もし、あの時貴女の後押しに答えてしまったなら
その日のことはよく覚えている。
空は憎らしいほどに澄み渡り、太陽の光に反射された教会は眩いほどに白かった。そして、周りにいる人々もこの祝いの場に相応しい煌びやかな衣装を見に纏う。
教会の扉が開き、中からは真っ白なウェディングドレスとタキシードを纏った新郎新婦が階段を降りる。溢れんばかりの祝いの言葉と花びらが空を舞う。2人とも照れたように、それでも嬉しそうに笑いながらそれに応えている。これからの2人の人生の門出を拍手で讃える。
そんな中私も2人を祝うように拍手を送る。ただ、集団の1番後ろからである。段差と人の数もあり彼女たちの顔は見えないこの位置からならば、まだなんとか耐えられるだろうと思ったからだ。
そもそもこのような祝いの席に呼ばれた身分で1人だけ祝いの拍手も送らないというのは失礼なことこの上ない。学生時代から〝女帝〟としての態度や身の振り方を徹底してきたのだ。そして、私はトレーナーの…この場の主役である花嫁のはじめてのパートナーだ。彼女の顔に泥を塗るようなこともできるわけがない。
「おめでとう。トレーナー。」
祝いの言葉が彼女たちに送られる中で、私は笑顔を崩さないままそう言葉を送る。笑顔もまた大事なパフォーマンスの一つだ。ライブなど大勢のファンの前でそれ以外の表情を見せることは許されないのだから、当然である。
だから、問題ない。
会場を包み込む拍手の音も。溢れんばかりの祝いの言葉も。一つ一つの音を、言葉を聞くたびにナイフで切り付けられるようにな痛みが襲う。いっそこのまま殺してくれ、壊してくれと慟哭が聞こえてくる。
だが、それがどうした?
私を〝女帝〟としての姿に昇華させてくれたトレーナーを。最愛の人の花嫁としての姿を。皆が描く〝当たり前〟の幸せを…私が祝わずして誰が祝うのだ。
「あぁ、いかんな。」
そんな思いとは裏腹に喉からは震える声が漏れ、冷たい雫が一滴と頬を伝い視界が滲み出す。だめだ、これ以上はこの場に居られない。居ることが許されない。幸い私が居る場所は1番人目から離れている。大勢の人が新郎新婦に注目しているのもあり、私は誰からも目を向けられることなくその場から容易に離れることができた。
最低なこととは重々承知だ。しかし、このような祝いの場で誰かに気を遣わせるよりかは遥かにマシだと思ったから。いや、ただ逃げたかっただけなのかもしれない。本当に私は最低だ。
「エアグルーヴ」
そんな私の背中越しに、彼女が私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。ずっと隣で聴き続けたその声に、胸の音が跳ねる。立ち止まり、後ろを振り返りそうになる。
(ダメだ。それだけは…ダメだ。)
きっと振り返ったら。振り返ってしまったら。私は何をするか分からない。だが、この幸せな時間を壊してしまうのは間違いなかった。
「幸せにな、トレーナー…さようなら。」
彼女の耳に届くはずもない別れを告げて、私は会場から姿を消した。
ーーーーーー
「それでは私は仕事に行ってくる。貴様も遅れるなよ?」
「あぁ。いってらっしゃい。」
いつもと変わらないやり取りをして私はマンションの自室のドアから外に出る。コツコツとヒールの音が廊下に響く中今日のスケジュールを確認していく。
(今日は新規のスポンサーとの会談が2件。プロジェクト会議一件…あぁ、あと企画書の添削と、提出もあったな。)
他にも細かいことを書き出せばキリがないが、大きな案件はこんなものかとスマホの画面を落とす。
学園も卒業し数年…レースからも引退した私はウマ娘専門の化粧品、美容品を取り扱う大きなブランド会社に就職した。現役時代の活躍と、会社での成績も認められ3年目ながら大きなプロジェクトにも参加させてもらっている。
その会社で知り合った3つ上の先輩と気が合い、食事の席や会話を何回か通して流されるままに付き合い始め、今は同棲生活をしている。互いに稼ぎもあるためそれなりに充実した生活を送れている。互いに干渉しすぎない距離感ではあるが、下手に手を出そうとする軟派者よりかはマシだ。
仕事も、プライベートも満ち満ちている。誰と話をしても憧れの目を向けられることが殆どであり、私自身も順風満帆な人生を歩んでいると感じている。
(なのに…何故だろうな。)
ふとスマホの画面をつけて日付を確認する。今でもハッキリと思い出せる、純白のドレスに身を包んだ彼女の姿が脳裏に浮かぶ。
あの日からだ。いや、その以前からかもしれない。何をしても心は満たされない。次から次へと流れ込んでくる感情に対して、ヒビ割れた器は受け止めきれず、少しずつ外へ外へと落ちていく。いくら取り繕っても、気丈に振る舞おうとしてもそのヒビは消えることはない。少しずつ。しかし確実に。そのヒビは深く、大きく広がっていく。
「お前は今…幸せか?幸せに…暮らしているのか?」
手の中にあるスマホを少し強く握りながら、私は返ってくることはない質問だけをただ口にした。ただ、彼女が幸せに暮らせているのならそれで良い。それが良いんだ。
当たり前の幸せを掴んだ愛おしい彼女の幸せを願いながらも、〝ピシリ〟と歪な音が胸の奥から聞こえた。
ーーーーーー
「ふぅ…これで終いだな。」
本日の最後の業務を終えて、時間を確認する。想定していた終了時刻を上回ってしまったが、夕食の準備にも差し支えない時間帯だ。
(む…?)
帰り支度をしながらスマホの画面を見ると一件のメッセージが入っている。相手は私のどうやら仕事で気づかなかった。差出相手は私の付き合っている彼からであった。
スマホを操作し、メッセージ内容を確認する。端的な内容を見て私は「ハァ」と重いため息をついた。
「また〝仕事の付き合い〟か…」
彼と付き合い始めてから一年足らず。それなりに不満のない生活ではあるが〝仕事の付き合い〟が突然入ったというこのメッセージはここ数ヶ月で何度も見てきた。最初のうちは仕事終わりに夕食を共に囲んでいたが、仕事や会議などでどうしてもできない時もある。しかし、最近はその頻度が多い気がする。
「…帰りに何処かに寄るとするか。」
家に帰って、料理をする気もなくなってしまった。どこかの店に入るか、それともテイクアウトでもするか。そんな時だ。ポツ、ポツと水滴が落ちる音が聞こえてくる。それは次第に大きく、激しく地面を打ち付けるものへと変わっていった。
「クソッ…!」
周りにいた連中も突然の豪雨に驚き、足早に近くのお店や屋根下へと駆けていく。私もまた、目先に入ったカフェの屋根下へと走り出す。
「…散々だな。全く。」
ずぶ濡れになったスーツとシャツの感触が気持ち悪い。幸い、カバンの中に入っていた貴重品やスマホなどには問題はなさそうだが…余計苛々としたものが積もるだけだった。
(さて、どうしたものか。流石にこの姿で入店する訳にはいかんしな…どこか別の…)
「キャアッ!!?」
「ッ!?」
しまった。考え事をしていた為に近づいていた相手に気づくことができなかった。そんな反省をする頭に反してだが体は反射的にぶつかりよろける相手の腕を咄嗟に掴む。
「すまない。此方の不注意、だ…」
「いえ、こちらこそ…え?」
私は相手の腕を掴みながら、その顔を見て息を呑む。目があった彼女も驚きの声を上げたあと、私の顔を見て目を点にしていた。無言で互いに見つめ合う。時間にしては数秒かもしれないが、私達にとってはとても長く感じるものだった。周りの声や雑踏、降り注ぐ雨の音も遠くに消え、自分の心臓の音と息づかいがハッキリに聞こえてくる。
「エアグルーヴ?」
「あぁ、久しぶりだな…」
あの時と変わらない私の名前を呼ぶ彼女の声。数年ぶりだというのに私は学生時代、彼女と共に駆け抜けた現役時代のことを鮮明に思い出す。そして、愛おしい彼女に向けていた感情も。胸に抱えていた黒く、歪んだ感情を。
「…このままでは互いに風邪を引くな。」
「エアグルーヴの家は、ここから遠いの?」
「少しばかりな。」
現役を引退したとはいえ、ウマ娘である私にとっては走れば問題もない距離ではある。それでも降り頻る雨の中歩いて帰る気にはとてもなれない。それに今頃駅の中は避難した人や帰宅する会社員や学生などで人に溢れていることだろう。どちらにしろ億劫なことには変わりない。かと言ってこの場に留まり続けることもできない。八方塞がりとはこのことだろう。
「あ、あのさ。エアグルーヴが良ければなんだけど…」
「ん?」
歯切れ悪く話すトレーナーの方を向く。しばらくその顔を眺めると彼女は小さな声で、それでもハッキリと聞こえる程度に私に提案をした。
「良ければ…ウチで雨宿り、していかない?ここから近くのマンションなんだけど…」
その言葉を聞いて私はなんとも言えない感情に襲われる。だが、背に腹は変えられない。それに彼女も苦渋の決断で提案してくれたことは様子から理解できる。ならば、それを無碍にできるわけもない。
「すまないな。貴様の言葉に甘えることにする。」
「ん…じゃあ、案内するね。少し走るよ。」
頷く彼女は私の手を掴み、雨の中へと駆け出していく。先程は鬱陶しい雨ではあったが、彼女の手の温もりを感じながら打たれ、共に走るのは悪くない。そんな浮ついたことを考えながら私は彼女達の住むマンションへと向かったのだった。
ーーーーーー
(やっちゃったやっちゃったやっちゃったッ!!!)
何をしているんだ私は。駅を出て家に帰ろうと外に出たと思えば、突然のゲリラ豪雨に見合って。ずぶ濡れになりながら目に入ったお店の屋根の下に駆け出して。振り向いた相手の方にも気づかないでぶつかって…それがかつての私のパートナーで…
「何が〝雨宿り、していかない?〟よ…側から見たらただのナンパと変わらないじゃない…」
リビングのソファに腰を下ろし、頭を抱えながらそう嘆く。部屋の奥から聞こえるシャワーの音が現実を突きつけてくる。
「…私も服脱ごう」
痛む頭を抑えながらも、着替えを2人分用意してから濡れた服を脱ぐ為に私も脱衣場…エアグルーヴが今はシャワーを浴びてあるバスルームの方へと向かう。あのお店から近かったとは言え雨の中を走ったのだから下着までずぶ濡れだ。スーツは後日クリーニングに出すことにしよう。
「ん…しょっ、と。」
濡れた衣服に四苦八苦しながらもなんとか脱ぎ去り、洗濯機の中に投げ入れる。裸のままいるわけにもいかず取り敢えずバスタオルで体を拭いてから巻いていく。洗剤を入れてスイッチを入れて蓋を閉じる。乾燥機能も付いているし、時間はかかるが仕上がる頃には雨も止んでいるだろう。
「うー…寒い…」
いくら暑くなってきたとはいえ、雨に濡れれば当然体は冷えていく。とはいえ今シャワールームにはエアグルーヴが入っている。流石にそれを邪魔する訳にはいかないだろう。シャワーを浴びる前に着替えるだけ着替えてしまおうか?そんな時だ。
「入らないのか?」
「へ!?」
シャワーの音が止まり、扉越しにエアグルーヴの声が聞こえてくる。なんと答えれば良いか分からない私に対して彼女は扉を開けて現れる。濡れそぼった髪から伝う雫が彼女の肌を伝い、背中越しの照明も相まって艶っぽい。間違いなく学生時代よりも色気が増している。同性なのに緊張してしまう。
しばらく彼女に見惚れているとエアグルーヴは「はぁ」とため息をつきバスルームの外に出る。そして私の頬に優しく触れた。
「冷たいな。待たせてすまない。私は上がるから、早く浴びてこい。」
「う…うん。ありがとう。」
「礼を言うのはこちらだ。ほら、早く浴びろ。」
私の頬を撫でたあとエアグルーヴは私をバスルームの中へと優しく案内し、ドアを閉めた。その時見えた彼女の瞳はどこか悲しそうで…何かを堪える小さい女の子のようだった。
(エア…もしかしてまだ私のことを…)
違う。何を馬鹿げだことを。
私は既婚者だ。そして彼女は…私の結婚を。〝当たり前の〟〝普通の〟幸せを願い、後押ししてくれた大事なパートナーだった元教え子だ。今日出会ったことは驚きはしたが、それだけだ。たまたまだ。勘違いをするな。
余計な思考を取り払うように私は熱いシャワーを頭から被ったのだった。
ーーーーーー
「はー…サッパリした。」
「すまないな。服も借りてしまって…これは洗って返す。」
シャワーを浴びて、着替えてからリビングに戻ればエアグルーヴがそう話してくる。律儀なところは変わらないその様子に安心する。
「大丈夫だよ。それよりも何か温かいものでも飲む?」
「いいのか?」
「まだ乾燥終わるまで時間かかるしね。それに旦那も仕事で帰ってくるのは夜遅くになるって連絡きたから。まぁいつものことだけどね。付き合ってくれると嬉しいな。」
そう話しつつポットに水を入れてスイッチを入れる。マグカップを二つ取り、1つにはインスタントコーヒーを入れる。結局これが1番楽だし、コーヒーにこだわりのない私にはちょうど良い。あともう一つには紅茶のティーパックを入れる。生憎今はこれしかなくて申し訳ないが、折角なら彼女の好きなものを私も飲んでもらいたい。
コポコポと鳴るポットと、窓を叩く雨の音が部屋の中に響く。時間がゆっくりと進む中、懐かしいような感覚に2人で浸る。まるであの時に戻ったみたいだった。
「仕事はどうだ?」
「んー…それなりかな。サブトレーナーの子がしっかりしてるから、結構助かってるよ。書類やトレーニングを同時に何個も組むの大変だけどね…エアグルーヴは?」
「忙しいがやり甲斐を感じている。最近だとそうだな…学園に卸しているテイルオイル。アレの開発に私も携わったのだが、生徒達の反応はどうだ?」
「え…アレ、エアグルーヴの勤めている会社のやつなの!?しかも商品開発もしたの!?」
私がそう驚くのも無理はない。あのテイルオイルは学生達だけではなく、学園に勤務するウマ娘達にも人気が高く個人で買うほどのリピーターが続々と現れているのだ。風や雨に晒されて傷みやすい尻尾の毛のダメージケア効果も高く、香りのバリエーションもいくつかある。それも強いわけではなく尻尾を揺らしてほんのりと香るくらいではあるが、年頃の女の子達からすればモチベーションも上がると言うものだ。
当然私の担当するチームの子達も使っており、どんな匂いが良いのか話して盛り上がっているのを見たことがある。まさかそれを卸しているのがエアグルーヴの会社のものだとは思わなかったけど…
「そんなに驚くことか?」
「当たり前だよ…私貴女がどこの会社に勤めているのかも知らされなかったんだから。」
そう話すとエアグルーヴは一瞬目を見開き、「すまない」と小さく呟いて視線を外す。思えば、エアグルーヴとこうして話すのは数年ぶりだった。確か…結婚式を経てから機会が減ってしまっていたのだと思う。
「…やはり、私は帰るとする。」
「え、まだ外雨降ってるよ?」
しばらくの沈黙の後、俯いたままエアグルーヴはそう告げる。だがまだ彼女の服は乾いてなどいないし、先程よりは弱くなったとはいえ雨も降っている。今のまま外に出たらまた濡れてしまうだろう。
だが、エアグルーヴは構わないと言った風にソファに置いていた自分のカバンを肩に担ぎ、リビングを出ようと扉の方へと歩いていく。私はそれを見て彼女の背中を追う。今、彼女を外に出したら二度と会えない。そう直感してしまったから。
「待って、エアグルーヴ!」
「あ…」
外に出ようとする彼女の腕を掴む。本来なら一般女性である私の力では敵わないはずなのに、簡単に引き寄せることができてしまった。
その時に見えた彼女の顔は、今まで見たことがないくらい頼りなくて、崩れてしまいそうだった。とてもじゃないが放っておける状態ではなかった。
「エアー」
「離してくれ!」
「ッ!!」
声を掛けようとした瞬間、エアグルーヴは叫びながら私の肩を押し強引に突き放す。それに少しよろめくとエアグルーヴは更に辛そうに顔を歪め唇を噛む。
「…すまない。」
今にも消えてしまいそうな声で彼女は私に謝ると、彼女は逃げ出すように玄関へと向かい、外へと出て行ってしまった。1人残された部屋の中、ピーッとお湯の沸いた音だけが鳴り響いた。
ーーーーーー
「うぅ…グス…うぁぁ…」
最低だ。なんて私は最低な女なのだ。
もはや女帝と言われていた面影や威厳など欠片もない。ただ感情に任せて動くだけの醜い女だ。何よりも、親切にしてくれた彼女を、トレーナーの気持ちを無碍にし、挙句の果てに力任せに彼女を突き放してしまった。驚き、私に見せた一瞬の怯えた表情が何度も脳裏に浮かぶ。現役時代でさえあんな顔をさせたことはない。
「トレーナー…とれーなぁ…あぁあ…ごめんなさい、ごめんなさい…!」
電気もつけない真っ暗な部屋の中、ベッドの上で泣きながら私は何度も謝った。好きだった人を。もう私の、私だけのトレーナーではない彼女を。〝普通の〟〝当たり前の〟幸せを掴んだ彼女を。掴んで欲しいと背中を後押ししたはずの彼女を傷付けた。拒絶した。そのことが何よりも辛かった。悲しくて悲しくて仕方なかった。
あれからどれくらい泣いたのだろうか。泣き腫らした目を擦りながらスマホの画面をつける。夜の8時を回っていると言うのに、私の彼氏であるあの男はまだ帰って来ていないらしい。
「はは…もう、どうでも良いか。」
自嘲しながら私はそう呟くとキッチンへと向かう。アレだけ泣いたせいか喉が渇いた。それに、目が痛い。
水道のレバーを回し、顔を洗いタオルで拭いながら冷蔵庫の扉を開く。普段酒は飲まないが、今日は溺れてしまいたかった。銀色の缶を一つ取り出し、プルタブを立てる。〝プシュッ〟と言う炭酸の音が響き私はそのまま口をつけ一気に流し込んだ。空きっ腹にドボンドボンと炭酸とアルコールが入る音が聞こえてくる。当然、あっという間に血が巡り頭がフワフワとした感覚に陥る。
「フフフ…フフ」
壊れた人形のように私は笑う。心の中の整理もつかない。傷ついて、ボロボロになりすぎて…逆にもうツラクナイ。イタクナイ。
飲み干した空っぽの缶を適当にシンクに投げ入れ、ふらつきながらリビングのソファへと体を沈める。冷たい革張りのそれは私をゆっくりと受け入れた。ただぼんやりと天井を眺めているとポン、と通知の音が聞こえる。
「んん…誰だ…ッ!?」
重い腕を動かしてスマホの画面を見る。そしてメッセージを送って来た相手の名前を見て私は体を勢いよく起こした。
(今度の休み、空いてる?空いてたら、私と付き合って。)
「…バカ。」
あんな酷い事をしたのに、トレーナー業をする中で貴重な休みに付き合えと誘うなどどれだけお人好しなんだアイツは。それでも尻尾は正直に揺れてソファの上をパタパタと叩く。全く、私も分かりやすい事だ。
(わかった。場所は?)
そう返信をすればすぐに既読マークが付き、返事も来た。
(最近できたこのカフェはどう?学園の子達でも話題だし、行ってみない?)
メッセージと共に話の上がったカフェのURLが送られてくる。白を基調とした店内は清潔感にあふれ、テラス席も広くゆったりと過ごせそうだった。メニューも豊富だし、軽いランチも兼ねて行くには申し分ないだろう。
(構わん。折角だし、ここで昼食も兼ねないか?)
(いいね。じゃあ、今度の休み、お昼前にこのお店で。おやすみなさい、エアグルーヴ。)
メッセージと共にポン、と可愛らしい猫の眠るイラストのスタンプが送られてくる。昔から彼女が愛用しているそれをみて私は思わず頬が緩んだ。傷つき崩れたはずの胸の奥が、少しだけ温かくなるのを私は感じ、そのままゆっくりと目を閉じた。
ーーーーーー
それからトレーナーとの約束の日まではあっという間だった。心なしか仕事もプライベートもメリハリを感じられたのはきっと気のせいではないのであろう。ここまで自分は単純だったであろうか?いや、あいつの前だとそうなのかもしれない。そう思うと納得ができる。
「早く着き過ぎたな」
目的の店の前、腕時計を見つめながらそう呟く。周りのあとはやけにうるさく、時間の流れは遅く感じる。だが、不安も勿論ある。彼女を突き飛ばし、信じられないと。久々に会えた彼女に感情に任せ酷い仕打ちをしてしまった。
怒っているだろうか。怖がらせてしまったのではないだろうか。不安にさせてしまったのではないか…そんな考えばかりが頭の中を渦巻いていく。
「エアグルーヴ?」
「ッ!」
私の呼ぶ声がする。声が聞こえた瞬間に私の尻尾は跳ね、大きく揺れた。それを見て目の前の彼女…トレーナーはクスクスと笑っていた。
「私も早く来たつもりだったけど…そんなに楽しみだったの?エアグルーヴ?」
「う…うるさい!早く入るぞ!」
「うん、そうしよっか。」
口元に手を当て、柔らかく笑う彼女はあの時と何一つ変わらない。懐かしいような、恥ずかしいような気持ちを隠すように私は顔を背ける。顔が熱く、頬が赤くなっているのが鏡を見なくても理解できる。そんな私に対して彼女はまた優しく笑うだけだった。
ーーーーーー
「はい、まずはコレね。」
「これは…あの時のか。」
店に入り、席に案内された私達はそれぞれ気になったメニューを注文を終えるとトレーナーは紙袋を私に差し出した。中を見ればあの雨の日に私が置いていった服一式が綺麗に折り畳まれた状態で仕舞われている。
「わざわざ済まない。手間をかけさせたな。」
「それくらいなら何も手間じゃないよ〜。」
笑いながらそう話す彼女ではあるが、私が知りうる限りでは家事スキルはお世辞にも良いとは言えなかったと記憶している。やはり、結婚して家庭を持つとなると人は変わるものだ。まぁ、彼女の場合やろうと思えばいくらでもやれることは私が1番知っている。昔は、の話だが。
またモヤモヤと、ドス黒い感情が腹の底から溢れ出すのを感じながら私は唇を噛む。そして目の前の相手に向かって頭を下げた。
「あの日は…本当にすまなかった。家に上げ、服も貸してくれたのに…まともに礼も言わずに…貴様を…わたし、は…」
言葉が詰まる。息が苦しい。
何故だ。何故だ?何故だ!?
謝るだけなのに。あの日の無礼を。大事な相手に謝罪の言葉をつけるだけなのに、何故こんなにも苦しい!?言葉が出ない!?
思えばあの日もそうだった。ずっと思っていた彼女に偶然会えた。雨宿りだと誘ってくれた彼女とその旦那の家に上がってから。かつての何度も訪れたトレーナー寮の彼女の部屋とは違い、彼女と旦那である男の臭いが混ざり、知らない家具に染まったあの部屋に入ってから…私は自分自身の醜い感情に呑まれたのだ。
(ダメだ…ダメだダメだダメだここで謝らなければ早く謝れ謝ってしまえでなければでなければイヤダイヤダイヤダ…)
「エアグルーヴ」
「アッ…」
「落ち着いて。私の顔を見なさい。」
低く、芯のある声が私の耳に届く。私が無茶をした時。自分を責めてしまった時に戒めるように。そして迷いを、悩みを断ち切らせるかのような声。私はヘタリと耳を伏せながらも、恐る恐る顔を上げる。目の前には私と3年間を駆け抜けたあの時のトレーナーとしての彼女の姿がそこにはあった。
「うん、顔向けれたね。えらいえらい。」
「…」
しばらく私の顔を見た後に彼女は手を伸ばし私の頭を撫でる。カリカリと彼女の整えられた爪が耳の裏を軽く掻いてくれるのが心地よい。無言でそれを受け入れていると彼女はまた口を開いた。
「ご飯食べたら解散にしようかと思ったけど、変更。今日は一日付き合ってもらうよ?」
「…旦那は、放っといてもいいのか?」
そうボソリと言うと彼女が一瞬手を止めた。だがすぐに頭をまた撫で始める。
「そんなこと心配しなくても大丈夫よ。今日は貴女に付き合って欲しいの。貴女はどうしたい?」
どこかぎこちなく笑うトレーナー。私に付き合って欲しいと話すそんな彼女はどこか助けを求めるように感じてしまう。いや、それすらも私の勝手かもしれない…だが、私はそれでも良いと思った。思ってしまった。
「分かった。今日は、ずっと貴様と一緒にいる。付き合わさせてくれ。」
「ん…じゃあご飯食べたらさ、ある場所に行かない?」
そう話す彼女に私はただ頷いた。
ーーーーーー
「で、来たのがここと言うわけか。」
「懐かしいでしょ?」
エアグルーヴを連れてやってきたのは、トレセン学園の校舎裏にある1つの花壇。そこはかつて、彼女と共に様々な花を育てた2人の思い出の場所だった。今もあの時と変わらず、様々な花が花壇を彩っている。
エアグルーヴは懐かしむように「まぁな」と呟くと花壇に近づき、彩り豊かな花の一つに優しく触れる。そしてしばらく眺めた後に私に顔を向けた。
「よく手入れされている。病気もしていないし、花はもちろん、茎や葉もしっかりとしている。今は誰がここの世話を?」
「私だけだよ。」
「なに!?」
そう答えるとエアグルーヴは目を点にし驚いた。そりゃそうだよね。彼女と契約を結んでいた時と違い、今は私はチームをまとめるトレーナーであの時よりも仕事に追われる立場だ。さらには、結婚している。自分の時間などずっと少なくなっている…そう考えるのが普通だ。
「な、何故だ!?そもそもこの花壇を貴様が世話をする道理はもうない筈だろう!?貴重な自分の時間を使ってまで、何故!?」
「…花壇の花、見覚えない?」
「花?」
「そう。」
そう言うとエアグルーヴは再び花壇の方へと視線を向ける。しばらく見つめた後に彼女はハッと目を見開いた。それもそうだろう。ここに植わっている草花は全て、あの時彼女と育てていたモノばかりなのだから。
「こんな…これではまるで。」
「うん、どうやらそうみたい。」
そう言って私はエアグルーヴに歩み寄る。後ろに逃げようとする彼女を私は強引に引き寄せた。驚くほど簡単に彼女は私の腕の中に収まってしまう。
「ねぇ、エアグルーヴ。今の貴女に何があったのかは分からない。長い間会ってなかったから当たり前だけどね。それでも、貴女が何かに傷ついて、怯えて、悲しんで、苦しくて仕方ないって言うのは分かるよ。」
「やめろ…やめてくれ…」
震える声で拒むエアグルーヴ。だけど私はそれを無視して話し続ける。
「私は結婚して、数年も経つけれど。貴女のことを思い出さない日はなかった。貴女と過ごした日々を忘れなかったことはなかった。貴女との思い出を無くしたくないから、1人でこの花壇も世話していたんだ。あの時と変わらない、貴女との思い出の詰まったこの花壇を。草花を。」
私を離そうとすれば簡単にできるだろう。あの雨の日に、私を突き飛ばした時みたいに。だけど、今の彼女はしない。できるはずがない。私はそれを理解した上で、エアグルーヴの背中に回した腕に力を込める。
「ねぇ…エア。本心を言って。貴女の気持ち、全部。私に教えて。」
「いやだ…言ってしまったら私は…」
「言いなさい。」
態と低い声でそう告げる。腕の中でビクリと震えたエアグルーヴは黙り込む。だがしばらくすると私の背中に腕を回す。そして小さな声で私に告げた。
ーーーーーー
「言いなさい。」
低い声で。私が逆らえない、逃げられないと承知しながら私のトレーナーだった彼女はそう告げる。背中に回された腕には力が込められ、互いの体が密着し心音が聞こえる程だ。
(良いのか?本当に?)
良い訳があるか。私には今、彼氏がいる。そして彼女には結婚した旦那が。家庭がある。互いに〝普通の〟〝当たり前の〟幸せを掴んだ彼女と、掴もうとしている私。異性と結ばれ、家庭を持ち、子供を授かる…世間一般的な幸せを進もうとしているのに、私は今それを壊そうとしている。
では、なぜ彼女は…トレーナーはこの場所に私を連れてきた?
たしかにこの場所は、私達にとってかけがえのない思い出の場所だ。2人で汗水を流し、語らい、互いに花を贈り合うこともした。だが、私が引退し、学園を去った後も彼女はこの場所で、たった1人で草花を育てていた。私と彼女の思い出を懐かしむように、留めるように…
そう思うと胸が苦しくなる。理性と本能がせめぎ合う。彼女を、誰よりも愛おしく…忘れたことのない彼女を私の、私だけの女にしたい。塗り替えてしまいたい。そんな劣情が溢れ出しては止まらない。
(あぁ…もういい。嫌われてもいい。だから、今はもう…)
オ ボ レ テ シ マ エ
私は彼女の背中に腕を回し、抱き寄せる。もう自分の感情も抑えられない。そして口を開いた。自分の本心を告げるために。
「…きだ。好きだ。」
自分でも驚くほど小さな声だ。だが、構わない。
「貴様とあの男の結婚式…本当ならば奪い去ってしまいたかった。貴様を連れて遠くへ…2人で静かに暮らせる場所にでも逃げてしまいたかった。それでも、貴様の幸せをと願い見送った。」
「うん。」
「それでも苦しいばかりだ。悲しいばかりだ。貴様が幸せならそれで良いとどれ程言い聞かせても、心の中は傷つき、渇いて渇いて仕方なかった…!どんな仕事をしてでも!男を作っても満たされない!いつも浮かぶのは貴様の顔と声ばかりだ!貴様と過ごしたあの思い出ばかりが頭からは離れない!」
「うん。」
慟哭に等しい私の本心をトレーナーは静かに聞き入れる。次第に私の視界は歪み、ボロボロと流れる涙が頬を伝う。
「あの雨の日に貴様の家に上がった時もだ!私の知らない部屋で、私の知らない臭いがした!知らないものばかりだった!それを見るだけで嫌気がさした!嫌で嫌で仕方がなかった!そんなことを思う自分自身も!私から貴様を奪ったあの男も!!!全てが嫌だった!それでも!!!それでも…貴様だけは…貴女だけは…嫌いになれない…誰よりも、世界で1番、愛しているから…」
嗚咽混じりに、年甲斐もなく泣きじゃくりながらそう告げる。自分の醜い感情も。ずっと隠していた、目を背けていた感情も。全部全部、彼女に告白する。
彼女の背中を掴み、肩に顔を埋める。それでも涙は止まらない。トレーナーは私の告白を聞いた後ポン、と頭に手を置いた。
「やっぱり、そっか。」
「え?」
「やっぱり」とそう話すトレーナーに私は息を呑む。だが彼女は変わらず話し続ける。
「あの結婚式から…いや、本当はお見合いのお話の時から違和感は感じていたの。それでもエアグルーヴの気持ちを踏み躙るわけにはいかないから。見合いの席を設けてくれたお母さんの気持ちも、周りの人達の気持ちや世間の目も考えると尚更断ることなんてできなかった。」
「〝普通の〟〝当たり前の〟幸せを進もうと…今の夫と結婚したの。貴女に素敵な報告ができるようにって…でもね。そんなことなかった。たしかに幸せだったよ?仕事も充実してた。夫婦喧嘩もなかった…でもね、それだけ。多分、もう冷めきってしまっているのかもしれない。惰性で付き合っているようなものよ。」
次第にトレーナーも本心を告げる。私は彼女の肩に顔を埋めたまま聴き続ける。
「そんな時、あの雨の日に。貴女に出会えた。現役時代と変わらない、美しく、凛々しい女帝様。でも放っておけない危なさも纏っていた。だから、声をかけたの。あの日、あの瞬間を逃したら2度と会えない…そう感じたから。」
「トレーナー…」
彼女は背中に回していた腕を離す。そして私の肩に手を置き少し距離を開け、そのまま頬に手を添えて目を合わせてきた。
「ねぇ、エアグルーヴ。随分遠回りしちゃったけど…本心を言うね。私も貴女が好き。貴女のことが、世界で1番大好きよ。〝普通の〟〝当たり前の〟世間一般の幸せなんていらない。私は、貴女と共に歩めらばそれで良い。エアグルーヴという1人に私は恋をしたの。愛しているの。」
あぁ、駄目だ。そんな目を向けないでくれ。そんな優しい声で誘われたら…私はもう…
「エア。もういいの。貴女の本心を教えて。私のことを本当に好きなら…愛しているなら…本心を教えて。」
その瞬間、私の思いは弾けた。気づいた時には彼女の唇を奪っていた。あの男との口づけも、何もかもを上書きするように。私だけのものにするために。
「…いきなりすぎない?」
「…煩い。これが本心だ。たわけ。」
「ハハッ!久々に聞いた!で?どうするの?」
嬉しそうに笑うトレーナーを見て私も笑う。
どうするのかだと?そんなもの決まっているだろう。
「…私は今の男と別れる。貴様と同じく惰性で付き合っているようなものだし、向こうも断らないだろう。そのあとは…そうだな。あの男と貴様のご家族に頭を下げにいくさ。」
「…本気?」
顔を引き攣らせるトレーナーに私は「ハッ!」と笑い捨てる。散々私を煽り、本心を曝け出させたと言うの今更だろう。
「本気だとも。それとも、冗談で私がこんなことを言うとでも?もう抑える必要もないからな…なに、心配するな。いざとなれば2人で海外にでも行けば良いさ。ツテはあるしな。」
脳裏にはかつて鎬を削りあい、同室で世話になったアイルランドの女王様の顔が浮かんだ。そういえば彼女にも随分と心配をかけたものだ。そういえば彼女もやっと決着がつきそうだと話していたような気がしたが…まぁそれは今はどうでも良い。
私は再度、目の前の彼女を見つめる。そして告げる。2度と自分の本心に嘘はつかないことを。そして、もう一つ。
「結婚しよう、〇〇。私は貴女となければ幸せになれない。」
慣れ親しんだトレーナーという呼び方ではなく、彼女の名前を添えて、そう告げる。そして彼女も泣きそうに目を潤ませ、微笑みながら頷いた。
「うん、今度は2人で、幸せになろう。」
あぁ。幸せになろう。2度と、お前を離してやるものか。
私はそう決意し、彼女を抱き寄せ、キスをした。2人だけが知る、永遠の契りを、今ここに残すとしよう。そして、これから先も。ずっと、ずっと。