アナタが待つ、あの海の向こうへ   作:fell@かぶとがに

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アナタがいないなら、もう何もいらないと思っていました。
けれど、私を呼ぶ声は一つではなく。
前へ進みなさいと、言われた気がしたから。


海帰、そして繋ぐ夢

――苦しい。

もう、どれだけ水を飲んでしまったでしょうか。

水面の明かりは遥か遠く、もう、藻掻く力もありません。

 

未だに意識を保っているのか不思議なくらいで。

ただ……もう、私は駄目なのだと、自然と受け入れている自分がいました。

 

「でも……これで良かったんです、きっと……」

 

トレーナーさんを失って。

隣にいると思っていたのも、私が夢見た、ただの幻で。

 

「もう、生きている意味も……前を向く理由も、ないじゃないですか……」

 

そんな、ドラマ等でありふれた考えが過ります。

でも本当は、そんな高尚な理由ではなく、感情に溢れた理由でもなくて。

 

「ただ単に……私はもう、疲れたんですよ……」

 

元々私は、特別頑張り屋というわけでもなく。

かつては厳しいトレーニングや逆境に耐える程度の堪え性はありましたが、支えを失った今、それらを持続させるだけの根性は残っていませんでした。

 

「……トレーナーさんが大好きだった故郷の海に眠る……ふふ、それも、悪くないかもしれませんね……」

 

でも、やはり。

苦しい。

 

呼吸もできず、大量の海水を飲み込み、これまで味わったことのない苦しみに包まれて。

いくら苦しい喉を押さえても、なんの意味もありません。

 

「……一人で苦しみながら終わるのは……嫌、寂しい、ですね……」

 

昔の私なら、そんなこと思いもしなかったのに。

こんなときに限ってタキオンさんの憎々しい笑い顔や……あの人の……。

 

そんなことを思いながら、目を瞑ろうとしたとき。

背後から暖かい何かが、沈みゆく私をそっと抱きとめました。

 

「……え……?」

 

そのままその何者かは前に回り込むと、迷わず私の唇を奪いました。

 

「……!?」

 

抵抗する力が全くない私は、なされるがままで。

でも不思議と、嫌な気持ちは全くしなくて。

ただただ、抱き締めてくれる誰かに体を預けて、私は呆然としていました。

 

しばらく突然のことに白黒していると、口づけを介して、空気を送り込まれているのが分かりました。

……いえ、果たして空気、なのでしょうか。

よく分からない暖かい何かが、目の前の誰かから私に注ぎ込まれていて。

 

その温もりはきっと、この一年強、いつもいつも私を支えてくれたもので。

私が今、どうせこの世と別れるのなら、せめて最後に欲しかった思い出で。

しっかりと顔を見ると、そこには。

 

「……あ……」

 

いつものように、情けない笑顔を浮かべた、トレーナーさんがいました。

 

トレーナーさん。

ずっと探し続けていた、私の、私だけのトレーナーさん。

 

震えながら、その頬に触れます。

確かに今目の前に、その人は居て。

あの日以来私が溺れていた、紛い物の幻ではなくて。

触れた手のひらには確かに、大好きだった人の温もりが残っていました。

 

「……トレーナーさんっ……!」

 

もうどんな言葉を伝えたらいいかもわからなくて、無我夢中で抱きつきました。

泣きながら抱きついた私に、トレーナーさんはいつものように、あたふたしていました。

 

「……セクハラにならないか、って……? さっき、人の唇奪った人の言うことですか……」

 

冗談めかしてそうからかうと、トレーナーさんは顔を真っ赤にして俯いてしまいました。

本当に、幸せです。

ずっと私は、こうしていたかったんです。

 

「……人生の最後に、こんな暖かな夢を見れただけでも……私は幸せ者ですよ、トレーナーさん……」

 

さあ、トレーナーさん……私を一緒に、連れて行って……。

 

そう、笑顔で告げると。

トレーナーさんはこれまで見せたことのない、寂しそうな笑顔を浮かべて。

そっと人差し指で、私の口元を塞ぎました。

 

「え……」

 

そしてそのまま、トレーナーさんは一人で、更に水底へと、沈んでいきます。

 

「待って……待ってください、トレーナーさん……!」

 

私は必死に、トレーナーさんの元へ近づこうとしました。

ですが、それを何者かが阻みます。

 

片腕を掴まれ、トレーナーさんとは真逆の水面の方へと引っ張られ……。

振り向くとそこには、必死に私を引き上げようとする、お友だちの姿がありました。

 

「離して! 離してください!! 私は……私は、あの人のところに……!」

 

私が何度そう叫んでも。

お友だちは泣きながらイヤイヤとでも言うように、何度も何度も首を振りました。

 

「嫌です……嫌だ……トレーナーさん……トレーナーさぁん!!」

 

もう、トレーナーさんの姿は見えませんでした。

それでも私は、何度も、何度も。

 

「トレーナー、さ……」

 

水面も近づき、もう声も届かないだろうと諦めて項垂れた、そのとき。

最後の最後で、私に呼びかける声が聞こえました。

 

『カフェ……きみはもう大丈夫だから……ね……?』

 

その声の主が誰だったのか。

朦朧とする意識の中で、私は最後まで、分かりませんでした。

 

✝ ✝ ✝ ✝

 

『……フェ』

 

誰かの声が聞こえます。

 

『……んじを……くれ……フェ……』

 

私は、疲れてるんです……放っておいてくださ――。

 

「起きたまえカフェぇ!!!」

「んぶふぅっ?!」

 

勢いよく胸元を押され、私は思わず水を吐き出しました。

 

「よし、いいぞカフェ! 窒息しないように横を向くんだ」

「げほっ……げほっ……」

 

ここは……砂浜の上でしょうか……?

目の前にはびしょ濡れのタキオンさんが居て……。

 

「モルモット君! 無事目覚めたよ!」

「本当か! 良かった……救急は渋滞でまだしばらく着けそうにないらしいからな……本当に良かった……」

「……私は……確か、少年を助けようとして……」

 

溺れる前のことを思い出していると、タキオンさんが自慢気に語り出しました。

 

「そうだとも! 助けたはいいが、今度はカフェが波に飲まれてしまってね……即座に飛び込み救出したこの私に感謝を……いてっ!」

 

誇らしげな表情のタキオンさんに、そのトレーナーさんが安心半分怒り半分の表情でゲンコツを落としました。

 

「結果的に二人とも助かったからいいものの……目の前で大切な学生二人に死なれるかもしれないと思った私の気にもなれ!」

「……ごめんよ、モルモット君」

「それにカフェ! きみのことはアイツからも頼まれているのだから……もっと自分を大切にしてくれ!」

「……すみませんでした……って、トレーナーさんから頼まれたって、何か……?」

 

初めて聞く話に、私は戸惑いを隠せませんでした。

トレーナーさんが……何か、言い置いていたことがあるのでしょうか……?

問い詰めると、モルモットさんは。

 

「もう少し落ち着いてから話そうと思っていたのだけどね……病院に搬送される救急車の中で、アイツから頼まれててね」

「何を……?」

「トレーニングの引き継ぎと……『カフェは思い詰めやすいから、万が一のときは、変な気を起こさないように見守っていてくれ』とね」

 

そんなときまで私を気にかけて。

本当に……本当にトレーナーさん、アナタっていう人は……。

バカなんじゃないですか……もう……。

 

「最初、カフェが飛び込んだと聞いて本当に焦ったよ……」

「……すみません」

「まぁ、お説教はこんなものだ、みんな助かったことだしな」

 

ほら、とモルモットさんが顎で示した方を向いてみると。

 

「カフェさん……」

「マンハッタンカフェさん、大丈夫ですか?!」

 

助けた少年と、あのウマ娘の少女が、二人並んで心配そうにこちらを見ていました。

話を聞く限り、私は溺れて意識を失って、その姿を晒していたようなので。

子どもの二人には、さぞ不安を与えてしまったことでしょう。

 

「……もう大丈夫です……」

 

そう言って二人の頭を撫でると、安心したような笑みを浮かべました。

 

「良かった……あの、私……」

 

そういえば、少女と面と向かって話すのは、これが初めてでした。

改めてその容姿は、本当に幼い頃の私にそっくりです。

……夢と希望に満ち溢れて輝いている、その瞳を除けば。

 

「私ずっと、マンハッタンカフェさんが目標なんです……私も、カフェさんみたいに走れるようになりたい、って……」

「そうなんですか……」

 

私みたいな根暗なウマ娘を夢にしてしまうとは……この子にも、なかなか難儀な未来が待っているかもしれません……。

 

けれど、悪い気はしません。

何か、彼女にしてあげられることは……。

 

「……そうですね」

「カフェさん、どうしたんですか?」

「ちょっとしたものを……目を瞑って貰ってもいいですか……?」

「は、はい……!」

 

少々ビクビクした様子で、少女は勇気を振り絞るように目を瞑ります。

そこで私は、自分の右耳から、彼女の耳へ……。

 

「……はい、できました」

「……! わあぁぁあ……!」

 

そこには私の耳飾りを付けて、嬉しそうにはしゃぎまわる少女がいました。

 

「ありがとう、カフェさん! 本当にいいの!?」

「ええ……きっと大きなレースで勝ってくださいね」

「うんっ! 私、頑張りますから!」

 

なおも嬉しそうに、見せびらかすように駆け回り、何度も何度も手鏡で見ている少女を眺めながら。

 

「……いいなあ……」

 

少年がぼそりと言いました。

 

「きみにはさっき……コーヒー、あげたじゃないですか……」

「あっ、いや別に、あれじゃ物足りなかったとか、ずるいとか思ってるわけじゃなくて……!」

 

慌てて言い繕う姿が、やはりどこか、トレーナーさんを彷彿とさせる姿で。

つい、くすり、と。笑みが漏れてしまいました。

 

「あっ、カフェさん今、俺のこと笑ったな!」

「まぁまぁ……そう怒らずに……」

「そりゃ、助けてもらったばかりで、俺が言えることなんて何もないけどさ……」

 

その年でそこまで気を遣えれば十分だとは思いますが、感情が漏れ出てしまうのもまた、年相応で。

 

なので、あげられることは“物”はありませんが、あげられる“モノ”を。

これから夢を目指すに当たって、せめてもの景気づけに……。

 

「ちょっと……こっちを向いてもらえますか……?」

「え? 一体な――」

 

不意打ちのように。

少年のおでこに、小さく口づけをしました。

 

「え……あ……」

「……私も、不安なときや勇気を出さなきゃいけないとき……時々、トレーナーさんにこうしてもらっていたんです……」

「あ……えと……その……」

 

「……頑張ってくださいね」

 

そう言って、にこりと小さく微笑むと。

 

「〜〜!!」

 

少年は顔を真っ赤にして、そのまま走り去ってしまいました……。

 

「……私、何か悪いことをしてしまったんでしょうか……?」

 

不安になって、タキオンさんを見ると。

 

「いや、カフェ……その、だねぇ……」

「?」

「……きみ、本当に無自覚にやっているのかい……? あの少年……下手したら戻れなくなるよ……?」

「なんの事でしょうか……?」

 

タキオンさんの言っている意味がわからず、モルモットさんに翻訳していただこうとそちらを見ると。

 

「……いや、私はそのことよりも、アイツが……そんな積極的なことをしていただなんて……そっちが衝撃的で……」

 

こちらはこちらで、顎に手を当てて神妙な面持ちで考え込んでいるようでした。

 

「……私もタキオンに、もう少し積極的に……」

「もももモルモット君?! 何を感化されているのかねぇ!? きみは黙って光っていればいいのだよ!!」

 

モルモットさんの思わぬ発言に、慌てふためくタキオンさんでした。




小さな未来たちの輝きを目の当たりにして。
マンハッタンカフェは、再び生きることを志す。
それはそうと、少年の性癖は捻子曲がらずに済むのか。
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