少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第十話、お召し換えです。
「はっ、はっ……ぐべっ」
二度目の挑戦は呆気なく終わった。
それこそ一度目よりも短く、容易い終わりだった。
血に渇いた獣、灰血病の患者が獣の病に罹患した事で生まれたとされる獣だ。
その体に残った血は毒性を持ち、その毒牙に掛かれば遅効毒が蓄積していく。
"一撃も喰らう事が出来ない"
元よりその肉体に耐久力などというものを持ち合わせていない狩人は、これまでも攻撃を受ける事無く倒すというのは少なくなかった。
だがそれはあくまでただの罹患者を相手にした場合だ。
状況次第では罹患者からも攻撃を受ける事はあり、相手が強敵なら尚更だろう。
故に掠り傷すら許されないこの戦いは、狩人の精神を他よりもずっと早く蝕んで行く。
当然狩人自身もそれに気付いてはいる。
だからこそ焦り、結果として体力を消耗してしまっていた。
「……っ、う…勝たなきゃ…なのに…」
"何故勝たなければいけないのだろうか"
"力のためだ"
"聖杯を求め、その内で更なる力に繋がるものを得るためだ"
"なら何故己は力を求めるのか"
そうして狩人の思考は深みに落ちて行く。
"自分が狩りを続けなければいけない理由は何か"と。
「フーッ…フーッ…」
「なんで、そんなに…コップ一つくらい良いじゃないですか…!」
唸りながら近付く獣に向かって、狩人は八つ当たりのようにそう投げ掛ける。
狩人の体は既に戦えるものでは無い。
毒に侵された事で鈍った動きに合わせて、重い一撃を貰ってしまった。
間違いなく致命傷と言えるだろう。
「はっ……はぁっ…────」
そして血に渇いた獣のトドメが辿り着くよりも早く、自身の疑問の答えを見付けるよりも早く。
狩人は二度目の敗北を喫した。
三度目の挑戦。
強敵相手での敗北は既に狩人にとって珍しい事では無いからか、その道中も特に感慨無く走り抜けた。
段差をよじ登り、梯子を飛び降り、階段を駆け降りて木板を蹴り破る。
そして走り抜けた先に居る血に渇いた獣に────
「────…っづぅ…!」
まずは一撃を貰う。
急に腕が鈍った訳では無い。
ただ狩人の精神に限界があり、そこに差し迫った事で肉体の制御が効いていないのだ。
獣に殺され、侮蔑に晒され、頼りにしていた男は緩やかな死を選び。
そしてあの下水道でリボンを見付けた時点でトドメは刺されていた。
今まで動く事が出来たのは偏に赤ローブの男からの頼みと、ひょっとしたらもうすぐ自分が何者なのかわかるかもしれないという希望があったからだろう。
だが聖堂街に着いても狩人の記憶を取り戻す術どころか、自身に関わりのあるようなものは見付からない。
唯一の手掛かりである大聖堂への道もわからず、今はこうして聖杯なんてものを求めて獣と殺し合っている。
今行っている狩りも、所詮は惰性でしか無い。
狩人は自身の目的を測りかねていた。
「動、い…て…」
「ギィィァァッ!」
「っが、ぁ…」
火花を散らしながら地面を這う爪がやがて狩人に迫る。
だがそれを躱すような余裕は既に無く、強靭な爪は柔い肉の中を抵抗無く通り抜けて行った。
斬り裂かれた腹からは完全に内臓が露出しており、おまけに毒に罹っているとなれば輸血液の注入は苦しみを長引かせるだけ。
焼け石に水というものだ。
そして狩人は、三度目の挑戦を自ら諦めた。
「……僕、何してるんだろう」
狩人は立ち上がらない。
立ち上がる理由を見失ってしまっていた。
記憶の無い狩人は、帰る場所も意味も無いのだ。
取り戻した所で既に居場所など無いかもしれない、もしかすればこのヤーナムが居場所となってしまったのかもしれない。
このヤーナムから抜け出した所で、どこへ迎えば良いのかもわからない。
助言者ゲールマンは狩りこそが狩人の目的に適うと言っていたが、そもそも自身の目的すらわからない。
無いもの尽くしで気力すら無くした狩人は胡座をかいていた足を解き、その場にぐたりと倒れてしまった。
倒れたと言うよりは寝たと言った方が正しいだろうか。
少女をやめた狩人は、狩人すらやめてしまうのだろうか。
「何やっても、上手く行かないのに…なんで狩りなんて…」
不意に、狩人の左手に何かに撫でられるような感覚が走る。
柔らかな何かに手の甲をなぞられるこそばゆい感覚に耐えきれなかったのか、体を起こし左手を見れば、そこにあったのはリボンの端だった。
左腕に巻いていたリボンの端、それが寝転んだ事により左手に掛かったのだろう。
「…君も、僕が殺したのに…」
狩人は膝に手を乗せ、それを支えに立ち上がる。
狩人が持つ中で最も人間らしい物と言える短銃。
それを扱う左腕にリボンを巻いたのは、人間である事を忘れないためだ。
「────…殺したのも、巻いたのも…僕」
零れ落ちそうになる涙を拭って、狩人は再び歩き始めた。
「散々殺しておいて…勝手に諦めるなんて、駄目だ」
背負った十字架は少女には重すぎる、だから少女をやめたのだ。
狩人になってまで背負って行こうと決めたのに、途中でその荷を降ろす事など、臆病な彼女に出来る訳が無かった。
再びの血に渇いた獣戦、コンディションは最悪と言えるその状況で、だが狩人のパフォーマンスは向上していた。
躱し、躱し、躱し、斬る。
この夜が始まり、そして狩りを始めてからずっと行って来た基本形。
縦に横にと振り回される爪を躱し、僅かな後隙に攻撃を捩じ込む。
それだけが狩人の生きる道で、この先も続けなければいけない苦行だ。
「ギィィィァァッ!!」
「っ…まだ、まだぁっ!」
獣からの一撃、毒が完全に回るまでは狩人の体感でもう二回は余裕がある。
だがそれはあくまで攻撃での蓄積の話だ。
狩人の体内を巡る血に乗った毒は、時間を掛けながら全身に回るだろう。
それまでに勝負をつけなければならない。
「……今っ!」
「ギュァァッ!」
狩人の短銃から放たれた水銀弾は直線に飛び、攻撃の体勢を取っていた獣の首付近を撃ち抜いた。
短銃はこの獣にも効果がある、それだけわかれば重畳だろう。
体勢を崩した獣に向かって、狩人は変形させたノコギリ槍を突き込む。
得意の技は手に馴染むのか、間違いなく力が入っていた。
「さっさと……死んでっ!」
「ガァ、ア、アァァッ!!」
ノコギリ槍によって内臓を抉られた獣は大きく後退し、大きく吼える。
威嚇というよりも怒りの表れのような劈く叫び声に耳を抑えながらも、狩人は決して気を緩めずにノコギリ槍を構え直す。
今までの動きは様子見だったのか、それとも激昂によって箍が外れたのか。
咄嗟に屈んだ狩人の頭上を通り越した獣は、強靭な脚力に物を言わせて素早く、そして荒々しくも縦横無尽に動き始める。
「いっ、づぅ…」
「ギャァッ!ギィィッ!」
一、二と狩人の体に刻まれる赤い線は増えていくが、狩人はその動きを捉えられずにいた。
これほどに素早い動きで翻弄して来る敵は初の経験で、且つようやく慣れ始めた動きが加速し出したとなれば対応は困難を極める。
「はっ…は……ふーっ……」
遅効毒が回り始めたからか息も浅く細くなっている狩人は、ここに来て獣の動きに対応し始めた。
狩人が対応しているというより、体が勝手に獣のいる方を向いていると言った方が正しいだろう。
自分の身に起きた謎の現象に、だが狩人は身を委ねている。
そして、ついに狩人は見付けた。
「光…?」
「ギュィィッ、ガァァァッ!」
血に渇いた獣、その胴体の中心に小さな光球がチラつく。
狩人はその光から目を離せず、そしてその光を見つめているだけで体は獣を向いていた。
激化する獣の攻撃を、ただ光を見つめながら躱す狩人の動きは、確実に今までよりも洗練されている。
躱し、躱し、躱し、斬る。
最初から行っていたそれは、既に別物の"業"へと進化を遂げている。
獣の攻撃は全て紙一重で狩人の体を逸れて行き、対して狩人の攻撃は獣の関節や主要な血管などが通っているであろう部位に吸い込まれて行く。
そうして次第に善戦し始めた狩人だったが、ここでタイムリミットが訪れた。
「ごぶっ────…ぁ、毒…」
「ギャァァァッ!!」
絶好調かに思えた狩人は全身が毒に侵された事に気付かずに戦っており、結果として振るわれた獣の前足に胸を貫かれてしまう。
じわりじわりと服に広がる血の温度と明らかに向上した動きの成果、そして自身を導いた謎の光の眩さを噛み締めながら、狩人は瞼を下ろした。
「……見えないかぁ」
夢へと送られた狩人はまず人形をじっと見つめる事から始めた。
どれだけ長く力強く眺めようとも光は現れず、人形だからなのかとゲールマンを見てもまた同じ。
うんうん唸りながら夢を後にし、旧市街に居た獣を見つめると
「……おぉ、出た!」
目を凝らし、集中する事で獣の動きに尾を引きながら追従する光の球体が現れた。
獣が左右へ動く毎に尾を引くそれは、青白い糸のようにも見える。
視界にチラつく光はどれだけ動こうと気にならず、むしろそれが見えるという事は獣がそこに居るという証左にもなり、狩人は安心感を覚えるようになって行った。
光の動きに引っ張られるように動く自身の姿勢にもだいぶ慣れた事で、狩人は一つ自信を付けた様子だ。
獣を狩る手も幾分か斬れ味が増しており、その技量は今までよりも数段上となった。
だが狩人はあくまで初心、記憶の限りでは今夜が初の獣狩りなのだ。
今までの戦いが奇跡的に有利に運ばれていただけであり、狩人自身の技術や知識はようやくスタート地点に爪先が掛かった程度。
ここからが苦労の連続となるだろう。
「これなら、勝てる…!」
どうやら狩人にスタート位置は関係ないようだが。
苦戦に次ぐ苦戦の最中で得た業によって、狩人は五度目の挑戦を有利に進めている────
「フーッ…ギィィィッ…」
「ぐ、ぅ…」
筈も無く。
開始から二分と経たない内に三箇所に爪を受けており、既に毒は回りかけという状態だ。
敢えてこうなってしまった理由を述べるとするなら、それはやはりつい先程身に付けた業である光球の所為、という事になるだろう。
狩人は未だその業を完璧に身に付けた訳では無く、むしろ付け焼き刃程度の練度しか無い欠陥品だ。
"獣を注視する"という事にばかり集中していたため回避は疎かになり、慣れたと思っていた光と体の連動はあくまでそれほど素早くも無い獣が相手だったからというだけの事。
血に渇いた獣は素早く、その動きは狩人の視線と光を振り切ってしまう程の速度を持っているのだ。
集中せずとも注視に慣れる事さえ出来れば、射撃の才を持つ狩人ならその動体視力で追い切る事が出来るだろう、だが狩人からすれば光球は与えられたばかりの希望であり、縋る他ない蜘蛛の糸だった。
"光球に集中し過ぎるのは愚策だ"という事に気付いたのは
「かふっ…ぅえ…」
この夜で何度目かもわからない血反吐を、地面に撒いた後の事だった。
「……毒、どうにもならないのかなぁ…」
六度目の挑戦のため罹患者の獣を振り切り旧市街の下層を走り抜ける狩人が呟いたのは、今最も必要としている遅効毒の攻略法を求める言葉だった。
毒への対抗策となればまず上がるのは解毒薬、血清だろう。
だが狩人は今までの道中でそれらを見付ける事は無かった。
或いはあったのかもしれないが、全て見逃している。
「はぁ…」
ただの一撃も受けずに勝つ、狩人は他の選択肢など用意出来なかった。
ここで聖杯を諦めるのも手だろう。
他に道は無いが、急がなければならない理由もまた無いのだから。
だが狩人は諦めない。
"力を手に入れれば道行が楽になるから"などと言う理由だけでは、決して無い。
狩人の心残りにしてトラウマ、とある子供の死。
あのような出来事を、次こそ未然に防げるように。
そして何より、困難な道を行く事が自身への罰になると、そう信じているからだ。
そうこうしている内に辿り着いた戦地で、狩人はまず懐から火炎瓶を取り出した。
今まで見付けた磔の獣は皆火を焚べられており、そして先程通った祭壇のある建物の獣は狩人が落とし放った火で全て死んでいるからだ。
やたらと火炎瓶を投げ付けているが、その幾つかで怯む事により狩人が投擲を失敗していないものに限って全て当たっている。
とは言え狩人も新参者、油断も失敗も、当然勘違いも起こすものだ。
「あっ、まずっ…!?」
「グゥゥッ……ギャァァァッ!!」
次に取り出した瓶は、火炎瓶では無かった。
"匂い立つ血の酒"
まず間違いなく効果的ではあるのだが、狩人はその効能を知らない。
だからこそ間違いは間違いとして、懐へとしまい直した。
つまりは、その一行動分隙が出来るという事でもある。
火炎瓶の雨が止んだのを見計らって、血に渇いた獣は前へ飛び出す。
狩人に向けて振るわれた両前足の爪は、だが空を切った。
狩人が今まで学んだ事の中で最も重要とされるもの、それは"前に避ける"事だ。
臆病な彼女は今まで後ろへ後ろへと退り、結果としてその隙を狩られて死を迎えていた。
だからこそ僅かな隙を突いて前に回避し、相手の後ろを取る事こそが勝機だと学んだのだ。
「ふっ!」
「オォォォ…!」
完璧にタイミングの合った回避から振り向きざまに叩き込んだ全霊の攻撃は、獣の背中を大きく斬り裂き体勢を崩させた。
隙を逃すこと無く変形させたノコギリ槍を背中から突き立て、その肉を抉りながら引き抜けば獣は前のめりに倒れ込んで行く。
だが決定打にはなっていないようで、追撃を入れんと近付いた狩人に獣は前足を振り回しながら威嚇し、ジリジリと後退して行った。
狩りを学んだ狩人が、そのような鈍間な逃避を許す筈もないのだが。
今までは外せばそれだけでピンチを招いていた短銃を、隙を作るためにわざと外し回避行動へと誘導し、出来た隙を突いてその胴を斬り裂く。
今までの腰の抜けた鈍く細やかな一撃はどこへ行ったのかという程に正確な一撃は、多大なダメージを血に渇いた獣に刻んだ。
「ギュグァァッ!」
「…っ、まだ倒れてくれませんか…!」
光球を視界の中心に置く事はせず、ただ体の方向転換のための標として扱い、その両目は獣の動きを然と捉える。
言うは易し行うは難しと言うが、狩人はその業をこの戦いの中で完璧なまでに使いこなしている。
左手を誰かに掴まれ、引かれるような感覚。
それはどうやら狩人を先へ先へと誘っているようで、ただ狩人はその感覚に身を委ねていた。
何に誘われているのか、何処へ誘われているのか。
そんな事は気にも留めず、引かれるままに武器を振るう。
獣は狩人に爪先で触れる事さえ出来ず、一本、二本と攻撃の合間合間に差し込まれる斬撃で傷を増やして行く。
やがてそのまどろっこしさに我慢ならなくなったのか、その体を振り回し体液を八方へ飛ばし始めた。
「ギャアァァァァッ!!!」
「う、るさ…」
叫び声と共に撒き散らされた体液は間違いなく毒性を持っており、獣に近付くだけで遅効毒が蓄積して行くだろう。
かと言ってここで離れればジリ貧になってしまう。
ならば、選択肢は一つ。
「ギャァァッ!………ガァァッ!?」
「まず、一発っ!」
大きく弧を描いて迫る爪に怯む事無く狩人は引き金を引き、水銀弾を獣の胴に撃ち込む。
怯まず短銃を構えた狩人とは対照的に、獣はその水銀弾で大きく怯み体勢を崩す。
その様子をただ見るような事はせずに狩人は素早くノコギリ槍を変形させると、獣の喉に刃を添えた。
「…せいっ!」
強く引き斬られた喉からは血が吹き出し、狩人の体を黒い血で染め上げる。
当然毒は蓄積するが、それすら気に留めずに槍をノコギリへと変形させ、狩人は猛攻を再開した。
喉、腹、頭、腿。
急所の全てを時に斬り裂き、時には刃で殴り付けるようにして刻み込む狩人は、完全に我を忘れて狩りに没頭している。
今までも多くの狩人を逆に狩っていた血に渇いた獣だったが、中でもこの狩人は容易い相手だった。
腰は引けており、武器を握る手は小さく、腕も足も細くまるで狩りには向いていないその体。
獣の膂力に対抗出来るようなものではなく、獣も既に知恵も心も失っていたが、本能的に"か弱い獲物"だという事を察知していた。
正しかった筈のそれは、だが間違いに変わった。
狩人はこの数戦で飛躍的進化を遂げたのだ。
人が変わったかのようなその縦横無尽な動きは、まるで何者かが乗り移ったようだ。
それも一人ではなく、その動きには幾人もの狩人が関わっているようにも見える。
これまでと今現在の違いと言えば、光球だろう。
誰かに手を引かれるような感触も、誰かが乗り移ったような動きも。
ひょっとすれば、この光球が起こした不可思議なのかもしれない。
「もう一発っ!」
更なる追撃に激昂した獣の攻撃も努めて冷静に躱し、そして隙の多い攻撃に合わせて短銃を放つ。
左右への動きも光の糸を追う事で見失わずに追い切る事が出来るようになった狩人は、数少ないチャンスを逃す事も減ったのだろう。
二度目のパリィで崩れた体勢を追い討ちを掛けるように、狩人は再びノコギリ槍を変形させる。
胴へ突き込んだ槍を目一杯押し込み、捻り、そして肉を抉る。
強く強く抉る事で肉を巻き込んだ刃は重みを増して行くが、放す事無く狩人は前へ前へと押し込み貫く。
「ギャァァッ……ガ、グァ……」
「お願い…死んで…っ!」
祈りながらも手を緩めない狩人の手から、突然手応えが消える。
「おわっ!?」
狩人は前のめりに倒れ込んで行く。
有り得ない筈の自身の挙動に思考が追い付かず転倒してしまった狩人は、一瞬の諦めを直ぐに自身で叱咤し、素早く起き上がった。
だがそこに獣は居ない、周囲を見回しても尾の先すら見えない。
「………か、勝ったぁ…!」
狩人の口からようやく絞り出された言葉は誇るような叫びでは無く、声音には底抜けの安堵が色濃く表れていた。
流れ込む血の遺志と脳に表れるあの感覚に震える体を抱き締めて暫くその場で休んだ後、狩人は立ち上がり周囲をもう一度見回し始める。
「はぁーっ……よし」
先程まで戦場としていた場所だが、よく見れば奥には祭壇のようなものがある。
近寄ってみれば祭壇にはみすぼらしい杯が一つ置かれており、動かした様子も無い事から長い期間この場に安置されていたのであろう事がわかる。
「これが、聖杯…?」
聖なる杯と呼ぶにはあまりにも矮小でみすぼらしいが、持って帰ってみない事には始まらないだろう。
幸い夢には頼りになる…筈の助言者がいる。
狩りの事に限って言えば、今まで狩人の疑問に答えなかった事は無いのだから。
今まで通り強敵が待ち構えていた場所に現れた灯りを灯し、狩人は夢へと戻って行った。
「ゲールマンさん!」
「戻ったか。随分と喜ばしい事があったようじゃないか」
「聖杯!取って来たんです!」
狩人がそう言って懐から杯を取り出しゲールマンの前へグイと押し出せば、それを観察するように暫く見つめた後、ゲールマンは頷き
「確かにそれは聖杯だ、状態も悪くない。直ぐにでも使用に足るだろう」
「ホントですか!?」
「どこに繋がるかは保証出来ないがね」
「…どこに、つながる?」
理解が及ばないという顔で首を傾げる狩人に、ゲールマンは聖体を拝領する事の意味と方法を語り始めた。
「聖杯とはヤーナムの地下にある墓地へと繋がる徴のようなものだ。狩人は地底へ潜り、そして血によって力へと導かれる。」
「……?」
「血晶石はその粋だ。君が拾って来たあの工房道具を使えば、武器に捩じり込む事で更なる力を得るだろう」
「…………なるほど?」
「……まぁ、理解が追い付かないのならそれで良い。ところで君、水盆は利用しているのかね」
全くもって理解出来ないという様子で話を聞いていた狩人にゲールマンは知識の無い内に告げるのは酷だと思ったのか、夢に存在する機能について話題を移した。
"使者の水盆"
狩人も幾度か見ている白い小人が用意する物品を、血の遺志を対価として購入する事が出来る。
何処で調達しているのかはわからないが、それらは時間を経る毎に値段が上がって行く事から、限りあるものを現地で調達しているのだろうか。
他にも狩人証というもので品揃えを増やす事が出来るが、それらは狩人証の由来に共通するもののみだ。
「水盆…」
「あぁ、その扉から出て直ぐに見えるものだ。簡潔に言うならば購買のようなものだよ。下にもあるから興味があれば覗いてみると良い」
「わかりました、ありがとうございます!」
そう言うと狩人はゲールマンが指さした扉から出て左右を見る。
すると直ぐ左に何やら台座のようなものがあり、その中に溜まっている水を覗こうとすれば、中から使者達が這い上がって来た。
「ひっ!?……あ、あなた達が…使者さん、ですよね?」
小さく頷く使者達にほうと一息入れつつ、狩人はその水盆を覗いた。
中には武器などの類は見えず、狩人も一度拾った事のある血の酒や、小さな鐘のようなものが見える。
やがて狩人は更にその奥、乱雑に置かれたそれを見付けた。
「これって…あの人の服?」
オドンの地下墓地で戦い、そして殺したあの男の服だ。
扱いの割には丁寧に帽子とマフラーまでセットで置かれているそれに、狩人は思わず手を伸ばす。
取引の意思と捉えられたのか、何か血の遺志とは別のものが抜けて行く感覚と引き換えに、狩人の胸には服一式が抱かれていた。
「か、買っちゃった……まぁ、サイズとか違うっぽいし…」
かなり大柄な男の服をそのままここに並べていたのならば、今も狩人の胸に抱かれている服は地面に垂れてしまう程大きかった筈だ。
それが今こうして狩人の背丈で持っていても地面についていないのだから、ある程度小さなものになっているのだろう。
狩人はそれを一度懐にしまい、そしてノコギリ槍と短銃を手に出した時のように強く念じる。
「わっ…お、おぉ〜っ…」
肌に布が擦れる感覚と共に目を開けると、狩人の体は先程購入した男の服にすっかり包まれていた。
帽子を失った事で覆われていた感覚が無くなり寂しくなっていた頭には浅いハットが乗っており、首元には灰色のマフラー───教会の聖布───が巻かれている。
少しばかり丈が長い気もするが、動きに支障が出るようなものでも無く、むしろ着心地は狩人の装束よりも良いだろう。
服を替えて調子が良くなったのか、狩人は一度工房に戻って別の扉から下へ降りて行く。
ゲールマンの言葉通りそこには同じような形の水盆があり、中を覗けば輸血液や水銀弾などの消耗品が置いてある。
狩人からすればその二つは行く先々で拾う事で何とでもなるのだが、問題はその他の品だ。
「武器もある、けど…」
種類は武器と銃を合わせて二つ、大きな石鎚と細身の両刃片手剣がセットになっているであろうものと、銃身が二つ横並びになった恐らくは二発の水銀弾を同時に発砲するであろう連装銃。
この二つ以外に武器は無く、狩人は少々の落胆の後に見掛けた携帯ランタンを購入した。
そんな狩人を襲うのは血の遺志を力とする時のあの感覚、遺志が抜けて行く感覚だ。
どうやらこちらの水盆は遺志を対価とするもので、上の水盆は主に強敵と出会った時に芽生えるあの感覚の原因を対価とするらしい。
"ひょっとしてかなり貴重なものを服に使ってしまったのでは"と思案する狩人だが、今直ぐに使う機会がある訳では無いのだからと頭を振って再びゲールマンの元へと出向いた。
「水盆の用法は理解したようだな。」
「はい!あと、ご相談なんですけど…」
「何かね。私は助言者なのだから、遠慮無く言ってくれたまえよ」
そう言うゲールマンに狩人が聞いたのは、この先の道筋だ。
狩人は未だどこを目指して歩けば良いのかなど知らない。
正確に言えば今までは大聖堂へと向かう事が目的だったのだが、そこへ至る道も知らない上に、今のままではろくに成果も上げられず何処ぞで詰まってしまうだろうという予感が狩人の中で絶えないのだ。
「君は青ざめた血を求め、そしてそれに自身が何者であるかを求めている。」
「は、はい…」
「であれば真に向かうは医療教会、その大聖堂だろう」
「あ、それは知ってます。聖体?があるんですよね?」
狩人がアルフレートから聞いた言葉が確かなら、ビルゲンワースが神の墓から持ち帰った聖体が大聖堂に安置されており、それが血の医療の礎となっている筈だ。
「その通り。今や医療教会と呼ばれる血の医療者達は、古い狩人"ルドウイーク"以来、狩人の庇護者でもあり、独自の工房を持ち、武器を作った」
「ルドウイーク…?」
「…言葉通り、今は古き、英雄の名だよ。」
「ふむふむ…」
古い狩人、狩人がこのヤーナムで目醒めるよりずっと以前に狩りを行っていた者の事なのだろう。
ゲールマンの語りに僅かな哀愁が漂っているが、それはルドウイークが知り合いだからなのか、それとも先輩や後輩となる人間だったからなのか。
それはわからないが、狩人の脳裏には"ゲールマンも助言者をしている辺り、以前は狩人だったのだろうか"という考えが浮かんでいた。
「彼らの多くは、もはや狩人を忘れているようだが…それでも、それは狩人の役に立つものだ」
「役に立つもの?」
「君にも、先人達の遺言を伝えておこう…『オドン教会を上りたまえ』」
「上りたまえ…上る…」
オドン教会と言えばローブの男が人を集めてくれと避難所にしていた教会の名前だ。
それを上れとはどういう事だろうかと狩人が思案してみれば、直ぐに思い至る。
狩人が旧市街への道を歩む時、その最初に選んだ分かれ道はオドン教会の目の前の広場だ。
二つの道はそれぞれ上下へと伸びており、上へ向かう道は階段となっていた筈だ。
上りたまえ、とは───────
「あれの事ですね!?」
「得心が行ったようで何より、では存分に狩りたまえよ。」
「行ってきます!」
そうして狩人は墓標へと駆け寄り、オドン教会へと転送された。
転送直後に狩人は駆けて行く。
その思考の内では、自身の単純な頭を恨めしく思いながら。
「僕ってお馬鹿なのかなぁ…」
度重なる恐怖と戦闘による緊張で、狩人の頭は幾つかの選択肢を忘却していたのだ。
例えば今も正面に見えるオドン教会のもう一つの出口や、今向かわんとしている分かれ道の事。
今もそれらを浮かべている思考の中に、視覚的情報から一つのノイズが走った。
「……あそこ、開いてたっけ?」
視線の先にあるのは教会内の開け放たれた扉、その奥だ。
暗がりとなっておりもう少し近付かなければ中は見えないであろうそこは、狩人の記憶では開いていなかった筈の扉。
その正面に居たであろう老婆に誰が開けたのか訊ねても答えてはくれないだろうし、態々ローブの男の所まで戻る程の事でも無い。
直ぐにでも大聖堂へ行き聖体の神秘を、つまる所自身が青ざめた血を求める理由を知りたかった狩人は、考えあぐねた末に結局自身の足で確かめる事に決めた。
「まぁ、何かあったら引き返せば良いし…」
そう言いつつ扉を潜った狩人の目に映るのは、何やら中心に四角い出っ張りのある円形状の床だった。
その出っ張りの形は、ギルバートの家方面から下水橋へと降りる直通のエレベーターの床にも似ている。
思わぬ所で心の傷を二つ同時に突かれた狩人はくぐもった声を上げつつ、何かあるならとその足で出っ張りを踏んだ。
案の定それはスイッチであり、狩人が上に乗る事で押し込まれ、仕掛けが作動する。
突然の振動に狩人が驚き蹲るのを余所に、床は上へと昇って行く。
「……ひょっとして、上れってこれの事?」
階段の事なのか、それともこのエレベーターの事なのか。
どちらかはまだ狩人の理解する所では無いが、助言者の前で明らかに理解した素振りを見せた狩人の心に、謎の敗北感と羞恥心が刻まれたのは確かだ。
トゥメルの聖杯
旧市街の最下層、血に渇いた獣が寝床としていた聖杯教会にて安置されていた儀式聖杯の一つ。
儀式の度に構造を変える"聖杯ダンジョン"へ赴く為の入口であり、夢の狩人の多くがこれを使用し聖体を拝領した。
狩人もまたそれを求めて旧市街を走り抜けた訳だが、"手に入れただけで力が得られる訳では無い"という事には気付いているのだろうか。