『エリシアちゃん』
確か、あの頃はそう呼ばれていた。
エリシア・フローレンスが自身の持つ特異性に気付いたのは8歳の時だ。
数日前まで健気にも路傍に咲いていた小さなコスモスが誰かしらに踏みにじられ、花を散らしているのを目撃して「残念だな」と思ったその時には元の形を取り戻し、それどころか瑞々しさまで漲らせ始めたのが原因だった。
彼女に親族と呼べる者はいない。
死別したのではなく、産まれてから僅か数日後にスラム街に棄てられたのだ。
しかし、スラム街の人々は誕生した事すら祝福されなかった赤子を我が子のように愛を籠めて育てた。
彼らは元々社会的弱者や事情によって世間に馴染めぬ者の集まりであったが故に、似たような境遇に陥った者に対しては同情的だったのである。
そうして親の愛は知らないものの街1つから愛の受けた赤子は、困っている誰かの為に奔走し物言わぬ花すら思い遣れる心優しい少女へと育った。
その少女が、ある日自身の半径24メートルなら何であろうと思い通りに出来る力を手にしたとしたらどうするか。
そう、幼いエリシアは己の能力をスラムの人々への恩返しに使ったのだ。
まだ何が出来るのか当人すらしっかりとは把握していないまま目の見えない人に光を取り戻させ、衣服の解れを直し、傷を癒す彼女の姿はきっと誰の目線からでも聖女に映っただろう。
尤も、それが良い事か悪い事かはまた別になるが。
端的に言ってしまえば、「新世界」は万能が過ぎた。
効果範囲を除けばこれと言った制約もなく、1度発動してしまえば彼女が解除しようと思わない限り永続し、その上無から有を生み出す事さえ容易い。
消費した分以上魔力すら生み出せてしまうのだから、敵などいる筈がない。
完全無欠に、無敵だった。
彼女に傷を付けられるような人間はスラム街に1人としていなかった。
そうしてふと気付いた時──彼女の周囲にいた人々の親愛は、崇拝へと変貌していた。
『エリシア様』
初めに「エリシア様を讃えよ」と言ったのは誰だったか。
いつも果物を分けてくれていた隣家のおばさんだったかもしれないし、行き場のない彼女にあばら家を与えていた老人だったかもしれないし、或いはふざけて「ごっこ遊び」をしていたその辺の子供達かもしれない。
しかしその「エリシア様を讃えよ」は瞬く間にスラム街を席巻した。
エリシア様は神の子だ。
エリシア様は天が私達の為に遣わしてくれた救世主だ。
エリシア様の御力で私達は救われるんだ──そんな噂が、風のように弱者の間を駆け巡ったのである。
気付けばスラムの片隅にある彼女のあばら家は神の子の家として、何十人もの人間が絶えず詰めかける「聖地」へと変貌していた。
そしてエリシアに会う人間を選別する「司祭」が現れ、エリシアを信奉する「信者」が現れ、エリシアの救済を受ける為の誠意である「お布施」が彼女の元に届けられるようになっていたのだ。
『エリシア様』
『エリシア様』
『エリシア様』
それはエリシアという幼い少女を頂点に据えたカルトと言っても差し支えない。
貧しいながらも相互扶助によって成り立っていた筈のスラムが、いつの間にか宗教の名を借りた搾取構造へと変貌していた。
もしこれが、ハナから詐欺を目的にしたしょうもないでっち上げカルトだったらこうはならなかっただろう。
誰かしらが歪みを指摘していた筈だし、そもそもスラムの人々だって狂う事はなかった。
しかし救世主は実在したのだ。
そう思っただけで思った通りの事を引き起こしてしまう、正に人智を超えた神の如き行いが実在してしまったのである。
だから皆狂った。
ずっと優しかった人達が、素知らぬ顔で信者から金をむしり取り、他者を蹴落とす醜い存在へと変貌してしまった。
──でも、エリシアは救世主を辞めなかった。
人を狂わせた「新世界」で人を救う事を、幼い少女は止めようとしなかったのだ。
だって──期待に応え続ければ、皆が昔のように戻ってくれるかもしれなかったから。
1人で歩く事すら儘ならなかった頃から自分を支えてくれたあの優しい人達が、優しさを思い出してくれると信じたかったから。
どうしたって諦めきれない。
実際はもうどうにもならない話なのだとしても、自分にとって全て
そして、ある日────不審者と出会った。
『こーめ、こーめぇ……』
『あ、あの……?』
彼は幽鬼のような顔をしてスラム街をふらつく、まだ青さの残る青年だった。
毎日のように「コメ、コメ」と呟きながら付近を行ったり来たり、数十分に亘ってふらふらとさ迷ったかと思えば何処かへと消えて行くその異様さに少々引きつつも、彼女は救世主としての「義務感」から声をかけてしまった。
しまったのである。
そして直ぐそれを後悔する事となった。
『こめ……?』
『いえコメじゃないです』
ぐりん、と気色悪い動きで振り返られて悲鳴を上げなかったのは、偏にエリシアが人が突然見せる醜悪さに慣れていたからとしか言いようがない。
が、しかし────
『こめじゃないの……?』
『コメ、ではないですね』
縋るような目線があった。
切実な、もしこれが「コメ」なる物でなかったら自分は死んでしまうと言わんばかりの、最近のスラム街では久しくみない心の底から救い求める者の目線が其処にあった。
そしてそれを切って捨てられる程、エリシアは薄情でもなかったのだ。
故に──彼女は
そして────
『取り敢えず、お話を聞かせて下さい』
使い慣れた「救世主」のスマイルに、お決まりの誘い文句。
本心がなんであれ、救いを求める人に対して「効く」言葉。
それは青年も例外ではなく、暫し逡巡を巡らせた後彼はこくりと頷いた。
先ず言ってしまうのならば、何夜越えたとしても異世界の寝台はクソだった。
硬く、狭く、宿によっては変な臭いがする。
低反発枕やベッドマットレスと言った現代技術に慣らされた青年の意識は、異世界のそれを中々受け付けないのだ。
尤も、それは彼が宿代をケチったり寝相がかなり悪い方だからなのもあるが──別にそんな事は重要ではない。
「あ゛ぁ゛……くっそ……」
他ならぬ彼自身が吹き飛ばしかけた街路を行く青年は、控え目に言って「酷い面」そのものだった。
目の下には深い隈を刻み、頬は青ざめ、足元も覚束ないと二日酔いそのものな醜態を晒しているのだ。
(昨日全然寝れなかったじゃんか……)
本当はもっと寝ていたい。
と言うか今日1日寝て気分をスッキリさせたい。
しかしその劣悪な寝心地から一時の安息すら許さないのが異世界の寝台だった。
お陰で睡眠時間は2時間、起きたら寝違える、食堂に行ってみたら周囲の人全員に引かれた上配膳のお姉さんには悲鳴を上げられると良い事無しのままこうして外を出歩く羽目になっているのだ。
(……いや、でもハルトマンのおっさんには感謝しないとな)
しかし「高い所はイヤだ」という我が儘を言ったのは自分だし、その上安宿を手配して移動に肩を貸してくれたのは「盾」の長を名乗るあの老爺なのだから誰かを責められる筈もなく、誰かに責任を擦り付けたいと思っても結局は自分の名前しか出てこないのだからどうしようもなかった。
それに、外出
「俺向けの依頼って何なんだろうな……」
昨晩、ハルトマンは酒の席ではあるが「君向けの依頼があるから話だけでも聞いて欲しい」と言っていた。
今回の1件で仕事の斡旋に対して警戒を強めた青年は即諾するような馬鹿な真似はしなかったものの、相手が団長である以上それを断る事も出来ず最終的には酒を理由にして先延ばしにしてしまったのだ。
それ故に彼は億劫ながらも倦怠感と頭痛に苛まれる身体を引き摺って、えっちらおっちらと帝都の外れへと歩いている訳なのだが───
「いや行きたくねー……」
青年は、「呼び出し」という概念に1周回って笑える位弱かった。
どうにも前世を思い出してしまうのだ。
思い返してみれば、学生時代の彼は信じられない程のクソガキだった。
小学校の頃は給食の度に隣の生徒から米を奪い取り、中学の頃は授業を無視して農耕に関する本を読み漁り、高校では立ち入り禁止で誰も来ないのを良い事に屋上を田んぼへと改造し、果ては都内の法学系の大学に進学して欲しいと言う親の願いを振り切って農学校へと進んだのだから筋金入りの親不孝者だろう。
その選択をした事自体に後悔はないものの、転生してからはふとした瞬間に「もう少し親孝行しておくべきだった」と感じてしまう時もある。
「どうにもいやーな気分になるんだよなぁ」
だから郷愁の引き金として最も分かりやすい呼び出しが青年は苦手なのだ。
ただ、まぁ、手に職をつけなければどんな世界でも生きてはいけないのが真実。
「今からでも『盾』辞めようかな……」
故に──嫌だ嫌だと言いつつも、行かないと言う選択肢は存在しなかった。
特に根拠は無いけれど、随分と良い夢を見た気がする。
すっかりひねくれてしまった少女でも自然そう思える程、爽やかな目覚めだった。
一体何がそう思わせるのかは、いまいちよく分からなかったが。
「……こんなの、久し振り」
天蓋付きの豪奢なベッドは最高の寝心地を提供したが、それでも彼女の心を動かすには至らない。
窓から射し込む朝の陽光はさっぱりとした目覚めを促したが、それでも彼女の心を動かすには至らない。
帝国にいる限り、「盾」の保護下にある限り、魔女でいる限り、エリシア・フローレンスの心が外部からの干渉で動かされる事はないのだ。
とは言え、それは彼女が自ら望んだ事でもあるのだが。
「これなら神様から魔女に転身するのも、中々悪くないかしら」
ぼーっと天井を見上げながら、少女は呟く。
人智を超えた力故に何処にいても崇められ、敬遠され、触れてはいけない物のように扱われる。
それはあのスラムでも、「盾」でも変わらない。
ただ、スラムならば「良い夢」を見る事は一生叶わなかっただろう。
神様は一見自由に見えるが、その実うんざりしてしまう程に不自由だ。
魔女は「何処にいても」で済むが神様はそこに「何をしていても」が付け加えられる。
少女は別に他人が嫌いではなかったが、それでも四六時中付き纏われるのには辟易しているのだ。
その点「盾」は中々に気が利いている。
余程遅くにならなければ起床のベルは鳴らしてこないし、夜の間は自分の部屋で好き勝手も出来る。
態々声をかけずとも部屋の隅に置かれた鈴を鳴らせば朝食を置いてさっさと退散してくれるのも中々──と、思っていたのだが。
「そう言えば今は『お話し相手』はいなかったわね」
よくよく考えてみれば、身の回りの世話を全面的に請け負う「
しかし其処に後悔はない。
視線の1つ1つがいちいち舐め回すようで気色悪かった上に死霊術師を殺すついでに様子を見に行った「彼」と比較しだしたらもう気持ち悪くて仕方なかったのだから当然だろう。
寧ろよくもあんなハゲデブ野郎と会話をしていたものだと自身の思考停止振りに感心してすらいた。
「あーあ、いっそ『彼』が来てくれたら良いのに……」
それが出来るのならば楽なのだが。
しかし少なくとも「彼」は自分の足でコメを探すのに拘っているようだし、無理強いをするつもりは今の所ない。
エリシア・フローレンスは我慢の出来る少女であり、自由意思を尊重する事が円満な恋愛関係に必要だと知っているのだ。
しかし「いっそやってしまおうか」と思う心がない訳でもなく。
(人生って、中々難しいものね……)
自分1人だけの寝室。
少女は黄金の海の真ん中でクスリと笑って──扉をノックする音が耳に入る。
「……誰?」
折角1人で感傷に浸っていたのにそれを邪魔されたのが余程気に食わなかったからか、エリシアの口から出た声は彼女自身ゾッとしてしまう位に冷え込んでいた。
しかし、これは──一言文句を言ってやらねばなるまい。
「入りなさい」
丁度米の出来損ないも生やしっぱなしにしていたのを思い出したし、田んぼに踏み入って自分の下まで来るのはさぞかし面倒だろうと、嫌がらせとしか思えない事を考えながら扉を開けるよう促せば────
「こんちゃーっす!『お話しあい────こ、め?」
何故か全力で扉を開け放った青年が、愕然とした呟きを漏らした。
◯青年
お酒に弱い。
呼び出しにも弱い。
米が無い現実も直視出来ない。
クソザコ…
扉を全力開放してクソ舐めた態度取ってるのは即日解雇してもらえないかに賭けてるから。
◯エリシア・フローレンス
実は「盾」に保護されるまで(1年半前まで)は誰に対しても敬語で話していた系元神様現魔女。
昔は神様と救世主と人外を兼任するリアル三位一体説をしていたのであんまり思い出したくないけどキラリと光る思い出がセットならまぁ良いかな…みたいに思ってる節がある。
忙しくなってきたので多分次回から更新ペース落ちます。
許して…