手元にある書類に目を通し、林藤は困ったように押し黙った。
今見ているのは、金森が入隊するために必要な書類だ。それは昨日のうちに本人に渡し、今日早速提出されて返ってきたものである。金森美穂が書く欄はすべて埋まっている。そこに不備はない。
ないのだが、空いている箇所もある。たった1つの空欄なのだが、そこは重要な場所だ。
「うーん……。まぁ大丈夫か!」
(へ?)
絶対突かれるポイントだと思っていた金森は、何も言われなかったことに静かに驚いた。
その手で抱えているスケッチブックには、聞かれると予想したポイントの返事が事前に書かれている。使うことになると思っていたページを飛ばし、白紙のページに素早く文字を書いて逆に林藤に問いかけた。
【いいんですか?】
「ボーダーには長いこと関わってるからね。予想もつくし、そういう事情ならここが空欄でも問題なく入れられる。規律遵守な組織だけど、頭が固いわけでもないから」
そうでなければ、空閑の入隊もできなかった。その事情は金森の知るところではないため、意外と柔軟なんだなとぼんやり思っていたりする。
「金森さんが望むなら、
【そうします】
「うん。荷物運びはみんな手伝ってくれるだろうから、1人でやろうとはしないでね」
【ありがとうございます!】
「いいっていいって。それと、入隊手続きはこれでいいんだけど、ボーダーは入隊の日程が決められていてね。金森さんは今仮入隊って扱いになってる」
(?)
具体的にはどういうことだろうと、金森は小さく首を傾げた。
「オペレーターだとあんまり関係ないけど……、そっちの細かい話は宇佐美にしてもらおうかな。餅は餅屋ってやつ」
【きなこ餅が好きです】
「いいねきなこ餅。週末にでも食べよっか」
つくることになるのは木崎である。
「仮入隊の時でも、ボーダーの施設は正隊員と同じように使える。食堂とかだったりいろいろとね。それで、支部に住むなら基本的に毎食ご飯は用意されるから、いらない時はその日の料理当番に伝えてね」
【当番制なんですね】
「年長組でね。今日だと京介が当番の日だったかな」
【お会いしたことないです】
「昨日はバイトに行ってたからね。京介の特徴はイケメンだからすぐ分かるよ」
(それ特徴なのかな)
バイト先の売上に貢献するレベルのイケメン。そう言われても金森は想像できなかったが、昨日会えなかった支部の先輩に会える。その楽しみが今一番大きかった。
「入隊式は先になるけど言っちゃおうか。入隊おめでとう」
林藤の祝いの言葉を受け、金森はふわりと柔らかく微笑み、丁寧にお辞儀をして部屋を出る。そんな少女を林藤は手を振って見送った。音もなく静かに扉が閉じ、振っていた手はもう一度書類を取る。
「馴染んでくれたらいいな」
金森が唯一埋めなかった空欄。
部屋をあとにした金森は、この後どうしようかと考えながらひとまずリビングへと進む。こちらに住むとなるとそれは引っ越しだ。荷物を纏めるのにも時間がかかる。今日の内に引っ越し完了、なんてことにはできない。引っ越しができるのは週末が妥当なところか。
リビングに入ると、宇佐美や小南といった先輩たちがソファに座っていた。ヘルメットを被り、カピバラに乗っている少年に、キッチンでは料理をしている先輩。
「お疲れ様美穂ちゃん。提出できた?」
金森が入ってきたことにすぐに気づいたのは宇佐美だった。ソファから立ち上がり、金森の側に寄ってからソファへと案内する。その彼女の問いに金森は頷いて返答し、部屋の中を見ながら腰掛けた。
「遊真くんたちなら本部に行ったよ」
【訓練ですか?】
「そっ。遊真くんなら個人戦もやってきそうだけど」
【危なくはないですか?】
「トリオン体でやるからね。怪我することはないよ」
【そうでした】
「はい金森の分のコーヒー」
「ちゃんと測った?」
「砂糖10gで牛乳は70ml入れてますよ」
【ありがとうございます】
分量の話ことは小南から聞いていたらしい。夕飯の準備中なのにわざわざ淹れてくれたことも含めて、金森は感謝を表した。
「とりまるくんとは初めましてだよね。こちらがもさもさイケメンの烏丸京介くん」
「定番化させようとしてません?」
「美穂ちゃんたちの1つ上ね。それでこちらが金森美穂ちゃん。とってもいい子」
【よろしくお願いします】
「カピバラの雷神丸に、林藤陽太郎くん」
「おじょうさんとてもかわいらしいですね」
ゴーグルと共にきらりと陽太郎の瞳が光った。
【ありがとう】
「みらいのおよめさんにしてあげる」
「陽太郎それ誰にでも言うんだな」
「こなみいがいには」
【ごめんなさい】
「とりまる。ふられてしまった」
「お嫁さん候補が多いせいじゃないか?」
「だれかひとりをえらぶのはむずかしい。おんなのこをなかせたくない」
立派に思えることだが、これが子供でなければ非難されていそうな発言だ。多妻制が認められている国に行くしかない。
「陽太郎の発言は置いといて。オペレーターの仮入隊ってだいぶ珍しいけど、何か指示って受けてる?」
【栞さんにお任せだそうです】
「本職に一任するのが適任ではあるわね」
「任されました。オペレーターが何するかをさらっと説明した方がいいかな。あっ、美穂ちゃんってパソコン使える?」
【いっぱいぽちぽちするやつですか?】
「うん! 訓練はキーボードに慣れることから始めよっか!」
「ぽちぽちって
スマホやタブレットなら操作できても、パソコンが使えない人は珍しくない。若い世代ほどそれが顕著にデータとして出ている。
それでも、タイピングのことを「ぽちぽちする」と表現する人は珍しいが。
「美穂ちゃんの場合訓練を急ぐ理由もないし、こっちのは週に何回するか決めてやろうか。本命は話す練習だもんね」
「それは今からでもいいんじゃない? 挑戦しなかったら何も経験できないんだし」
「いいこといいますな」
「他人の受け売りよ」
【恥ずかしいです】
「あぁ……場所を変える? あたしと宇佐美との3人にするか。それとも遊真に付き合ってもらうか」
小南の提案にぴしりと金森は固まった。前提として、金森美穂は玉狛支部の面に好印象を抱いている。他のどこでも味わえない居心地の良さを感じている。その中でも最たる人物こそ、彼女を誘った空閑遊真だ。空閑と2人で話す時間が、一番リラックスできる時間だ。
だから、本音で言えば空閑との2人での練習がしたい。しかしそれを伝えることはできない。恥ずかしさからではなく、申し訳無さからくる理由で。
【くがくんの邪魔をしちゃうのはいやです】
「遊真はそんなこと思うような奴じゃないわよ」
【わたしが気にしちゃうんです】
「美穂ちゃんはいい子過ぎるね。ま、当人がいないとこで決めることでもないし、遊真くんが帰ってきたら話し合って決めよう。それこそ習い事みたいに、週にどれぐらいとか、細かく決めちゃえばいいしね」
「それもそうね。夕飯までにはレイジさんが連れて帰ってくるから、美穂もここで食べちゃいなさい。もちろん迷惑じゃなければだけど」
【迷惑じゃないです。ご馳走になります】
スケッチブックを小南と宇佐美に見せながらぺこりとお辞儀をし、その後にぶんぶんと振って烏丸にアピール。烏丸が気づいたことを確認すると、再度お辞儀した。返答はサムズアップである。もさもさしたイケメンは、見た目の印象に反してノリがいいのだ。
「みほちゃんはゆうまとなかがいいんだな」
奇跡的に静かにしていた陽太郎だが、それは先程までの話を飲み込めていなかったからだ。会って間もない相手。それも何やらありそうな人。
だから陽太郎は首を突っ込まず、ただ話を聞いて待っていた。自分も混ざれるような話題を。
見方によればちょっと踏み込んだ内容。それに少し驚きつつ、他意はないことを理解して金森はふわりと緩やかに笑った。
【うん。くがくんと話すの楽しい】
「ゆうまはみこみのあるおとこですから」
陽太郎の話に楽しそうに頷き、金森はサッとシャーペンを走らせる。
【くがくんはずっと本心で話してくれるよね】
「たしかにゆうまがうそをつくとこそうぞうできないな」
【ここの人たちも全然うら表がなくて、温かい気持ちがいっぱいで落ち着くんだ。もちろんようたろうくんも】
「よくわかってらっしゃる」
「……もしかして美穂。
「ほ? そうなのみほちゃん?」
小南のその確認に、金森はこてんと首を傾げる。
【サイドエフェクトってなんですか?】
金森美穂はボーダー関係のことを知らない。"日常"が一変したあの日。世間的に
だから彼女は知らないのだ。サイドエフェクトというものが存在することも。これもまた、"日常"が変化してから一般的に知られるようになったものだから。
「サイドエフェクトっていうのは、簡単に言えば超能力みたいなものね。人の力の延長した何か。持ってる人は少ないわ」
「たとえば遊真くんなら、"他人の嘘が分かる"。私が前いた隊の子だと、"常人の6倍の聴力"。陽太郎なら"動物と会話ができる"。こんな感じだね」
【くがくんも、人のうそがわかるんですね】
「もってことは、美穂ちゃんも似たサイドエフェクトなんだね」
こくりと頷き、金森は説明のために文字を書き連ねていく。今まで誰にも伝えたことがない秘密だったが、ここまできたら明かすしかない。ヤケクソではなく、往生したわけでもなく。玉狛支部の面々が相手なら、証してもいいと思えたからだ。
昨日今日知り合っただけだとしても。時間など関係なく絆されていた。それほどまでに、ここは金森美穂にとって温かな場所になっていた。
何よりも大きいのは、金森と空閑のサイドエフェクトにある共通点だ。
【聞こえてくる声でわかるんです。それに込められてる感情が伝わってきて、本当にうれしいのか悲しいのか。表情と一緒かどうか】
ぱらりとページをめくる。
【本音と建前が大事って聞くことあるんですけど、そればかりの人もいて。誰も気づいてないギスギスも分かっちゃうんです】
再度めくる。
【一番分かるときは、その人が雰囲気を感じる時です。人ってそれぞれ雰囲気を持ってて、それを感じる距離にいると一番わかります。だから人が多いところはすきじゃないです】
「むぅ、それはなんといいますか……。ごめんみほちゃん。いいことばがでてこない」
何か言いたいけど、それができない。幼児ながらに同情も駄目なんだろうと感じているのか、下手なことは言わないようにしようと陽太郎は口を閉じた。
小さな少年のそのやさしさに、金森はにこりと笑って首を振った。
それだけでも十分だ。
【ありがとう】
金森の説明を受けた宇佐美と小南は、顔を見合わせて互いの考えを照らし合わせる。
例外中の例外でない限り、サイドエフェクトは持っていても1つだ。果たして金森のサイドエフェクトはどちらなのか。それを話し合い、互いに納得できるものに落とし込めた。
当の本人はついていけずにコーヒーをちびちび飲んでいる。
「美穂ちゃんのサイドエフェクトは、たぶん後者の方だね。人の雰囲気で本心を把握できるとか、そういうのだと思う。話し声でも伝わることがあるのは、声が空気の振動で伝わるから……だと思う。この辺は自信ないや」
「あとは聞くことに集中しやすいからとかじゃないですか」
「とりまるいつの間に!?」
「説明の時から。サイドエフェクトがあるなら知っておかないとと思ったので」
いいリアクションをした小南を横目に、宇佐美は烏丸に話の続きを求める。
「金森は話を聞き逃さないように、耳に集中する癖があるみたいなので。菊地原みたいな、耳の良さとかではないでしょう」
うむうむと頷きながら聞いている陽太郎は、あまり分かっていないようだ。烏丸はそれで判断し、要点を纏める。
「金森のサイドエフェクトは、その人の持つ
「めはちがうのか?」
「たぶん媒体は耳じゃなくて肌だね。空気を肌で感じるって言うでしょ? 美穂ちゃんはそれで人の本心が分かるんじゃないかな。まだ断定はできないけど」
「確認だけど美穂。それって自分に向けられたものが分かるの?」
小南の問いには、首を横に振って否定する。補足情報はもちろん書いて伝えた。
【だれに向けてとかは関係ないです】
それはつまり。
「一定範囲内のすべての人の本心がずっと伝わってくるってことなのね」
■□
夕方になるとボーダー本部に行っていた空閑たちが支部に戻り、机を囲って団欒とした食事を済ませる。まだボーダー本部に足を踏み入れたことがない金森に、空閑や雨取がどんなことをしたか話した。三雲は時折それに補足を入れ、誤解が生まれないように調整。
そうした時間が終わるとあとは木崎の運転で帰宅する流れなのだが、空閑は金森に声をかけて屋上へ。三雲たちの帰宅時間が遅くなるわけにもいかず、木崎は先に三雲と雨取を送ることに。
木崎に余計な手間かけさせてしまうことに金森が心苦しく思うも、木崎自身はまったく気にしていなかった。
「かなもりさん大丈夫? 寒くない?」
【大丈夫だよ。くがくんは?】
「おれは暑さも寒さもへっちゃらだから」
【すごい! 体が強いんだね】
「まぁね」
珍しく、雰囲気が揺らいだ。
金森はそのことに僅かに反応し、空閑はその小さな反応を見て察した。
夜風が強めに吹き、スケッチブックが飛ばないように抱え込む。空閑は金森の手を引いて、屋上にある小さな塀を風除け代わりにして座り込んだ。金森のためにハンカチをしくことも忘れない。
「かなもりさんのサイドエフェクトのこと、しおりちゃんから聞いたよ」
(……!)
共有されることは分かりきっていたことだ。それでも、空閑に知られたと思うと身を引き締めてしまう。
敷いてもらったハンカチの上に座り、膝を抱える。拳1つ分だけ開いて。並んで座っている。
知られることが嫌だったわけじゃない。空閑になら一番伝えられるとも思っていた。そのはずなのに、気持ちは沈み気味だった。
「おれたちお揃いだな」
それがいとも容易く風とともに去っていく。
あぐらをかいて座っている空閑が、金森へと顔を向けて嬉しそうに笑う。それが作り物でもなく、気遣いからくるものではないことは、金森が誰よりも理解できた。
「昨日はおあいこだってわかって。今日はお揃いだってことがわかった。おれとかなもりさんは、似た者同士かもしれない」
(似た者同士って……。わたしはくがくんみたいにやさしいわけじゃ……)
「かなもりさんは良い人だよ」
(!?)
「気づいてなかったんだと思うけど、かなもりさんって結構わかりやすいよ?」
それこそサイドエフェクトエフェクトがなくとも。空閑ほど僅かな情報で察せられる人は、早々いないのだが。
空閑の言葉に、そうなのかなと金森は自分の顔をぺたぺたと触ってみる。それで分かるわけもなかったが、鏡を見たとしてもわからないだろう。
その様子に笑みをこぼしつつ、空閑はトリガーを使ってトリオン体へと換装した。
【どうしたの?】
「トリオン体でしかできないことをしようかと思って」
(トリオン体でしか?)
「かなもりさんもトリガーを起動して」
何をするんだろうと疑問に感じながら、金森もトリガーを起動してトリオン体へ。
体を動かす何かをするのかと予想したが、どうやらそうではないらしい。空閑は座ったままで、金森もそれに合わせる。
『何するの?』
『これだよ』
『……通信?』
『そう。他の誰にも聞かれないやり方だと、秘密を共有してる感じになるから』
『筆談もあるよ?』
『ほんとだ』
思いついていなかったらしい。金森は思わず笑いをこぼし、空閑もそれを見て笑う。
『やっぱりかなもりさん笑ってるほうがいいよ』
『へ!?』
トリオン体ではなかったら、頬を染めていたことだろう。
(うぅ……赤くなってるの見られたよね……)
金森はそれを分かっていないが。
膝に顔を埋めて表情を隠す少女に首を傾げたが、時間も多くないことを考慮して空閑は本題を切り出した。
『おれのサイドエフェクトって、元は親父のやつなんだ』
『くがくんのお父さんの? それってどういう……』
『何年か前のことなんだけど──』
夜空を見上げながら語られる空閑遊真の物語。
それに相槌を打ちながら聞き、時にともに星を見上げ、時には語る空閑の横顔を見つめる。
それを聞き終えると、金森は自然と自分の過去を空閑に話していた。ぽつりぽつりと。自分の家庭がどうだったか。声を出せない自分が周囲にどう思われていたか。親の本心も。サイドエフェクトですべて知りながら、気づいてないフリをして。
『お父さんも……お母さんも……! わたしのせいで!』
トリオン兵に情などなく。悲劇は目の前で起きていた。
そっちは危ないと伝えられたらよかった。しかし声は出せず、緊急時に文字を書くこともできなかった。その情景は目に焼き付いており、今も蝕む記憶だ。ボーダーのことを避けていた要因でもある。
『やっぱりかなもりさんは良い人だ』
『ちがう……! だって、わたしが……』
溢れる雫は頬を伝わず受け止められる。
『違わない。攻めてきたのは
それは美徳であり、悪い点でもある。
『やさしくて良い人じゃなかったら、そんなことできない』
何か返そうとして、けれど何も言葉が出てこない。空閑の言葉が、胸の奥まで溶け込んでくる。
空閑は立ち上がり、真っ直ぐ金森を見つめながら手を差し出す。
『おれに言われたからって自信がつくこともないと思うけど、かなもりさんが少しでも自分を認められるように何回でも言う』
真剣に。ブレることなく届ける。
迷いながらも
「かなもりさんは良い人だってことを。ずっとおれが保証する」
その手を伸ばした。
金森美穂……声を出せないけど周囲の本心が嫌でも分かる女の子。過去の侵攻時に両親が目の前で真っ二つ。空閑のいる玉狛支部だから過去と戦いつつ頑張れる。SEの詳細までは本人も知らない。
空閑遊真……嘘見抜き仲間。かなもりさんの精神面をケアする人。週3でかなもりさんの"話す練習"を手伝い、お礼として日本語の勉強を見てもらっている。