少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第二十四話、辺境の続きです。
ただでさえ噎せ返るような臭気で鼻が曲がると言うのに、その沼は一歩足を持ち上げる度に煙を上げるようにして狩人の体に毒を蓄積させて行く。
早々に抜けなければ不味い、それは理解している。
だがあの忌々しき蜘蛛めに突き落とされた以上、この機会を有効活用してやるべきだ。
案の定、狩人はムキになっていた。
「こっちで、合ってるはず…!」
狩人が向かうのは突き落とされた崖から見て右手、彷徨う悪夢達を火炎瓶で葬った方向だ。
奥にはまだ進む道があるように見えたが、一先ずは血石の回収を目指しているらしい。
道の途中にいる軟体生物を気味悪がりながらも避けて進む狩人は、それらが自身目掛けて吐き出した液を慌てて回避した。
「おわっ!?────…これも毒…!?」
毒に棲む者に毒があろうと差程不思議では無いが、こうも気が滅入るバッティングもそうは無い。
うねうねと動く触腕に捕らわれぬよう端を歩いていたからか、先に狩人の耐性に限界が来てしまったようだ。
視界にノイズが走り、頭がふらふらと熱を持つ。
体は重く、足は更に重い。
段々と持ち上がらなくなり始めた腿に喝を入れるついでに、狩人は輸血用の針を突き刺した。
荒く刺したからかじくじくと痛むが、その痛みのお蔭かそれとも輸血液の効能か、視界はゆっくりと明瞭になる。
とは言え一時的に凌げただけに過ぎず、ここを抜けなければまた同じように体力を削られる事となるだろう。
そうならない為にも、狩人は更に足を早めた。
「あった…!」
石橋の下を一つ抜けた先にあった広い沼の中央に、光を反射する塊が幾つか落ちている。
それら全てを回収した所で、狩人に新たな苦難が降り掛かった。
「なんの音────ひぃっ!?」
勘づいた瞬間に、両足がその場から飛び退く。
直後、狩人がいた地点には大岩が落下して来た。
砕けたそれらは尚大きく、欠片と言えど当たれば一堪りも無いだろう。
狩人の体なら直撃を受ければ一撃死も有り得る程だ。
「ど、どこから…?」
周囲を見渡す狩人の目が捉えたのは、右手側の高所。
先程倒したものと同様の巨人が、次弾を持ち上げた所だった。
今回はただ飛び退くような事はせず、明確に次の目的地を目指して逃避を行う。
血石を拾い集めているのは、無意識下で"それは得だ"と狩人がそう思っているからだ。
恐らくこの逃避もその類なのだろう。
目指すは最初に見付けた塔の付近。
となれば一度低所に降りる事となったのは僥倖と言える。
来た道を戻り軟体生物の脇を抜け、再び霞む視界を輸血液で無理矢理晴らす。
そうして狩人は、もう一つの大沼に辿り着いた。
久々のまともな陸地に乗り上げ目の前にいた小さな悪夢を殺し、血石の欠片を拾う。
半ば収集癖に近い物欲に、だがそれを打ち砕くようにして大岩が降り注いだ。
掘り出す音と声は近い、という事は────
「上!?」
「オォォォッ…!」
追い立てるように投げ付けられる岩は狩人に当たらず、その実否が応でも理解出来るその威力に、狩人は心の底から恐怖している。
人間は頭に岩が落ちて来たら死ぬのだ。
進もうと思っていた洞窟の方向にも岩を投げる巨人がおり、手立ての無くなった狩人は更に毒沼を横断して行く。
時折軟体生物の触腕に足を絡め取られ毒沼に顔を突っ込んだりもしながら進んだ先には、恐らく毒沼より一段高いであろう陸地が広がっている。
土産とばかりに投げられた最後の岩を避けつつも、一安心した狩人はそちらの方向へと進んで行く。
「…何もいない?」
今狩人が歩いている陸地、というよりも本来の道には、敵が全くいなかった。
それもその筈、今狩人が歩いて向かっている方向には────
「げぇっ」
この声を上げるのは辺境に来て二度目であり、向けた相手は一度目と同じ。
仕込み杖と獣狩りの斧、それぞれの武器を片手に構えた二人の狩人が、またも後輩目掛けて走って来ていた。
岩を避けていた時よりもずっと必死な様子は、やはり怪物相手よりも人相手の方が心を抉られるからだろうか。
この夜で何より血に酔った狩人達を恐れるのは、何も間違った事では無いのだが。
「ひぃぃっ…!」
逃げる先は毒沼しか無く、一度足を踏み入れてしまえばもう振り返る余裕など無い。
見慣れてしまった軟体生物を大回りに避けて行けば、またも大岩が飛んで来る。
逃げる事を目的としていた為か深入りし過ぎたようで、いつの間にやら毒沼の中心を走っていた狩人を襲う岩は三つ。
そのどれもが別方向からのもので、狩人は逃げる方向を決めきれず、ただ沼をぐるぐると回るばかりになってしまった。
輸血液を二本ほど消費した所で埒が明かない事に気が付いたのか、狩人は岩が飛んで来る方向で唯一沼と同じ高さの洞窟へと足を向ける。
元々目指していた場所であり、且つ方向的には塔の方へ近付いている筈なのだから、何も問題は無いだろう。
沼を一歩抜け、足に絡む感覚が無くなった瞬間、狩人の体が加速する。
構えた直剣は巨人の体に通りきらないが、手傷を負わせた事で調子が付いた狩人の攻撃は苛烈に────
なってしまった、せいなのだろうか。
攻撃ばかりに集中していた狩人は、自分の体力が毒で思いの外削れていた事と、ここがまだ洞窟の入口である事をすっかり忘れてしまっていた。
毒の影響で四度目の攻撃を加えようとした腕は持ち上がらず、持久力を使い果たした足では瞬時に回避を取る事も出来ない。
そんな状況の狩人に、二つの大岩が飛来した。
「ぅぐっ!ぎゃっ!?」
一つは距離があったからかごく至近とは言え直撃は免れたが、その大きな破片の幾つかが狩人に当たり、骨が軋む程のダメージを与える。
そしてもう一つ、未だ距離はそう離れていない巨人から投げられた岩は、狩人の左肩を中心に頭部から腰にかけてを直撃した。
狩人の膝はその場で折れ、地に着く。
最早トドメの一撃など必要無しに狩人は倒れ伏し、絶命した。
もう一度言うが、人間は頭に岩が落ちて来たら死ぬのだ。
「…僕は、大丈夫」
再びの悪夢の辺境。
あの蜘蛛男めに騙されたお蔭で迷い込んだとは言え、一度死んで諦めると言うのも癪に障るらしく、狩人はリベンジを敢行する。
先程の死の直前に歩いていた陸地で狩人二人と見えたという事は、石橋の下を通る道はあの毒沼と繋がっているという事だ。
"敵が強いのだから仕方無い"と誰にでも無く心の中で言い訳をした狩人は、自分が最も得意とする戦法に打って出た。
「ギャァァァッ!!」
「グゥゥッ!!」
「来ないでぇぇっ!」
それは既に何度目かもわからない、逃げであった。
夢の狩人達の中には、これも立派な戦法と理解出来る者も少なくは無いだろう。
辺境を走り抜け大岩を避け毒沼を横断し、そして今度こそ油断する事無く巨人の足下をすり抜け、落とした遺志を拾いながら先に洞窟の中へ入る。
これで岩への警戒は必要無くなった。
輸血液を一本注入した狩人は、振り向く巨人の動きに合わせて刃を滑らせる。
体の動きと同時に振り回された腕と刃がぶつかり合った瞬間、その膂力が十全に発揮されたが故か、狩人の体が僅かに浮き跳ねた。
「っぐぅっ…!」
回された腕を"攻撃だ"と捉えた瞬間に刃を寝かせ防御姿勢を取った事もありダメージは少ないようだが、それでも大岩を持ち上げ投げ飛ばす程の膂力と体格差によって押し切られ、狩人はその背中を洞窟の岩壁に打ち付ける事となる。
粘度の高い毒沼を走り抜けた上に、その先では無理矢理攻撃に転じて戦闘を始めたからか、先程同様持久力が足りていない。
幸いにして足の遅い巨人は殴り飛ばした狩人を未だ間合いに捉えておらず、その様子を見てか狩人は輸血液を取り出す。
「はっ…はぁっ…つ、使い過ぎかな…」
輸血液を見付ける度に、敵が落とす度に拾っている事もあり、そうそう在庫が尽きる事は無いだろう。
"それでもこのペースは不味い"と焦る心を静かに落ち着かせ、姿勢を直す。
岩壁を擦るのでは無いかという程に広げられた腕が、狩人の頭を目掛けて振り抜かれる。
それを屈んで避けた狩人は、直剣を変形させ、立ち上がる為に使った足のバネを利用して攻撃に反動を付ける。
「オォォォッ!」
「遅いっ!」
一度振り抜いた拳を裏拳のように引き戻し、攻撃を重ねる巨人だったが、それよりも先に狩人の大剣が巨人の腹に辿り着く。
攻撃の為に体を捻った事で脇腹の防御力は下がっており、カウンターのように入った攻撃は腹の半ばまで刃を潜り込ませ、斬り裂いた。
辛い戦いではあったが、巨人自体には差程苦戦はしないで済む程度の技量が備わっている事に自身の成長を感じているのか、狩人は普段よりも長く息を吐きながらその場に座りこむ。
追手はいないのだから、もう少し休んで行こう。
その程度の余裕はある筈だ。
毒のせいで輸血液をもう一本使う羽目にはなったが、ある程度休まった所で狩人は腰を上げる。
心に幾許かの余裕が出来て思い起こされるのは、忌々しい男の声。
途轍も無く恨んでいるだとかでは無いが、そうで無いのがより腹立たしい。
"これならいっその事、心の底から恨むくらいの悪行をしてくれたら"などと思う狩人もまた、獣狩りの夜に染まっているのだろう。
洞窟は短く、背後には直ぐ出口が見えている。
出口の直ぐ横は崖際で、その向こうは下が見えない程に高い。
雲のような霧のような何かに覆われているせいで正確な高さがわからないというのもあるが、狩人はその霧の中に気になるものを見付ける。
「何あれ…旗…?」
正しくは船のマストだ。
朽ちた帆船の帆の先が霧から顔を出しており、その一部が狩人の視界に入ったまで。
気にはなるが、あの帆船の傍まで行ける訳では無い。
思考の片隅に置きつつも、狩人はそれを無視して目的地を目指す。
"出て直ぐに岩が飛んで来たりはしないか"と警戒しながら洞窟を出た狩人が目にしたのは、今の今まで目指していた謎の塔と、そこへ続く坂道。
そしてその坂を歩いている、岩や巨人、ましてや他の狩人達よりもずっと恐ろしい存在だった。
「ひっ、ぁ…」
呼吸がか細く、早くなる。
上手く息が吸えず、段々と胸が苦しくなる。
その癖心臓は早鐘を打ち、情報量と酸素量の低下に耐えきれなかった頭が混乱一色に染まり、視界は白がちらつき始める。
幾度となく見たその服、自分をずっと支えていてくれた彼女が着ていたその服。
見紛う事無き人形の服を着た体の首から上には、丸まった狩人が一人入ってしまうのでは無いかと言う程に大きく肥大化した脳が乗っている。
「ぁ、ぅ…」
声が出ない。
息の仕方を忘れてしまったのではと言う程に呼吸は薄くなり、狩人はその場に膝を着いてしまう。
大きな脳にはびっしりと瞳が生えており。
その内の一つと、目が合ったような気がした。
「ぁぐっ…!?」
瞬間、狩人の胸が鋭い痛みを発する。
敵か、あの異形に目を奪われた隙に近寄られたのか。
回りきっていない頭で何とか思考を整えようとする狩人の背後には、何もいない。
胸の痛みは敵の攻撃などでは無く、狩人自身の恐怖に拠るもの。
足取りは軽く、発する声は歌声のようで。
だがその異形の存在によって狩人の中に芽生えた狂気こそが、槍となって狩人の胸を内側から突き破っていた。
「ぅ、ぐぅぅっ…!」
訳もわからず涙が溢れるが、ただ泣いているだけでは何も変わらない。
血は吹き出している、痛みもある。
だと言うのに体にダメージが蓄積している感覚は無い。
その現象にすら恐怖を覚える狩人は、必死に這いずり洞窟へと下がる。
肩口、背中からもう二本の槍が突き出た所で、ようやくその痛みは止まった。
「な、なんで、人形さんの…」
知らないのに知っている。
その感覚は何も人形の服に対するものだけでは無い。
あの異形を、狩人は知っている。
記憶に無い記憶を自覚した狩人の頭を、更なる痛みが襲う。
直前に胸に走ったものよりもずっと鋭く重いその痛みに、流れていた涙は更に勢いを増した。
「はぁっ…ぐずっ、ぅぁ…」
"もう見たくない"
"もう近付きたくない"
それなのに、体は向かおうとしている。
記憶に無い記憶が、あの向こうへ行かなければと指し示している。
何より、狩人の力となった光球は、あれを真に敵だと定めている。
混乱のままに立ち上がった狩人は、直ぐ様駆け出した。
嫌だ嫌だと心が訴えているのに、体は何者かに主導権を握られたかのように異形へと近付いて行く。
常では有り得ない迷いの無い動きで即座に異形の目の前に辿り着いた狩人は、直剣を異形の胸元へ突き立てる。
硬質な感覚だが、直後には感触以上の不可思議が起こった。
「ぇ…?」
異形の脳から腕が伸び、狩人を抱擁する。
同時に人形の体の腕が脇の下を潜って背中に回され、優しく撫で摩る。
懐かしいような、寂しいような、悲しいような。
綯い交ぜになったその感覚に、狩人はまたも涙を流してしまう。
己の体から槍が突き出る痛みも最早意に介さず、ただただ涙を流し続ける狩人は────
「あ…」
遂には頭から突き出た無数の槍によって、絶命した。
「ひぅっ…」
夢へ戻った瞬間視界に入った人形に、狩人は息を吸い込むような恐怖の声を上げる。
ごく小さいものだが、人形に不信を抱かせるには充分なもの。
あの異形は何なのか、それはわからない。
きっと人形に聞いてもわからないと答えられるのだろう。
故に聞きはしないが、確認の為だろうか。
狩人は人形に近付き、抱擁を求めた。
「狩人様…?」
無言の抱擁、だがそれは自分にもするように求められているのだと人形は察する。
ひしと人形にしがみつくように抱き着く狩人を人形もまた抱き締め、優しく撫で摩る。
その手付きはあの異形と良く似通っており、痛い程に安心してしまう手付きだった。
「ぐずっ…っふ、ぅぅ…」
「………」
人形は狩人が何を見て来たのか、何を成して来たのかなど知りもしない。
だが今聞くべきでは無いとして、ただ優しく抱き、頭と背中を撫で続けた。
やがて呼吸が落ち着いた頃、狩人は今までずっと心に秘めていた弱音を、吐き出したくても何かが壁となり上手く吐き出せなかった弱音を晒す。
「…もう、狩りなんてしたくない!」
わんわんと泣き喚きながら人形の胸に顔を埋めて、必死に弱音を絞り出す。
くぐもった声は悲鳴にも聞こえ、人形の腕にほんの少し力が込もる。
「狩りなんてしたくない…お家に帰りたい…!」
「………」
「僕のお家はどこにあるの…お父さんもお母さんもわからないのに、夜が明けたらどこに帰ったら良いの…?」
やっと落ち着いたかに思えた呼吸はその絶叫で荒くなり、それを落ち着けるように抱擁は強くなる。
どれだけ吐き出しても足りない不満を、心行くまで吐き出させようと。
きっと長い時間が掛かるそれに付き合おうと人形は、狩人達の世話役は、愛する少女を抱き上げた。
「嫌だよ…何もわからないのに、なんでわかるの…」
今までも、狩人の動向には不自然な部分があった。
道筋など記憶にあろう筈も無いのに、何かに導かれるようにその歩みは結果を齎した。
これまでの器通り導きの光球に拠るものかとも言えるが、だとすればあの異形"ほおずき"の記憶は何なのか。
考えても考えてもわからず、少女は更に不満を叫ぶ。
「なんで死んでも死ねないの…ずっと夢から出られないの…?」
夢に囚われた狩人達は、夜が明けるまで死を許されない。
或いは夢を見なくなる方法も、何処かにあるのだろうが。
「…普通に死にたいのに、あんなの…」
少女を抱き上げた人形は、石段に腰を下ろす。
その安らかな振動を感じながら思い起こすのは、様々な死因。
自分のものだけで無く、殺めた罹患者達のものも。
左手に巻かれたリボンの持ち主の事も。
「あんなの、人の死に方じゃない…」
死の否定では無いが、それに近しいもの。
少女に一般常識は無い。
自身に関する記憶は無く、それに付随し自身が学んだ記憶の大半も消えているからだ。
虫食いのように歪な残り方をした記憶によって形成された自我は、まるで狩りに引っ張られるように夜の知識で穴埋めされて行ってしまった。
「狩人様」
「…ん」
その呼び掛けに、少女は一度人形から顔を離す。
これ以上甘えていたら戦えない。
"何故戦う必要があるのかはわからないが、体が求めているのだから心で否定しても無駄なのだろう"
そうしてまた狩りの思考へと切り替わり始めた少女を、人形は放さなかった。
一度抱擁を解くと、両手が少女の頬に添えられる。
「では、辞めてしまいましょう」
「…え?」
「たとえこの夢が貴女の枷となっていても、私は貴女を愛していたいのです。だから、貴女にはこの夢に帰って来て欲しい」
「……うん」
「この気持ちは…きっと愛と呼ぶのであろう感情は、貴女が狩りを辞めたとて、揺らぐものではありません」
『…これは、我儘と言うのでしょうか…でしたら私は』
あの時、少女は笑いながら"それは心配だ"とそう言った。
確かにそれは合っているのだろう、だからこそ人形は────
「今私が貴女に向けているのは、紛う事の無い我儘です」
「……」
「どうか、私の我儘を聞き入れては頂けませんか。貴女を愛させては、貰えないでしょうか」
頬を両手で包まれ目を逸らせない少女は、真っ直ぐな瞳に心を覗かれているような感覚を覚える。
きっと人の手で造られた人形故の曇りの無い瞳なのだろう。
人工物であるからこそ綺麗なのだろう。
理解している筈なのに、少女はそこに感情を見い出せずにはいられなかった。
「…好きに、してください…人形さんの気持ちは、人形さんのものなんですから」
ただ愛を確認しただけ。
何も解決しておらず、何も理解出来ていない。
前になど進めておらず、少女の心の傷は欠片も癒えていない。
楽になど、なっていない。
逆に背負う荷物が増えたような気さえするのに、"進まなければ"という誰に植え付けられたのかもわからない感情は、一層強いものとなっていた。
「…ごめんなさい。狩りは、続けます」
人形から離れ、少女は進み始める。
目的は無い、目標も無い。
夜明けを見れば何かがわかるのでは無いかと、藁にも縋るような思いで。
きっとそれは、少女だけの感情では無いのだろうが。
「…行ってらっしゃい、狩人様」
人形も引き留めるような事はせず、ただ見送る。
今の状態の少女に心配が無い訳では無い、寧ろ心の底から案じているだろう。
だが人形はあくまで"夢の狩人の世話役"であり、それ以上の権限の持ち合わせは無い。
この場にいる二人共が、"狩人"を止める術を持たないのだ。
にしてもまさか、人形の口から"狩りを辞めてしまおう"などという提案を聞く事になるとは。
変わり映えしない周回の中での異常。
或いは特異点とも呼べるであろう変化。
何かが起こる前にとも思うが、もう少し見守らせて貰おうか。
死を迎える度、狩人の業は鋭さを増す。
最も顕著に現れていたのは、血に渇いた獣との戦いだろう。
夢に洗い流されるとは言え、苦しみの記憶が消える訳では無い。
それ故毒を受けて死を迎える度に体調や精神状態は酷いものへと変わって行ったが、それでも繰り返しの度に技量は冴えを見せていた。
瞳に宿った光が翳りを見せるのがその証拠となる。
狩人を狩人たらしめる技量の元こそが、その瞳から覗いているのだから。
けれど、狩人自身がそれを知覚している訳では無い。
"自分が何者なのか"、"何故ヤーナムに来たのか"、"何故狩りを続ける事が出来ているのか"
或いは進み続けた先に答えがあるのやも知れないからこそ、ただ体に引かれるだけで無く、自身の意思を持って進むのだ。
三度目の投石地帯。
毒沼を横断する狩人は、これまでの二度で仕込み杖と斧の狩人達が毒沼までは追って来ない事に気付いた。
追い付かれる心配が無くなった以上、狩人は飛来する岩のみに気を付ければ良い。
「はっ…ふっ…」
息は出来るだけ短く、毒を吸い込み過ぎないように。
極端な迂回はせず出来る限り真っ直ぐ洞窟へ飛び込んだ狩人は、輸血液を注入しながら直剣を背中に回す。
そうして変形させた大剣を思いきり叩き付けたのは、巨人の膝裏だ。
最初に取った戦法だが、有用なものではある。
一撃の元に膝を着いた巨人の脳を抉ってトドメを刺し、狩人は二本目の輸血液を注入して息を整える。
この洞窟を抜けた先は暫く一本道が続いていた。
つまりはあの異形、ほおずきとの接敵は避けられないと言う事だ。
発狂によるダメージを無視し、輸血液を使い押し通るという手もあるが、それでは確実性に欠ける上に失敗した際の精神的ダメージが大きい。
打つ手無しという訳では無い、ただ真っ直ぐ向かって倒す事が出来ればそれで良いのだから。
「………うぅ」
尤もそれは、狩人の精神が耐えきれるかどうかは別とした場合の話。
試してみない事にはわからないが、狩人は未だにほおずきを斬り殺す覚悟が出来ていない。
瞳が合った瞬間、自身の一切を見切られているような感覚を覚えた。
服装を見た瞬間、愛を向けてくれる彼女への裏切りを感じた。
"別物だ"と自身の心に繰り返し、狩人は大剣の柄を強く握る。
「…よし」
一度深呼吸を挟んで、直後。
狩人の脚が唸りを上げ、小さく白い影が洞窟から飛び出した。
奇しくもそのタイミングは、ほおずきが振り返った後。
狩人の体は軽く、業によるものか足音は大剣を背負っていても小さく、何より耳に届きづらい。
故に狩人の刃は、届いてからようやく気付かれた。
「っ……ごめん、なさいっ!」
謝罪と共に振り抜かれた大剣によって、ほおずきの体から血が噴き出す。
僅かによろけた体は直ぐに立て直され、最初にそうしたように狩人を抱擁しようと両腕が、脳から生えた腕を合わせて4本の腕が広げられる。
"抱き締められたら戻れない"と、下がってしまったのが運の尽きだった。
「ぅあっ」
発狂。
一度退いてしまったが故に攻撃は間に合わず、そのダメージによる死は無かったものの、狩人の動きは止まる。
隙だらけの体に振るわれた鞭のような腕によって、いとも簡単に狩人の命は奪われた。
夢に転送された狩人は、起き上がって直ぐに歩き出す。
そのまま墓標へ────という事も無く、足早に向かって行ったのは人形のもとだった。
「やっぱり無理かもぉぉ……!」
「では、やめてしまいますか?」
人形にひしりと張り付いて、先程よりも数段情けない声と顔をしながらそう言う狩人に、人形はまた狩人を辞する選択肢を与える。
辞めたいのは山々だろうが、ここまで面白い周回も初めてなのだ。
まだ終わらせる訳には行かない。
「……まだ、頑張ります…」
「わかりました…行ってらっしゃい、狩人様」
期待通りの答えを告げて、狩人は中途半端に閉じた涙腺で半泣きのまま墓標へ向かう。
あれほど果敢に逃げて見せるのに、不満を表出させて尚狩りの道からは逃れられない。
優柔不断は身を滅ぼすとは、よく言ったものだ。
夢を後にした狩人は四度目の毒沼を駆け抜ける。
そして三度目のほおずきに、二度目と同じタイミングで突貫した。
再三の謝罪と、伸ばされる腕。
だが怯む事無く昇りきった刃は、更にほおずきの体勢を崩す。
「終わって…!」
三つ目の傷が刻まれた時点で、ほおずきの動きは止まり、絶命する。
それでも止まらない罪悪感によるものか、発狂は止まらず、頭から槍が突き出る。
「っづぁ…!」
それでも、狩人は倒れない。
万全に次ぐ万全の準備、それをたった一人の敵の為に重ね、勝利したのだ。
輸血液を二つ一気に注入しその場に座り込んだ狩人は、きっと今まで経験した何よりも嫌な想像を脳内に流してしまう。
夜の獣どもは、倒れる度に復活する。
一度倒した敵は、灯りが現れる強敵以外の殆どが復活するのだ。
"灯りが出なかったほおずきは、復活するのでは無いか"
ヤーナムを歩いた中で一、二を争う程に心を削った出来事だが、戦闘の時間は長くない。
強敵特有の謎の耐久力も無く、殺せば死んだ。
つまりは、復活する可能性も無い訳では無い。
そんな嫌な想像を振り切って、狩人は前へ進み始めた。
真横から聞こえる物音の方を覗き込めば、そこには大きな彷徨う悪夢が一匹。
嫌な事の後には良い事があると言うが、リスクとリターンはまるで噛み合っていない。
不満気に、だが喜びはしつつ悪夢を殺せば、転がり落ちたのは血石の塊だった。
「…当たり?」
血石の用途と価値をまだ知らない狩人からすれば未だ納得出来ないが、二つ落ちたそれはこの夜では貴重品だ。
二つとも懐にしまって、狩人は左に見える塔────では無く、真っ直ぐ行った先の洞窟を目指し進む。
あの位置は灯りの直ぐ下だった筈だ、つまりはその傍にある洞窟は最初に見付けたエレベーターらしきものの真下へと繋がっている筈。
そうして途中にいる二匹の悪夢や獣を倒し辿り着いた洞窟の中にあったのは、考察通りショートカットのエレベーターだった。
エレベーターを起動させ、出口が最初に見付けた場所なのを確認した狩人は、胸を撫で下ろしつつ再び下層へと降りる。
塔を目指す前に最低限この辺りを確認して行こうと傍にある沼を見渡した狩人の目に映ったのは、二匹の軟体生物に紛れたおおきな彷徨う悪夢だった。
上で駆け抜けたものよりも少し深い沼に飛び込んだ狩人は、両足を何とか持ち上げてそこへ辿り着き、大剣を横薙ぎに振るう。
軟体生物ごと斬り払った悪夢が落としたのは、またしても二つの塊だった。
勢いで飛び込んだ沼を坂から上がる事で抜けると、狩人はほくほくと塊を懐にしまい塔へと歩いて行く。
いよいよ目的地に辿り着いた狩人は、特に警戒もせず門を潜る。
だが上から見ただけでは気付かなかったその異様な雰囲気に、否が応でも警戒を強いられた。
"何かがいる"
たとえ未だ姿が見えなくとも、そう断言出来る威圧感がこの周囲に満ちている。
大剣を変形させ片手に直剣を、そして短銃を取り出した狩人がジリジリと塔へ近付けば、広場の半分も進んでいない所でそれは現れた。
「っ!?」
きっと塔の上から落ちて来たのだろう。
大きな地響きと土煙を上げながら着地したそれは、狩人へ頭のような部位を向ける。
アーモンドのような形をしたその頭に、狩人は既視感を覚えた。
それはこの悪夢の辺境へと迷い込んだ原因となるあの石、扁桃石だ。
右腕が四本、左腕が三本。
そのどれもが痩せこけており、体もまた枯れ木のように細く頼りない。
にも関わらず圧倒的な存在の格を放つそれは、全く声を発さない。
だが狩人の耳には、確かに音が聞こえていた。
怒りでも悲しみでも無い、まるで"自分の住処に玩具が入って来た"かのような好奇心。
愛玩動物が弱るまで触り続ける幼子のような好奇心が、今狩人に向けられている。
好奇心の矛先を自覚した瞬間に、狩人は気付く。
"ここに送られた時にも、あのくらいの大きさの手に握り潰されたのだ"と言う事に。
「ま、まずっ…!?」
上位者アメンドーズ。
狩人をこの悪夢に誘った上位者の同族である辺境の主が、今狩人に向けてその大腕を振るった。
人形の服
教会の工房に隠された"夢の生地"に捨て置かれた、着せ替え用であろうスペア。
丁寧な作りをしており、持ち主の想いの丈が見て取れる。
狩人が悪夢で出会った異形"ほおずき"はこれと同じ服を着ており、その頭が人のそれと同様なら背丈も似通っていた筈だ。
人形も、ほおずきも。
そしてこの服も、似たような温もりを持っていた。
きっとそれを、人は愛と呼ぶのだろう。