私は再び、海を見ていました。
去るためではなく、嘆くためでもなく。
ただ、アナタとの想い出を覗くため。
私は今夜も、笑顔でいられますから。
あれから年月が過ぎて。
私は間もなくレースを引退して、トレセン学園も卒業して。
今は陽が落ちた暗い海辺で一人、夜風に当たりながら海を眺めていました。
都会近くの工業地帯、クリスマスの夜。
橋の上から眺める海は、あの人の故郷とは様相が全く違っていて。
それでも世界と繋がる海は、そのどこかに、あの人の気配を漂わせていました。
手元の缶のブラックコーヒーを開けて一口飲み、続けて黒いチェスターコートの懐から煙草を出して火を点けていると。
「カフェ、身体に悪い遊びはやめたまえよ」
「……遅いですよ、タキオンさん」
散々遅れたくせに悪びれもせず、ニヤニヤしながら警告してくるタキオンさんその人が現れました。
「全く、もう走らないからってねぇ……」
「……ほんの戯れですよ……あの人との思い出に浸るときだけですから……」
海に向かって息を吐くと、白い息と煙が混ざって、遠く遠くへと広がっていきます。
「……あなたも一口、吸ってみます?」
「いいや、私は結構だ」
「研究者ともあろう者が……好奇心の前に怖気づきますか……」
にやりと笑い、軽く煽ってみます。
タキオンさんにこの煽りは効果てきめんなので。
「言ってくれるじゃあないか、カフェ……寄越したまえ」
案の定、むっとした表情で煽りに乗ってくれたタキオンさん。
受け取った煙草を軽く、一口吸って……。
「うぇっほ! げほっ! おええ、なんだいこの兎に角不味い物体は!」
「慣れると悪くありませんよ」
「いやいや無理だ! 私は慣れる気がしない! よくこんなものが吸えるねぇ、カフェは……」
「そこでこのコーヒーを一口……」
「やめてくれたまえ! 私を殺す気かい!?」
まるで、かつて実験台から逃げ回っていたときの自分を見ているようで。
少しは学生時代の溜飲が下がりました。
「しかし、かれこれもう何年経つやら……お互い、すっかり大人になってしまった」
「研究の方は捗っているんですか?」
「それが最近は少々、手こずっていてねぇ……」
タキオンさんはトレセン学園を卒業後、そのままトレセンの研究部門へ配属となりました。
新しくできた部門で、足が脆かったり、怪我に悩まされていたりする学生たちを救うべく。
日々様々な薬品を研究しているそうです。
……というのは建前で、事実上、タキオンさんが好き勝手するための秘密基地と化していますが。
「カフェこそ、店はまだ開かないのかい?」
「この間の菊花賞のお陰で、しばらくはまた煩そうですから。数年して落ち着いた頃に考えます」
「ああ……彼女と彼だね」
タキオンさんが二人のことを思い出しながら、クスクスと笑いました。
「『摩天楼の幻影の再来』……なんとも光栄な呼び名じゃないか」
「二人とも頑張れとは言いましたが……まさか、トレセンでコンビを組むなんて……」
「私はあのときから、二人には運命的な何かを感じていたよ」
良きモルモットとしても、立派に君の後継を果たしてくれているからね、と。
タキオンさんはこっそりと呟きました。
「…………は?」
「いやいや、彼女らは実に健気で献身的でねぇ。なんと二人揃って目を輝かせて『何かお手伝いできることはありませんか?』と来た。カフェとは大違いだ」
……頭が痛くなってきました。
私という監視役がいなくなった途端、これですか……。
「未だに、きみが有マや天皇賞で見せつけた狂気の走りをもっと見ていたかった、なんて声も多い。短い競争人生を、瞬く間に駆け抜けてしまった、とね」
「私とあの人のトゥインクル・シリーズは……あそこで終わりでしたから……」
「確かにあの春のレースで、きみは燃え尽きていた……あのままズルズルと続けていても、ろくな事にならなかったかもしれないねぇ」
夢の続きは、今をときめく二人に頑張ってもらおう、と。
そんなことを言いながら、二人で顔を見合わせて笑いました。
「……モルモットさんとはどうなんですか」
「あー、そういえば最近、モルモット君ではあまり実験していないねぇ……時々私と彼女らとのやり取りを見て、唇を噛み締めているが」
あっけらかんと言い放つタキオンさん。
客観的に見てご自身が危機に直面していることに、まだ気付いていないようですね……。
「タキオンさん」
「ん? なんだい?」
「そのまま放っておいたら……モルモットさん、アナタから離れていきますよ」
「……へぇっ?!」
「新しい子、何人も担当しているんでしょう? そうでなくても人当たりのいいモルモットさんのことですから、フリーとなれば色んな人からアプローチが……」
「待て! 待ちたまえ! モルモット君は私のモルモット君だぞ?!」
あたふたと慌て始めるタキオンさん。
その左手には、未だに指輪はありません。
……全く、この二人は……私とあの人以上に煮えきらないというか……何というか……。
「……それとも……私が頂いてしまいましょうか……?」
「カフェぇ?!」
「……ふふ、冗談ですよ」
私にはあの人しかいませんから。
今も、昔も。
「そろそろちゃんと……言うべきことは言いましょうよ……」
「そうは言ってもねぇ、今更何を話せばいいのやら」
「今更も何も……まだ何も始まってないじゃないですか……」
なんて、何も知らないふりをしていますが。
実は先月、モルモットさんから相談を受けていたんです。
クリスマスの夜……どんなお店なら、タキオンさんが喜んでくれるのか。
そのあたりはモルモットさんの方が詳しいんじゃないかとも思いましたが……。
「……折角、このあとは久しぶりのお食事なんでしょう? 楽しんでくればいいんですよ」
「そうしたいのは山々なんだがねぇ……最近、学内で顔を合わせてもすぐにそっぽを向いて去ってしまうんだよ……」
まさか、本当に私から離れて……と無用な心配を繰り返すタキオンさん。
流石に少し、可哀想になってきました。
なので、少し勇気づけを。
「色々言いましたが、大丈夫ですよ……何せ、アナタのモルモットさんなんですから……」
そう告げて、珍しく乙女の表情を見せるタキオンさんの額に、小さく口づけをしました。
「か、カフェ、私ももう子どもじゃないんだぞ……」
「……でもいつも、こうしてあげると頑張れるじゃないですか、タキオンさん」
「全く、誰も見ていないからいいものを……」
ぶつくさと文句を言いつつも、満更でもない表情をしています。
未だに、少年にしてあげたときのタキオンさんの言葉の真意は分かりかねますが。
「だが、少しは勇気が出てきたよ」
「……それは何よりです……」
そう言って微笑むと、タキオンさんは照れたように、頬をぽりぽりとかいていました。
✝ ✝ ✝ ✝
それから二人で夜風に当たりながら、小一時間ほど話し込んで。
三本目の煙草を携帯灰皿に押し込んだところで、タキオンさんのモバイル端末に着信がありました。
「モルモット君かい? ああ、お仕事お疲れ様。今から駅に向かうよ」
手短に待ち合わせの連絡を終えて、タキオンさんは名残惜しそうな表情を浮かべました。
「次に会えるのはいつになるかねぇ」
「私は比較的時間がありますから……タキオンさん次第ですね」
「たまにはトレセンに遊びに来ておくれよー」
「……考えておきますね」
この場から立ち去ろうと身を翻したとき、タキオンさんはふわりと舞った私のコートを見て。
「よく見たら懐かしい、彼のコートじゃないか。貰ったのかい?」
「ええ……ご家族の方が、良かったら、と」
少しサイズは大きいですが、私もあれから、少し背が伸びて。
着れなくはない身長になっていました。
「まるで当時の勝負服みたいだねぇ」
「当然ですよ……あの勝負服、このコートがモデルなので」
どんな勝負服にするか悩んでいたとき、たまたまトレーナーさんが着ていたのがこのチェスターコートでした。
そのデザインに、私が一目惚れして……。
「袖が少し長いですが」
「似合っているよ」
珍しく、タキオンさんが素直に褒めてくれました。
「背は伸びたみたいだが、幸い、指輪はまだサイズが合っているみたいだねぇ」
「ええ、はめられなくなったらネックレスにでもするしかないかと思っていましたが……」
左手の薬指にはめられた黒猫の指輪。
毎日丁寧に磨いているそれは、あの日から変わらず、ささやかな輝きを放っていました。
「……おっと! そろそろ行かないとモルモット君を待たせてしまうな!」
「それではまた……次はモルモットさんもお呼びして、三人で喫茶店でも行きましょうか」
「いいねぇ、紅茶もコーヒーも美味しいお店で、ね」
そう言い置いて、タキオンさんは幸せそうに走り去っていきました。
ウマ娘の速さではなく、ヒトの速さで。
その姿を見るだけでも、彼女の暮らしぶりや、優先しているものの大切さが。
現在の等身大のタキオンさんの姿が透けて見えるようでした。
「私は、これから……どうしましょうかね……」
傍らのお友だちに語りかけると、難問とばかりに首を捻っていました。
タキオンさんとモルモットさんが結ばれるのは、時間の問題のように思えますが……。
「……あの二人……子育てとかできるんでしょうかね……」
多忙な上に育児能力が心許ないタキオンさん。
子煩悩そうですがやはり多忙そうなモルモットさん。
「……心配ですね」
そのときは。
「近くに喫茶店でも開いて……お二人が忙しそうなときは、のんびり私が子守でも……」
そういう未来も、悪くないかもしれません。
何せトレーナーさんのところへ行くまでは、暇で暇で仕方ありませんから。
そして子守も一段落ついて、都会にも飽きたら……。
「……あの人の故郷で……穏やかに過ごせれば……」
そんな夢想に、心を委ねて浸っていると。
なにやらお友だちがつんつんと、後ろから私の肩を突いてきます。
「どうしました……あ」
振り向いて足元を見ると。
黒猫が一匹、私に頭を擦りつけていました。
「……お久し振りです、トレーナーさん」
首元を撫でてやると、ごろごろと喉を鳴らして気持ちよさそうにしていました。
「私の誕生日以来ですね……」
うにゃあん、とひと鳴きすると、今度は黒猫が私の腕に絡みついてきました。
「猫は液体って話、本当だったんでしょうか」
そのまま徐々に細くなり、するすると私の首元まで登ってくると……。
暖かい何かが巻き付いてきました。
「マフラー……ですか……?」
それは他の人には見えない、サンタさんからのプレゼント。
あの人に抱きすくめられているかのような、切ない温もりに包まれていました。
「……ふふ……ありがとうございます、トレーナーさん……」
目の前の空間に微笑みかけると、ゆらゆらと。
見慣れたシルエットが恥ずかしそうに頭を掻いていました。
「……でも本当に……いつも突然会いに来るんですから……」
お陰様で、ろくに贈り物も用意できません。
そんなときは、私は、いつも……。
「さぁ、トレーナーさん……こちらへ……」
そう言いながら両手を広げると。
一瞬戸惑いを見せつつも、トレーナーさんは静かに、私の胸元へ飛び込んできました。
ふわりと漂う、懐かしい香り。
それに包まれるだけで、まるで、あの幸せだった日々に帰ってきたようで……。
「……顔を、上げてください」
そして私はいつものように、その情けない顔に、自分の顔を近付けて……。
「……んっ……」
優しく、その唇を奪いました。
私からの、ささやかな贈り物。
不意打ちのように受け取ったトレーナーさんは、もう初めてでも何でもないのに、相変わらずあたふたしていて。
「……口と口でするのは、アナタだけですから」
そんなトレーナーさんの姿を見ていると、なんだかこちらも気恥ずかしくなって、頬が熱くなってきます。
ずっと、こうしていたい。
二人で手を握り合って、穏やかに過ごしていたい。
「あ、トレーナーさん……」
ですが、私たちの間に、そんなに長い時間は残されていなくて。
トレーナーさんは足元から少しずつ、光の粒子となって消えていきます。
「本当に……せっかちな人なんですから……」
そんな身勝手なアナタにも、随分慣れましたから。
あの頃のようには涙を流さず、今夜も笑って見送れます。
でもやはり、名残惜しいのは変わらず。
トレーナーさんの襟元を、きゅっと握りしめて。
「また、会いに来てくださいね……トレーナーさん……」
最後に思いっきり抱きしめると、トレーナーさんも抱きしめ返してくれて。
そして気がつくと。
そこには、私とお友だちしかいませんでした。
「……すみません、付き合わせてしまって」
お友だちに謝りましたが、気にしてないよ、と言わんばかりに纏わりついてきて。
この可愛い隣人にも救われていることを、改めて実感しました。
「……夜も更けてきたことですし、帰りましょうか」
家路へと歩み始めると、お友だちは嬉しそうに後をついてきました。
またあの人と二人で、隣合わせで過ごせるその日が来るまで。
沢山の経験と思い出を集めて。
再び一緒になれたら、二人きりの長い長い時を、語らいながら過ごしましょう。
「トレーナーさん……もうしばらく、待っていてくださいね……」
暗がりでそう、水平線の彼方の夜空に語りかけると。
こんな都会の空に、一条。
流星が光ったように見えました。
マンハッタンカフェは、走るのをやめた。
けれどもそれは、折れたわけではなく。
ゆっくりと彼の歩調に合わせるため。
マンハッタンカフェは今夜も一人、夜空を見上げる。