「米だ」
そんな呟きは、朝の澄み渡った空気に溶けてあっという間に消えていく。
だが、そんな事は全く気にならない。
どうでも良い。
いや──そもそも青年は自分が呟いた事にすらまるで気付いていない。
青年の眼前に広がっているのは、小さいながらも田園風景と言って何ら差し支えない黄金の海だった。
天蓋付の豪奢なベッドを囲うようにして、無数の稲穂が頭を垂れて収穫の瞬間を今か今かと待っているのだ。
それはあまりにもミスマッチだったが──青年にとっては、何か神聖な絵画であるかのように感じられた。
「米がある」
青年の中で、凍り付いた「何か」が動き出そうとしている。
転生したその時より直視するまいと必死に逸らしていた現実が、どうしてもそれを口にしたいという願望が、しかしやはり存在しないのではないかという諦観が、今一辺にその活動を再開させようとしていた。
「──でも、何で米がある?」
1歩、踏み出す。
「新世界」によって理を書き換えられた魔女の寝室は丁度扉を境として田圃に変貌していたが、躊躇なく足を踏み入れる。
当然ながら泥水がブーツの内側に侵入し、水を吸った靴下がずっしりと重くなるが、やはりそんな事はどうでも良い。
まるで気にならない。
根を傷付けたりしないように予めブーツは脱いでおくべきだったと一瞬反省が脳裏を過ったが、それすら溢れ出る感情の荒波に押し流されて────いや、待て。
「何だ……?」
何かが、おかしい。
本来の稲作とは違う「何か」が行われている、そんな違和感を青年の本能は感じ取った。
涙で滲みかけた視界に、急速に現実が戻ってくる。
「……」
観察しろ、と青年の米を崇拝する心が告げている。
見逃すな、と青年の米に執着する心が警告している。
そして、手近な1本に手を添えようとして──気付く。
「落水してない」
落水。
それは稲を収穫する少し前、つまりはおよそ10日前後田圃から水を抜く事で米の充実を促す、稲作に欠かせない行程だ。
青年の見立てでは、この黄金の海もまた登熟を迎えて正に収穫の機会を迎えた状態の稲穂だと考えられる。
しかし、この田んぼからは水が抜かれていない。
本来行われてしかるべき落水が行われていないにも関わらず、籾が熟れすぎてしまう事もなく稲穂全体が倒れてしまう事もなく、室内全ての稲が見事に粒を実らせ直立しているのだ。
これは手法の違いでどうこうなる話ではない、明らかに異常事態だった。
だが、それだけではない。
「それに均一過ぎる」
通常、稲の節と節の間の長さにはばらつきが出るものだ。
水位が上昇し水没の危機に瀕した時は水面から葉だけでも出せるように節が成長する筈だし、いくら1つの品種と言っても生物なのだから個体差が表れるのが自然だろう。
ところが、青年の眼前に一定の感覚で植えられた稲は、その全てが恐ろしいまでに均一だった。
しかもまるで画像をコピーアンドペーストしたのではないかと思ってしまう程に、彼の視界に映る全ての個体が同じ長さ、太さ、穂の垂れ方をしているのだ。
それが米であるか云々以前に、生命として不自然。
最後に────
「これ……陸稲じゃないか……!」
この稲は水田に適した品種ではないと青年の経験が告げている。
葉の大きさ、根の張り方、粒の大きさは水田で収穫される水稲のそれからは程遠く、どちらかと言えば畑で栽培される陸稲に近い。
無論生育環境の差や品種改良の歴史の差、そして異世界である事を考慮すれば陸稲的な特性を持った水稲が存在する可能性は否定しきれない。
だが、青年が持ち得る知識を総動員して考えるならば、これは米的な特性を持った「米っぽい何か」だ。
そして────その事実に動揺したのは、彼だけではない。
「……コメでは、ないの?」
ベッドの上で上体だけ起こした少女──エリシア・フローレンスが愕然とした表情で呟く。
ただでさえ雪のように白い肌を青ざめさせ、深紅の瞳を目一杯開いて、告げられた現実を咀嚼する。
(完璧には程遠い、とは思っていたけれど……!)
エリシアは、陸稲と水稲の違いを知らない。
稲が水嵩に対応した成長を遂げる事も知らない。
況してや落水など、今初めて聞いた単語だった。
エリシアと青年が出逢ったのは僅かに1日、具体的に述べるならば「何てことはないある日」の昼過ぎから夕方までのほんの数時間しかないのだから、そんな農学の歩みに比べれば一瞬にも等しい時間で米が何たるかを学びきるなど不可能なのは当然だ。
しかし────彼女の心をへし折るにはあまりも充分過ぎた。
(出来損ないにも程遠いじゃない!)
そう叫んでしまわなかったのは、エリシアにとって本当に幸運な事だった。
実際に口に出してしまったらその時点で自分の中で何かが崩れ去ってしまいそうだったから。
涙を流さなかったのも、気障ったらしい「お話し相手」には銀の海とか例えられた髪を掻き毟ってしまわなかったのも、全てが幸運だった。
だがそれは「魔女」としての体裁を保つ為の幸運であって、エリシア・フローレンス個人にとっての幸運ではない。
寧ろ彼女の心に付いた傷の大きさを考慮するならば、致命的な不運と言っても何ら差し支えない。
「……ぁ、あ」
だって、彼女が試行錯誤を繰り返していたのはほんの数メートル先で「稲」を観察している険しい表情の青年の為だったのだから。
所詮偽物である事は理解している。
味も外見も何もかも出来損ないなのもよく理解している。
それでも米を探す中で危険に身を投じる彼の一助になれればと思って、或いはそれが叶わなくとも少しでも彼が元気になってくれればと思って、自身に出来る事を出来る範囲で試していたのだ。
(どうして、どうしてこんな……!)
確かにエリシアは「いっそ彼が次の『お話し相手』だったら」みたいな感じの発言をした。
けれど、それはほんの冗談でしかない。
ちょっと物事が上手く行かない時に漏れてしまう愚痴のようなモノであって、本当にそうしろだなんて誰も言っていないのだ。
「そんな、そんな……!」
なのに。
なのに一体これは何なのか。
神の悪戯なのか何なのかは知らないが、どうして何かしらの成果を得られる前に彼を自分の下に寄越してしまったのか。
青年が「稲」を否定するのも当然だろう。
未完成なのだから、中途半端にしか再現出来ていないのだから、完成したモノだけを見せるつもりだったのだから。
「ぃ、いやよ」
遂に、少女の喉から殺しきれなかった悲鳴が漏れ出てしまう。
すらりと伸びた四肢は緊張で強張り、両手は黒一色の寝衣の裾を握り締め、顔を上げようとして結局それを出来ずにいる。
────このままでは、嫌われてしまう。
恐慌状態に陥りかかったエリシアの脳裏に浮上したのは、ただその一言だ。
だが、そう思わざるを得ない程彼女にとって事態は悪化していた。
部屋に入ってきたあの瞬間の、見るからに人を舐め腐ったような態度の理由だって当の昔に理解しているのだ。
彼は自分の意思でエリシアに会いに来た訳ではない、命令か何かで否応なしに「お話し相手」を押し付けられているのだ、と。
(……当然、かしら)
パニックになりかかった思考の片隅で、冷静な部分がそう囁く。
そうだ、当然だ。
あくまでも彼は米を探しにいきたいから「盾」に所属しているのであって、魔獣やはぐれ導師と戦う為でもなければ魔女の「お話し相手」
そしてエリシアもそんな事は望んでいないが──こうなってしまった以上、嫌われる結末は覚悟しなければならなかった。
(……でも)
しかし。
それでも、まだ。
胸に秘めた「嫌われたくない」を諦められず。
少女は広げた手のひらを、水田に向ける。
(せめて田圃だけは消す────!)
そう、既に起こってしまった事を「無かった事」にする能力などエリシアは持ち合わせていない。
一見万能に見える「新世界」も時間を巻き戻す事は出来はしない。
だが、自らの不始末を自らの手で抹消する事は可能だ。
翳した手を軽く振ってしまえば、それで米の出来損ないは消滅するのだ。
ならば、それをやらないという選択肢は存在しない。
例え関係がマイナスからスタートするのだとしても、それだけは譲れなかった。
そして、エリシアは広げた五指に渾身の力を籠めて────
「スゴいなこれ」
「ぇ」
ポツリと青年が漏らした一言に、ピタリと動きを止める。
「いや、いや本当にスゴいぞこれ……!もしこれが水稲的な栽培が可能な陸稲だったら米農家に革命起きるんじゃないか……!?」
青年は、この「稲」を日本米とは断定していない。
彼の知る米とはあまりにもかけ離れている以上、安易な物言いをする事は米信者のプライドが許さない。
だが、これが
「すっ……すっげぇよコレ……魔法の恩恵バリバリ感じるよ……」
何せ此処は異世界だ。
魔法が現実のものとして使用され、魔獣や悪魔が跳梁跋扈するマジモンの異世界なのである。
つまりは、何があってもおかしくはない。
水稲と陸稲を超合体させて良いとこ取りだけした凄まじいサムシングを生み出す品種改良技術があっても、何ら不思議ではないのだ。
そうして魔術の可能性を見せ付けられた最早青年の口から出るのは感嘆の溜め息のみだった。
「いやヤバいな……異世界マジヤバいな……ちょっと俺舐めてたかもしれん……」
稲を撫でれば撫でる程語彙力が壊滅しつつある青年を、ポカンと呆けた表情でエリシアは眺めるしかない。
実に魔女らしくない、と言うより彼女らしくない間抜け面であった。
(あ、あれ……?)
絶望とか諦観とか、その他諸々の感情が纏めて吹き飛んでいく。
何か思っていた方向とはまるで違うけれど、兎にも角にも状況が良い方向へと勝手に転がっていく。
しかしエリシアが割って入るような空間もなく、伸ばした手をぼんやりとさ迷わせていると────
「あッ、し、失礼しましたァ!」
「ひぃっ!?」
いつの間にか少女の方に向き直っていた青年が見事なまでの土下座をかます──田圃のド真ん中で。
当然ながら彼の顔は泥水の中に浸けられ、勢いのままに跳ねた水が開けっ放しの扉に飛び散る。
汚い。
ハッキリ言って滅茶苦茶汚い。
しかし、青年にも少女にもそれを気にしている余裕はない。
「エリシア様がこのような素晴らしい御方だとは露知らずッ、此の度は大変な無礼を働いてしまい申し訳ありませんでしたッ!」
「そっ……そ、そうね……」
「ご怒りはご尤もかと思われますが、私は如何なる処罰も受け入れる所存でありますッ!ですので何卒、何卒この米っぽいモノを何処で手に入れたのか教えて頂ければッ!」
「え、えぇ……」
片や興奮、片や混乱。
尋常ではないまでのテンションの差にたった2人の寝室が得体の知れない混沌に呑み込まれていく。
しかも、しかもである。
(……もしかして、私に気付いていない?)
青年はエリシアを「エリシア様」と仰ぐばかりで、彼女が
そもそも覚えていないとすら感じさせる程だった。
成る程、スラム街にいた頃のエリシアは何の効果があるのかも分からない装身具を山程身に付けさせられ髪も総髪に纏めていた上に、今と比べれば大分
(えっと、えっと、えぇっと……)
だが、よもやこれ程とは。
怒涛の如く押し寄せる情報の津波にエリシアは今度こそ頭を抱えたくなったが──取り敢えず、エリシア「様」呼ばわりは改めさせねばなるまい。
「あー、別にエリシアで良いわよ。私堅苦しいの嫌いだし」
「え、しかし────」
「私が良いって言ってるの。それと敬語もナシね」
「えぇ……?」
「逆らうって言うの?米の出所教えないわよ?」
「分かった。タメ口で行くわ」
「変わり身速いわね」
「『強いヤツには程よく媚を売る』のが処世術なんで」
自分から正体を明かしたりなんてしない。
浅ましく「気付いて」なんて言ったりもしない。
だが気付いて貰えるようにアプローチはするし、出来損ないを見られた責任も取ってもらう。
もっと色々やりようはあったかもしれないが、いっぱいいっぱいになった今のエリシアにはそれが精一杯だ。
そんな訳で────
「じゃ、厨房に行くわよ」
「何故!?」
「決まってるでしょう?米の出所は──食べて確かめるモノよ」
青年の手を引きながら、少女は勢い良く寝室を飛び出す。
今度こそ彼女が手を振れば寝衣はいつものドレスに変わり、青年に付着していた泥は綺麗さっぱり消え去り、稲穂から米粒が独りでに飛び出し──役目を立派に終えた寝室は、元の静寂を取り戻した。
◯青年
米ではないかもしれないけど米かもしれない物体に出会えて感激しているno rice no lifeの化身。
テンションが滅茶苦茶にぶっ壊れているせいで魔女が誰なのかにも気付いてないけど米の神だとは思ってる。
◯エリシア・フローレンス
流石に落水がどうこうとかまでは聞いてなかったのでその辺を想像で補った結果水稲(陸稲(味はタイ米))と言う訳の分からん産物を生み出してしまう。
スラム街時代を思い出すので様付けされるのが死ぬほど嫌いだし自力で自分の事を思い出して欲しい系乙女。
次回、料理回