少女の微睡、月香の夜。   作:かなしいな

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少女、診療所にて目覚める。



※第一話、夜の始まりです。


第一章 覚醒
少女の目醒め、悪夢の始まり。


ヤーナム

 

遥か東の人里離れた山間に位置し、"獣の病"という風土病が蔓延している、まさしく"呪われた街"だ。

ただ長年病に冒され続けた訳では無い、このヤーナムには"血の医療"という特殊な医療が存在する。

だがそれも獣の病に効果があるのかは誰も語らず、ましてや余所者に医療について教えるような物好きは、このヤーナムには存在しないだろう。

 

我が物顔で街を闊歩する獣共。

それらを狩るために家を出た男達も今や獣の病に罹患し、ただ目の前に現れる者を襲う獣と変わらなくなってしまっている。

そう、今夜は獣狩りの夜。

飢えた獣を狩り殺し、血塗れの手で朝日を求める、まさしく悪夢のような夜なのだ。

 

そんな寂れた街ヤーナムにある年季の入った診療所の一室、そこに置かれた診察台の上で一つの人影が寝息を立てている。

薄暗く、人の気配もない診療室は落ち着いた睡眠には最適な筈だろうが。

────どうやら、その人影は夢に魘されているらしい。

 

「…きゃあぁぁぁっ!────…ぁ…?」

 

恐ろしい夢でも見ていたかのように飛び起きた人影は、次の瞬間には自分が何を見て何に怯えていたのかも覚えていない様子だ。

不安そうに震えながらゆっくり持ち上げられる小さな両手が、恐怖と混乱を綯い交ぜにした思考によって飛び跳ねる心臓の前で、きゅっと握り締められる。

 

新雪のような白い髪に、輝く夜空を落とし込んだように光を反射し続け、幾つもの色を灯した青い瞳。

まだ幼い顔つきと低い背丈から、歳は一桁と行かずとも十代前半やそこらと言った所だろう。

くりくりと動き視界を慣らす煌びやかな両眼の端には、瞳の色を映した大粒の涙が溜まっており、今にも揺れて零れ落ちそうだ。

 

「あれ…?何して…ここは……、あれぇ…?」

 

涙が零れるのも気にせず、少女は首を振って辺りを見回す。

どうやら今現在自身が置かれた状況を、いまいち理解しきれていないらしい。

そうして周囲の確認だけ済ませた少女は好奇心に負けたのか診察台から降り、椅子や机に近付いては暫く眺めて離れてを繰り返している。

 

次第に少女は親とはぐれた幼子のような不安そうな顔で歩き回り始め、しばらくして部屋の端の椅子に何かを見つけたらしく駆け足で確認に向かった。

何処へ通じているのかも、鍵が開いているのかもわからない扉。

その手前に置かれた椅子の前で、少女は歩みを止める。

何かを拾い上げるような仕草を見せた少女の手にあったのは、一枚のメモだった。

 

《"青ざめた血"を求めよ。狩りを全うするために》

 

「…これ、僕の字…?」

 

自分の発言に違和感を覚えたのか、少女はメモからは視線を外さずに首を傾げた。

 

「僕って、誰だろう…?」

 

少女は自身の記憶を失っているようだった。

自分が残したであろうメモの内容すら理解出来ず、傾げた首を元に戻すと────

 

「…ぐずっ」

 

ついには泣き出してしまった。

零れ落ちた涙粒が残して行った軌跡をなぞって、先程よりも粒が大きく、そして何より量の多い涙が流れ落ちて行く。

だがそれも仕方の無い事だ。

記憶を失った事で自身の事も居場所がどこかもわからず、今この場に頼れる人間はいないのだから。

自分の置かれた状況を悟って一頻り泣いた後、少女は覚悟を決めたのか────或いは諦めたのか、涙を拭いながら部屋の扉を開けた。

 

扉を開けた先にある階段を降りて行くと、少女の耳には水音や何かを削るような音が聞こえて来る。

降りた先にある部屋の扉も開いており、どうやらこの部屋の更に奥から音は聞こえて来るようだ。

"この建物の住人だろうか"

そんな期待を胸に抱えて歩調を早めた少女が目にしたのは、恐ろしく悍ましい光景だった。

 

先にあった部屋の奥、恐らく出入口であろう場所のすぐ側で、巨大な獣が人を────否、人であったものを喰っていた。

長く伸びた鋭い爪で屍体を抑え、鋭く尖った長い牙で屍肉を喰いちぎっている。

先程の水音は血が滴る音で、削る音は恐らく骨を噛む音か、体を抑えた足の爪が床を削る音だったのだろう。

 

「ひっ…」

 

少女は腰を抜かしてその場に尻餅をついてしまった。

強かに腰を打ち付けてしまったようだが、少女は腰の痛みよりも目の前の光景の方が余程堪えたらしい。

恐怖に慄く事は何も悪い事では無い、だがこの状況で細脚から力を抜くのは、あまりに悪手が過ぎた。

 

視界に広がる凄惨な光景を作り出した獣は、尻餅の音に反応して振り返る。

牙を濡らす黒い液体は、光源の少なさ故に色を届けていないだけで、赤く発色している。

吐き出す息はただ呼吸の為であり、獣である以上そこに思考は無い。

だと言うのに、少女の目にはその吐息が満足気なものに見えてしまっている。

自身に関する記憶を失ってしまった少女が唯一理解出来た"非常識"が、その血塗れの爪と牙を少女の方へと向けていた。

 

獣はついさっきまで貪っていた"誰か"から離れ、恐怖に心中を支配されてしまった少女に向かってその足を向け始める。

もう一つ吐かれた息は、今の少女には幸福を甘んじて受け入れているように見えるのだろう。

そしてそれは少女以外にも理解出来るイメージでもある。

目の前にいる獣は間違い無く、その狙いを死体から少女へと変えたのだから。

 

「や、やだ…やめて!来ないで!」

「ガァ…グルルル…」

 

少女が拒絶を示しても獣は唸り声を上げるだけだ。

上手く言う事を聞かない手足を何とか動かし後退る少女は、直後背中を壁の本棚にぶつけて止まってしまった。

隅で震える事しか出来なくなった少女に、獣は口から暗闇で唾液か血液かもわからない何かを垂らしながら迫る。

 

そして獣が少女の前で立ち止まり、いよいよその大口を開けて少女に喰らいつこうとしたその瞬間。

少女は背にした本棚から大判の本を取り出して獣の口に叩き付けて見せた。

火事場の馬鹿力というやつだろうか、少女は極限状態に置かれた結果突破口として反撃からの逃亡という策を用意していた。

だが、それも獣には通じなかった。

 

「ガァァアアァッ!!」

「ぎゃっ!?」

 

突然の反撃に怒り狂ったのか、獣はその鋭利な爪を縦横無尽に振り回し。

その爪はついに、今にも外へ向かって駆け出さんとしていた少女の背中と脚に深い傷を与えた。

痛みに喘ぎながらも歩みを止めまいと足を前に出した所で、少女は自重を支える事すら許されない程の傷によって前のめりに倒れ込んだ。

 

少女の左脹脛は横にぱっくりと裂けてしまっており、血が噴き出している。

この脚で逃げ切る事は不可能だ。

その上背中の傷は間違いなく致命傷だ、肺にまで達しているであろうその傷で、即死していないのが奇跡…と言った所だろう。

それでも少女は生きるために手を伸ばす。

そしてそれを獣が見逃す筈もなく────

 

「(嫌だ…まだなにもわからないのに…死にたくない……)」

 

少女は頭を獣の前足で抑えつけられ、もう片足が右腕へ置かれる感触で自らの死を覚る。

抵抗しなければ先程味わう筈だった、獣に自らの肉を喰いちぎられる痛み。

もはや何の抵抗も出来ず、声すら上げられず。

ただ肩に歯がめり込んで行く痛みを感じながら、少女はゆっくりと瞼を閉じ、自覚したばかりの生を手放した。

 

獣は上質な肉を味わうためなのか、それともただ"喰らう"という本能がそうさせるのか。

ゆっくりと、ゆっくりと、骨の一欠片も残さずに少女の体を喰らっている。

柔肌につぷりと牙が沈む度に、幼少から若年特有の高めの体温を保っている血液が溢れ出る。

鍛え上げられて筋肉質な訳でも無く、歳を取って筋が多い訳でも無い。

絶好の餌を前に、獣は唸り声を上げながら食事を続ける。

 

肩を喰らい、腕を喰らい、胸を喰らい。

そうして既に右の肋辺りは全て獣の胃に収まってしまった。

少女の腹から零れ落ちた臓物すらも、獣の口に運ばれる。

肉を噛みちぎる音、骨を噛み砕く音。

そして血を啜る音が診療所の一室から響く。

それは一人の少女の人生の終わりを意味する音────と言うだけでなく、少女の悪夢の始まりに対する祝音なのかもしれない。

 

 

 

狩人の夢

 

獣狩りの夜を過ごす狩人の特徴、或いは特殊能力として、"死を迎える事がない"というものがある。

────"死を迎えても無かった事に出来る"、と言う方が正しいだろうか。

狩人達が獣に敗れ、その命が散っても"狩人の夢"に転送され、また夢から狩りに戻る事が出来るのだ。

 

そして今、新たな狩人が夢に転送された。

先程の少女だ、夢の家へ続く道の半ばで倒れ伏している。

やがて自身にまだ感覚がある事に気付いたのかパチパチと瞬きを繰り返し、ようやく起き上がったと思えば全身をくまなく調べ始めた。

 

背中の傷は、脚の傷は、噛みちぎられた体や臓腑は。

だがここは狩人の夢、少女がどれだけ自分の体をまさぐっても先程の傷は一つたりとも見つからなかった。

 

「生きてる…生き、てる…」

 

少女は自身の肩を抱え、先程の恐怖を噛み殺すように静かに涙を流し始めた。

記憶を失ってまず体験したのは、"生きたまま喰われる"というあまりにも惨い死だった。

魘されている最中に流れ出たもの、記憶を失くした事に気付き、暗い部屋に一人ぼっちで立ち尽くしていた時に流れ出たもの。

そして今に喰い殺される恐怖、喰い殺された恐怖によって流しているもの。

この夜で流した三度の涙、内二度は凡その人間が体験し得ないものだった。

 

底なしの涙袋の栓がようやく締まりきり、立ち上がった少女がまず気付いたのは"この場の異常性"だ。

建物は目の前の家しか見えず、その周囲にあるのは家の横にある大木と花畑、あとは家まで続く道沿いにある墓標くらいのものだ。

"起きた時のようにここに来るまでの記憶を失ったのか"

"死んだ事でここに転移したのか"

"実は最初からここで寝ており、さっきまでの事はただの夢だったのか"

 

そんな事を頭の中でグルグルと考えていると、人影のようなものが少女の目に写る。

自身の周囲にある唯一の建物、その手前の花壇に腰掛けている人影だ。

死体でも獣でもない、人の形をした生き物を見付けたかもしれないのだ。

少女は顔に喜色を浮かべつつも、つい先程体験したような恐怖を二度と味わわないためにも警戒しつつ駆け寄った。

 

近寄ってみれば直ぐにわかる。

その人影は女性の形をしている、肌は青白いが美麗な顔立ちだ。

両眼を閉じ、両手を膝の上に重ねて置き、死人のように動かない。

ぴくりとも動かないその女性は、ただそこに居るだけで絵画を三次元の世界に引っ張り出したかのような美しさを醸し出していた。

 

「こ、こんにちは〜…?」

 

女性は答えない。

身動ぎ一つせず、少女の呼び掛けに答える様子はない。

 

「ね、寝てる…?あの、聞きたい事が────…起こすのも悪いかなぁ…?」

 

女性は答えない。

記憶を失くしたが故か、それとも生来のものか。

少女はなかなか強硬手段に出れず、その場でうんうんと唸るばかりだ。

 

死んでしまっているのか、いや眠っているに違いない、揺すって起きて貰おうか、眠っている人に触れるのは失礼じゃないか。

そうして迷って迷って少女がようやく決断したのは、それから数十秒が経ってからだった。

 

「でも聞かなきゃだし…あ、あのっ────」

 

不安と焦燥に身を任せ、少女はその女性の袖を少し摘む。

その際指先が腕に触れ、ようやく少女は気が付いたのだ。

 

「────…人形?」

 

女性の正体は精巧に造られた美しい人形だった。

生気のないと思っていた青白い肌はただ生きてすらいなかっただけで、死んだように眠っているのではなく元から命など持ち合わせていないだけだ。

少女は初めから答える筈のない人形をずっと人と勘違いして話し掛けていた上に、答えない事を不安がって揺り起こそうとしていたという事になる。

辺りを見渡した限りでは建物の外に人はいないようだが、少女の顔は耳まで色濃く紅潮していた。

 

「よ、よし…取り敢えずお家に…ひぃっ!?」

 

気を取り直して家に向かおうとした少女の足下に、幾人もの白い小人が生えている。

少女に何かを渡そうとしているらしい、少女が小人達の方を覗き込んでみれば、小人達が持っているのは武器の類だった。

 

「えっと…選んで、ってことですか?」

 

小人達は頷きながら武器を差し出してくる。

一度は手を前に出し、"必要無い"と拒否の姿勢を見せた少女だが、あからさまに残念そうな表情で頭を垂れる小人に罪悪感が湧いてしまったらしい。

恐らくは好意からのものであろうそれを何度も拒否するのも忍びないようで、少女は差し出された"ノコギリ鉈"、"獣狩りの斧"、"仕込み杖"の3つの中でもっとも安全そうな仕込み杖を選んで受け取った。

しかしそれで終わりという訳では無いらしく、今度は2つの銃を差し出される。

 

「こっちも?」

 

差し出された銃は"獣狩りの短銃"と"獣狩りの散弾銃"の2つだ。

少女からすれば武器も銃も受け取る意味がわからないのだが、どうやら小人はそれを必要な物として差し出しているらしい。

虫食いの記憶の中にも、辛うじて人の持つ常識のようなものが存在している。

それに付随する知識の中にあったのは、"銃は人を簡単に殺せるから危険"というものだ。

数少ない記憶で危険物として覚えがあるものを受け取る事に少々躊躇いながらも、やがて観念したかのように片方の銃に指を差す。

 

「じゃあ…こっちを」

 

少女が選んだのは獣狩りの短銃だ、武器も銃も使う予定は無いのだから持ち運びがしやすい物を選ぶだろう。

ろくに収納出来るスペースが無い服を着ているが故に、少女は杖を腰と腰に巻かれたベルトの間に挿し、銃は引き金に指が掛からないように片手に持つ

それらを受け取った少女は家の持ち主に話を聞こうと歩を進めるのだが、家の扉は固く閉じられており────

 

「す、すみません、どなたかいませんか…?」

 

この通り、少女が呼び掛けても返事はない。

諦めて少女が踵を返そうとすると、先程の小人達が今度は少女に手記を差し出す。

武器と銃よりよっぽどまともなそれを少女は快く受け取り、パラパラと捲って読んでみるが、ほとんどが白紙で何か書いてあったとしても少女には到底意味のわからない内容ばかりだ。

手記をしまって石段を降りて行くと、誰かの墓標の前で小人達が少女に向かって手招きをしている。

 

「はいはい、今度はどうしまし────えっ?ちょ、ちょっと待っ」

 

手招きに答えて少女が墓標に近付くと、突如光に呑み込まれてしまう。

制止の言葉を言い終わる前に光は消え、その場にいた少女も光と共に忽然と消えてしまっていた。

 

 

 

「てくださ────……って、ここは…」

 

少女が夢から再び転送されたのは、あの診療所だった。

目を覚ました時の診察台があった部屋ではなく、獣がいた部屋の手前にある踊り場だ。

最初に通った時とは違い、床には青白い光の灯ったランタンが置かれている。

不思議に思った少女が診察台のあった部屋の方、階段の上を見てみると、少女が開け放ったはずの扉が閉じられていた。

 

ひょっとしたら人がいるのかもしれない、ようやく人に会えるのかもしれない。

数分と経たずに二度も裏切られた期待をもう一度、三度目の正直を信じて少女は階段を上がって行く。

 

「あ、あの…どなたかいらっしゃいますか…?」

「…あなた、どなた?獣狩りの方、かしら?だとしたらごめんなさい、この扉を開ける事は出来ないわ」

「えっ?あ、いえ…えっと…」

 

三度目の正直を信じてとは言ったが、ここまで裏切られてまさか返事があるとは思わなかったのか、少女は言葉に詰まってしまった。

さっきまでここは開いていなかったか、獣狩りとはどういう事なのか。

聞くべき事も聞きたい事もあったはずだが、完全にタイミングを逃していた。

 

「私はヨセフカ。この診療所を預かる身として、大事な患者さん達を感染の危険に晒す事は出来ないわ。」

「それは良い────いや良くは無いですけど、さっきそこにいた大きな化け物に襲われて…えっと、その…」

「そうだったのね、もう獣は狩った後なのかしら?労いの一つも出来なくてごめんなさい、今の私に出来るのはこのくらい」

 

そう言ってヨセフカと名乗った声からして女性であろう人物は、僅かに割れたドアガラスの隙間から小さな瓶を少女に手渡した。

瓶の中には油のような色のサラサラとした液体が入っている。

 

「私が自製した輸血液よ、一般に手にはいるものよりもずっと高い効果を保証するわ。」

「ゆ、輸血液!?自製って、高い効果って…?」

 

記憶を失くしたと言っても、このように一般的な常識が全て欠けた訳ではない。

突然輸血液を渡されれば誰だって困惑してしまうだろう。

"それ"を使うのが当たり前と信じている人間以外は。

 

「あら?狩人だと思ったのだけれど…いえ、間違いないわ、それはきっとあなたの助けになるはず」

「はぁ…」

「では、これで…狩りの成就を祈っています」

「ありがとう、ございます…?」

 

結局少女はヨセフカに何も聞けず終いだった。

ヨセフカはどうやら診療所の奥へ引っ込んでしまったようで、話を聞くには時間を改めるか、大声で呼び掛けるくらいしかないだろう。

少なくとも未だ獣が居るかもわからないこの場で、後者を選択する勇気を少女は持ち合わせていない。

だが何もしなければただ時間が過ぎて行くだけだ。

少女は意を決して、獣に襲われた部屋を覗きに行く事にした。

 

「獣狩り…狩人…小人さんの武器…これ、ひょっとして…」

 

少女が部屋に向かいながら考え耽っているのは、ヨセフカの"獣狩り"や"狩人"という発言と、小人達が自分に武器を渡した理由についてだ。

考えが纏まり、一つの仮説が少女の脳内で出来上がったのは、先程の部屋に獣がまだ居る事を目視で確認した瞬間だった。

 

「ひょっとして…あの化け物を狩るのは、僕…?」

 

"夢"に立ち入り、武器を受け取った時点で────あるいはもっと前の段階で、少女は既に狩人だったのだ。

とはいえ、急に"自身を襲い喰い殺した化け物をその杖と短銃で殺せ"と言われて実践出来る者…それも年端もいかない子供が居るだろうか。

少女の両手にはじっとりと汗が滲み、杖と銃を持つ手にも力が入る。

その脳内では、ヨセフカの言葉が反芻されていた。

 

『この診療所を預かる身として、大事な患者さん達を感染の危険に晒す事は出来ないわ。』

 

感染、という言葉の真意は少女にはわからない。

だがあの獣は危険で、それを放って置けばヨセフカにも危害が及ぶかも知れず。

そして何よりあの場に鎮座されては少女も前へは進めない。

ベルトに挿した仕込み杖を抜き、短銃の引き金に指を掛ける。

覚悟が決まったという様子ではない────が、少なくとも戦う理由は最低限出揃ったらしい。

 

「ふーっ…ふーっ……よし」

 

最短距離で獣のもとまで駆け抜け、短銃で牽制し仕込み杖で殴り殺す。

ろくに戦いなど知らない上に、記憶まで失っている少女がまともな作戦など立てられるはずもない。

だが普通の獣ならこれでも充分対処出来るだろう。

尤もそれは短銃が当たり、仕込み杖での殴打が効き────そして何より、相手が"普通の獣"であればの話だが。

 

「……今っ」

 

獣が脚を上げた瞬間、少女は駆け出した。

一度体験したあの"爪"の怖さは痛い程理解っている、ならば喰らわぬように戦うまで。

爪が届かない範囲、尚且つ自分が短銃を当てられると確信出来る範囲ギリギリにまで距離を詰め、少女は引き金に指を掛ける。

 

「ガァァァッッ!」

 

少女が引き金を引くよりも疾く、獣は少女の存在に気付き前足を振り上げた。

それは少女も織り込み済みだ、余裕を持って制動し、爪を躱す────筈だったのだが、何事も初体験を完璧な成功で終える事は出来ない。

思ったよりも自身の肉体を制御するのに苦戦したようで、獣の爪は少女の胸の前を正しく紙一重で通り抜けて行った。

 

"あの爪を受けてしまったら"

 

「あ、う…」

 

そんな怖気が功を奏したのか、引き金に掛けていた指に勝手に力が入ったらしく、短銃が発砲される。

音だけなら爆裂とも取れる破裂音と同時に、馬鹿げた強さの反動で少女の左腕が肩ごと、ひいては半身ごと持あがる。

 

幾ら短銃と言えど、これもまた獣狩りの武器なのだ。

獣の皮膚や肉を撃ち抜けるだけの威力を出せる銃であり、となれば当然反動もそれに見合ったものとなる。

少女の体格でそれを抑えるのは至難の業。

或いは血の医療が無ければ、不可能と言えるものだ。

 

流石に紙一重で爪を躱す程の至近距離で外す事はない、短銃から飛び出した"水銀弾"は見事に獣の腹に命中した。

視線を戻した所で目に映ってしまった獣から噴き出した血に硬直してしまう少女だが、言ってしまえばこの獣は"自身の仇"なのだ。

 

「…っ!さっきは、よくもっ!」

「グ、ガァッ!」

 

それを理解した瞬間硬直は解け、少女は獣に向かって飛び出した時の気勢に身を任せて杖を振り抜く。

獣の脳天を狙って二度殴り、三度目を叩き付けた時、獣は息絶えたのかその場に倒れ込んだ。

 

「…はっ、はぁっ、はぁっ……」

 

"仕返し"に成功した達成感、一度殺されたとはいえ生き物の命を奪ってしまった事への罪悪感。

そして、獣が息絶えた時に体に流れ込んで来た"何か"による高揚感。

その全てに同時に襲われ、少女はその場にへたり込んだ。

 

「やった…やっ、たぁ……」

 

精神的疲労は凄まじいようだが、それに反して肉体への負荷はほとんど掛かっていないらしい。

獣が息絶えてから数分、座り込んで気を落ち着かせていた少女は立ち上がり、診療所の扉を開けた。

 

診療所の玄関から見るだけでもわかる事と言えば、建築様式に見合わぬ縦に長い住居と街の造り、そして塀の外にちらと見える動く影だろうか。

 

「わぁ…」

 

記憶を失ってから初めて見る外の景色に、少女は感嘆のため息を溢している。

だがその場で何時までも感傷に浸っている訳にもいかない。

少女は気を取り直して、門扉の方へと歩いて行く。

 

「よ、い…しょ!」

 

門扉を押し開くと、少女のすぐ目の前には松明と斧を持った男が佇んでいる。

まだ少女には気付いていないらしく、奥へと歩いて行こうとしているようだ。

 

「あの!あなたも狩人さんで────ぇぐっ」

 

少女が男に声を掛けると、男は振り向きざまに少女の腹を斧で横薙ぎに斬り裂いた。

唐突な攻撃、それも人を見付けて安心しきった状態で受けた痛みに反応する暇もなく、少女は倒れ込む。

深く裂かれた腹からは臓物が零れ出し、少女の生命力の尽くが削がれて行く。

 

「……な、なん…で…」

 

安堵から一転、困惑と恐怖に塗り固められてしまった少女の顔は、何の感慨もなく斧を振るった男に向いている。

少女の問い掛けに男は答えず、段々と青白くなっていく少女の顔に向けて斧を振り下ろす。

 

「この匂い…よそ者か、道理で汚らしい訳だ…」

 

少女の耳に最後に届いたのは、恐らくは目の前の男が発したであろう、よそ者への罵倒だった。

 

 

 

「…っ!う、おぇ…」

 

少女が次に目を覚ましたのは、やはり狩人の夢の中だった。

脳裏には未だに"人に殺された"という衝撃がこびりついているらしく、嘔吐きながらその場に座り込んで、青ざめた顔を隠すように頭を抱えて震えている。

 

「………ぐじゅっ…もう、やだ……」

 

心が折れてしまったのか、ボロボロと泣き始めた少女はなかなか立ち上がりそうにない。

そんな様子を見かねたのか、少女に武器を渡した小人達が地面から現れ、少女が穿いているズボンの裾を引いている。

 

「……あなた達は…って、あれ…?」

 

それにつられて顔を上げた少女は、違和感を覚える。

家に対してだ、何かが変わっている。

集中して観察しなくとも、先程との変化は簡単に見付かった。

 

「開いてる…」

 

そう、家の扉が開いているのだ。

あれほど固く閉じられていた扉が開いている。

それに気付いた少女はおもむろに立ち上がり、家の方へと歩き始めた。

 

武器を渡してくれた小人達の仲間がいるのかもしれない、もし仲間なら助けてくれるかもしれない。

ようやく生きる希望を見い出せるかもしれないのだ、最初に来た時よりも遥かに早く、それでいて遥かに重い足取りで、少女は家への道を進んで行く。

 

家の前まで辿り着き、開いた扉の合間から恐る恐る覗き込んでみれば、家の中にいるのは車椅子の老人だけだ。

少女は意を決して、この家の持ち主であろう老人に近付いて行く。

 

「こ、こんにちは…」

「やぁ、君が新しい狩人かね?」

「えっ、あっ…多分、そうです。」

「ようこそ、狩人の夢へ。ただ一時とて、ここが君の家になる」

 

ここは獣狩りの夜を過ごす狩人達の拠点であり、様々な狩りの道具を用意する為の工房だ。

かつては多くの狩人がここに住まい、そして狩りへと赴いていた。

だが、今や狩人達が利用していた工房道具の多くが失われている。

 

「私は…ゲールマン。君達狩人の、助言者だ」

 

ゲールマンと名乗った老人は少女を狩人と呼んだ。

当然だ、この狩人の夢に入る事が出来るのは夢の持ち主と狩人だけ。

後は────人知を超えた"何か"くらいのものだろう。

 

「あ、えっと、僕は…僕は……」

「君の事はいい。今は何もわからないだろうが、何も難しく考える事は無い。私は君に助言し、君は狩人として獣を狩る。それだけなのだから」

 

自身の名前すら忘れてしまった少女が返答に迷っていると、ゲールマンがそれを制した。

反応を見るに少女が記憶喪失だという事は既に理解しているらしい。

 

「狩るって……僕がですか?」

「そうとも、それが結局は君の目的にかなう…狩人とは、そういうものだよ。直に慣れる…」

「え、えっと…獣ならさっき…」

「あぁ、わかるとも、君に宿る血の遺志の残滓を見ればね」

 

血の遺志、少女が獣を狩った際に少女の体に流れ込んだ"何か"の名称だ。

それはこの夢では通貨代わりにもなる。

尤も、狩人からすればもっと大事な使い道が存在するのだが。

 

「その調子で存分に狩ると良い。」

「もっとやらなきゃダメなんですか…?」

「もちろんだとも、それが狩人の本質であり責務でもある」

 

ゲールマンは少女の目的の鍵は獣を狩る事にあると言うが、少女からすれば記憶を失くしてすぐの自分を喰い殺した化け物、それと同様のものを狩るように言われているのだ、土台無理な話だろう。

勿論そうはならないように調整はしているが、それでも忌避感はある筈だ。

 

「でも獣を狩るなんてどうすれば…僕、そんなの知らな────いや、忘れる前は知ってたのかもしれませんけど、今はわからなくて!」

「構わんさ、頭に狩りの知識が無くとも、体は既に狩人のものだ。」

 

車椅子を動かし周囲を見渡すゲールマンに追従するように、少女も家の内部を見渡す。

瓶に詰められた液体や様々な言語の書物、複雑な機械の類も見受けられる。

そして一番目を引くのが、壁に掛けられた武器だろう。

細かな部品だけでなく、刃や柄も鎖によって吊るされている。

 

「この場所は、元々狩人達の隠れ家だった。」

「狩人達の?」

「血によって狩人の武器と、肉体を変質させる。狩人の業の工房だよ」

「業の工房…血によってというのは?」

「それを語るのはまだ早いだろう。だが、血の医療を君は受け入れたのだろう?もっとも、既に記憶は無いようだが」

 

診療所にいた理由、狩人のみが立ち入れる隠れ家に入れた理由。

そして二度の死を迎えた筈の少女が今こうして生きている理由こそが、血の医療だった。

 

「あの、ついさっき人に殺されたんですけど、あの人は…狩人じゃないんですか?」

「あれは狩人では無い、あれもまた、獣の病に罹患した者だ。」

「獣の…病?」

「ヤーナムに蔓延している風土病だ。感染すればだんだんと正気や人だった頃の記憶を失い、果てには獣へと成り下がる」

 

ここで少女はようやくヨセフカの言葉の真意を知る。

感染の危険とは獣の病に感染してしまう危険の事で、少女を診療所に入れられないのは既に獣と出会っているであろう狩人だったからだ。

そして獣の病の存在とその症状を知った少女の頭に浮かぶのは、一つの答えに近い疑問だ。

 

「…それって、つまり…僕は、人を殺したってことですか…?」

「そうでは無い、君は獣を狩ったのだろう?既に獣へ堕ちた者の命を奪うのは狩りであり、そして弔いでもあるのだから。」

「そう…ですか…」

「迷わぬ事だ、君を殺めた罹患者ももう人に戻る事など出来ないだろう。ならば早々に終わらせてやるのが、せめてもの救いになる。」

 

"弔い"、"救い"

浅い思考の海を一瞬過ぎった"殺人"という禁忌を、今耳を通ったばかりのその言葉が抑え込む。

ある種の自己防衛とは言え、命を奪った事に変わりは無い。

少女は助言者に感謝すると共に、正当性を説かれただけで不安が和らいでしまう自身の心に、少しばかり気が滅入ってしまったらしい。

 

少女が狩人として生き延びるには、この先人を人と思わない事と、それらを迷わず狩る事が必要になる。

だがそれら全てを今すぐに要求するのは酷だろう。

少女は自身に関する記憶を失っている時点で、物心ついたばかりの赤子とそう大差はないのだから。

 

「ここに残っている物は、全て自由に使うとよい…君さえ良ければ、あの人形もね…」

「人形って、外のですか?」

「あぁ、狩りに励みたまえよ。」

 

新たな狩人としてゲールマンに送り出された少女は、一先ずゲールマンを信用し先に進む事にしたようだ。

"獣の病に罹患した者を狩るのは、弔いでもある。"

それは少女からすればこの上ない免罪符だった。

だからこその安心と、そして自身の心に対する軽蔑。

 

自分の身を守るためという理由は何よりも重要視されるべきだろうが、それで人の命を奪う事になるのなら、少女はいつまでも迷ってしまう筈だ。

"命を奪う"、つまり狩る事が弔いになる。

人殺しは避けたいが、不殺を貫くなどこの夜では不可能と言って良い。

少女はヤーナムに於ける死生観こそ理解し難いものの、自身が歩む道筋に於ける狩りの重要性は理解した。

 

少女が家の外に出ると、やはり小人が墓標の前で少女を手招いている。

小人は少女を地獄に突き落とした訳ではなく、少女の進むべき道を示していただけに過ぎなかった。

手招きに従って石段を降りる途中、少女の視界の端に人形の姿が映る。

自由に使えとゲールマンは言っていたが、その言葉の真意に少女にはいまいち理解が及ばないようだ。

結局何をするでも無く少女は歩みを再開し、小人の前で腰を下ろす。

 

「……道案内ありがとうございます。でも、今度はいきなり連れて行ったりしないでくださいね」

 

少女が小人にそう告げると、小人は了承したのか首を縦に振った。

その様子を見て少女も満足したのか、墓標に片手を添える。

先程と同様の白い光に包まれ、少女は狩人の夢を後にした。




少女狩人
名前:不明 性別:女性 年頃:若年(詳細不明)
過去:過酷な運命

どこからか悪夢の街ヤーナムに迷い込んでしまった少女。
雪のような白髪に明るい夜空を思わせる青い瞳を持っており、その体は細く、小さく、とても武器を振るえるようには見えない。

記憶を失い寄る辺を失くした少女は、何を目指して獣を狩るのだろうか。
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