授業中は生徒たちがそれぞれの席に座り、皆が黒板に向かって教師の話を聞く。いわゆる座学が定番だ。鉄則とも言えるほどに、これは徹底されている。
しかしそれは、すべての時間がそうなるわけではない。教師にもよるが、グループワークを取り入れたり、二人一組になって課題を解いてみたり。工夫することもあるのだ。
今もまた、男女で二人一組のペアが形成されていく。
「よろしくね。えーっと……きんもりさん」
【かなもりって読むんだよ。よろしくねくがくん】
「むっ。かなもりさんだったか。申し訳ない」
【ううん。日本人の名前って難しいから。わたしも、くがくんの名字を漢字で書けないし】
「それとこれとは別なような」
【おあいこだよ】
「かなもりさんがそう言うなら」
隣同士の席を繋げただけの簡単なペアで、空閑遊真の相手は右隣の席にいた金森美穂である。空閑は日本語をまだまだ勉強中の身なのだが、人の名前を間違えたことにそれを盾にするつもりは毛頭なかった。
丁寧に下げられた頭は、金森がやめさせたことで上げられる。
「それじゃあ始めますか。って言いたいところなんだけど、この漢字ってなんて読むの?」
【これはね──】
空閑は日本語を勉強中の身だ。まだ小学生レベルだ。平仮名や片仮名はともかく、まだ覚えていない漢字は多い。そもそも漢字自体が多いわけだが。
そんな空閑のために金森はせっせと読み方を教えるのだが、この工程をこの2人でやると時間がかかる。どちらにとっても、それは今に始まったことではないのだが、金森はそのことに負い目を感じていた。
【ごめんね】
「? なにが?」
【わたし、声が出せないから】
スケッチブックに文字を書いて伝えないと、書かないと何も伝えられない。
ページをめくり、急いで文字にする。
【何にでも時間かかっちゃうし】
それは"話す"よりも手間と時間を必要とするもの。そして時間は誰にでも平等で、コミュニケーションとは互いの時間を費やして行うものだ。
声にすれば数秒で終わることでも。
文字にするには倍以上の時間を要する。
つまり、他の人より何倍もの相手の時間を貰わないといけない。金森にとってそれは、いつも申し訳なく思うことである。
【今だってくがくんの時間をうばってる】
「それかなもりさんが謝ることじゃないでしょ」
(……っ!?)
空閑は鉛筆を置いて、体ごと金森へと向き直った。目を丸くして心底驚いている少女に。
「今の話だと、かなもりさんに悪いとこなんて1個もなかった。声が出せないのはどうしようもないことで。けどかなもりさんは、今みたいに自分の想いとか考えを伝えるためにできることをしてる」
負わなくていい負い目だと。
「かなもりさんは良い人だよ」
空閑ははっきりと本心で言い切った。
■□
金森美穂の学校生活は、特筆するような要素がない。本人が気にしているだけで、金森美穂は一般生徒という枠組みにしっかり収まっている。クラスで浮くわけでもなく、友達もそこそこ。友人関係も悪くなく、イジメが起きることもない。嫌がらせも受けない。
毎朝規則正しく起きて、学校に来て、授業を受けて、帰宅する。とてもありきたりなルーティーンだ。
ただし今日は少し違う。
「それじゃ行きますか」
いつもなら真っ直ぐに家に帰るところを、今日はある場所に寄ることになっている。その場所こそ、空閑や三雲が所属しているボーダーの玉狛支部。案内するのは空閑だ。
その経緯は今日の休み時間に遡る。教室で昼食を食べ終わったタイミングで、クラスメイトの三雲から、玉狛支部に来てみないかと声をかけられたのだ。金森の話を聞いた支部長が、試しに一度来てもらえばいいと話していたのだとか。
「いつもならオサムとチカと一緒に行くんだけど、2人とも今日は家に寄るみたい」
【おさむって、三雲くんだよね?】
「そう。チカはオサムの幼馴染。がくねんは1つ下」
【そうなんだ。くがくんは家に寄らないでいいの?】
「ボーダーの支部に住んでるから」
【住めるんだ! なんだかすごいね!】
すごいことなのだろうかと空閑は疑問に思ったが、金森が楽しそうにしているので口にするのはやめた。
【3人ともボーダーに入ってるの?】
「一応ね。おれとチカは訓練生だけど」
【すごいよ! わたし運動全然できなくて……】
50m走では12秒かかり、反復横跳びは足を滑らさなければ15回。持久走を走り切れたことはなく、ソフトボールを5m投げられれば友達から褒めちぎられる。唯一誇れるものは体の柔らかさのみである。ただし体幹も弱いため「 I 字バランス」はできない。
そんな彼女にとって運動できる人間は憧れの対象であり、試験を突破して入隊したボーダー隊員などスター選手並みに称える対象である。
「戦わない人だっているよ。支える人がいないと戦いってできないからね」
【プロの野球チームにサポーターがいるのと一緒?】
「野球ってなに?」
(あ、そっか。野球が人気なのは日本とアメリカだけって言うもんね)
空閑が知らないのも仕方がないと納得し、ならば説明しようと金森はスケッチブックにシャーペンを走らせる。
【バットで殴るボールスポーツ】
「ごめんわかんない」
【実はわたしもあんまり野球知らない】
恥ずかしそうに視線を逸らしながら金森はそれを見せ、それなら仕方ないと空閑は優しく笑った。
空閑たちが通っている中学校は、三門市立第三中学校である。第一次侵攻の被害を受けている生徒は少なく、ボーダーに所属している生徒も少ない。ボーダーの入隊基準にはトリオン量や内面も含まれているため、身体能力だけでは入隊できないのも関係しているだろうが。
その中学校から、空閑たちが所属している玉狛支部までは徒歩でそこそこの時間がかかる。加えて金森が文字を書くときは空閑が必ず足を止めさせ、金森の体力も考慮して休憩を挟んだために、いつもより遅れて到着していた。
【わたし本当に入っていいの?】
「大丈夫。ここの
【でも】
「今日は見学と確認だけ。帰りは車で送ってもらえるけど、もちろん強制はしない。かなもりさんが全部決めて」
川の上にあるなんてお洒落な立地だなぁと思っていた金森だが、いざ扉を前にすると萎縮していた。
玉狛支部に足を運んで何をするのか。それを一切聞かされていないのも理由だ。ボーダーは市民を守るための組織だが、実は公表している情報は限られている。隊員も同様で、ボーダー内部やトリガーに関係する情報を勝手に口外することが禁止している。
そんなわけで、空閑も三雲も金森に声をかけた理由を話すことができなかった。
「試験とかはないよ。……ここなら他の人に聞かれないし、もう話してもいいか」
前述した通り、玉狛支部は川の上にある。それ故に支部周辺に一般人がいることなどなく、入り口の前まで来てしまえば規制を気にする必要もない。空閑は鋭く周囲を確認してから理由を打ち明けた。
「かなもりさんにトリオンがあれば、声を出せるようになるかもしれない」
(!?!?)
「体が弱い人でも、トリオン体なら他の人と遜色なく動けるようになるからね。かなもりさんも可能性はある」
(わた、しが……?)
それはまさに衝撃的なことだった。
金森美穂は、一般人でも知っているボーダーの情報すら知らない。知っていることは、ボーダーが
彼女はトリオン体というものを知らない。トリオンというものすら今初めて聞いた。何も知らないために空閑の話は情報の荒波で、そこに「声を出せるかも」という爆弾まで混ぜこまれたら混乱の極みだ。
情報を処理できない。整理もできない。
シャーペンを落としてしまったこと。それを空閑が空中キャッチしたことにすら気づけないほど、金森の頭は働いていない。
けれど吸い込まれるように、目と足は支部の入り口に向かって行っていた。
治らないのだと諦めていたもの。受け入れていた現実。
それが、もし本当に変わるのなら。
「ようこそ、玉狛支部へ」
空閑が扉を開け、玄関へと足を踏み入れると、
「え!? 遊真が女の子連れてきた!?」
丁度通りがかった女性に驚かれた。
「こなみ先輩の方が先だったか」
「珍しく遅いと思ったら! この子誰!? 遊真のガールフレンド!?」
(ガっ!?)
「そっ。かなもりさん」
(へ!?)
「うっそ……。あんたにそういう相手がいるなんて聞いてなかったわよ……」
「学校の対人関係聞かれたことなかったからね」
「い、言うじゃない」
「こなみ何騒いでるの? あらお客さんだ。遊真くんおかえりー」
「ただいましおりちゃん」
予想していなかった空気感と展開に金森が振り回される中、今度は眼鏡をかけた女性が現れた。
空閑にしおりちゃんと呼ばれたその女性は、小南からの怒涛の質問を聞きながら状況を把握していく。1つ1つ対応するのではなく、一度すべて吐き出させてから把握するそのやり方は、彼女が聞き上手であることが伺えた。
「ねぇうさみどうなの!? 遊真にガ、ガールフレンドいるって知ってたの!?」
「アタシも知らないけど、その前に遊真くん」
「なに?」
「こなみにボーイフレンドはいるでしょうか?」
「へ!? ちょっ、なんであたしのはなしにゅっ……!」
「こなみは少し静かにしてね〜」
顔を赤くして騒ぐ小南の口を宇佐美は塞ぎ、空閑に視線を向けて答えを促す。その問いかけの意味を理解できないが、空閑は正直に答えた。
「ボーダーにいっぱいいるでしょ」
「……あー、やっぱり」
「ーーっぷはっ! いないわよ!! あんたはあたしを尻軽とでも思ってるのかしら!?」
口を解放して、今度は小南を羽交い締めに。今にも飛びかかりそうな勢いであり、宇佐美をずるずると引きずっている。
「こなみこなみ。これ遊真くんが意味勘違いしてるだけだから」
「勘違い?」
ようやく小南がピタリと止まったところで、すでに書き終えていた金森が空閑の袖を遠慮気味に引っ張った。耳まで赤くなっているその顔を隠すように、スケッチブックを顔の高さまで上げて空閑に読ませる。
【フレンドの意味は友達だけど、ガールフレンドの意味は"彼女"になるよ】
「……ふむ」
「ちなみに遊真くん。ボーイフレンドの意味は彼氏ね」
つまり空閑は「小南先輩は何人も彼氏いるよね」というとんでもない発言をしたわけであり、それを理解した瞬間空閑は金森と小南に向かって土下座した。
「大変失礼なことをしました」
「そこまでしなくていいから!」
空閑の師匠である小南が土下座をやめさせ、一同は玄関からリビングへと移動。玉狛支部は外装も内装も目立った点がない。大きな一軒家と感じる作りになっている。住み込みができるという理由も、これを知ったことで金森は納得した。
大部屋にはキッチンがあり、その向かい側にはテーブル。キッチンの横にはソファがあり、テレビも置いてある。
「あんまり組織の支部って感じしないでしょ?」
【家みたいです】
宇佐美に声をかけられ、金森は思ったことをそのまま文字にした。その光景を見たところで宇佐美も小南も心象は変わらず、2人の雰囲気が揺れもしなかったことに金森は少なからず驚いていた。
「遊真。この子をちゃんと紹介しなさい。連れてきたなら、あなたが間に入って紹介するものなんだから」
「了解。こちらおれとオサムのクラスメイトのかなもりみほさん。それでかなもりさん、こっちの眼鏡をかけてる先輩がうさみしおりちゃんで、こっちがこなみきりえ先輩。おれの師匠」
「宇佐美栞です。よろしくねかなもりさん。アタシのことは好きに読んでくれていいよ」
「小南桐絵よ。学校で遊真が迷惑かけてない?」
小南の問いかけに金森はぶんぶんと勢いよく首を横に振り、すぐにスケッチブックに文字を書き込んでいく。
【金森美穂です。くがくんとは最近話すようになったんですけど、くがくんはとてもやさしいです】
「そう? 迷惑かけてないならよかったわ」
「美穂ちゃんのことは、遊真くんと修くんから聞いてるよ。支部長が後で顔を出しに来るから、それまでに粗方の説明をアタシがするね」
「そういえばなんで金森ちゃんが来てるかあたし知らないんだけど」
「こなみは夕飯作ってたからね。でも、こなみなら分かるでしょ?」
「……そうね」
知らずとも、一度見たから分かる。察しがつく。
説明は得意ではないし、宇佐美がやると言っていたから完全に一任。小南は席を立ち、人数分の飲み物を用意することにした。
「金森ちゃんコーヒー飲める? 紅茶とお茶とジュースもあるけど」
【飲めます。砂糖10g牛乳70mlでお願いします】
「測りどこに置いてあったかしら……」
「美穂ちゃんレシピとかしっかり守るタイプ?」
【慣れてない料理だけです。コーヒーは私の中の黄金比です】
「なるほどね。さてと、来る途中で遊真くんから何か聞いてる?」
「話したのは、トリオン体を試せるってことだけ」
〔トリオン体とは何なのか。そこから話す方が良いだろう〕
いつの間にかにゅるっと現れた黒い物体に金森は驚愕し、空閑へと視線を向けた。彼が教えてくれたのは、黒い物体の名前だけだったが。
〔驚かせてしまったか。初めましてミホ。私はレプリカ。ユーマのお目付け役だ〕
うさぎのような犬のような。何とも例えづらいそれはレプリカと言うらしい。アイボみたいな感じかなと、「お目付け役」という部分を完全に抜かして、金森はなんとか状況を呑み込んだ。
(どうやって浮いてるんだろ)
呑み込めると疑問が湧いてくるが、今はそれどころではない。興味を惹かれるレプリカに後ろ髪を引かれつつ、金森は宇佐美の話を聞くことに。
「ボーダーに所属する隊員はトリガーっていうのを支給されて、それを起動するとトリオン体っていう体になるの」
宇佐美は説明しつつレプリカと共に映像も用意し、トリオン体へと換装する三雲や空閑の姿を流した。
「見た目を変えることもできるけど、実際の体とトリオン体をずらすほどもちろんギャップもあるから、基本的に姿を変える人はいないよ。変えたとしても、こなみみたいに髪を変えるぐらいかな」
金森がチラッとキッチンを見るも、小南は特に反応しなかった。それが必要な話題でもないからだろう。
「トリオン体の最大の利点は、トリオン体で怪我をしても本来の体に影響がないこと。極端な話、トリオン体で斬られても問題ないってところね」
「ごめんね。あんまり具体例を出すべきじゃなかったね」
宇佐美の言葉に首を横に振る。彼女は悪くない。いろんな映像作品や漫画、小説があるこの時代で、フィクション相手ですら耐性がない自分が悪いのだと。
「こなみが淹れたコーヒーでも飲んでて。説明のテンプレ作り直すから」
「うさみそんなの持ってたの?」
「入りたてのオペの子に説明することがそれなりにあるからね。嵐山隊だけに任せることでもないから」
「あんたも大概働きたがりよね……」
ボーダーの顔という大事な役割を果たしつつ、新入隊員のオリエンテーションも担い、防衛任務もこなす。仕事量が他の部隊より多いはずなのに、それでいてA級5位にいる嵐山隊は間違いなく動き過ぎの部隊である。働き過ぎである。
もちろん他の隊員がそれを見て見ぬふりをするわけではない。手伝える範囲で手伝い、嵐山隊の負担を減らしている。……のだが、宇佐美も面倒みが良過ぎるタイプだ。自ずと仕事量が増えている。
「こなみ先輩砂糖と牛乳ちゃんと淹れた?」
「淹れたわよ。しっかり分量測って」
「だって、かなもりさん」
空閑の言葉に促され、コーヒーが注がれているコップを両手で包み込む。熱かったからか金森はすぐに手を離し、持ち手を掴んで持ち上げる。何度か息を吹きかけ、試しに少しだけ飲んでみた。
飲めないほどではないが、まだまだコーヒーは熱い。金森は一旦コップを置いて、代わりにシャーペンをその手に持つ。
「味はどう? 金森ちゃんの家が使ってる豆と違ったら、味も違うと思うけど」
【美味しいです】
「よかった。火傷には気をつけなさい」
純粋な優しさから来る気遣い。それを温かく感じ取っていると、部屋に人が増えた。そのうちの1人は、金森も知っている三雲だ。
「結構早かったなオサム」
「レイジさんが車に乗せてくれたおかげで。っと金森さん、こちらが先輩の木崎レイジさん」
「よろしく」
「こっちが幼馴染の雨取千佳」
「よろしくお願いします」
「あと先輩が2人と支部長がいるけど……宇佐美先輩、陽太郎と雷神丸はどこに?」
「え? ……いないね」
部屋の中を見渡した宇佐美が、困ったように笑った。この支部にいるはずの。客人が来たら混ざりたがる子供がいない。
「本部にでも行ってる可能性もある。陽太郎のことは俺に任せろ」
そう言った木崎は、部屋に来たばかりだが端末を片手に廊下に出た。支部長に陽太郎のことを確認するためだ。
「陽太郎が本部に行くことってあるんですか?」
「偶にね。今回みたいにあたしたちが知らないケースは珍しいけど」
「それって大丈夫なんですか?」
「何かあるなら迅が対応してるわよ」
「なるほど」
知らない人のことを話されても、金森が会話についていけるわけがない。何か起きてるんだなとしか把握できず、もう一度息でコーヒーを冷ましてから少し飲んだ。
「うん。美穂ちゃんの調子も落ち着いてきたかな。説明の続きをするね」
作業にも一区切りつけられたようで、宇佐美は眼鏡をクイッと上げた。
「トリオン体のわかりやすい恩恵がもう1つあって、それが身体能力の向上。これは修くんの50m走の比較ね」
「それ僕も知らないんですけど……」
「切り抜きで作ったからね」
生身で走っている映像はないが、記録だけならある。それの横にトリオン体での暫定記録が表示され、映像にはトリオン体で動いている三雲の姿が映されている。
三雲のことなら、体育会系の男子ではないと金森だって知っていた。その三雲の動きが明らかに変わっており、金森はトリオン体というものを理解することができた。
「トリオン体がどういうものか、基本的なことはわかったかな?」
宇佐美の確認に金森は首を縦に振った。説明自体はとてもわかりやすい。言葉だけではなく、視覚からでも情報を得られているから。
そもそもトリオンというものが何なのか。そういった細かい話は、今回割愛される。あまり金森の時間を取らないようにするためだ。とはいえ、今回の本命は支部長が来てからじゃないと始まらない。
それまでに済ませられることは済ませようと、レプリカは金森の前へと移動した。
〔トリオン体になるにはトリガーと呼ばれる機器を使う。しかしそのトリガーを使うためには、トリオンを持っている必要がある〕
(?)
「レプリカはトリオンの測定ができるんだ。こんな感じで」
レプリカが伸ばしたものを空閑が横から手を伸ばして掴む。するとレプリカの上にキューブが表示された。これが、トリオンを所有している証だ。
「このキューブの大きさは、測定してる人のトリオン量で変わる。オサムはこれより小さいし、チカなら何倍もデカイ」
雨取の方を見ながら小さく拍手をすると、彼女は気恥ずかしそうにしていた。その時の雰囲気に少し引っかかりを感じるも、すぐに霧散したため金森は気のせいかなと流すことにした。
〔すべての人間にトリオンがあるわけではない。ただし、トリオンが少しでもあれば、トリオン体になること自体は可能だ〕
「ボーダーの隊にはそれぞれ必ずオペレーターが必要なの。うちだと宇佐美ね」
キラリと眼鏡が光る。
宇佐美は小南から話を引き継いだ。
「オペレーターはトリオン量に左右されることはないから、本当に有りさえすればいいんだよね。よっぽどの機械音痴でもなければ。例えばA級の隊のオペレーターにも、ボーダーの測定でトリオン量が1の人とかいるし」
反対に、トリオン量が多いオペレーターもいるが、それがオペレーターの仕事に左右されることはない。
「そんなわけで、トリオンがちょっとでもあればトリオン体になれるんだよね。その測定を、レプリカ先生にやってもらいます」
〔やり方は今ユウマがやってみせた通りだ〕
「はい、かなもりさん」
空閑から手渡され、今度は金森がそれを掴む。受け取る際に当然空閑の手にも触れたわけで、その事にどきっとしたのは彼女だけの秘密だ。
(もし……なかったら)
直前の説明でも、空閑は可能性しか話さなかった。金森のトリオンの有無を知らなかったから、断定などできなかった。それでも、その可能性には惹かれた。雲間から射し込む光に思えた。
だから足を踏み入れたわけだが、不安はもちろんある。可能性の入り口に立てるか否か。それが判明するのだから。
不安に押しつぶされないように。耐えるように金森は目を瞑った。
「かなもりさん」
ぽんぽんと肩を優しく叩かれ、金森は目蓋を開けて空閑を見た。
「大丈夫」
(なんで──)
そう言えるのだろう。
「かなもりさんトリオンあるよ」
と、心の中で思うまでもなく空閑が結論を言い切った。空閑の指差す方向は、レプリカの少し上。そこには小さくもたしかなキューブが映し出されていた。それこそ金森美穂にトリオンがある証。トリオン体を試す前提条件をクリアした証明だ。
結果自体はすぐに出ていた。金森が目を閉じて俯いていたから見えていなかっただけで。
その事に自分で気づいた金森は、恥ずかしそうにしつつも確かな安堵に胸を撫で下ろした。
「よかったねかなもりさん」
【ありがとう】
ふにゃりと、放課後になってから初めて浮かべられた柔らかな笑みと共に、その言葉を空閑に向けた。
「このトリオン量ってどれぐらいなの?」
〔ボーダーで言うところの3だな〕
「修よりは多いのね」
「……」
玉狛支部の支部長である林藤匠は、物腰が柔らかいというか、フランクな性格をしている人物である。面倒見も良く、「やりたいことがあるならサポートしてやる」といった具合に、隊員の背中を押してやる人物だ。
これは隊員に限った話ではなく、今回のように事情を把握すれば両手を広げてウェルカムとか言う。もちろんボーダーの規定は守っているが、本来入隊に必要な試験を巧いこと躱してねじ込んだりする。空閑とか三雲とか雨取とか。空閑は特殊な事情があるが、三雲と雨取に関してはねじ込んでいる。試験とはいったい。
「初めまして金森美穂さん。玉狛支部の支部長をしている林藤匠と申します」
【初めまして。呼んでいただいてありがとうございます】
支部長たる林藤の帰宅後、金森は空閑と一緒に支部長室へと移動していた。人が大勢いる場所より、こっちの方が落ち着けるだろうからという林藤の提案である。ちなみに陽太郎は迅と一緒に町を歩いている。
丁寧なお辞儀に「いい子だね」と感心しつつ、林藤はわざとだらしなく椅子に深く腰掛けた。
「そんな畏まらなくていいよ。最初の挨拶だから固くしたけど、気楽にいこう」
そんなんでいいのだろうかと金森が空閑に視線を送ると、爽やかな笑顔で返された。身構える必要はないらしい。
そう言われたからといって、金森は簡単に態度を崩せるような性格ではないのだが。
「遊真。説明ってどこまで終わってる?」
「トリオン体の簡単な説明と、トリオン体なら声を出せるかもって話なら終わってるよ」
「よし。それならあとは少しだな」
「? まだ説明すること残ってた?」
「ボーダー関連で少しだけね」
ボーダーのトリガーを使って試すのだ。それ相応の手順等が必要になってくる。そしてそれを話すのは、やはり支部長の仕事だろう。
「試させてから話すのはフェアじゃないと思ってね。トリオン体を試すのは構わないんだけど、それでもしトリオン体を今後も使いたいとなった場合、金森さんにはボーダーに入ってもらう必要が出てくる」
それは少し考えれば分かる当然のことだ。金森もそれにすぐに理解を示した。
「戦闘員の必要はないよ。オペレーターでもいいし、他の役職でもいい。戦闘員じゃない女子はオペレーターが多いかな」
逆に戦闘員ではない男子はエンジニアが多い。
「それと、トリオン体で声を出すことができたら、定期的に検診とレポートの提出が求められるようになるんだ。ボーダーもまだまだトリオンとかトリガーのことを研究中でね。医学面に何か転換できるものはないかって期待されてたりするんだ」
身体の弱い人が、ボーダーの隊員になっている例もある。それもまた、そういった研究の側面だ。
「決めるのは今じゃなくていい。トリオン体を試してみて、一度お家に帰ってから考えたらいいよ。親御さんの許可もいるからね」
事前に伝えておかないといけないことは伝えた。林藤は椅子から立ち上がり、本部から持ってきたボーダーのトリガーを片手に金森の前へ。
空閑たちが使うようなトリガーではない。護身用トリガーと呼ばれるもので、前線に出ることがない人たちが使うトリガーである。
エンジニアを束ねる開発室長の鬼怒田に話を通し、貸し出してもらったものだ。それを金森へと渡した。
「それを握って、起動させるんだって思えば使える。遊真、見本見してやって」
「了解」
今の説明に合わせて、何も言葉を発さずに空閑はトリガーを起動させた。瞬く間に学校の制服から訓練生の服へと変わり、その場で軽々と飛び跳ねて見せる。
「これがトリオン体ね」
「金森さんもやってみよっか」
こくりと頷き、トリガーを右手で握る。空閑のやり方を見ていたから、手の高さとかも完全に真似て。
(お願い。起動して……!)
果たしてトリガーはそれに応え、金森の姿は学校の制服からオペレーターのものへと変更された。
起動できたことに空閑と林藤がうんうんと深く頷き、その反応を見てようやく金森自身も、自分がトリオン体になれたことに気づいた。
(で、できた……!)
まだ起動しただけなのだが、嬉しそうにしている少女に水を差すようなことをする人はいない。
弾む気持ちを抑えられるわけもなく、それをそのまま感謝の言葉にしようとして──
「……ぁ……っ」
──言葉がうまく出ないことに気づいた。
『変な……変な声出ちゃった……』
「? かなもりさんの声、綺麗だったけど?」
(!?)
「ん、あーそっか。体内無線通話か」
空閑の発言に二重の意味で驚いていた金森を見て、林藤は何が起きたのか把握した。
トリオン体でテレパシーみたいなことができるとは、誰も教えていなかった。届けたい相手をしっかりイメージしてやらないとできないことなのだが、金森は支部に来てから空閑に頼りまくりである。自ずと届いてしまったのだろう。
『こんな感じで、口を動かさなくても話ができる。元々の目的が声を出すことだったから、こっちのことは話してなかったね』
『そ、そうなんだ……。……えっとね、くがくん』
『なに?』
『
「それもそっか」
「どうしたどうした。俺にも教えてくれ」
生身の林藤が今のやり取りを聞き取れるわけもなく、何か納得している空閑に説明を求めた。
「かなもりさんは言葉を発する練習が必要だってこと」
「あ……。それもそうか。まぁでも、さっき少しだけ金森さんの声が俺にも聞こえてたからな。うん。金森さん。練習すれば君はトリオン体で会話できるようになるよ」
「……!!」
目を見開き、空閑に視線を向ける。励ますように強く頷かれ、金森は口元を手で覆った。
そのまま俯いてしゃがみ込み、左手で口元を隠したまま右手を走らせた。
いつもみたいな字は書けない。丁寧な字ではない。けれどそれは、それ以上ないほどに金森美穂の気持ちが篭っている文字だった。
【ボーダーにはいります】