねぇ。」
「お呼ばれされといて、文句言わない!」
時は夕食時。葛城亭にて、二人の女性が会話を弾ませる。
普段は俺、ミカ、ミサトさんという、男2人、女1人で暮らしているこの家であるが、今日はどういう風の吹き回しか、リツコさんの姿がそこにあった。聞けば、リツコさんはミサトさんの旧友という間柄であるため、こうして偶に夕食に呼ばれることがあるらしい。
もともとミサトさん一人(とペットのペンギン)で住む予定であったらしいマンションの一室ではあるものの、それにしては妙に広く、こうして4人で食事をしていても特別狭さは感じない。
さて、と俺は目の前の鍋の中に目を向ける。中はホカホカと煮立ったカレーという料理で満たされており、茶黒く光ったルーがヒトの口に入るのを待ち詫びている。……もちろん、一から十まで手作りされたものではなく──先ほどのリツコさんの言の通り──即席で出来るカレー製品
そのカレーを、零れないように皿に次ぎ分けていく。配膳などする質ではないが、我が家のルールで当番が決められているので致し方ない。
ミサトさんの分を注ごうとしたところで、彼女の手からインスタントラーメンのカップがさす出される。俺が困惑していると、彼女はケラケラとした表情で俺に告げる。
「私はねぇ、へっへー。ここに入れちゃって! どっぶゎーっと!」
「アンタ正気か?」
インスタントのカレーを、インスタントのラーメンに投入して、インスタントカレー麵にしてしまうのが魂胆らしい。初めからカレー味の麺ではこの味は出ない、というのが彼女の言だった。
しかして配膳が完了し、いただきます、の礼を済ませ、カレーを口にする。
刹那、舌が麻痺を起こす感覚。何とも言えないネチャネチャとした物体が口内に広がると同時に、喉の奥がチリチリと焼け、鼻の中に腐敗した匂いが充満する。
五感への強烈な刺激に耐えられず、俺はカレーを戻しながら床に倒れ伏した。それがよくなかったのか、吐瀉物が気道を封鎖してしまう。酸素が不足した俺の脳は、やがて意識を手放した──。
「オルガ、大丈夫?」
ミカの声で意識を取り戻す。文字通り息を吹き返した俺が顔を起こすと、カレーには一切手を付けず、代わりにデーツに舌鼓を打ちながらこちらを覗き込むミカの姿があった。この
その様子にホッとしながらリツコさんのほうを見る。不運なことに彼女はカレーを食べてしまったらしく、酷く顔を顰めていた。
「これ作ったの、ミサトね!」
ミサトさんは「分かる~?」などと呑気に宣っているが、インスタント──すなわち、誰が作っても最低限の品質は保証されているものを、余計なアレンジによってここまでの劇物にできるのは、ある意味才能と言っていいだろう。『即席バエルカレー』と記載されたインスタントカレーのパッケージを見ながら呆れていると、リツコさんが冗談めかして声をかけて来る。
「オルガ君、三日月君、やっぱりNERV本部の方に引っ越しなさい? ガサツな同居人の所為で、人生に幕を閉じることになるかもしれないわよ?」
その冗談──強ち冗談とも言えないのだが──にミサトさんは少しむくれた表情を見せ、大体、と言い返した。
「引っ越すったって手続き面倒よ。二人とも、本チャンのセキュリティカードもらったばっかりだもの。」
NERVはその存在を公にはしていないため、本部に入るためには住所などの個人情報が記載された、専用の身分証──セキュリティカードが不可欠だ。俺やミカは手続きが完了するまでは仮のカードで出入りしていたのだが、昨日晴れて正式なカードが支給されたというわけだ。それゆえ、今から住所を変えると、再び時間のかかる手続きが必要になる。
リツコさんは、冗談よ、とでも言いたげな表情をしたのち、何か思い出したことがあったのか、あっと声を上げた。
「忘れるところだったわ。オルガ君、頼みがあるの。」
「ヘゥン?」
そんなやり取りをしながら彼女から差し出されたものは、綾波レイ、と書かれた一枚のセキュリティカードだった。
「渡しそびれたままになっててね。悪いんだけど、明日本部に行く前に、彼女へ届けてもらえるかしら?」
「あー、悪いが俺はそいつとの面識があまりなくてな。ミカに頼んだ方がいいんじゃねぇか?」
彼女──綾波レイとは、ロクに会話もしたことがなければ、顔を合わせた機会すらほとんどない。それに比べて、ミカなら彼女と学校で会話しているのを何度か見かけたことがある。
「それに、俺はそいつが零号機とやらのパイロットであるという以上のことは何も知らねぇ。彼女はいったい何者なんだ?」
俺の質問に、リツコさんはふむ、と呟くと、淡々とした様子で語り始めた。
「綾波レイ、14歳。モンターク機関の報告書によって選ばれた、最初の被験者、ファーストチルドレン。過去の経歴は白紙ってところかしら。」
「……つまり、よく分かんないってこと?」
横からミカが口を挟む。俺はてっきりミカが彼女の素性を知っているものと思っていたので、拍子抜けしてしまう。それにしても、「過去の経歴は白紙」とは。マクギリスが関わっているこの組織のことだし、また何か隠しているに違いない。
「ま、それはあなたたちも似たようなものなのだけどね。」
リツコさんの口から意外な事実が告げられる。──と言っても、良く考えれば何ら不思議なことではない。俺やミカは本来そもそもこの世界に存在していなかったのだ。出自が分からないという点においては、彼女と自分たちが同様であるのは自明だった。
何やらはぐらかされた気分だが、その後は結局綾波レイのカードを押し付けられ、他愛のない話に移ったのちにお開きとなった。
リツコさんは帰宅し、ミサトさんは風呂場に向かっていく。俺とミカだけになったリビングは、すっかり静けさを取り戻していた。
「綾波レイ、か。マクギリスのやつ、何を隠してやがるんだ?」
「あー、それなんだけどさ。」
俺が独り言ちていると、ミカが口を挟む。
「チョコの人、あんまりレイについて分かってないって言ってた。詳しいことは、あの髭の人が知ってるだろうって。」
「髭っていうと……あいつか。猶更胡散臭いな。」
髭──NERV本部総司令、碇ゲンドウ。彼とまともに対面したのは、初めて初号機に乗った時くらいであるが、彼も彼で考えていることが読めない。彼の、こちらを道具として見做すような視線を思い出しながら、少なくとも善人ではないだろうと思量する。
ともかく、あのマクギリスですら綾波レイについて大した情報を持っていないとなると、俺が探りを入れても徒労に終わる可能性が高いだろう。今は考えても仕方ないと、彼女のセキュリティカードを弄んでいると、ミカが少し懐かしむような顔をこちらに向けた。
「レイってさ、何にも持っていなかった頃の俺に似てた。」
「ミカに?」
何も持っていなかった頃──俺と出会う前の、辿り着くべき場所を持たなかった時の三日月・オーガス。ミカの目には、彼女の姿がそれと重なって見えたのだという。
「だからさ、オルガなら何かあげられるものがあるんじゃないかな。」
あげられるもの、か。ミカの言うことであるから、それは決して的外れなものではないだろう。そして、そのためには彼女のことをこの目で知る必要がある。
明日はミカではなく、俺自身がカードを届けに行こうと決意を固め、就寝の準備に取り掛かった。
灰色の世界を、重い工事の音が駆け巡る。再開発を行っているのだろうか、取り壊された廃ビルの瓦礫が視界が埋め尽くしている。その間を縫うように走るアスファルトの上を進んでいると、やがて未だ自立しているのが奇跡であろうと思しきマンションが目に入った。俺はその建物の中へと足を踏み入れる。
マンションの中は、長らく清掃されていないのだろう、歩みを進めるたびにザラザラとした感触が靴底から伝わってくる。扉や表札はすっかり錆びついており、辛うじて部屋番号が読み取れる有様だ。とても人が住んでいるとは思えない。
俺が何故このような場所を訪れているのかといえば、届け物──綾波レイのセキュリティカードに記載されていた住所がここを示していたからだ。彼女は既に引っ越しており、カードの住所が古いままなのでは、とも邪推したが、このカードは発行されたばかりの更新カードである。それでは辻褄が合わないだろう、とその考えを切り捨てる。
重機の奏でる轟音と、砂の擦れる音のハーモニーを楽しんでいると、視界に「402 綾波」の文字が映る。扉の前で足を止め、インターホンを鳴らすべくボタンを押す。
──反応はない。この惨状では、壊れていると考えるのが妥当であろう。ノックに切り替え、中に居る筈の住人に声を掛ける。しかし、いくら待てども人の出てくる気配はなかった。痺れを切らした俺は、ドアノブに手を掛ける。鍵は掛かっていなかったらしく、鈍い音を立てながら、ゆっくりと扉が開いた。
一瞬の躊躇の末、「邪魔するぜぇ。」とだけ発声し、中に足を進める。室内では埃が舞踏会を嗜んでおり、思わず咳き込んでしまう。肺の軋みに耐えながら短い廊下を踏破すると、そこには外と変わらず灰色が支配している一室があった。無機質なパイプ製のベッドが佇み、その傍らには赤黒く汚れた包帯が無造作に捨てられている。部屋の隅に蹲る小さな冷蔵庫の上には水の入ったビーカーと錠剤が並び、天井ではおよそ住まいには相応しくない一対の蛍光灯が、力なくこちらを伺う。正面には、部屋の主と言わんばかりにこげ茶の箪笥が鎮座しており、あたかもそれを玉座とするように、割れた眼鏡が飾られていた。
とても健全な人間が住むところではないな、などと訝しんでいたところで、俺は自分が女性の部屋に、それも無断で足を踏み入れたことを自覚する。急に気恥ずかしくなり、息急ぎ退出すべく180度回頭したところで、しかし思考がフリーズすることになる。
目の前には、シャワーから上がってきたばかりの、綾波レイの姿があった。
レイは不法侵入者の姿を少しだけ注視したのち、それを特段気にする様子もなく(多少は気にしていると思いたいが)部屋の中へ進入し、ベッドの上に散乱した下着に手を掛けていた。肩からタオルを掛けているものの、彼女が動くたびに白い肌が顔を覗かせる。
「退いてくれる?」
冷たい少女の声が耳に入り、意識を取り戻す。打ち所が悪かったのか、はたまたハプニングのせいなのか、一瞬気を失っていたらしい。状況を整理すべく身体を起こそうとしたところで、妙に柔らかい感触が肌を突いていることに気が付く。
──よく見れば俺は、ベッドの上で、レイの上に覆いかぶさるようにして倒れていた。
変な叫び声を上げながら飛び上がる。刹那、後頭部に冷たい金属の感覚。
「何してるの、オルガ。」
いつの間にか現れたミカが、俺の頭に拳銃を突き付けていた。
「待ってくれ! ち、違うんだミカ! これは──」
「
大きな勘違いを受けているようだが、無理もない。大男が、ベッドの上で少女に覆いかぶさっている。端から見れば、どう見ても大男が少女を押し倒し、襲い掛かってるようにしか見えなかった。
──この後どうなったかは、皆さんの想像にお任せする。
必死の弁明でミカの誤解を解き、銃身のプレッシャーから解放されると、レイの姿は既になかった。俺とミカが問答している間に、さっさと着替えて本部に向かってしまったようだ。当然、訪問の主目的たるセキュリティカードは渡せず仕舞いになってしまっている。
二人で頭を掻いたのち、急ぎ彼女の後を追うことにした。
本部の出入り口ゲートに辿り着くと、丁度レイがカードをスキャナーに通していた。機械はその古いカードを拒絶し、エラー音が発せられる。彼女が表情一つ変えずにスキャナーを凝視しているところで、俺は横から新しいカードを差し出した。
「ほら、これがアンタの新しいセキュリ──」
言い終わらないうちに、無言でカードがひったくられる。再び頭を掻いていると、ミカが「当然なんじゃないかな。」と突っ込みを入れながらレイの後を追っていった。……誤解は解けたんじゃなかったのか?
二人の後を追い、ジオフロントへ降りる長いエスカレーターに乗り込む。一人分しかなかろうという幅の細いエスカレーターが上り下り1列ずつ並び、中抜きになった広い空間を地下の下の方まで貫いている。毎度のことながら、よく崩壊しないものだと思う。
前方では、ミカとレイが縦に並び、何やら会話している様子が見て取れた。
「また難しい顔してるね。いつも何考えてるのかわかんないけど。」
「そう。」
レイの生返事を気にすることなく、ミカは続ける。
「レイはさ、なんでエヴァのパイロットやってるの?」
「何故、聞くの。」
「前に、零号機の実験で酷い目に遭ったって聞いたからさ、平気なのかなって。」
零号機の実験。そこで何やら事故が起こったらしく、それが彼女の怪我の原因だったらしい。──それをまたしても俺だけ聞かされていなかったことは不服だが、それは棚に上げて置き、会話の続きに耳を傾ける。
「平気。──エヴァは絆だから。」
「絆って、あの髭の人との?」
「みんなとの。」
「ふぅん。」
「──あなたは?」
「俺? 俺は決めたんだ。俺たちの本当の居場所──そこに辿り着くまで、俺は止まれない。」
「そう。」
そんなやり取りが続く。彼女は己が戦いに赴く理由を「絆」と表現したが、とても彼女が周囲の人間と馴染んでいる様子は見られない──そんな気がした。俺は疑問を投げかけるべく、人がいないことを確認して対向のエスカレーターに飛び移る。ひとしきり逆走したのち、順行レーンに戻ることでレイの正面を勝ち取った。
彼女と目が合う。俺はエスカレーターの下流側に入ったため、その高低差と身長差が相殺され、丁度頭の位置が揃っていた。
「絆っていうがよ、アンタにそこまでして危険に身を晒す理由が何かあるのか?」
「私には、他に何もないもの。」
他に何もない。彼女には、ここNERVでエヴァのパイロットをやる以外、生きる術を知らないのだ。リツコさんの、過去の経歴は白紙、という言葉を思い出す。彼女のこれまでの生き方は、その経歴の記録と同じで、本当に白紙だったのではないか──そんな考えが頭をよぎる。であるならば、そのような彼女の素性を握っているという碇ゲンドウは、一体何を企んでいるのだろうか。
「──この組織、特に上の方は何を企んでいるのか分からねぇ。その命令に従うってのがどれほど危険なことなのかは、分かってるんだよな。」
俺の言葉に、初めてレイが表情を動かす。彼女の視線が僅かに鋭くなる。
「信じられないの? 碇指令の仕事が。」
「当たり前だろ。あんな胡散臭すぎる髭のおっさん。」
信じられないのか。それは、裏を返せば、彼女が碇ゲンドウを信頼していることを意味していた。それに思い至る前に率直な感想を答えてしまった俺は、浅慮としか言いようがないだろう。彼女の表情が強くなる。
やがて、俺の頬を平手が襲った。
昼上がりの空に、光芒が生じる。日の光を反射しながら進むそれは、ゆっくりと、しかし確実に、第3新東京市を目指していた。
「目標は芦ノ湖上空へ侵入。」
「エヴァ初号機、発信準備よろし!」
オペレーターの声が飛び交い、作戦指揮の立場として気を引き締める。
第5使徒の襲来。3度目の交戦ともなれば、流石に慣れを感じて来るものだ。
「発進!」
発進の合図を出し、初号機を射出させる。スピーカーからは垂直式発射のGに耐えかねたオルガ君の情けない声が聞こえるが、彼も早いうちに慣れてくれないものだろうか。
「目標内部に、高エネルギー反応!」
青葉二尉の報告に、使徒を映し出すモニターに目を向ける。使徒は、その青い正八面体の辺部に、淡い光を放っていた。
「円周部を加速、収束していきます!」
それは、使徒が攻撃態勢に入っていることを意味していた。初号機の発進位置を完全に予測し、出待ちしていたのだ。──初号機が地表に出るまで、もう幾ばくも無い。
「ダメ! 避けて!」
『は?』
オルガ君に回避の指示を飛ばす。しかし、地表に出たばかりの初号機は、肩部がカタパルトに固定されており、それは適わない。リフト・オフの暇すら与えられず、使徒から放たれた光線──加粒子砲が初号機を焼いた。
『俺は止まんねぇからよ……止まるんじゃねぇぞ……』
その言葉を最後に、初号機からの通信が途絶える。初号機からのダメージのフィードバックにより、パイロット──オルガ君の意識がなくなったのだ。
「初号機を回収して! 早く!」
ここで初号機とオルガ君を失うわけにはいかない。とっさの指示を出し、初号機を地下に引き戻す。獲物に射程外まで逃げられてしまった使徒は攻撃を中断し、緘黙した。
追撃の様子がないことを確認したのち、パイロットの状況を確認する。しかし、オペレーターの口から発せられたのは、にわかには信じ難い一言だった。
「パイロット──死んでいます……。」