少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第二十八話、夜の始まりです。
「わ、綺麗…」
虫を殺しつつ歩いて行った先には、大きな湖が広がっていた。
空には大きな月が浮かんでおり、湖面にもくっきりと反射している。
感嘆の息を漏らしながら歩く狩人は月に魅入られてしまったのか、足の動きはより遅く、目線は常に月を捉えて離さない。
蛍の群れを目にした時のように────というだけでは無い。
ただ見入っている訳では無く、魅入られているのだ。
遅いだけに見えた足は確実に支えを無くしており、細い体がふらふらと揺れている。
目の焦点は月だけに合わされており、瞳にはその全体像が確りと収まっている。
月の魔力とでも言おうか、狩人が美しい月から目を離したのは終ぞ自身の意思によるものでは無く、外的要因によって顔を背けざるを得なかった。
ざらざらと地面を掻くような音が右から聞こえて来るが、それでも狩人は月から目を外さない。
ようやく狩人が右へ顔を向けたのは、音の方向から炎が集まるような大気の揺れを感じ取ってからだった。
「うげっ…!?」
蚓か、あるいは蛇にも見える細い体。
その至る所に触手にも見える細い足が生えており、うぞうぞと地面を突き立てられている。
足下から上へ上へと視点を上げて見えたのは、頭と呼べる箇所に咲いた花のような部位。
そしてその更に上に煌めく宇宙的神秘としか言いようの無い"色"だ。
「っ!」
まるで空間の中心に一つ銀河が出来たような色がそこに広がっており、次の瞬間にはその小宇宙から大玉の炎が発射された。
謎の生物と謎の現象、そして謎の攻撃に息を呑みながらも、狩人はあくまで冷静に炎を回避する。
直ぐ真横にあった柱に身を隠せば、どうやら連続で発射していたらしい炎が三つ程柱の反対側を焼いた。
威力はわからずとも、温度からして相当なものだろう。
当たればひとたまりも無い攻撃だが、明らかに向こう側には道がある。
ならば進むしか無い。
狩人は意を決して柱の陰から飛び出し、直剣を変形させる。
そうして肩を回しながら振り抜いた大剣が百足の体に深い傷を────
「あ…その、ごめんなさぁい…」
刻む事は無く、精々が掠り傷程度のものだった。
早々に諦めを付けた狩人が次に取ったのは、逃げの一手。
大剣を背負い直すと、百足の胴を足場に跳躍し、向こう側へと着地する。
「ひゅえっ!?」
息を吸っているのか吐いているのかわからないような声を上げながら、狩人は背後から迫る灼熱を避け、只管に逃げて行く。
次の柱に身を隠した瞬間に、つい一瞬前まで狩人がいた位置を炎が過ぎって行った。
焼死体となるのは避けられたが、問題はここからだ。
狩人の両耳は、何者かが地面に降り立った音を二つ程拾っている。
「もうやだぁ…」
羽と節足が蠢く不快な音は見事に狩人のやる気を削ぎながら、段々と近付いて来る。
再び逃げを打った狩人は、決して後ろを振り返る事はしない。
音は素早く寄って来るが、少なくとも速さにおいて狩人と並ぶものでは無いのだ。
その優位を捨て振り返った事で殺されたとあっては暫く人形の懐から立ち直る事は出来ないだろう。
尤も今の狩人は人形に泣きつく事を躊躇っているようだが。
逃げ去った先にあったのは扉の開閉に使われるのであろうレバー。
駆け寄った足を無理矢理止めてレバーを引けば、直ぐ右にあった扉が開く。
扉を越えた狩人は真っ直ぐ灯りへ────は向かわず、舵を右へと切った。
塀に沿うように真横へ曲がる最中に今まで走って来た道を振り返れば、そこには頭数を三に増やした虫が今も直ぐ傍を走って来ていた。
「ひぃぃぃっ…!」
再びの百足との邂逅は、幸いにして百足が湖を向いていた事で何とか正面から走り抜ける事が出来た。
そろそろ撒けただろうと振り返れば、それが当然とでも言うように虫は頭数を五へと増している。
上げる悲鳴は更にか細く、だが逃げ道を見付けた狩人は僅かに喜色を浮かべながら、建物の側面に見えた開いた扉に飛び込んだ。
薄暗い建物内は一つの階段と壁一面の書物、そして幾つか見える机に置かれた論文や謎の大瓶が殆どを占めている。
"成程学び舎らしい様相だ"と納得する反面、どうにも狭さを感じるのは、狩人の中にある既視感によるものだろう。
既視感の正体は謎の大瓶だ、近付いて見れば中身はいつぞやに見付けた瞳入りだとわかる。
悪夢の辺境、その手前にあった広い空間。
それが狩人の中で学び舎としてのイメージに置き換わっていたのだ。
納得しかけた所で背後から幾つかの羽音が聞こえる。
虫共が追い付いて来たのだろう、であればここに留まる訳にも行かない。
如何に一匹一匹が脅威になり得ないとは言え、他の狩人と同じく数の暴力には敵わないのだから。
最低限階段以外の道を一つは見付けておこうかと探索する狩人は、奥にもう一つ扉が見える事に気付く。
押せども開かず、だが引いてみれば長らく扱われていないが故の軋みと共にゆっくりと開き始めた。
出た先は建物の側面だ、イメージ故に先にあるのは部屋だとばかり思っていたが、やはり想像よりもずっと狭い。
こればかりは悪夢で見たからと言うだけでは無く、今まで聞いて来たビルゲンワースの情報から想像を膨らませ過ぎた狩人側の問題でもある。
可能な限り虫に会わずに駆け抜けられる道をもう一つ見付けた事で余裕を持った狩人は、探索を再開した。
二箇所から通る光は微弱だが、ランタンを点けて室内にいるかも知れない何者かに居場所をバレるような事があってはお笑い種だ。
歩く内に羽音が室内までやって来ない事に気付き更に大きくなった狩人の余裕は、探索への集中という形で暗所での視界に影響し、暗がりも段々と慣れ始めているらしい。
そうして狩人は宝箱を見付けた。
今更になって思うのは、何故こんな大仰な箱に鍵が掛かっていないのかという当たり前の疑問。
傍から見れば厳重としか言えない見た目の箱だ、明らかにめぼしい物が入っていると思わせるような形をしているのだから、それだけ厳重な鍵を掛けておくべきだろう。
尤もそれを漁るこそ泥からすれば、開いていた方がずっと都合は良いのだが。
「うわっ────…あれ?」
開けた箱の中に入っていたのは蛞蝓だった。
真珠のような薄く透き通る白をした体は、物凄い速度で腕を攀じ登る光景を幻視させたが、どうやらこの蛞蝓は動かないらしい。
ほっと一息吐きながらも、気味が悪いというのは変わらなかったのか、狩人は拾い上げる事はせずに静かに箱を閉じた。
探していない場所と言えば後は階段の上か。
そもそも狩人が探している"ビルゲンワースの蜘蛛"とやらはどのようなものなのか。
本当にここはビルゲンワースなのか、本当に蜘蛛なのか、本当に秘匿を破るだけで解放されるのか。
"解放とは何なのか"という所まで考えが行き着いた狩人の思考に、薄靄を掛ける。
その先は考えなくて良い、お前はまだ狩人なのだから。
そうしてぼんやりとし始めた頭は、軽い足音によって急激に冴えて行く。
階段から響くその音は明らかに駆け足によるもので、だとすれば気付かれている可能性も大いにある。
音を立てないように、だが可能な限り急いで振り返った狩人の首元を、小さな刃が過ぎった。
振り返る際に僅かに身動ぎしたのが幸いしたか、刃は首では無く髪の襟足を少々斬り取るだけに留まる。
まるで鎖を束ねるような音を立てて持ち主の元へ戻って行ったその刃は、狩人もよく知る武器によるもの。
変形した仕込み杖の持ち主は、階段の上からもう一度狩人に向けて刃を振るった。
間合いを見誤る事無く襲い掛かる二度目の斬撃を身を屈める事で避けると、急いで机の裏へと飛び込む。
接敵してしまっているのだから、音を気にする必要など無いだろう。
「っ…こ、ここの人ですか?勝手に入ってごめんなさ────ひぃっ」
ヤーナムの者は良くも悪くも好戦的なものが多い。
そんな性質、気質に救われた事もあれば、こうして襲撃を受けるような事もあった。
今回は完全に侵入を試みた狩人が悪いという事もあり謝罪から入ったが、どうやらお気に召さなかったらしい。
デュラの時のようには行かないだろう。
彼と和解出来たのは狩人の事を知らなかった、もといその姿を確りと認識出来ていなかったが故なのだ。
「…通してくれませんか!」
返事は無い、当然通す気も無いだろう。
それでも狩人は押し通らねばならない。
彼女の悲願を、我々の悲願を叶える為だ。
鋭く突き出される鋼の鞭を躱し、弾き。
追撃の為に鞭が引き戻されたタイミングを見計らって踏み込んだ狩人は仕込み杖の持ち主へと突貫し、そして────
「ごめんなさい、この先に用がある筈なんですっ!」
そのまま階段の柵を飛び越え人影の背後へ着地すると、一目散に階段を駆け上がって行った。
数段飛ばしで駆け上がる狩人の視界に、赤い光と大きな両扉が映る。
"開いてくれ"と願いながらの突進は鍵の掛けられた重い扉に阻まれ、激突のダメージは全て狩人に跳ね返ってしまう。
箱に掛かっていないからと言って、扉に掛かっていないという訳では無い。
「ま、まずいなぁ…」
赤く腫れた額を擦りながら数歩離れた狩人は、後ろから迫る足音に一層焦りの色を濃くしながらも、扉側から見て左手の道を走る。
そこにあったのは乱雑に置かれた本の山と、円を描くように置かれた長椅子だった。
間には箱が一つ置かれており、めぼしいものと言えば一目ではその程度しか映らない。
先へ進む道は無く、"ランタンを点けるべきだった"と腰を伸ばした瞬間、狩人に向かって仕込み杖の切っ先が飛ぶ。
風切り音の主が細首に傷を刻むかという所で、片足を軸に回転しながら振るわれた直剣が再三の防御に成功する。
勢い良く散った火花に照らされた白を基調とした二人の服は、一瞬の残心を振り切るように闇へと溶けて行く。
二度、三度と行われる剣戟を破ったのは、狩人の手から飛んだ一冊の本。
「そこっ!」
飛来する本を斬り裂いた杖を、それによって散らばった頁を盾に掻い潜り、狩人は間合いを一直線に抜ける。
走り抜けて目指すのは、先程の火花によって一瞬視界を掠めたもう片方の道だ。
だがその足は、間合いよりも範囲を取った攻撃によって制されてしまう。
「ふぐっ!?」
強烈な臭いはただ鼻を刺激するだけで無く、即座に狩人の両脚に宿った移動力を削ぎ落とした。
震える膝は毒によるものと言うより、ダメージによる消耗と言った方が近いか。
仕込み杖持ちの狩人────敢えて呼ぶとすれば"最後の学徒"は、左手に持ったロスマリヌスを狩人が間合いを抜ける直前、体では無く進行方向を狙うように散布させていた。
予想外かつ初体験の痛みに、狩人は眉を歪めて歯を食い縛る。
半ば気合いで前へ出した足は思いの外力強く床を踏み締めたが、もう一歩が出るよりも速く学徒が前へと躍り出た。
"先へは行かせない"という信念がありありとわかる行動に、狩人が出来る事と言えば強行突破しか無い。
震える足では逃れられないと見たか蛇腹剣を杖へと戻した学徒は、直後に狩人の凶行に巻き込まれる事となる。
「…ごめんなさいっ」
謝罪は学徒へのものか、それともこの身を案ずる者へ向けたものか。
狩人の凶行とは、杖を突き出すような構えを取る学徒へ突貫する事────
「っぐ、うぅぅっ…!」
では無く、その杖を肩に受けながらも学徒の体にしがみつき、柵を乗り越える事だった。
突き落とすには膂力が足りないが、そう高くも無い柵を乗り越えるだけならただ身を倒し、二人分の体重を柵の向こうへと押し掛けてやれば良いだけだ。
そして二人の足は床から離れ、宙へと投げ出された。
激突音と同時に響く砕音は、階段の柵に落下した事で学徒の背骨が砕けた音。
問題は、狩人の考えでは階段の柵に激突などせず、学徒の体をクッションとして一階の床へ落下する計算だった事だろう。
階段の柵に引っ掛かった二人の体は落下を完全に止めたかに見えたが、緩やかと言うには速すぎる速度でもう一度傾き始める。
二度目の自由落下は、明らかに狩人が下敷きとなる向きだ。
生き延びる為の策で死ぬ羽目になるなど、受け入れられたものでは無い。
狩人の最後の抵抗は、幸運にも階段の側面を蹴り飛ばすという形で作用した。
再びの激突は周囲に埃を舞い上げ、二人の体を完全に覆い隠してしまう。
埃による煙幕が完全に晴れた頃、狩人は学徒の上に寝そべる形で横たわっていた。
「ん、ぅ…?」
人一人をクッションにしてもダメージは相応か、起き上がる事すら難しい様子の狩人は、何とか身を捩って輸血液を取り出す。
一本では足りなかったか、二本目を取り出す狩人を止める者はいない。
二階からの落下で受ける筈だったダメージの殆どを肩代わりさせられた学徒は、その衝撃で既に息絶えているからだ。
賭けに勝った事で得られたものは、たった一度の死の回避。
狩人が外した箍の一つであり、本来なら忘れてはいけない筈の死の恐怖。
目的と状況故か、或いは原初の恐怖を本能が思い起こしたか。
まだ人である狩人は、人間としての死から今少し遠い所にいるらしい。
眼下に横たわる────どころか、今も尚尻に敷いている死体から退いた狩人は被った埃を適当に払いながら階段を登り直す。
すっかり黒ずんだ処刑隊の装束を一目見ると、そろそろ替え時かと懐を探る。
"友の事を思い出しそうで、見るのも辛いから"という程では無いのかも知れないが、やはり汚れたままでは不格好だろう。
人目が無いとも限らないその場で着替える程人間性を失ってはいなかったか、狩人は登りきった先の本棚を陰に、神父の装束へと着替えた。
「ふぅ…よし」
失くしたままの帽子を懐かしみながら何も乗っていない頭を念入りに払い、暗がり故に大雑把になってしまわないように色直しをした所で、右側へと続く道を歩く。
また接敵してしまえば汚れる事は避けられないだろうが、精神的に追い詰める事に特化したヤーナムでは、気分一つも馬鹿には出来ない。
先程は戦闘中だからか探る事も出来なかったが、狩人の目は長椅子の傍にメモを見付けていた。
散らかってはいたものの比較的容易に見付かったメモの内容は、今まで通り狩人の脳に収められた情報を端からひっくり返すようなものだ。
『あらゆる儀式を蜘蛛が隠す。露にする事なかれ
啓蒙的真実は、誰に理解される必要もないものだ』
「また、蜘蛛…やっぱりここがビルゲンワースなんだ」
問題はその後。
狩人には理解が及ばず、そもそも情報すらも足りない。
だが確実に、狩人がここに来た目的を否定するものではあった。
秘匿を破るしか無い、だからこそビルゲンワースまで足を運んだと言うのに。
────言ってしまえば、ただそれだけの情報でここを目指したという事でもあるのだが。
「啓蒙的、真実…」
それでも狩人の目的は変わらない。
寧ろこのメモによって秘匿を破る理由は強まった。
曖昧だった目的は、"真実を知る為"という大義名分を得たのだから。
メモを手記に挟み、狩人は椅子の間に置かれていた箱を開ける。
中にあったのは見覚えのある服だった。
上下揃って畳まれたその服を持ち上げて見れば、上着にはマントが縫い付けられている。
悪夢で見た粘体のような生物、恐らくは学徒だったであろうものが着ていたものと同じ服だ。
"ひょっとすればビルゲンワースとあの建物は関係があるのかも知れない"と、狩人は一先ず納得し学徒の服を懐にしまった。
踵を返して反対の道を歩く最中、狩人はふと足を止める。
陰気な様相、目玉入りの瓶、学徒の服。
悪夢の建物とビルゲンワースの関係性について考える狩人の視界の端に、一冊の本が映ったのだ。
掠れた背表紙には唯一読める部分に"考古"とだけ書かれており、補填するならば"考古学"だろう。
狩人はその装丁に、異様なまでの既視感を覚える。
まるで手に取った事があるかのような、読んでいた時期があったような。
確かめようと伸ばした手は、だが途中で伸びきって止まってしまう。
狩人の背では届かない高さだ。
「そんな筈は────…あれ?」
虫食いにあったような記憶に、今し方覚えた既視感は当て嵌らない。
ピースの場所が違う訳では無い、違うのはもっと根本だ。
その記憶は、少女のものでは無い。
「なんで、そんな筈無いって思ったんだろ…」
"奥まで探して台でもあれば取ってみようか"と本の事は一旦放置し、狩人は歩みを再開した。
相も変わらず埃だらけの本棚の中に狩人が見付けたのは、一枚のメモだ。
先程のものとは筆跡が違うようだが、ここにあるという事は重要なものの筈。
そうして拾い上げたメモの情報量は、狩人の容量限界から溢れてしまった。
『赤い月が近付く時、人の境は曖昧になり
偉大なる上位者が現れる。そして我ら赤子を抱かん』
「赤い月、人の境……赤子を抱く」
偉大なる上位者、このメモに記された中で唯一狩人が知る情報。
故にその一つから連想し、考察するしか無い。
狩人には荷が勝ち過ぎる作業だが、理解出来る可能性を持つ人間に心当たりはある。
メモを手記に挟みつつ脳裏に思い浮かべるのは、禁域の森で狩人に誓約を説いたバケツ頭の男。
連盟の長なら、そしてその下にいる連盟員達の誰かが、或いは。
そう思考を回しながら、狩人は傍に見付けた梯子に手を掛ける。
上を見やればそこは絶対的な暗所、最早明かりで気付かれぬようになどと言ってはいられない空間だ。
最低限の視界の確保は必須だろうと、狩人は携行ランタンを点して梯子を登って行った。
登った先にあったのは、今までとそう変わらない景色。
机、実験道具、瓶詰めの目玉。
そしてそれらの間に置かれた、少々大きめの鍵。
手に取ったそれがどこの鍵なのかはわからないが、狩人は早くも梯子を降りて下階へ戻ってしまいたい気持ちに駆られていた。
上から聞こえる羽音と足音が原因だろう。
数瞬悩み、狩人は梯子を降り始める。
"あの扉がハズレならまた戻って来れば良い"
理由付けとしては間違っていないが、明らかに虫を避けたいが為の選択だ。
一度通った道とは言えある程度の警戒をしつつ歩く狩人は、途中にある先程の本を一瞥し、だが違和感に引っ張られるような事も無く扉の前に立った。
直ぐ傍には赤い光が灯っているが、鐘を鳴らす素振りは見せない。
懸念材料は鐘を鳴らし呼び出した際に狩人を襲う何かが抜け出るような感覚だろう。
"もしあの感覚が遺志を消費する事によるものなら、或いはもっと大事なものが"と。
そう考えてしまっては、相手が余程の強敵でも無い限り使う事は憚られる。
「…開けてから考えよう」
そうして狩人は一先ず光を置いておき、扉の鍵穴に先程拾った鍵を通した。
年数の経過による金属疲労だろうか、少々の引っ掛かりを覚えるものの、鍵はゆっくりと回る。
がちゃりと内部の仕掛けが外れる音と共に、扉に僅かな隙間が開いた。
鍵を抜いて扉を押せば、外からの空気が狩人の顔を叩く。
細めた目が開かれた瞬間に映ったのは、大きな月と広い湖面。
そして目の前のバルコニーに置かれた安楽椅子に座る何者かの影だった。
「わっ…な、何…?どうしたの?」
向こう側の景色が見えた途端に、詳しく言えば月がその瞳に映った瞬間に、光球が狩人の体を引くようにして前へ前へと押し進む。
対する狩人は安楽椅子の存在が気になるのか、なかなか進もうとはせず、終いにはその影の傍へと歩み寄って行った。
正面から見れば、その影は老人だという事がわかる。
左手に杖を持つ老人は、ゆっくりと揺れる安楽椅子に身を任せ、狩人の方など微塵も気にしていない様子だ。
後頭部、首元から生えた白い茸のようなものは、装飾の一種だろうか。
「…あ、あの」
狩人の呼び掛けにも、老人は答えない。
────かに思えたが、どうやら狩人の声は届いていたようだ。
「あ、ああ…」
「…え?」
老人が杖を湖の方へ向けた瞬間、狩人の中に何かが芽生えたような感覚が訪れる。
初めて訪れた場所や、強敵との初邂逅で感じるその感覚。
それが今、この老人が湖を指し示しただけで得られたのだ。
訳のわからないタイミングで感じるそれに対しての混乱もそこそこに、狩人は老人が示した湖の方へと近付く。
そうでなくとも、先程から光球がいっそ煩い程に湖を示しているのだから、見ない選択肢など無かったのだろう。
バルコニーから湖へ不自然とも言える伸び方をした足場に乗った狩人は、観察するように湖を見渡す。
特に何の変哲も無い湖だ、強いて言うなら風による湖面の揺れが少ない事もあり、反射する月が美しく映っているくらいのもの。
「…え、もっと奥…?」
だがそれでは不満だったのか、光球は"まだまだだ"と狩人を前へ誘う。
いよいよ落ちてしまうという程に端へとやられた狩人が見たのは、真下に丸く映る白い光だった。
反射する月などでは無い、湖面に反射する月は今も奥に、湖の中心に見えている。
ならばこの光は何か、そう考える狩人の足がひとりでに動き────
「えっ…えっ!?」
狩人の体は真っ逆さまに、湖へと落下して行った。
水面に叩き付けられる感覚は無い、だが飛び込んだ水音は確かに自身の耳に届いた。
そんな不思議な感覚と共に、狩人の視界がホワイトアウトする。
視界が晴れた瞬間に感じたのは、長い落下の感覚。
真下には底の見えない湖がある。
この高さならば水面に叩き付けられても即死は無いだろう。
そうして足から着水しようと体勢を整えた狩人は、着水の痛みも、ましてや着地の痛みも無いまま水面に降り立った。
「…立てる」
狩人は今、水面に立っている。
なかなか不可思議な現象だが、狩人にはそれよりもずっと気になるものが見えている。
少し離れた距離にある、大きな影。
生きているかのように小さな身動ぎを繰り返すそれは、よく見れば下部に無数の足が生えている。
短く太い蛇のような形状のそれに、だが他に何も無いのだからと、狩人は近付いて行く。
「うぇぇ…」
近付いて見ればやはり気色の悪い生き物だ。
背中側であろう部分には淡く白い光を湛えた植物のような何かが生い茂っており、尻側には薇のような尻尾が数本生えている。
反対側を見やればそこには花崗岩のような質感をした頭があり、どこを見ているのかもわからない無数の瞳がそこにある。
瞳の群れを複眼として認識するなら、狩人が今まで得た情報で最も近いのは────
「……え、ひょっとして…これが蜘蛛…?」
ほとほと認めたくは無いが、この謎の生物が"ビルゲンワースの蜘蛛"なのだ。
目的だった蜘蛛を見付けた訳だが、狩人は秘匿を破る手段など知りもしない。
戦って勝てば良いのかとも考えたが、蜘蛛は狩人に襲い掛かるような素振りなど見せない。
困り果てた狩人が頭側に回れば、そこには変わらず気色悪い無数の瞳があり。
次の瞬間には狩人を認識したのか、瞳の殆どが一点を見詰めた。
「うわっ」
思わず漏れた声と共に後退する狩人の腹を見詰め続けるロマは、それでも襲い掛かろうとはしない。
全くもって謎ではあるが、敵対はしないようだ。
後はもう、狩人から仕掛ける他無いだろう。
狩人が逡巡の後に手を伸ばした先は、蜘蛛の頭だった。
好奇心に突き動かされた訳でも、光球に導かれた訳でも無い。
狩人自身にも理解出来ぬまま伸ばされた右手が蜘蛛の頭に触れた瞬間、その体が虚空に溶けて行く。
違う、そんな筈は無い。
何をしたんだ、何故それで秘匿が破られる。
「なんだったんだろう…」
…蜘蛛が完全に消えた頃、狩人の体に遺志が運ばれる。
同時に頭に芽生えた啓蒙は、狩人に何を教える事も無い。
ただその耳に、この場には少々そぐわない音が一つ聞こえて来るだけで。
音の根源を探す狩人の視界には、恐らく次なる目的となるであろうものが見えていた。
視界の端に、白い人影が映る。
かなりの長身だが、遠目にもドレスを着ている事がわかる。
今は純白とまでは行かずとも、きっと美しかったであろうドレスだ。
どこか覚束無い足で狩人が歩み寄れば、人影はやはり女性だったらしい。
近寄れば近寄る程、その女性の異常性が見えて来る。
体の前面、腹部の辺りが真っ赤に染まっているのだ。
女性は今も啜り泣いており、だがそれは痛みからのものでは無いだろう。
「あの、大丈夫ですか…?」
前面が赤く染まる程の出血量に対して、声の掛け方があまりにも軽すぎるとは思うが、女性は反応を示さない。
もう一度声を掛けようかと一歩近付いた狩人の横顔が、強い赤に照らされた。
血よりも鮮烈な、狂気の赤。
空よりも雲よりも近い場所に、赤い月が浮かんでいる。
狩人の耳に、啜り泣く音はもう届かない。
女性の泣き声を塗り潰してしまう程に大きな赤子の泣き声が、只管に狩人の両耳と、その脳髄を刺激する。
夜空色をした瞳には強過ぎる赤に、狩人は瞬きを一つ挟む。
一瞬の暗転後に開いた瞳には、全く違う景色が映っていた。
初めての友、余所者仲間。
「獣狩りの方でしたか…私はギルバート。このヤーナムの住人では無く、外から治療を受けに来た余所者です…貴方も、そのクチでしょう?」
初めての依頼、初めて手に掛けた少女。
「おじさん、だあれ?ひょっとして、獣狩りの人?だったらお願い…お母さんを探して来て欲しいの」
狩りの否定、狂気の母親。
「子供だからって甘い事言ってんじゃないよ、狩人ならさっさと獣狩りに行っちまいな。…忌々しい」
二人目の友、こちら側の存在。
「ヒヒ、ヒヒヒッ…あんた、狩人なのかい?にしては香りが濃いなぁ…獣とはまた違う。これじゃあ獣避けの香と変わんないじゃないか…ヒヒヒッ…」
血族の系譜、施しの女。
「お客さんかしら?ごめんなさい、獣狩りの夜は店仕舞いなの。…フフ、こんな夜に訪ねて来るなんて、元気な人ね」
特別な知恵を持つ者、啓蒙低き男。
「…お前、余所者だろう。さっきあの売女と話しているのを見たぞ、そんななりをして狩人なのか…いや、お前も身売りに来たのか?どちらにせよ忌々しい事だ」
処刑隊の意志を継ぐ者、女王殺しの狂気者。
「おぉ、貴方でしたか!ここに来たと言う事は、情報交換に?…えぇ、勿論役に立てる事でしたら、幾らでも」
何より甘美な誘い、穢れた血族の女王。
「ほう…教会に属すると言うのに、血族に鞍替えすると…成程、思った通りの異端。狂った瞳はお前をよく表しているようだ」
探求の日々、学び舎での師。
「────い、お────君、居眠りも大概に…ほら、先生が見ている。上巻の二百八十八頁だ」
虐げられる仲間達、教会の英雄。
「…うん?あぁ、私の事を気にする必要は無い。獣の病を根絶出来ていないのは事実なのだから、この扱いも皆の不安の表れだろう…私に、もっと力があれば────…すまない、君の優しさは身に沁みているとも」
余所者なりの貢献、後輩への餞別。
「あたしが、次の狩人狩りを…?冗談言わないでおくれよ、じゃああんたはどうするってんだい?────待ちなよ、まだ話は終わってないんだ、まだ逝くんじゃない!夢で待ってるあの子はどうする!?」
各々の原罪、始まりの狩人。
「…今度は君か。何かね?君も私を止めに────私と共に?…成程、いや疑ってすまない。そうだった、君はそういう狂人だった」
「ぅぐ…」
強く頭を揺さぶられたような、そんな鈍痛。
狩人は耐え難いそれを何とかしまい込み、必死に立ち上がる。
脳を駆け巡った"記憶"、凡そ自身の物とは思えない"思い出"。
断片しか見えなかったが、やはり別人のものだろう。
時期も、相手もバラバラだったのだから。
痛みによって点滅していた視界が正常に働き始めた事で見えたのは、先程までいた湖の白では無く、蜘蛛が消えた後に現れた月の赤でも無い。
あえて色で呼ぶなら黒、状況で言うなら暗所だ。
どこかで見覚えのあるその景色は、大聖堂右手の古教会。
俄に蜘蛛男への怒りを思い出してしまう場所だが、そんな小さな感情は直後に映った超越的存在によって粉々に砕かれてしまった。
「あ、うぁ…」
固く閉ざされていた筈の扉が開いており、その真上にいる異形が狩人の見詰めていた。
アメンドーズだ、悪夢で苦戦を強いられたあの異形、上位者が今狩人の頭上に存在している。
"なんで、どうして、ここに"
凡そ思考とも言えない疑問だけが狩人の小さな頭を埋め尽くすが、その疑問すらも直後に流れ込む濁流のような情報で押し流されてしまう。
「儀式の秘匿は破れた。悪夢の赤子を探せ」
「ぇ、は…?」
男性なのか女性なのか、高いのか低いのか、太いのか細いのか。
或いは、それが音という概念に当て嵌るものなのか。
それすらもわからないのに、ただくっきりと、何を言われているのかだけは理解出来た。
秘匿は確かに破られたのだ、狩人が今まで目的としていた事は成し遂げられたのだ。
そして次の目標が、悪夢の赤子を探す事と設定された。
狩人に訪れた変化と言えば、ただそれだけの話。
とは言え流石に情報量に耐えきれなかったか、或いはアメンドーズの真下を潜るという行為が単純にハードルの高いものだったか。
狩人は踵を返して後ろに見える出口へと向かった。
何より、今は夢に帰りたい。
心労が大き過ぎるのだ、休憩でも挟まなければやっていられない、そんな心境だろう。
処刑人達を躱し、射線を潜り抜け、狩人は井戸のある広場まで辿り着く。
左に見える空に浮かぶ月は、やはり赤い。
先程同様に雲より手前にあり、後ろの空も赤や紫に染まり、青ざめている。
のろのろと歩く狩人の頭には、未だに赤子の泣き声が響いていた。
果たしてそれが真に聴こえているものなのか、こびり付いてしまった幻聴なのか。
最早狩人自身には、証明しようも無いものだが。
宇宙考古学入門 上巻
ビルゲンワースの学び舎にて多くの学徒が手にし読み耽った、基本中の基本が記された本。
地底に存在すると考えられていた人類の進化を担う存在、"宇宙"を探し求めた学者達の軌跡を学問として昇華したものであり、学術的根拠はその全てが先人達の経験によるもので構成されている。
狩人がビルゲンワースにて見付けたこの本は、背表紙が掠れ、最早題すらも読めないものとなっていた。
その場で手に取り、中身をほんの少しでも覗いていれば、何か気付く事でもあったのだろうか。
尤も驚愕に次ぐ驚愕、恐怖に次ぐ恐怖に襲われた今では、忘却の彼方と化しているだろうが。