穂刈さんの名前を間違えたことを後悔しています。
三門市には、川がある。
両岸に堤防を備えて、橋がかかっている。その幅は200m以上。
幅の広い河川の特徴として、流れは緩やかだ。
上流から流れ落ちる石もいつしか削れて、丸く小さくなっていく。
そんな川の中に、ひときわ目立つ立方体が集合したような建物が一つ。
旧ボーダー本部、現玉狛支部。
ボーダーが設立してから数えるほどしか訪れたことがない、意識的に敬遠していた場所。
すでに空には夜の帳が降りていて、空には少しだけ欠けた月と、少しの星。
川から吹き上がる冷たい風が身体にぶつかる。
入り口となっている橋に、洒脱さや遊び心はない。元は研究か、調査の施設だったと言うからそれも当然だが、その無機質さが川の暗さを際立たせていた。
その橋の先、玉狛支部の入り口が、ぎいと音を立てて開く。
「待ってたぜ」
ポジション、アタッカー。
ブリッジの無い、特殊形状の眼鏡を額にかけ、迅悠一が待っていた。
「今日出発じゃなかったのか?」
「今夜0時出発ですので、あと3時間程余裕があります」
「それは、余裕が無いって言うんだ」
城戸秀宗は、近界に向けて遠征艇に乗りこむ。
現在の時刻は21時、通勤通学のための電車とは異なり、当然ながら駆け込み乗車などは認められない。
そのことは、何度も遠征艇に乗ったことがある迅も当然知っている。
ボーダー本部に戻り、支度を整えてから乗り込むことを考えると、諸々の準備を全て済ませていたとしても15分程しか猶予は無いだろう。
秀宗がこの時間を選んだのはわざとだった。
訪問が平時ならば、あのパワフルな玉狛支部のメンバーに会えば、ついつい長居することになる。しかし、どうしてもずらすことが出来ない用事があれば、相手も引き止めることは出来ないだろう
呼び鈴を鳴らさずに携帯電話で迅1人を呼び出した秀宗は、そんな自身の心境を迅ならば汲み取ってくれるだろうと期待していた。
「陽太郎に会っていくんだろう? まだ起きてる。すぐに呼ぼう」
迅は、秀宗の狙いを読み取った上で、無視して言った。
相手に気を遣ってもらおうだなんてしてるうちは、まだまだ甘えんボーイよ、とは誰の弁だったか。
「今日は、迅さんにお願いがあってきました」
お願いねえ、と嘘くさく呟く。
秀宗からすれば、自分の質問などもうわかっていて焦らしているのか、本当にわからないのか判断できない。
本当であっても嘘であっても、どちらでもこのような態度をとるのだろうと思う。
迅には、秀宗の質問する内容などといった限定的な未来は今の所見えていない。
ただし、あまり来たがらない玉狛支部にまで足を運ぶくらいだから、質問の内容が真剣であること。そしてそれが迅のサイドエフェクトに関係することであることは予想がついている。
「僕の未来を、見てほしいんです」
だから、秀宗がそう切り出したことに意外さは無かった。
「何を見てほしいかにもよるが―――おれのサイドエフェクトがそれほど都合がいいものじゃないことは、おまえも知っているだろ?」
「なんでもです、迅さん」
「なんでも?」
「僕は今夜、遠征艇に乗ってメノエイデスに向かいます」
迅は、玄関のライトを背負って秀宗に向かって話しかけている。光源はどれも玉狛支部からのもので、秀宗が佇んでいる橋からは光るものは存在しない。
秀宗からすれば逆光で迅の姿は見えづらく、迅からすれば順光で秀宗の姿はよく見える。
心許なげな表情、不安そうな目線。
「つまり、近界でどんな危険が迫るか確認したいのか」
見えるかわからないけど、そのくらいなら。そう言いかけた迅の言葉を秀宗が遮る。
「――いえ。僕の未来に、玄界の街並みはありますか?」
「ふーん? なんだ、久々の近界で怖くなったのか? 心配しなくても、風間さんや冬島さんに任せておけば、向こうで名誉除隊なんてことにはならないだろ」
太刀川さんだとちょっと不安かもしれないが。
でも、緊急脱出もあるしな。
声色は明るいが、秀宗からは微妙な表情は読み取れない。
「ええ、まあ。僕も、戦闘が久々なので」
「そんなタマだったか?」
「人は変わるんですよ、迅さん」
迅さんは5年前から雰囲気変わってない気がしますけどね、と軽口を叩く。
「おれのサイドエフェクトは、確定した未来を見るわけじゃないぞ」
「ええ」
「未来が見えるかどうかもわからないし」
「はい」
「逆に、嫌な未来を見ることもある」
「そうですね」
迅が更に口を開こうとしたところで、迅の後ろにある扉の隙間から、うきゃーという話し声と、それを叱るような、少し高い少女の声が聞こえた。
騒ぐような少年の声が林藤陽太郎で、少女の声が小南桐絵だ。
何か言いかけた迅は口を閉じると、右手を持ち上げ、人差し指を一本立てる。
「じゃあ、こうしよう。そっちの願いを一つ叶えるから、こっちの願いも一つ聞いてくれ」
秀宗がそれに「はい」とも「いいえ」とも返す前に、迅は後ろ手に玄関のドアを開く。
室内の温かい光と、暖かな空気が漏れて広がった。
迅は振り返ると、リビングで暴れているお子様2人に向かって声をかける。
「陽太郎ー、秀宗が遊びにきたぞー」
バタバタという音がピタリとやみ、次の瞬間にはこちらに向かって来るドタドタとした音に変わる。
「あんまり時間ないんですけどね」
困ったように笑う秀宗に、たまにはいいだろと迅が言う。
「このサイドエフェクトは、出会った相手のことがすぐ見えるわけじゃないんだ。おまえが陽太郎と遊んでいるあいだ、ずっと未来が見えるかどうか試してやるから、その分遊んでやってくれ」
結局、秀宗が玉狛支部を出たのはそれから30分が経過してからだった。
予定通り15分で切り上げようとした秀宗に陽太郎がしがみつき、宇佐美と小南と雷神丸がそれを応援する。
まるで童話の『おおきなかぶ』だな、と木崎レイジが感想を漏らしたが、まさにそのとおりであった。
困り果てて陽太郎をあやそうとする秀宗に対して、「あ、今城戸さんに連絡したから。出発時刻は今日の0時30分に変更な」と林藤匠が言い放ったのが決定打。
お子様パワーが尽きるまでの間、15分もの延長戦を戦うことになった。
※
迅は、玉狛支部を出る秀宗に対してサイドエフェクトの結果を伝えたあと、支部内の自室に戻った。
今は部屋の電気をつけず、ベッドに自分の身体を放り投げている。
ミリタリー調のジャケットと厚手のカーゴパンツを身に着けたままなので、寝心地は良くない。
両手を頭の後ろにまわし、目をつぶる。
『次に沢村さんと会う時は、お土産は甘栗がいい』
『水上と将棋してるけど、好きなの?』
『かすかにだが、根付さんのマグカップを割る未来がみえた』
つい数分前に、秀宗に伝えた内容がそれだ。
自分に対してサイドエフェクトを使ってほしい、と言い出した相談者に対して、「俺のサイドエフェクトなんてこんなものだよ」などと言いながら、一見つまらなく思えるような些細なことを回答する。
相談者は酷く微妙な顔をして、ありがとう。なんてお礼を言う。
それが、『未来視』なんていうやっかいなサイドエフェクトが発現して以来、何百何千回と繰り返した、迅の決り文句だった。
未来という言葉は大げさだが、多かれ少なかれ、自分の将来がどうなるか人間ならば気になってしまうものだろう。
普段から人当たりのいい迅がこんなサイドエフェクトを持ったせいで、ぜひ使ってみて欲しいなんていう人間はそれこそ山のように存在した。
いつからだったか。
迅がそういう相談者に対して、真剣に未来を見ることをやめたのは。
未来視のサイドエフェクトを求める相談者は、単に好奇心で聞いている者と、自分の望んだ答えがほしい者の2つにわかれる。
秀宗の事情を考えれば、今回の質問は間違いなく後者だ。
おそらく、欲しかった答えとは、自分が玄界に生きて返ってくる未来があること。そんな内容を含んだ予知をして欲しかったに違いない。
だからこそ迅は、3つ回答した内容その全てを、何でも無い玄界での日常に関することにしたのだった。自分を頼ってきた後輩を安心させるように。
真っ暗な天井をぼんやりと眺めながら思う。
あいつが、イエスしか返ってこない質問をするのは珍しい。
迅は、特別に仲がいい間柄の誰かにこういった質問をされた時、未来が見えたとしても、見えていないとしても、必ず相手の望む答えを含めて言うように決めていた。
本当に望んだ答えが見えていたのなら、質問の答えはイエス。肯定的な内容。
もし望んだ答えが見えなかったとしても、これから戦地に赴く後輩に対して優しい先輩が告げる答えは、これもイエス。肯定的な内容。
冷静であったのならば、そんな迅の性格にも気が付きそうなものだけれど。
「大丈夫、大丈夫」
迅がこのポーズで考え事をする時の決り文句だ。
大丈夫、未来はもう動き出している。
※
鬼怒田本吉開発室長が創り出したシステムの中で、城戸正宗最高司令官が称賛を惜しまなかったものが、出現門の誘導システムである。
これが正式稼働に耐えうるとして運用が決定した時の喜びようは、首脳陣に知らないものはいない。
6歳年上の鬼怒田の手を両手で力強く掴み、流石は鬼怒田さんだ、と褒め讃えた。
いっそ大げさとも思われるくらいの勢いで鬼怒田を褒める城戸に周囲は戸惑ったが、素晴らしいことには間違いない、と思って静観した。
思わず謙遜してしまう鬼怒田と、褒め続ける城戸。
しばらく見ているだけだった林藤匠などが面白がって褒める輪に加わってからは、収集がつかないほどの鬼怒田推しの時間であった。
しかして、褒められて悪い気分になるものなどいない。それが気心知れた仲間、苦労を共にした仲間からの言葉であればそれも当然である。
鬼怒田の開発はそこから怒涛の勢いで成功を収め続け、現在もなお、ボーダー本部になくてはならない存在となり続けている。
当時からその様子を見ているものならば、そう言えばあのころから、鬼怒田に対する城戸のリアクションがオーバーになっているなあ、なんて感想を抱いていたことだろう。
―――そんな鬼怒田は今、両腕を組み、直後にはほどき、バンバンと机を叩いたと思ったら、むふーという鼻息を隠そうともせず怒りをあらわにしていた。
鬼怒田のラボにいるのは、今は2人。
ドラえもんのような体型の中年男性と、鬼怒田の最も信頼する部下である。
部下の名前を冬島慎次といった。
冬島は、鬼怒田直属の部下である。
A級2位冬島隊の隊長であり、元エンジニアの肩書を持ち、トラッパーという特殊な兵科を務める。
現役のボーダー隊員の中では、東と同年代の、少し年かさの男性だった。
「今度はなんです、室長」
「どうもこうもなにも!」
よくぞ聞いてくれた! と椅子からやおら立ち上がると、身振り手振りで話し始める。
「お前には無理だと言われたんだ!」
「へえ、誰にです?」
「城戸司令に!」
「ほおお、それは珍しい。俺の知る限り、城戸司令が室長にそんな言葉をかけるとは想像もつきませんね」
言外に本当ですか?と尋ねる冬島に対して、ぐ、と詰まったあとに鬼怒田は言い直す。
「言った! いや言ってない! だが、あの目は間違いなくそう言っていた!」
たまにめんどくさいな、この人。
「まあ、城戸司令も誤解のされやすい目つきの方ですから」
「わしの今までの功績を疑うわけではないんですが、などと前置きしおって! その時点で既に疑っておるではないか! やってやるわい、わしの実力を疑った目が節穴だったと証明してみせる」
冬島は思う。
ああ、今度は下げてから上げるパターンなんですね。
「それで、何を開発するんです。防衛システムですか、それともトリガー?」
「違う、作るのは檻だ」
城戸の求めたものは、トリオン兵を殺さずに捉えるシステムの構築である。
※
玄界のトリオンに対する技術は遅れている。
同盟国からもたらされた情報などから模倣し、独自で発展させている部分があるとは言え、それは一部の分野に限られている。
時折襲いかかってくるトリオン兵などの研究も、遅れている分野の一つである。
防衛任務にあたったボーダー隊員が倒したトリオン兵の死骸を研究し、トリオンでの活動体に関する仕組みを解明しようとしていても、地球上の生物とは似ても似つかないという結論のみが判明している。
哺乳類のような大きさを持つ個体がいるかと思えば、甲殻類のような硬い殻で囲まれている個体も存在する。
トリオンを放出する機関がある一方、消化機関は見当たらない。
隊員たちが『目』と呼称する弱点は、口の中に仕舞ってしまうこともある。
生殖器も発見出来ていない。しかし、菌類のように自己を肥大化させていく機関も見当たらない。
では、生物ではなく機械ではないかとアプローチしてみても、あまりにも無駄な部分が多すぎる。
機械の、特に軍事利用されるような機械の特徴は機能美だ。
あえて動物の形を真似て作る意味はない。
鬼怒田が城戸に求めたものは、トリオン兵の研究をもう一歩進めるための施設。
トリオン兵にトリオンを供給しながらも、同時に無力化しながら、安全に研究を進めるための器具であった。
「ところで、これってそんなに急ぐことですかね」
「敵の生体を研究するのに速すぎることなんてないわい」
「ま、それはそうですが」
冬島は、A級隊員として何度か近界に足を運んだことがある。そこで、近界のトリオンの兵力、運用を目の当たりにしてきた。
それは他の戦闘員やオペレーターとは違う目線。
冬島こそが、最も現場に近いエンジニアであるのだ。
そして、エンジニアとしての冬島からの目線では――ボーダーはまだ、近界に行くようなレベルではない。
冬島は派閥で言えば、城戸や鬼怒田と同じで、近界民への攻勢を“あり”だと思っている口である。
本部のそば、鬼怒田と共に開発した防衛システムのそばでなら、近界民たちと渡り合える自信はある。
しかし、敵地で戦えと言われれば、まだ厳しい。
限られたリソースを使うのならば、まだまだ遮二無二防衛に注ぐべきではないのか。
冬島には、城戸司令の意図は掴めない。
あるいは、トリオン兵を研究することではなく、生きたトリオン兵を捕まえることこそが狙いであるとか。
なんとか調律して、味方の一員として運用する。
有用な捕虜を活用するのは、近界ではよくやる手だそうだ。
・・・バカバカしい、トリオン兵を一体捕まえたところで何に使うというのか。人間相手ならばともかく、近界民に対する戦力には全くならない。
「おい、冬島。これならどうだ。アメーバー状にしたトリオンで身体を全部包むんだ」
「はいはい、今いきますよ室長」
ところで室長、トリオンをアメーバにするなんて技術いつ開発したんです? 馬鹿、それを今から考えるんじゃないか。
鬼怒田の開発室には、昼も夜もない。