少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第二十三話、第四章開幕です。
狩人の迷走、悪夢の辺境。
「う、ん…?」
目を覚ました狩人の目に飛び込むのは、数歩先すら怪しい程の暗闇。
ぽつんと一つ置かれた灯りだけが仄かに周囲を照らしており、辛うじて人工的な建物の中にいる事だけはわかる。
頬に感じる冷たい感触は、床に寝かされているが故のものだ。
特に支障なく起き上がった狩人は、一先ず灯りに触れる事でそれを灯し、腰に提げた携行ランタンを点ける。
まだ暗闇に慣れていない目が小さな明かりにすら眩さを覚え細められるが、直ぐに周囲を見渡せるまでに回復したようで、散策を始める。
床と机の上に幾つも置かれている大きなガラス容器や、その傍に置かれた実験道具とケージなどから察するに、ここは何かしらの研究を行っている場所だろうか。
起き抜けにしてはそれなりに冴えた思考でそこまで考察した狩人は、ガラス容器の内部に目を凝らす。
少し離れただけでも曇って中が見通せないそれに半歩寄って明かりを近付けた瞬間、あまりにも異常なその光景に腰を抜かしてしまったのか、狩人はへたり込んで悲鳴を上げた。
「ひぃっ…!?」
ガラス容器の中には、びっしりと目玉が敷き詰められていた。
一つずつ丁寧に瓶詰めしている訳では無く、"実験に使う消耗品だから"と一纏めに保管しているような形だ。
消耗品だからとて実験に使うのならもう少し丁寧な扱いを心掛けそうなものだが、狭いこの部屋だけでもガラス容器が幾つも見て取れる辺り、雑に扱っても代わりは幾らでもあるのだろう。
たった一部屋でこの場の異常性を頭に叩き付けられた狩人は、夢に戻るよりもまず目の前にある扉を開ける事を優先した。
鍵も掛かっていない扉は木造な事もあって軽く開き、向こう側の空間にあった膨大な空気の末端が、狩人が目覚めた小部屋に流れ込むのを感じる。
暗いが、それ以上に広い。
吹き抜けから二階が見えており、その広さは殆ど類を見ないものだ。
開けた扉の左右には柱のように置かれた棚があり、薬品や書物が所狭しと並べられている。
そして狩人が見付けたのは、真正面にある今自分が開けた扉と同じ扉、その中に見える人面だった。
「うひっ……ひ、人…?」
ただ狩人を見ているだけで声を掛けて来るような事は無いが、逆に言えば狩人を認識しているのにとっとと扉を開けて襲いに来る訳でも無い。
"話が通じるのでは無いか"という淡い期待を込めて、狩人はその扉へと歩いて行った。
「あ、あの…」
「…ヒッ、ヒッヒッヒッ…神秘に見えるは人の幸福」
「その声…!」
「だから君は幸せ者だ。私に、感謝したまえよ」
聞き間違いようも無いその声は、禁域の森で狩人に扁桃石を渡した男のものだ。
隠された古教会で狩人を嘲笑っていたものでもあるのだが、生憎と狩人はそれを聞いていない。
今の口調も、明らかに狩人を小馬鹿にしたものだ。
「君の如き下衆者が、本来望んで得られるものでは無いのだから…ヒッヒッヒッ…!」
「げ、下衆者…」
ここに転送されてしまった狩人に対して"陥れてやった"と愉悦を感じているのだろう。
男の声音は明らかに愉快な色をしており、言葉の端々で笑い声が漏れている。
明らかにここは憤慨する場面なのだが────
「えっと、ありがとうございます。貴方に教えて貰わなかったら、来れて無かったと思うので」
「────…ハァ?」
「えっ?」
「何を…何を言っている?」
「だって、感謝しろって…」
男の顔は、途端に落胆の色に染まる。
今の今までは喜び飛び跳ねてしまいたいような衝動を抱えていた表情は、まるで楽しみを取り上げられた子供のように不満一色だ。
「…まさかここまで愚鈍とはな、失敗だった。」
「愚鈍っ…!?」
男は溜め息と共に奥へと引っ込んでしまい、その場に残されたのは訳もわからず罵倒された事で混乱している狩人のみ。
暫く考えても結局理解出来ないままで"考えるのは後にしよう"と扉に手を掛け、開かない事がわかった時点で他を当たり始めた狩人の背中には、一つの視線が向けられていた。
"まだ楽しみようはある"とばかりに細められた、歪んだ視線が。
そこからの歩みは混迷を極めた。
薄暗いどころの話では無い室内は次の順路など到底わからず、狩人はただ只管に建物内を駆けずり回るしか無い。
片っ端から扉に手を掛けて開いたものから中に入るが、その中の一つ、講堂では奇っ怪な生物に襲われる事となる。
「き、気持ち悪ぅ…」
博士帽を未だ人型を保った頭に乗せ、学生服のようなものを身に纏ったそれは、両腕の先と下半身が白く崩れた姿をしている。
講堂の出入口の傍にはその生物の纏った服と同様の装束が上下揃って落ちており、狩人は"しまったら綺麗になりますように"と祈りながら、上下共に学生服を懐にしまい込んだ。
今も狩人にゆっくりと近付く謎の生物が着ているように、これがこの場所では正装なのだろう。
姿形まで似通うべきかは、別問題として。
階段状に机と椅子が並べられた講堂の最下段には、恐らくここで教鞭を執っていたのであろう人影が椅子に座り、背もたれに身を預ける形で死んでいる。
どこのものか狩人は知る由も無いが、懐から落ちたのであろう膝に置かれた鍵は、"講義室"の鍵だ。
「ひゃんっ────…え…?」
入って来た扉とは反対にある扉に学徒の横をすり抜けて向かった狩人は、体当たりのように扉を押し開け中へ飛び込む。
その直後に背中から腰、臀部に掛けてを素早く触れた滑りのある感触に狩人が振り返れば、床に落ちている白く長い何かを見付ける。
信じられない程に伸びた"学徒の左腕"は、その指先を狩人の足下へと落としていた。
大方自身をすり抜けて進む狩人に向けて振り下ろした腕が追い付かず、何とかその指先だけが背に触れたのだろう。
「の、伸びるんですねそれ……って、女の子の体に気安く触らないでください!」
その学徒が男か女かなどわかりもしないが、狩人は伸ばした腕を戻し再び振るおうとした学徒から離れ、部屋の奥へと入って行く。
瓶詰めの目玉ばかりでろくな物が無い一室から更に扉を開けて出たのは大広間、これで講堂の探索は済んだ筈だ。
他に気になる場所と言えば、どこぞにある鍵の掛かった部屋と、広間の奥に見える大扉だ。
鍵の方はまだしも、大扉は明らかに不穏な空気が漂っている。
そちらへ進むとしても最後に回すべきだろう。
そして狩人が入ったのは、大扉の右手にある通路。
更に奥にある扉を開ければ、棚と実験道具だらけの一室が広がっている。
物音一つ聞こえないその部屋には、ただ暗闇と静寂があるのみ。
とは言え奇襲の可能性を考えて警戒しながら進む狩人が目にしたのは、カインハーストで幾度も見付けた宝箱だった。
こうも違う土地ですら同じ規格の箱が扱われている辺り、ヤーナムの地方では相当にメジャーなデザインなのだろう。
呑気に考えながら開けた箱を暗がり故か左手で漁るようにごそごそと確かめた狩人の指先に、ぐちゅりという嫌な感触が走る。
"やってしまった"と言う嫌な予感を振り払いながら腰に提げたランタンを持ち上げれば、感触の正体が姿を現す。
「うぇぇぇ…」
レッドゼリー、聖杯の儀式に使われる素材の一つだ。
なり損ないの赤子と言われる赤い物体だが、中々どうして人の胎児のように見えるその形は、狩人の嫌悪感を存分に引き出した。
やはり拾う気は起きないようで、狩人は部屋を出て探索を再開する。
ようやくと言うべきか、狩人は鍵の掛かった扉を見付けた。
見事講堂で見付けた鍵が合致し、扉が開く。
狩人の瞳に飛び込んで来た光景は、鍵を拾った講堂と良く似た配置の空間と────
「多っ!?」
四、五、六、或いはそれ以上か。
先程狩人にお手付きを敢行したものと同じ生物が、まさに視界を埋め尽くさん程に蠢いていた。
先程のように一体ぽつんといるだけだったなら、道を塞ぐような事をすれば相手していたのだろうが、これだけ多いと意地でも逃げる他無くなる。
講義室内の構造の把握を一瞬で済ませた狩人は、右手に見えた扉目掛けて一目散に駆けて行った。
それらの口から吐き出される白銀の濁った液体、恐らくは水銀であろうものを何とか避け、伸びて来る腕を直剣で斬り払う。
全てを切り抜けて辿り着いた扉を一度そうしたように体で押し開ければ、その奥はやはり暗い一室だった。
奥にはまたも宝箱が置かれており、先程の教訓を活かすように箱を開けて直ぐランタンを持ち上げ、中を照らして確認する。
「げっ────うわっわっわっ!?」
開いた箱の中には、半透明の大きな蛞蝓が一匹。
その類が苦手な狩人はこれも拾うまいと離れようとするのだが、先手を取ったのは蛞蝓だった。
一瞬伸ばされた左の手首に触れ、鼠と見紛うような速度で肩口にまで登ると、そのまま懐へ飛び込んだ。
ただ服の中へと入り込んだ訳では無く、そのまま収納されてしまったらしい。
「……えぇ?」
残ったのはその勢いに呆気に取られた狩人と、その左腕でぬらぬらと光を反射する正しく蛞蝓が這ったような跡。
ぶんぶんと振り回した後に手首のリボンには跡が残っていない事に一安心した狩人は、気を取り直して次の順路を探し始めた────のだが。
「さっきので終わり…?」
他に残された扉は二つ、そしてその内一つの扉は固く閉ざされており鍵穴も無い。
となれば反対側から開けるタイプなのだろうが、そこへ続く道も無い。
後に残ったのは、不穏な空気の流れる大扉だ。
夢に戻る選択肢もあるが、狩人としてはせっかく教えて貰ったのだから出来る限り先を見たいのだろう。
早々に悩むのをやめた狩人は、意を決して扉に手を掛け、強く踏ん張り力を込めた。
「うわっ!?」
ゆっくりと開いた扉の向こうに広がっていたのは、狩人が想像していたような普通の部屋では無かった。
ただ暗いだけ、ただ闇が広がるだけ。
不穏どころの話では無いその暗闇に、狩人の体は逆らえず、呑み込まれて行った。
目を開ければ、そこは今までとは全く違う景色だった。
ごつごつとした岩ばかりが見える壁に、平たい小石が積まれたオブジェ、外から差す光は夜とは思えない明るさだ。
まるで昼間のような光に、狩人は懐かしさなど覚えない。
そもそも昼など見た記憶が無いのだから、仕方の無い事だろう。
だが知識として知る昼の光に似たそれを、狩人はずっと求め続けているのだ。
「…飛ばされてばっかり」
先程の空間もそうだが、ここにも謎の力で転送されてしまった狩人は、近くに見付けた灯りを灯しながらそうぼやく。
それでも狩人は未だに男の言葉を信じている。
この先へ進めば、きっと彼が言っていた"力"となるものがあるのだと。
ランタンの明かりを消し、唯一の出入口から外に出れば、そこは断崖絶壁とも言える高所。
端から下を覗けば地面が見えない事も無いのだが、どちらにせよこの高さでは落ちた場合即死だろう。
右には人工物、塔のような建物が見える。
その下には広場のようなものもあるのだが、狩人の視力で見る限り広場には何も無いようだ。
暫定的な目標として、狩人は塔を目指す事とした。
直ぐ左の坂を登って行けば、そこは墓石のような物体が所狭しと並んだ広場のような空間だった。
オドンの地下墓地然り、ヘムウィック然り、狩人は墓地に良い思い出が無い。
尤も墓地に良い思い出がある人間の方が限られるとは思うが。
正面には銀色の獣、奥には恐らく下り坂であろう段差。
左右の坂も登れない事は無いだろうが、先には何も無いだろう。
狩人は息を潜め、銀色の獣から距離を取りつつ奥へと向かう。
幸いにして索敵範囲が広くは無いようで、獣が立ち上がるような事は無く奥へと辿り着く事が出来た。
銀色の獣の直ぐ真下には浅い洞窟のようなものがあり、人口の明かりも見える。
だが洞窟に入って直ぐの床が見えない事と経験則から、狩人はそれがショートカットの類であると見切りを付け、他の道を選ぶ事としたらしい。
残っているのは最初に見付けた下り坂と、左手に見える上り坂。
"最後には下へ向かうのだから"と、狩人は左の坂を上って行った。
「…あれはダメかな」
先程とは違い左右に余裕が無い道の真ん中に、それはいた。
人面の寄せ集めに足が生えたような見た目の何か、今までに何度か見覚えがあるシルエットだ。
狩人からすれば獣と言う他無いが、それは"彷徨う悪夢"と呼ばれるもの。
狩りに有用なものを体に内包しているのだが、今まで狩人はそれを狩った事が無かった。
が、故に。
「よいしょっ!…と、何これ?」
武器を変形させ大剣とし、勢いのままに叩き潰す。
そうする事で逃がす事無く一撃で仕留めた狩人は、死体の中に石のようなものを見付ける。
普段なら石など獣を誘導する時に扱う小石を拾うくらいの狩人は、何故か酷く興味を唆られた様子でその石を手に取った。
血のような赤、と言うよりは血そのものだろう。
二つ程落ちた四角柱のそれは、"血石の欠片"と言う工房で武器を強化する為の素材だ。
他がどうかはさておき、狩人は血石に美術的な価値を感じたらしく、懐へしまい込み先へ進む。
そうして現れたのは今し方潰した見覚えのある小さなものでは無く、間違い無く初対面の姿形。
彷徨う悪夢を肥大させ、尻尾を生やしたような化け物がそこにいた。
「せいっ!────おわっ!?」
大剣で叩き潰すだけとは行かず、一度の攻撃では仕留めきれ無かった事で悪夢が反撃に出る。
勢い良く振るわれた尻尾は狩人の体を掠める事も無かったが、逃げる隙を生む事に成功した。
とは言え悪夢の逃げ足などそう速いものでは無い。
奴らが巧く狩人達から逃げ果せるのは、近くに獣がいる時の話だ。
前方、悪夢の方へと跳躍しながら振るった大剣が、悪夢をサンドイッチにでもするかのように地面へと叩き付ける。
挟み込まれた悪夢はそのまま絶命し、小さいものとよく似た戦利品を六つ落とした。
六つと言うより、三つと言った方が適切だろうか。
引っ付いているようでただ端が繋がっているだけのそれは、"血石の二欠片"だ。
つい先程拾った血石の欠片の上位素材となるのだが、狩人はそんな事を知る由も無い。
ふと、狩人は懐から一つの塊を取り出す。
「……これが割れたやつって事…?」
その手に握られているのは、"血石の塊"。
カインハーストの城にて狩人を襲った蝙蝠が落とし、狩人が見目を気に入った事で拾い上げたものだ。
血石の欠片と二欠片はこれと似通った形をしており、塊を砕けば似たような形の欠片が出来るのだろう。
"塊の方が貴重な気がする"と砕くような事をせず、狩人はそれらを一纏めにしまった。
「あれも…獣?」
狩人の視線の先にいるのは、白く大きな人型。
────と言うには、些かパーツが足りていない。
何が足りないのか、一目見ればわかるだろう。
人間どころか生き物であるならば無くてはならない部品、頭が存在しないのだ。
後ろ姿しか見えていないが、体が続いているのは肩の高さまで。
前傾している可能性も、あの様では薄いだろう。
好戦的になった訳では無いが、後顧の憂いは断つべきだ。
つい最近聞いたばかりのその言葉を胸に、狩人は直剣を構えジリジリと近付いて行く。
途中で蹴飛ばしてしまった石がその巨体の足にぶつかってしまったのは、決して友の言葉を思い出した事で感傷に浸っていたとかでは無いだろう。
────きっと、恐らく。
「オォォォ…?」
「ひぇっ…あ、ご、ごめんなさぁい…」
「オォォッ…!」
「ぅぐっ!?」
振り返った巨人は、凡そ胸であろう部分に顔が付いた異形をしていた。
見るからに一般の生物からかけ離れている巨人に腰が引け始めた狩人に、長い腕が振り下ろされる。
慌てて直剣で受け止めた狩人は、その威力に目を回しながらも距離を取った。
重い一撃だったが、即死してしまうようなものでは無い。
狩人の痩躯では当たり所が悪ければ何だろうと即死ではあるのだが、詮無き事だ。
どうやら素早さはそこまで無いようで、今も狩人に追い付くのに時間が掛かっている。
明確な弱点を見付けた狩人は、受け止めた際に強打してしまった肩を癒す為に輸血液を一本注入し、銃をしまいつつ低く構えて駆け出した。
「まずは足…!」
振り下ろされる腕を躱し、背後に回り込んだ狩人は、膝裏に両手で構えた直剣を叩き込む。
常なら片手で振るう直剣を両手で振るったのは、速度と威力の両立の為だ。
その考えが功を奏したか、巨人の右膝は半ばまで断たれ、片膝を着く。
狩人は大きな隙を逃すような事はせずに即座に鞘を下ろして地面に突き立て、膝から駆け上がると持てる限りの力で肩を足場に跳躍し、自身の体で出せる重さを乗せた直剣を頭部であろう場所へ突き込んだ。
「グゥゥッ!オォォッ…!」
「あだっ」
刃は運良く心臓部に突き刺さったようで、一瞬の暴走の後に巨人はその場に倒れ込む。
体の前面側にいた狩人はうつ伏せに倒れた巨人の体に潰されそうになるが、思いの外巨体は軽く、ダメージは地面に背中を強打した事によるものだけだった。
起き上がり次の道を探す狩人は、今いる道から更に下の沼を見やる。
どこかで見覚えのある沼は、確か禁域の森で見たものだ。
ヨセフカの診療所へと繋がるあの空間と、この沼はよく似た臭気をしている。
或いはこの沼津全体が毒なのだろうか。
「あれってさっきの…貴重っぽいしなぁ」
嫌な想像をしながらも順路を探す狩人が沼の中心に見付けたのは、小さた彷徨う悪夢が三匹と、大きなものが一匹。
わざわざ毒に飛び込んでまで拾いたくは無いが、狩人はここで妙案を思い付いた。
懐を漁り取り出したのは、幾つかの火炎瓶。
旧市街で使い果たした後何度か拾う事で補充したそれを、悪夢の群れに向けて投げ込む。
二つ、三つ、四つと投げた所で大きな悪夢も絶命し、倒れ伏した。
これで狩人が存在を忘れない限りは、毒沼で戦う事無く血石を拾えるだろう。
狩人の見る限りでは更に奥へと進む道もあるのだが、どうやら一度来た道を引き返す事にしたらしい。
理由は毒沼の中を素早く横断出来る道を探す為というだけでなく、直ぐ傍にもう一つの道を見付けたからだ。
下へ向かうと言うならば、こちら側よりもずっと早いであろう道。
ショートカットのような絶大な短縮では無いだろうが、早いに越した事は無い。
地面に突き立てていた鞘を背負い直し、狩人は来た道を戻る。
もう一つ見えていた下り坂の方へと入ってみれば、そこには大きな彷徨う悪夢が一匹と、松明を持った銀色の獣が一匹。
同時に倒さなければ、悪夢の方は逃げてしまうだろう。
どうせ戦うのなら、戦利品は多い方が良い。
狩人は直剣を背中側に回し、大剣へと変形させる。
変形音に気付いたのか、悪夢は足をじたばたと動かし逃げようとするが、逃がすまいと飛び掛かり大剣を突き刺して地面へと縫い付ける。
当然それに気付かない獣では無い、立ち上がった銀色の獣は左前脚の爪を伸ばし狩人へと振り被る。
「ギャァァォッ!」
「ふっ!」
横薙ぎに振るわれた三本の爪を躱すと、狩人は今し方地面に突き立て悪夢を今も縫い止めている大剣の柄に手を掛け、直剣だけを抜き放った。
狩人は抜剣の勢いそのままに獣の首元へと刃を叩き込んだ────筈、だったのだが。
「硬っ…!?」
「ギャアッ!!」
「あぶなっ…このっ!」
傷は付いたが斬り裂くまでは至らず、浅い筋を刻んだだけで剣は獣の体を撫ぜて行った。
斬られた痛みによって激昂したのか、獣の攻める手は苛烈さを増すが、それすらも避けきった狩人は取り出した短銃を獣の攻撃に合わせて放つ。
「流石に、これは…ねっ!」
パリィは完璧に成功し、喉を貫いた刃は捻り回され、獣の首をくり抜いた。
呻き声すら上げられずに絶命した獣から視線を外した狩人は、悪夢の体に一度直剣を突き刺し、鞘をその体から引き抜く。
落ちたのは血石の二欠片だったが、数が数なのだから儲けものだ。
「よ、い…しょっ!」
坂を下りた先には、またも彷徨う悪夢と銀色の獣が一匹ずつ。
最早見慣れてしまった歩く宝箱を大剣で叩き潰すと、動きの流れを止める事無く獣に向けて真一文字に振り抜く。
直剣では重さが乗らず上手く刃が通らなかったが、大剣ならば話は別だ。
防御に入った右前脚を切断した大剣の刃はそのまま胸元を浅く斬り裂き、角度を変えての振り戻しが傷を十字に変える。
「グギャァァッ!!」
更に寝かせた刃の底面を蹴り上げる事で大剣を持ち上げ、痛みに叫ぶ口に向かって振り下ろす。
一度流れを切ってから持ち上げるには時間が掛かるからと選んだ手段だが、どうやら足へのダメージを度外視していたようだ。
ジンジンと痛む右足の指先を浮かせながら歩く狩人は、彷徨う悪夢が落とした二つの欠片を拾い、痛み止め程度の感覚で輸血液を注入して何とか歩き始めた。
自然のものであろう石橋の下を潜って行けば、今までもちらほらと見えていた小さな石碑が更に数を増して来る。
中には気色の悪い大きな石碑もあり、血が滴っているような様のそれの不気味さに当てられたのか、狩人は少しばかり居心地が悪そうにしている。
そんな狩人の真正面から駆け寄って来たのは、片手に獣狩りの斧を持った狩人だ。
だがその格好は同僚を見付けたから走って来たと言うよりは────
「敵っ…!?」
未だ数メートルの距離が離れており、お互い間合いの外だが、目の前の推定男は斧を長柄に変形させる事で敵意を表して見せた。
全力疾走の勢いそのままに振るわれた斧を、狩人は即座に変形させた大剣の腹で受け止める。
そのまま鍔迫り合いのように大剣の腹と斧の柄が交差し、後は膂力での押し合いだ。
尤もそれも、闖入者がいなければの話だが。
「げぇっ!?」
淑女らしからぬ声を上げた原因は、目の前の男の肩越しに見えた向こう側の景色だった。
右手に仕込み杖を構えた狩人が、これまた全力疾走で向かって来る。
獣ならば慣れた相手なら二匹同時でも何とか出来はするだろうが、今回は人、それも狩人だ。
人数差、体格差、地の利。
全てを取られた狩人が打つ手と言えば、そう。
「さよならーっ!!」
逃げである。
大剣を全身全霊で押し込み迫り合いに勝利した狩人は、武器をしまって出来る限り身軽になり、先程二人がそうしていたように全力で駆け出した。
勿論二人の狩人も追って来るが、一目散に逃げの一手だけを取る狩人には追い付けそうも無い。
やがて狩人が巨人を倒して辺りまで走った所で振り返ると、二人共すっかり撒く事が出来ていた。
「はぁ…はぁ…よ、良かったぁ…」
当然戻れば二人共が迎撃に来るであろう事を考えれば、一つ道が閉ざされた為良くは無いのだが、一先ず良しとして狩人は他の道を進んで行く。
毒沼を挟んで向こうに見える対岸へ向かおうかと考えた狩人は、ふと石橋の存在を思い出した。
二人の狩人と出会う前に通ったものだが、その向こう側へ行く為にあの二人も戦うよりは、予めその先を確認しておいてまた逃げ走る方がマシというものだろう。
「おわぁっ!?────…って、小人さん?」
そんな考えの元石橋を渡った狩人の足下に、唐突に使者が現れた。
手に持っているのはスクロールでは無く、単なる羊皮紙のようだ。
使者は丸めたそれを開き、狩人に内容を見せてくれる。
『この先、神秘に見えるぞ。』
「神秘…」
『それは神秘、きっと狩りの力になる』
「……あれの事…?」
何と、狩人は神秘なるものへの足掛かりを掴んだのだ。
あの男に教えられた狩りの力となる"神秘"、狩人はそれを求めてやって来たのだ。
"下衆物だ愚鈍だと言われた時はどうなる事かと"と不安に思っていた事を恥じながら、狩人は光る石に誘われて崖際へと近付いて行く。
「…草?」
神秘とは何かと考えを巡らせながら辿り着いたのは、数輪の花、その蕾の前だった。
未だ花開かず、されどその時は近い。
そんな様子の蕾に目を奪われた狩人は、しゃがみ込んで手を伸ばす。
咲きかけの蕾を手に取る事の、何と甘美で罪深き欲か。
きっと狩人はその欲に眩んでしまったのだろう。
「んぐっ!?」
どんと重い音が狩人の背中に響く。
体当たりか、狩人はしゃがみ込んでいた為に踏ん張る事が出来ず、崖を落下して行く。
「ふぎゃっ!」
出来る限り通りたくないと考えていた毒沼に顔から落ちた狩人は、髪に滴る毒液を振り払い、上へと視線を向ける。
つい先程まで狩人がいたその場所からは、聞き覚えのある声が聞こえて来た。
勿論真面な声では無く、嘲笑うような声色だ。
「ウヒャハハハッ!ヒャアハハハハッ!愚図愚図するなよ、幸せ者が!」
「…えっ」
助言と扁桃石を与えてくれた男の声、あの不気味な空間で扉越しに自身を罵倒したあの声。
カタカタと蜘蛛が歩くような音と共にそれが聞こえて来た事で、狩人の思考は一時的に限界を迎えた。
「お望みの神秘がやって来るだろうさ!」
ぽかんと開いた口は、呆れなどでは無く混乱と困惑によるものだ。
停止していた思考が動き出し、言葉の意味を理解し。
そうして今度は顔へと熱が昇って行く。
沸騰しそうな程に真っ赤に染まった顔には、怒りや悲しみと、何より羞恥が綯い交ぜになって浮かんでいる。
「ヒヒャハハハハッ!!」
「んなっ…なぁっ…!」
わなわなと震える肩は怒り、なかなか立ち上がれない足は悲しみ。
ならば恥はどこに現れるのか。
人間が己の感情を表すものとして代表的なものと言えば、最も────いや、二番目にわかりやすいものである"表情"と、"身振り手振り"。
そして何より簡単に、簡潔に伝える事が出来る方法。
「だ、騙したなぁーっ!!!」
"言葉"に出さなければ伝わらない事もある。
今の今まで歩いて来た夜の中でも一、二を争うであろう声量。
まさかこのような所でする事になるとは思いもしなかったであろう程に張り裂けんばかりの絶叫が、悪夢の辺境、その更に片隅に響き渡った。
尤も今の狩人の状態を見れば、叫ぼうが叫ぶまいが"騙された事に憤慨している"という事は、手に取るようにわかるだろうが。
死血花の芽生え
棄てられた場所で死血に芽生えるという、青白い植物。
狩人が今も倉庫の肥やしにしている聖杯、その儀式に必要となる素材の一つ。
蜘蛛の男は確かに狩人を騙し、自身の愉悦のままにそれを罠に利用した。
だがそれは奇しくも神秘の一端であり、ただ無防備な背中を突き飛ばしたというだけで、全てが嘘とはならなかったのだ。
それを知った所で、狩人の怒りが治まる筈も無いのだが。