少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第二話、ようやく診療所から出ます。
狩人の夢からヨセフカの診療所にある灯りへと転送された少女は、すぐに外へと足を向ける。
まだ覚悟が決まりきった訳ではないにしろ、現状の確認はどうしても行わなければならないものだ。
門扉の向こう、乗り捨てられた馬車の陰には少女を殺した罹患者の男が立っている。
先程は人影が見えた事もあり、少女も焦っていたのだろう。
冷静になって周囲を見渡せば、馬車とは反対の方向にも道が続いている。
男にバレる事の無いように慎重にそちらの道を進んでみると、その先は細い小路となっている。
左右に続いているが、どちらもすぐに行き止まりだ。
特に理由もなく少女は小路の奥へと進んで行く。
するとその行き止まりで、少女は奇妙な物を見つけた。
「これ…血…?」
瓶の中に入っている液体は"輸血液"、ヤーナム特有の物だ。
効能は生きる力、その感覚を得るというもの。
言わば一種の興奮剤のようなものだ。
依存性が強く、狩人だけでなくヤーナムの民の多くもこの輸血液の常習者である。
少女からすれば瓶に入った謎の血と言う他ないのだが、その匂いはどこか嗅ぎなれた物のようにも感じていた。
そう、ヨセフカに渡された自製の輸血液だ。
"これも輸血液なのかもしれない"と思い至った少女は、好奇心に負けたのか輸血液入りの瓶を懐に仕舞い、今一度男の方へと向かって行く。
「狩りは、弔い…」
ゲールマンの言葉を胸に刻み、仕込み杖を強く握り直す。
馬車の裏には男がいる、ただそれだけでも腹を捌かれたあの恐怖が蘇るようで、少女は今にも胃の中身を吐き出してしまいそうな表情で震えている。
だがいつまでも震えているだけでは何も変わらない。
腕を抑えて無理やり震えを止め、少女は杖を握り締めた。
少女が馬車の陰から飛び出し、男に向かって銃を向けると、男もまた斧を構え少女に向かって走り寄る。
男が斧を大上段に構え、振り下ろさんとした瞬間、少女は短銃の引き金を引く。
発砲と同時に生じる大反動によって転んでしまった少女は、尻餅を着いた痛みとこの状況への恐怖、そして二度目の爆裂音に瞳を潤ませる。
だが、ただ涙を流して解決するような状況では無い。
「これで…っ、終わって!」
「オ、ォオオオ!」
至近距離で命中した水銀弾によって体勢を大きく崩した男を見ると、少女は出来る限り素早く立ち上がり、仕込み杖を構える。
瞳に浮かぶ恐怖は、最早男へ向けたものだけでは無い。
"これから人を殺すのだ"という恐怖を前に、ろくに決まってもいない張りぼての覚悟を必死に支え、何とか凌ぐ為の盾としている。
"終わって"という言葉通り、少女は細腕で最大限の威力を出す為に、男の頭部へと杖を振り下ろす。
力は篭っているが、やはり殺人への恐怖と忌避感が邪魔をする。
銃弾一発と弱々しい殴打一撃ではトドメとまでは行かなかったが、獣と同様二度三度と殴打を続けた事で、ようやく男の息の根が止まった。
「はぁ…はぁぁ……」
"人殺しだ"
"殺さなきゃ自分がやられていた"
"死んでもまた夢で蘇る筈だ"
"それは自分だけの話で、相手はわからない"
"本当に、命を奪ったのかも知れない"
「うぷ…」
"人を殴り殺す"という事に疲弊したのか、少女は嘔吐きながらへたり込み、肩を大きく上下させながら深呼吸を繰り返す。
その最中、獣を狩った時よりも更に大きな"何か"が流れ込んで来た。
"血の遺志"だ、殺された際に少女から男に渡った"少女と獣の血の遺志"が、男の分も加算され少女に流れ込んだのだ。
血の遺志に血が呼応しているのか、少女の呼吸は気を落ち着かせるだけでなく、どこか恍惚を帯びている。
それが落ち着き始めた頃に少女がふと男の方を見ると、その懐から輸血液の瓶が転がり出ていた。
どうせ一つ拾ったのだからと、少女は輸血液を懐にしまい込んだ。
「向こうも…行き止まり?」
少女が男の居た通路の更に奥を見ても、その方向に道が続いているようには見えない。
それならばとすぐ横にある門扉を開けようとするのだが────
「こっちからじゃ開かない…」
"診療所にはもう一つ門扉があった筈"
少女がそちらに向かおうかと思案し始めた時、視界の端にちらと映ったのは、街中に置いてあるにはあまりにも違和感のある"レバー"だった。
何か仕掛けがあるのかと少女が周囲を見渡しても、特にこのレバーと繋がっているような大袈裟な装置は見当たらない。
またもや好奇心に負けてしまった少女が思い切ってレバーを引いてみれば、一拍置いて上から梯子が降りて来る。
「うわぁっ!?」
少女は大きな金属音を立てて降りて来た梯子に驚きつつも、何度か揺すり安全かどうかを確かめている。
やがて安全性を確信したのか、少女は梯子に手足を掛け登り始めた。
そして少女が半分ほど登り終えたかという頃────
……ォォォォォォオオオオン…
「ひぃっ!?…うわぁっわっわっ…な、何今の…?」
突如聞こえて来た巨大な叫び声のようなものに驚き手が滑ってしまい、あわや落下死かと思われたが、どうやらすぐに梯子を掴み直す事が出来たらしい。
叫び声によって獣と罹患者への恐怖が思い起こされたのか、少女は焦りつつも慎重に、出来るだけ急いで梯子を登って行く。
梯子の上まで登りきった少女の目の前には、ヨセフカの診療所で見たものと同じ灯りが地面に置かれていた。
診療所のものと違いこちらは灯っていないが、墓標にしたように少女が手を翳してみると、淡く青白い光が灯る。
「おぉ…」
「……そこに、誰かいるのですか?」
「えっ!?あ、えっと、います!」
勝手に灯った灯りに少女が感心していると、その声が聴こえたのか赤いランタンのついた家の住人が少女に話し掛けて来た。
鉄格子の付いた窓越しに少女に話し掛けてくる声は男性のものだ。
「…獣狩りの方でしたか。それも、私と同じ外からの方のようだ」
どうやら声の主は外からヤーナムに入ってきた者らしい。
顔も名前もわからない上に、少女は記憶を失っているため自身がヤーナム出身なのか、それとも外から来た者なのかはわからない。
だがどちらもヤーナムの民という括りには入らないだろう。
一種のシンパシーのようなものを感じたのか、少女の顔には僅かに喜色が浮かんでいた。
「私はギルバート。あなたと同じ、よそ者です」
「あ、えっと…僕、自分の名前とかわからなくて…」
「名前がわからない?記憶障害という事でしょうか。何もわからないまま、ヤーナムという地を歩くのはご苦労でしょう」
「はい…」
「その上この街の住人は、皆……陰気ですから」
どうやらギルバートと名乗ったこの男も、ヤーナムに来てからかなり苦労しているらしい。
少女はますますギルバートに共感し、そして自身に共感してくれる人間が出来た事を素直に喜んでいる。
「私は床に伏せり、もう立つ事もままなりませんが…どうかお役に立てる事があれば、言ってください」
「そ、そんな!僕は平気ですから────」
「ごほっ、ごほっ…」
「大丈夫ですか!?」
ギルバートは病で立つ事すらままならないらしいが、少女に協力の姿勢を見せる。
だがその重苦しい咳を聞いてしまった少女からすれば、初めての共感者に無理をさせたくは無いだろう。
「……この街は、呪われている」
「呪われて…?」
「あなたも、事情はおありでしょうが、出来るだけ早く離れた方がいい」
「僕も出来ればそうしたい所なんですけど…」
「ならば尚更だ、事情よりも命を優先すべきです。」
心の底からの助言。
ギルバートは少女がこのヤーナムに滞在する事を良しとしないようだ。
そしてそれはどうやら獣の病だけが原因では無いらしい。
だからと言って少女はヤーナムから抜け出す手段を持ち合わせている訳でもなく、抜け出せたとしても居場所など覚えてすらいない。
そこで少女の脳裏に過ぎったのは、診療所で見つけた自筆のメモだ。
「あ、あの…青ざめた血…って、ご存知ですか?」
「青ざめた血、ですか?…すみませんが、聞いた事はありません」
「そう、ですか…」
「けれど、それが特別な血であるならば、訪ねるべきは医療教会でしょう」
「医療教会?」
「えぇ…血の医療と、その特別な血の知識を独占している組織です。」
医療教会
血の医療を生み出し、そしてそれをヤーナムに広めた組織。
"聖剣のルドウイーク"と呼ばれた、憐れな英雄が所属していた組織でもある。
教会と言えば聞こえはいいが、その正体は決して宗教的なものではない。
血の研究、その成果を血の医療としてヤーナムの民に施している研究組織だ。
「この市街から谷を挟んだ東側に、聖堂街と呼ばれる医療教会の街があります」
「谷の東…聖堂街…」
少女はギルバートの言葉を一言一句聞き逃す事無く、小人に貰った手記に記している。
時折書き記した文章から暖かな光が漏れるのは、その手記特有のものだろうか。
「そして、聖堂街の最深部には古い大聖堂があり…そこに、医療教会の血の源があるという…噂です」
「最深部、大聖堂…血の、源……」
「…ヤーナムの街はよそ者に何も明かしません。常であれば、あなたが近付く事も叶わないでしょうが…獣狩りの夜です。むしろ、好機なのかもしれませんよ…」
獣を狩るために…というよりどさくさに紛れての侵入になりそうなものだが、今はそれでも僅かな希望に変わりない。
少女からすれば真っ暗闇に光明が差したのだ、大きな前進に違いない。
────…手記を閉じる直前に見えた文字の殆どが稚拙なものであったのは、記憶喪失の所為という事にしよう。
「なるほど…ありがとうございます、ギルバートさん!」
「いえ…誰も頼れないようでは心細いでしょう、こうしてよそ者同士支え合うのも悪くありません」
「ぼ、僕も!ギルバートさんのご病気に効きそうな物があったら持って来ますね!」
「ふふ…ありがとうございます」
少女は本気で探し出すつもりのようだが、どうやらギルバートは既に自身の体を諦めているらしい。
その声音に乗っているのは喜びや諦観というよりも、微笑ましいものを見るようなものだった。
「それでは!」
「えぇ、幸運を」
少女は窓から離れ、ギルバートの家のすぐ横にある門扉を開けに向かう。
力を込めて少女が門扉を押してもビクともせず、反対に引いて見ても動く様子はない。
よくよく観察してみればかなり複雑な作りをしているらしく、どうやらこの扉は向こう側からしか開かないらしい。
ならばと少女が家を挟んで反対側の路地に入れば、下へ進む階段と、その先の大きな通りが見える。
この道以外で先に進む手段は今の所無いのだろう。
鎖の巻かれた棺桶やその傍にある死体から目を背けつつ、階段を降りて建物の間に掛かった陸橋を渡ると、棺桶と木箱を打ち壊しながら鉈を持ったヤーナム市街の民であろう男が少女に襲いかかる。
「ひぃっ!?…また、人…」
「失せろ!失せろォ!」
やはり正気を失っているのだろう、狙いも定めずに鉈を振り回しながら歩く男は隙だらけだ。
獣と罹患者で少しばかり耐性がついたのか、今回は少女の震えもさほど酷くないようだ。
とはいえ即座に命を奪いにかかれる程踏ん切りはついていないらしく、少女は恐る恐ると言った様子で杖を構える。
男が少女を待つ事はない、鉈を構え直しもう一度少女を害さんと振りかぶる。
「これは、弔い…弔い…」
自己暗示のように小さな声でそう唱え、構えた杖を強く振るう。
男の首に命中した杖はそのまま男を地面へと倒し、少女は杖の石突で男の心臓を穿った。
「ごめんなさい…」
命を奪った事に謝罪しつつ、少女は道なりに進んで行く。
男が出てきた木箱の裏には更に下へと続く階段があり、それを降りて行けば今度は柵の向こうを見張っている木の盾を持った市民の男と、そのそばにもう一人の男が座り込んでいる。
少女がゆっくりと近付けば座り込んでいた方の男が立ち上がり、少女に向かって鉈を向ける。
このヤーナムで武器を携行し屋外を出歩いている者は、その殆どが少女の敵だと思っても良いだろう。
「呪われた獣め!」
「僕は、獣じゃ…ないっ!」
となればか弱い少女に残された生き残る術は、先手必勝だ。
先の戦いでそうしたように、少女は立ち上がった男の喉笛に構えた杖を突き刺す。
それに反応したもう片方の男が盾を構えきる前に、少女は突き刺した杖を抜き放ち、盾を躱して胸を貫いた。
驚異的な速度で成長を遂げる少女だが、ヤーナムの民を殺す度に得ている血の遺志がその支えとなっているようだ。
遺志を得た傍から肉体が強化されている────という訳ではなく、あくまで精神的な効果だが。
「……はっ、はぁ…はぁ…」
もっとも共感者が見付かった程度では、血の遺志に闘争本能を刺激された程度では、少女が狩りを必要な事として完全に割り切るには至らなかったらしい。
荒れた息を鎮めるコツは掴んだようだが、瞳に滲んだ涙を止めるのには未だ時間が掛かっている。
「ぐずっ、すん…ごめん、なさい…ごめんなさい…」
返り血を浴びていない左腕で涙を拭いながら、少女が奥の階段の先を確認すると、四人の市民が各々武器を構えて通りを練り歩いているようだった。
市民達が歩いてきた方向を見れば、見覚えのある門扉と、その横にあるレバーが見える。
階段を降りようとした途端に遠くで鳴った鐘の音に肩を跳ねさせながらも、少女は極力音を立てずに門扉の方へと向かう。
他に市民はいなかったらしく、特になんの問題もなく少女は門扉の前に辿り着いた。
少女の記憶違いでは無かったようで、この門扉は診療所から出てすぐの────最初に市民を殺した、あの場所にあった門扉だ。
レバーを引けば門扉がゆっくりと、大音を上げながら開いて行く。
幸いにも音に気付き近付いてくる者はいなかったようだ。
安堵で胸を撫で下ろしながら、少女は診療所の方…ではなく、踵を返して四人の市民が向かった方向へと歩いて行く。
ここでヨセフカやギルバートに声を掛ける事も出来るが、進んだ事と言えばただ門扉が開いたというくらいのものだ。
まだまだ少女が目指す医療教会への道は遠く、油を売っていては辿り着けないだろう。
既に四人の市民は奥へと進んだらしい。
その後を追う前に、少女は通りの横にある階段を上る事にしたようだ。
上がった先には井戸があり、棺桶と磔にされ火をつけられた獣が立て掛けられている。
その奥にある扉の前には、ギルバートの家と同様の赤いランタンが置かれていた。
この家にも人がいるのかもしれない。
そう思い少女が扉を叩くと、若い男の声で返される。
「…あんた、よそ者だろう」
「そ、そうです…」
「すまんが関わり合いになりたくないんだ、帰ってくれ」
「え、そっ、そんな…話だけでも…」
「帰ってくれ!」
「……はい」
そう言うと少女は肩を落としながら扉から離れる。
ギルバートの言っていた"陰気"というのは何も雰囲気が暗いという話ではなく、よそ者への態度の事を言っていたのだろう。
これでは話など聞けそうもない。
諦めて進もうとした少女だが、何かを見付けたのか井戸の裏へと歩いて行く。
そこにあったのは死体だ、その懐には赤い瓶が転がっている。
輸血液かと思われたそれには布紐のようなものが繋がれている。
「……これ、火炎瓶?」
布紐の導火線こそあれど、どうやらこの火炎瓶は割れる事で火がつくように作られているようだ。
火元の近くに置いてあるという事は、これを使って獣に火をつけたのだろうか。
磔にされた獣に火がつけられている所を見て"獣には炎が効く"と思ったのか、少女は四つあった火炎瓶を懐にしまい込んだ。
あの四人を追いかけた先で少女を待ち受けていたのは、先程見たものよりも大きい火をつけられた獣の磔、そしてその周囲に屯する市民達だった。
誰一人と漏れる事無く武装しており、少女のような戦いに慣れない者があの場に立ち入れば、即座に挽肉にされてしまうだろう。
当然と言えば当然だが、中には銃を構えている者もいる。
威力がどれ程のものかはわからないが、警戒に越した事はない。
少女もそれは理解しているらしく、今までよりも慎重に進んで行く。
「おわっ…」
少女が馬車に手を添えながら進んで行くと、その陰に一人、座り込んでいる市民がいた。
傍らには銃が置いてあり、少女の上げた声に反応して起き上がる。
当然気付かれたからには少女も相手せざるを得ない。
市民が銃を構える前に駆け出した少女は、だが一歩間に合わず市民に先手を譲る事となる。
構えられた銃から放たれた弾丸は意外にもそれほど弾速は無く、また市民も罹患し正気を失っているからか銃撃の腕は高くない。
少女が一か八かの賭けで踏み切った左前方への回避は成功し、少女自身驚きながらも杖を振り抜いた。
狙う先は右腕、銃を構えている腕だ。
「く、ら…えっ!」
右腕の手首に手痛い一撃を受けた市民は銃を取り落とし、少女は隙を見せる事の無いようにそのまま頭蓋を狙う。
そしてここで、少女は仕込み杖の真価を目にする事になる。
キャリキャリキャリ
と、鎖が擦れるような音と共に、少女の持っていた杖の手応えが軽くなる。
重量が変わった訳では無いが、確かに手ごたえが変わったのだ。
違和感を覚えながらも、ここで躊躇し相手に反撃の機会を与える訳にはいかない。
そうして少女が仕込み杖を振り下ろすと、少女の手にあるものは既に杖とは呼べなくなっていた。
今まで少女が杖として、そして殴打武器として扱っていた杖は、その実刃が隙間すら作らず幾重にも重なり合って出来たものだったのだ。
そして今それらの刃が左右に展開し、一本のワイヤーで繋がれた状態で別れた事で、蛇腹剣となっている。
そんなものを振り下ろせば、当然目の前の市民にも直撃する。
これまで構えていた杖で"殴る"という感覚とはまた違う、"斬り裂いている"感覚。
少女は仕掛け武器の真価に興奮すると共に、自身が明確に"物を傷付けるための武器"を振るっている事に恐怖していた。
蛇腹剣での攻撃が余程効いたのか、少女が相対していた市民は既に亡骸と化してしまった。
少女が振るうのをやめれば、蛇腹剣は元の杖に近い形状へと纏まり、また振るわれる事を待っているようにも見える。
「うぅ、ごめんなさい……ど、どうしたら元に戻るんだろう…」
少女がその場で試行錯誤していると、再び大きな鐘の音が響く。
それに反応したのか、磔の周囲にいた市民達が振り向き、向かって来た方へ…今も少女がいる方へと歩き始めた。
大いに焦った少女は変形した杖を持ちながら、いそいそと銃持ちが座り込んでいた場所にある階段を駆け上がり、すぐ近くの建物の陰へと避難した。
「こ、こう?…あれ?あれぇ…?」
記憶があろうがなかろうが、ただ棒を振り回すより蛇腹剣を振るう方が当然難易度は高いだろう。
特に命が掛かっているこの状況では尚更気にするべきだ。
何とか杖に戻そうと少女が同じように振りかぶったり、思い切り振り回したりしていると。
ギンッ!
少女が仕込み杖の石突きだった部分を地面に突き立てた事で、蛇腹剣は杖へと変形を遂げた。
「よ、よかったぁ…」
ほっと一息つくのは良いものの、事態は何も好転していない。
ただ仕掛け武器の変形に戸惑い、それを変形前に戻せたというだけなのだから。
気を取り直して横道を歩いて行くと、どうやら通りにいた市民のほとんどが鐘の音で元の道を引き返したらしい。
他に残っているのは街灯のそばにある馬車の上で銃を構えている者と、最初から屯していた数名と、通りの奥にある門から磔の方へ歩いてきた二人組くらいだろうか。
「よぉし……」
少女としてはこれ以上戦う事は避けたい。
肉体的疲労がある訳ではないが、それを補って余りある程の精神的疲労が少女の心と体を蝕んでいる。
そんな状態でこの場に居座れば、そのうち失神でもしてしまうのでは無いかという程に。
そこで少女が選んだのは、逃げだった。
わざわざ全員を相手取る事はせず、通りの向こうにあるもう一つの道、その奥に見える門の横道を使えば通りを使う事無く先へ進めるだろう。
通りを使いたくないのは何も市民達だけが理由ではない。
先程からずっと、通りの奥にある門を叩いている音が聞こえるのだ。
それもかなり強く、その上野太い唸り声まで聞こえてくる。
臆病な少女は、もし門までの道が安全だったとしても使いたがらないだろう。
「今っ!」
磔の近くにいる市民が門を向いた瞬間、少女は建物の陰から飛び出した。
馬車の上にいた銃持ちに気付かれてしまったようだが、少女の目が正しければその手にあるのは先程戦った者が持っていたものと同じ銃だ。
であればそれ程弾速はなく、またこの障害物が多い場所ならば狙い撃ちを避ける事も出来るだろう。
柵から馬車へ、馬車から建物へと身を隠しながら進む少女は、後ろを気にする余裕も無く通り沿いの道を駆け抜けて行く。
そうして門の横道を越えた所で振り返ってみれば、追手はおらず、どうやら少女の逃走劇は成功に終わったらしい。
「や、やった────」
「アッハハハハハ!アーッハハハハハ!!」
「ぅひぃっ!?な、何…?」
少女の喜びは、更に奥の民家から聞こえた大きな笑い声によって霧散してしまった。
民家の前には赤いランタンがある、この笑い声は罹患者の物ではなく、未だ感染していない市民のものなのだろうか。
よく聞いてみると笑い声は一人のものではないらしい。
数人で集まっているのなら何か有用な話を聞けるかもしれない、と少女が扉をノックすると、笑い声がピタリと止んだ。
そして挨拶や歓迎の代わりに少女に掛けられたのは────
「…なんだい、よそ者じゃないか」
酷く鬱陶しそうな声音だった。
「獣狩りの夜にほっつき歩いて、可哀想な事だよ。あぁ、可哀想な事にねぇ…」
「え、あ…」
「ハハハハハ、アーッハハハハ!」
可哀想とは口ばかりで、心配など心にも無いのだろう。
先程とは違い明らかな皮肉とよそ者への侮蔑が手に取るように伝わり、少女は少なからずもショックを受けたようだ。
何も言葉を返せないまま扉から離れれば、すぐにまた笑い声が聞こえてくる。
また話は聞けずじまいのまま、少女は先に進む事にしたようだ。
階段を降りて噴水の方に進めば、先程は見えなかった門の向こう側が見える。
門の前ではレンガを片手に持った大男が、唸り声を上げながら門を叩いている。
振り返る様子は無いと見たのか、少女は噴水を盾にしながら反対側の階段へと歩いて行く。
周囲に人影はなく、大男も少女の存在に気付く事は無かった。
ようやく一段落かと少女が安堵しながら階段を上って行くと、聞き慣れない音が少女の耳に入ってくる。
オルゴールだ、寂しげなオルゴールの音色が聞こえてくる。
音の方へ歩いて行くと、またもや門扉があった。
そして少女の予想通り、こちら側からは開かないらしい。
「また遠回りぃ…?」
その声には"もうウンザリ"という本音がありありと乗っている。
だがこんな所で愚痴を言っても何も変わらない、一度ため息をついて気を引き締めたのか、少女はすぐに近くにあった階段を上って────
数人の市民と二匹の犬が見えた所で上るのを諦め、直ぐに壁の陰へと体を引っ込めた。
柵の隙間から上を見てみれば、どうやら奥にも隠れていたらしく、更に市民が一人と犬が一匹増えていた。
多対一は未経験な少女からすれば恐怖以外の何物でもない、身を隠しながらさっさと走り抜ける算段を整えているようだ。
だが少女の中に浮かんだのは逃走とは別の光明だった。
「これ…鞭にしたら行けるかなぁ…?」
蛇腹剣を振り回す事で複数を攻撃し切り抜けられないか、という可能性だ。
もちろん熟練の狩人ならそれでも突破は可能だろう、しかし少女は今夜が初の獣狩り、その上記憶まで失っているのだ。
もし記憶を失う前から狩人だったとしても、その体に技術が染み込んでいる訳でもない。
無用な戦いは避けるべき、なのだが。
「い、行くしかない…よね…」
残念な事に、少女はこの他に進む事が出来る道を知らない。
覚悟を決めたのか少女は陰から身を乗り出し、犬に向かって短銃を発砲する。
当然のように反動が少女の左腕を襲うが、三度目という事もあり転倒する事は無く、どうにか跳ね上がった左腕を痺れさせるだけに留めている。
気付いた時には既に遅く、犬は水銀弾の直撃により地面に倒れ伏した。
それでも息の根は止まっていないらしく、すぐに起き上がろうとする犬の腹に、少女は杖を突き刺した。
「ご、ごめ────っておわぁっ!?」
発砲音と犬の鳴き声で気付いたのか、奥にいた市民達も犬を引き連れ近付いてくる。
驚きつつも少女は杖を変形させ、蛇腹剣を薙ぎ払った────のだが。
キィィィィン……
という甲高い音を立て、鞭は元の形状へと戻る。
階段のすぐ傍で振るったからか、蛇腹剣は柵に弾かれてしまったようだ。
「わっ、ま、まずいまずいまずい…!」
恐らく今夜一の焦りを見せながら、少女は僅かに後退しつつ銃を構える。
最も動きの素早い犬が前に出て来たのを見計らい、引き金を引けば水銀弾は見事に犬の頭へと吸い込まれて行った。
まだ痺れがある状態での四度目の発砲も、危なげない精度での命中という結果。
銃を扱う才能があったのだろうか。
それを皮切りに少女は冷静さを取り戻したらしく、再び開けた所で蛇腹剣を振るう。
斬撃に巻き込まれた市民が肉を切り裂かれ怯んでいるのを確認した少女は、石突きを地面に突き立て杖へと戻し、二人の市民を殴り倒した。
あとは銃持ちの市民一人と犬一匹だ。
「呪われた、獣め…」
「はっ、はっ、はっ……」
罹患者の言葉にかぶりを振りながらも、少女は浅い呼吸を繰り返しつつ階段を駆け上がって銃を構える。
二匹の犬を殺した事で"犬は銃に弱い"という事に気付いたらしく、次に狙いを定めているのもやはり犬だ。
井戸の裏に隠れる事で銃持ちの射撃を避け、犬に向けて発砲する。
今まで上手く当たっていたのが幸運だったのか、狙いは見事に外れ、犬は少女へ飛びかかった。
「ガァッ!!」
「うっ、ぐぅぅっ!?」
連射が祟って痺れが引かない左腕に噛み付かれ銃を取り落とした少女だったが、咄嗟に犬の喉へ石突きを突き刺す事で殺しきり、銃持ちの発砲を井戸で凌ぎつつ何とか犬の牙を抜いて左腕を抑える。
今までは痛みを覚えて直ぐに殺されていたが、今回は生き残ってしまった事で痛みからの解放は訪れない。
勿論、少女は痛みと三度目の死を天秤に掛けるなら、迷わず痛みを享受するだろうが。
ボロボロと流れる涙を拭いながら、少女は銃持ちまでの距離を詰める。
まだ弾を込めていなかったのか、少女は銃持ちが再び銃を構える前に眼前へと辿り着いた。
通りでやって見せたように杖で腕を攻撃し、銃を落とした所を殴り殺す。
どうやら少女は銃手を相手にした場合の適解を見付けたようだ。
急いで井戸の前まで戻った少女はしっかりと銃を懐にしまい、周囲を探り始める。
噛まれた左腕は上手くやり返した事で脳内麻薬が分泌されたのか、ほとんど痛まないようだ。
これは少女が知る由もない事だが、狩人の業の一つに"リゲイン"というものがある。
敵の攻撃によって怪我を負った直後に反撃を与える事により奮起し、活力によって僅かに傷が塞がるというものだ。
輸血液は生きる活力を得るという効果らしいが…或いは、リゲインもまた同じように自身の血と精神によって活力を得ているのだろうか。
「……あ、またこの瓶…」
少女が見付けたのは、ベンチに腰掛けている死体の懐にある輸血液だ。
それもかなり多く、確認してみれば六つの瓶を抱えている。
懐にしまおうと少女が輸血液を拾った時、一つの違和感に気付く。
「…あれ?今まで拾ったやつは?」
瓶を落としたような音を少女は聞いていないが、もしや通りの傍らを走り抜けた際に落としたまま気付かなかったのだろうか。
その線は薄いだろう。
少なくともあの起伏の多い場所を走り抜けている最中に落としたのなら派手に割れてしまっているはずだ、そんな音が響いていれば少女は確実に市民に追い掛けられていた。
うんうんと少女は唸っているが、くだらない事で悩む必要はないと割り切ったのか今見付けた輸血液を懐にしまう。
戦利品としてはこの輸血液と水銀弾くらいの物だろう、他に特別な物はないようだ。
粗方探り終えた少女が奥にある階段を上って行くと、幾つもの馬車が乗り捨てられた先程までより多少広い程度の道に出る。
これまでとは違う景色が見えた事により、少しは進展したのかと少女が安心したのも束の間、右を向けば診療所で戦ったあの獣が二匹歩いている。
初めての死を少女に経験させたという事もありトラウマになっているのか、震える脚はなかなか歩き出す事をしない。
その場に蹲り、出来るだけ息を殺して隠れ潜む。
どうやら獣が二匹ともあの場から去る事を願っての行動らしいが、残念かな獣はまるで離れる素振りを見せない。
そこで少女が思い出したのは、通りで拾った火炎瓶だ。
特に何の使い道も考えずに拾ったが、今が使い時だろう。
そう思い少女が懐を探るが、火炎瓶は何処にもない。
少女が思い至ったのは、道中拾った輸血液と共に落としたという可能性なのだが、それは杞憂に終わる。
「えっ、あ、あれ?」
無いと思っていた火炎瓶があった…というより、出て来たのだ。
先程まで確かに無かったそれは、しまった場所にしっかり入っている。
もしやと思い輸血液をしまった場所を調べれば、それが当然というように今まで拾った輸血液が出て来る。
いよいよ少女は難しく考えるのを諦めたらしく、ただ今を生き残るために火炎瓶を構えた。
少女は瓶が割れる事で火がつく事を知らないため、変形させた仕込み杖の攻撃で出る火花を利用するつもりらしい。
「…っあ、当たれ!」
気合い…というより願いを込めて投げた火炎瓶は、弧を描きながら獣の元へと飛んで行き、そして命中したと同時に火を吹いた。
「グォォォオオオッ!!」
「えっ」
意外にも広範囲に飛んだ炎は獣を二匹とも巻き込んで強く燃え上がる。
だがただ燃えるだけではトドメにはならないようだ。
"瓶が命中したら飛び出して鞭を振って火をつけよう"と、今にも飛び出そうと画策していた少女は咄嗟に身を隠し、もう一度懐から火炎瓶を取り出した。
獣は未だに少女に気が付いておらず、炎を撒いた下手人はどこかと周囲を見回している。
やがて少女の左腕から香る血の匂いを嗅ぎ取ったのか、少女のいる階段の方へゆっくりと歩き始めた。
少女もいよいよ踏ん切りがついたのか、震える脚を手の平で何度か叩き、ようやく立ち上がる。
深く息を吸い、吐き…そうして呼吸を整えた少女は勢いよく塀の陰から飛び出し、火炎瓶を振りかぶる。
「これでっ…!」
「ガァッ!ガァァァッ!!」
少女が振りかぶった火炎瓶を投げるよりも速く、二匹の獣が少女に飛びかかる。
だが時すでに遅く、少女は目の前まで近付いた獣の牙に向けて火炎瓶を投げ抜いた。
火が燃え移らないようにと素早く離れる事が出来た少女に対して、火炎瓶を喰らわなかったもう一匹の獣は飛びかかった勢いそのままに、火炎瓶を喰らった獣の方へと突っ込んでしまった。
炎は二匹を呑み込み更に強く燃え上がる、そして炎が落ち着いた時に残っていたのは、二つの獣の焼死体だった。
獣を片付け、ようやく道に出る事が出来た少女が見たのは、真っ直ぐ続くこの道の終点だ。
今少女がいるのは、そして見ているのは谷に架けられた橋であり、その終点には門が見える。
「谷の東の、聖堂街…」
記憶を失う前の少女が求めていた、青ざめた血
その手掛かりになるかもしれないとギルバートが示した少女の目的地が今、少女の目と鼻の先にあるのだ。
少女の手記
少女がギルバートから聞いた情報を書き記した手記。
狩人の夢にいた小人、使者達から受け取った物であり、恐らくこれをメモに使うのは本来の用途ではない。
とは言ったものの、そうは思わない者もどこかに居るようだ。
なぜなら少女がメモを記したそのページには、少女ではない誰かの字で「良い手記だ」と、それも複数人から複数の言語で記されているのだから。
────手記に評価がされるのなら、血痕が見えても可笑しく無い筈なのだが。