少女の微睡、月香の夜。   作:かなしいな

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狩人、絶望する。



※第二十九話、青ざめた血の夜です。


狩人の出会い、幾度目かの別れ。

古教会から逃げるように離れる狩人は、大聖堂の灯りを使って夢へ帰ろうと道を進む。

その途中、正に今目指している最中の大聖堂の方向から、風に乗って血の匂いが運ばれて来た。

何処かで嗅いだ覚えのある匂いは、きっと狩人が狩人として歩む事を決めてから、そう時間が経っていない頃のもの。

間違いようも無く、"知る誰か"の血だった。

 

「ぁ、な、なんで…!」

 

嗅覚に身を任せて駆け足を始めた狩人は、本来ならいる筈の教会の使いがいない階段の上に、見知った姿が倒れ込んでいるのを見付ける。

烏羽の狩人だ、よく見れば倒れ込んだ体からは血が溢れ出ており、直ぐにでも輸血液を使わなければ危険な域まで踏み込んでいる。

 

形振り構わず駆け寄ると、狩人は烏羽に呼び掛けながら懐の輸血液を探り、もう片手でその体を抱き上げようと伸ばす。

それを制したのは教会の使いでも、ましてや狩人でも無い。

手を差し伸べられている張本人、烏羽が後輩の手を掴み、止めていた。

 

「…こんな老耄に誰がとは思ったが、あんたかい」

「あ、ぅ…先輩…」

「ク、クク…なんて顔だい」

 

その顔を見て、と言うよりその口振りに"笑いを堪えられない"と言う様子で息を吐く烏羽は、明らかに満身創痍だ。

だが狩人の懐から取り出された輸血液を、烏羽は受け取らない。

 

「あんた、随分と変わったね」

「変わった…?」

「あぁ…強く、脆くなった」

 

仮面に隠れている筈の烏羽の瞳が、確かに狩人の瞳を射抜いた。

鋭く、だが責めるような色は無い視線に、狩人はどこか安心感を覚えてしまう。

垣間見た誰かの記憶のせいだろうか。

 

「…あたしはもう夢を見ない、死んだらそこで終わりだ。情けない話だが、慎重にもなろうさ」

「夢を、見ない…」

「夢の狩人とは違ってね…なぁに、もう血は入れたんだ、こんなババアでも何とかなる」

 

それを聞いた狩人がまず抱いた感情は、安堵だった。

夜にも終わりはあるという事実と、何より烏羽は救われるのだという安堵。

だからこそ、狩人は今も手に持っていた輸血液を懐にしまい直した。

その場に折って着いていた膝を、伸ばして立ち上がりつつ。

 

「行くのかい」

「…止めませんよね?」

「そりゃあ前までのあんたなら止めたさ、だが────」

 

烏羽の答えを待たず、狩人は聖剣を取り出し、歩き出す。

優しくされてしまったら、言葉で押し切られてしまったら。

人に頼る事自体に幸せを覚える狩人は、きっと人には勝てないのだから。

 

「今のあんたの香りは、少しばかり懐かし過ぎる…」

 

 

 

先程まで狩人の鼻を擽っていた濃厚な血の香りが薄れる事は無く、だと言うのに今も大聖堂の奥から漂う積層した死血の香りが塗り潰して行く。

噎せ返るような死が、狩人の前に立ちはだかろうとしている。

ただの感覚では無く事実としてそれがある、あるだけだと言うのに。

狩人の背に這う冷や汗は、何より狩人の恐怖を物語っていた。

 

ゆっくりと近付いて来る硬質な足音に、狩人は思わず息を呑む。

階段を上りきって視認出来たその姿はやはり重厚、軽装とは言え所々に見られるのは鎧の鋼か。

顔は仮面、ひいては兜に覆われており、内を見る事は叶わない。

だが最も目を引くのは兜でも鎧でも無く、その肩に掛けられた烏の羽のようなマントだ。

 

「お前は………いや、狩人か」

 

くぐもった声、それが目の前の人影から発されたものだと理解するのに、狩人は数瞬を要した。

男女の区別は出来ないが、強いて言うなら若年、壮年に差し掛かる辺りの声だ。

自身を指して言ったのだろうその確認に、狩人は返答する。

 

「だったら、どうするんですか」

「狩るんだよ、狩人だからな」

 

右手に持った何かを握り締めるような仕草を見せた目の前の狩人、"カインの流血鴉"の体が、瞬間的に加速する。

圧倒的な速度で迫る流血鴉に対して狩人が出来たのは、ただ直剣を真横に振るう事で擬似的な防御とするだけだった。

金属音と火花、互いの武器が交差したのだと理解したのは、流血鴉が更なる加速をした後の話。

 

「っ…!」

 

声など発していられない、それ程の速度。

唯一目にする事が出来た得物の形状は、細身の曲刀の柄にもう一本短剣が繋がったようなもの。

左手に持った銃は剣戟の最中でこそ感覚に頼らざるを得なかったからか、"見覚えのあるものだ"という程度だが、認識は出来ている。

防戦一方、玩ばれているという印象すら覚える剣戟の合間に、流血鴉は銃を構えた。

 

「ぐぅっ…!?」

 

"巧手だが撃つ必要は無かった"、流血鴉の技量を考えればそんな一撃。

右手に持った得物"落葉"だけでも、狩人を完封する事すら可能な筈だ。

だと言うのに流血鴉は"教会の連装銃"の引き金を引き、その水銀弾は狩人の左肩肉を深く抉った。

 

肉を抉られた事であっという間に腕力が無くなり、狩人の短銃が地面に落ちる音が辺りに響く。

剣戟の音は止み、次ぐ銃撃の音すら鳴らず。

狩人が警戒しながら輸血液を取り出しても尚、流血鴉はその様子を見ているだけだ。

 

烏羽を仕留める程の手練が、油断や慢心などでそんな事をするだろうか。

幾ら考えようと、情報の少ない狩人の頭では答えなど見付からない。

ただその観察するような視線に、言い様の無い気味の悪さを感じていた。

 

「…何のつもりです?」

「何がだ」

「トドメ…刺せたんじゃ無いですか、今の隙で」

「刺されたかったのか?」

 

回復を挟んで再びの無言、そして二度目の"何かを握る仕草"の後に流血鴉が仕掛ける。

姿が消えたと錯覚する程の異常な加速と、直後の千景による奇襲が狩人の首筋を裂く。

身を躱したとは言え浅過ぎる傷は、どんな意図があろうとも"殺意"を感じるものでは無い。

 

銃を取り落とした故に両手で握られた直剣は、一向に流血鴉に当たる様子を見せない。

月明かりが反射した切っ先が正面から向けられているのを視認した瞬間、それを防ぐ為に引き戻された直剣は、だが盾となる事は無かった。

跳ね上がった流血鴉の片足が狩人の両手を下から叩き、その体勢を大きく崩す。

"敗北"の二文字が脳裏を過ぎる狩人だったが、やはりトドメは刺されない。

 

「いい、加減にっ…!」

 

浅く裂かれた脇腹の痛みを噛み潰しながら、蹴り上げられた事で崩れた構えを上段で直すと、狩人は強く踏み込み直剣を振り下ろした。

勿論当たると思って振るった一撃では無いが、退かせる事が出来れば充分。

そんな一撃に対して、流血鴉は左手を振り上げる事で応戦した。

握られているのは当然連装銃だ、それを見た狩人の剣閃に、僅かな揺らぎが生じる。

 

「なぁっ!?────ぁぐっ」

 

驚愕の理由は振り上げた直後、と言うよりも振り上げながらの行動だ。

段々と角度が合って行く銃口は、止まること無く狩人の体を通り過ぎた。

意味不明な行動に狩人の剣閃は最早閃とは呼べず、その視線を釘付けにしたまま連装銃が真上に投げられる。

 

直後に狩人の胸部に走った痛みは二つ、一つは千景の刀身によるもの、そしてもう一つもまた落葉の刃による痛みだ。

同時に刻まれたその傷は、確かに二つの刃が交差して出来たもの。

それを振るった流血鴉の左手には、小刀のような剣が握られていた。

 

忘れていた訳では無い、相手もまた仕掛け武器を使うのだと。

ただ狩人にとって見慣れない変形である事には変わらず、たった一つ頭に残った見覚えと言えば、烏羽の姿だ。

左右二刀に烏の羽を模したマント、二人の姿が厭に重なり、狩人の中で"目の前の狩人は先輩の仇だ"と強く再認識される。

 

「…っ!」

 

意思の力、遺志の力。

心や感情、魂とも呼ばれる不定形のものによる力は、ある意味狩人達が最も身を寄せる武器でもある。

虚を衝いた変形攻撃は確かに効果的であり、並の狩人であれば、幾ら加減されていようと先の一撃で終わっていた。

存分に見極めると良い、"これ"は我らの悲願であり、最高傑作なのだから。

 

「なかなか折れんな…面倒だ」

「何なんですか、さっきから…どこを!見てるんですか!」

 

意気を込めた一撃が空を割り裂くが、流血鴉は宙に舞う羽のようにひらりと身を躱してしまう。

流血鴉には決定打を与える気が無く、狩人には決定打を与える技量が無い。

二人の戦いは、思惑によって拮抗していた。

 

苛立ちをただの揺らぎとして終わらせないように、狩人は輸血液を使用せずに突貫する。

致命傷にはまだ遠いが、それでも脆い部分を突かれればその時点で決着してしまう程度には弱っている。

それでも攻撃の手を出すのは、"自分を殺す気が無い"という事に気付いたからだろう。

 

連続して振るわれる斬撃を躱しながら落葉を変形させた流血鴉は、落下して来る連装銃を器用に手に取り、発砲する。

あわやその左手を斬り落とすかという所まで近付いた刃は、それよりも一瞬疾かった銃撃が右の太腿を撃ち抜いた事で勢いを殺され、またも空を斬る。

 

"動けないのでは始まらない"と取り出した輸血液を刺す間に、攻撃は飛ばない。

何が目的なのかなど到底理解出来ない、だからこそ狩人は異様なまでの恐怖を感じていた。

 

輸血液を注入し終わった所で、流血鴉が三度目の右手を握る仕草を取る。

三度目にして気付いたのは、仕草と加速の関連性。

落葉を変形させる際の回避では、加速をしていなかった。

 

"握る仕草が加速の合図であり、加速は短時間の強化効果のようなもの"

そこまで思考して、狩人は回避と防御に重点を置いた構えを取り始める。

 

どれだけ速度に差があれど、殺意が乗っていないのだから防御はその分合わせ易い。

皮一枚を斬るようなものは無視し、反撃の一手を削ぐに値するものだけを防げば良いのだから。

上段、下段、正中。

初動を抑える為に向けられた幾つかの攻撃を防ぎ、それ以外の全てを無視して、狩人は虎視眈々と反撃の隙を伺う。

 

「────……っ」

 

そうして機会は訪れた。

流血鴉が加速の為に右手を上げた瞬間、狩人は浅く踏み込む。

まだ手の内にある短刀が持ち上がり、その刃で持って狩人の顔を斬り裂かんと迫る。

だがその程度で止まる勢いでは無い。

浅い踏み込みは意図的に深い前傾姿勢を取る為のものであり、先程のように痛みや驚愕で仰け反る事は出来ないのだ。

 

振り下ろされる刃が、流血鴉の左鎖骨を捉える。

それよりも疾く狩人の顎へと届いた落葉の短刀が、柔肌へと食い込んだ。

つぷりと沈み込んだ刃は、灼けるような痛みを刻みながら狩人の頬骨へと辿り着き、骨を削って瞳を目指す。

やがて右の瞳を縦に斬り裂かれるが、それでも狩人の直剣は止まらない。

 

「っぐ、うぅぅっ!」

 

直剣が、流血鴉の鎖骨を叩き折った。

勢いそのままに肉を裂き進む刃が肋骨まで断ち斬った所で、狩人の眼窩に突き立った刃の感触が消え、発砲音が耳を貫く。

撃ち抜かれたのは右胸、連装銃から放たれた二発の弾丸が、確かに肺を撃ち破っていた。

 

「は、ぅ…」

「…死んでやるつもりは、無いのでな」

 

それは当然、狩人もだろう。

次いで左の脇腹に長刀が突き込まれ、いよいよ体も保たないかという所。

だからと言って、狩人が止まる訳では無いのだが。

 

「っ、まだ動くか…!」

 

まだ光を映す左の瞳が流血鴉の兜を射止める。

その瞳に何を見たのか、抵抗の為に捻られ、血を掻き出していた落葉の動きがはたと止まる。

二人の体から止めどなく流れ出る血が羽を濡らし、地面にすら垂れ始めた頃、流血鴉の右手が狩人の背を叩いた。

 

「終わりだ、私はもう戦えんよ」

「───────…へ…?」

 

長い硬直の後、狩人の手が緩む。

いつの間にやら二人して倒れ込んでいたらしく、所々言う事を聞かず身動ぎする度に軋む体を持ち上げれば、狩人は流血鴉の上に座り込んでいた事がわかる。

退きはしない、先程の降参の合図はブラフかも知れないのだ。

とは言えお互い余力が無いのもまた事実、輸血液を使わせぬよう一気に畳み掛けたのが功を奏したのだろう。

 

「…今までに何度か、お前のような狩人を狩った事がある」

「僕のような…って、言うのは…?」

「混ざっている…いや、注ぎ込まれていると言った方が良いか。お前のような手合いは、殺しても強くなって戻って来るんだ…まるで、不要なものを削ぎ落とされたみたいに」

 

聞かせて良いものか。

彼女がそれを理解したとて拒めるものでは無いが、揺らぎは生じるものだ。

或いは彼女もこちら側に来るのやも知れないが…まぁ良しとしよう。

 

「遺志を継ぐという狩人の業、それにあまりにも適合し過ぎた人間が、稀にいる。それが…」

「僕、って事ですか」

「…お前の中に、古き友を見たよ。そして…あぁ、宇宙を見た」

 

何処か得心の行った様子を見せると、流血鴉の呼吸が段々とか細いものになる。

直ぐに声も小さく掠れて行き、最早聞き取る事すら困難な程だ。

与えた知識も中途半端、だが価値の無い戦いでは無かった。

礼を言おう、流血鴉。

今まで何度も貴様に邪魔をされたが、今回ばかりは得だった。

 

「宇宙…?ま、待って!もう少しで良いんです、聞かせてください!」

「無茶を言う…何、お前ならきっと直ぐにわかるさ」

 

蝋燭の火が消える直前、一際明るく輝くように

流血鴉は遺言のように呟いた。

 

「この子なら、不足は無いだろう────

 

数秒の後に流血鴉が息絶えた事を理解した狩人は、輸血液を取り出して注入し、大聖堂の外へのろのろと歩いて行く。

狩人からすれば何とも消化不良な終わり方だが、仇は討ったと告げに行くのだろう。

 

「先輩、先輩…起きてますか?」

「…まさか勝っちまうとは、夢にも思わなんだ。あたしももう、潮時かね」

「…輸血液は、入れたんですよね?だったら────」

「それでこのザマなら、そういう事だろう。わかってた事なのさ…あんたみたいな小娘に、過去の面影を見ちまった。その時点でもう長くないって」

 

声色は安らかで、とてもじゃないが重傷を負っているとは思えない。

だが合間に挟まる息は先程の流血鴉と変わらない程にか細く、今も瀬戸際に立っているのがありありとわかる。

目を瞑ればそのまま終わりを迎えてしまいそうな烏羽は、最後に狩人に呪いを託すべく、懐に手を入れた。

 

「これを、あんたに…」

「…狩人証と、カレル?」

「狩人の業さ。今のあんたに相応しいが、あんたが背負うようなもんでも無い。拾うも捨てるも好きにしな」

 

"鴉の狩人証"と、"狩り"のカレル。

そして渡すものは、もう一つ。

 

「アイリーン」

「…アイリーン?」

「あぁ、あたしの名前さ。名乗ってなかっただろう?失念してたよ…知ってるもんだと思ってた」

「あ、アイリーン、さん…」

 

おずおずと告げられた名を呼ぶ狩人は、受け取った二つ共を懐に入れ、確かに自分のものとする。

狩人狩りの覚悟やそれに準ずるものは持ち合わせが無いが、そんなものを使って勝った事など一度も無い。

狩人自身は覚悟を決めたと思っているのだろうが、それは体の良い諦めだ。

 

「…なんだか、眠くなって来たよ…少しだけ、寝かせて貰おうかね…」

「────…はい、お休みなさい、ごゆっくり…」

 

数秒か、数十秒か。

目の前で石柵に体を預けるアイリーンは、もう何も言わない。

就寝前に瞼を閉じるだけの時間を作るように、死の間際に穏やかな心に目覚めるように。

ただ静かな時間だけが、過ぎて行った。

 

「……さよなら」

 

"今は自分の事を気にするべきだ"

そう思い直すと、狩人は足音を立てぬようにその場を去り、別の目的地へと足を伸ばした。

灯りを目指していた狩人は、それを使わずオドン教会へと駆ける。

流血鴉のような"今まで無かった異常"が、何処かで起こっているかも知れないのだ。

 

幾つかの階段を駆け下りて辿り着いた教会では、案の定の異常が起きていた。

獣避けの香は、まだ狩人の鼻を擽っている。

"異常だ"と言うのは、教会を支配している雰囲気の話だ。

まるでアメンドーズと、上位者と対峙した時のような圧迫感が、狩人の首を締め付けている。

 

「…あぁ、狩人さん!無事だったんだ…心配したよ」

「あ…はい、無事ですけど…これは?」

「わからない、わからないんだ…あの赤い月が現れてから、みんなおかしくなっちまった…終わりだ、終わりなんだよ…ヒヒヒッ、ヒヒッ…」

 

"赤い月が現れてから"、その言葉が正しいのなら、この異様な雰囲気は秘匿が破られたからという事になる。

"みんなおかしくなっちまった"というのも、オドン教会に避難して来た者達の事か。

 

「アリアンナさん…大丈夫ですか?」

 

案じるように言葉を掛ける狩人の顔は真っ青で、寧ろ自分の心配をするべきだと、余裕ある者にはそう返されてしまうだろう。

話し掛けた人間が、目の前の女が、今も余裕を持っているのならの話だが。

 

「あなた…ごめんなさい、私体調が悪いみたいなの…」

「体調がって…ど、どこが悪いんですか?手伝える事とか…」

「大丈夫、大丈夫よ。きっと直ぐに良くなるから…あなたは、自分のするべき事をして」

 

その言葉に更に重ねようとした追求をぐっと飲み込んだ狩人は、一先ず他の者へ話を聞こうと歩く。

まず目に映る筈の老婆は、そこにいない。

数瞬の思考の後、狩人の脳はパニックに陥った。

老婆が一人で何処へ行けると言うのか、何処へ行くと言うのか。

出立する前の老婆は混乱していた、狂気に呑まれていた。

であるならば、失踪も有り得る事なのかも知れない。

 

"いなくなったのなら、探さなければ"

手掛かりも無しに探すなど出来る筈も無いと、狩人は老婆を目の前に見ていたであろう男の元へ向かった。

頭を抱えたり、何処かへ行こうという素振りは無い。

なら問題無いのかと言えば、ブツブツと何かを呟いている様は確かに問題があるようにしか見えない。

 

「あの、ここにいたお婆さんは…」

「嘘を、嘘をつくな…俺には特別な知恵があるんだ…学なんて無くても、俺は、俺には…全てわかっているんだ…!」

 

まともな会話が取れる様子では無い、既にその思考は狂気に汚染されている。

ジワジワと、狩人の中にある違和感と焦燥が顔を出す。

秘匿を破ったのは恐らく自身であり、それによって赤い月が現れた。

赤い月によって人々が狂気に陥っているのなら、この事態は────

そんな不安を、事実を頭の片隅に追いやり、狩人はアデーラに話し掛ける。

 

「あ、あの…?」

「ウフフッ、ウフフフフッ…」

 

どれだけ話し掛けても、正面で膝を着き俯いた顔を覗き込んでも、アデーラは反応しない。

虚ろな瞳に色は無く、ただ貼り付けたような笑みに口元から溢れる不気味な笑い声が装飾されているだけ。

とてもじゃないが、話を聞ける状態では無い。

皆狂ってしまったのだ、安全だと言われていたこの教会ですら、狂気を押し留める事など出来なかったのだ。

 

では何が悪かったのか、そう問われれば自ずと浮かぶのは、狩人自身の事。

狩人がこの夜から解放される為に秘匿を破ったが故に、皆狂ったのだ。

であるならば、悪者は必然的に狩人となる。

悪者は定まったのに、それを成敗する勇者は現れない。

きっとこれから先も、そんな者は出て来ない。

 

何かを詰まらせたかのように、呼吸が苦しくなり始める。

罪悪感からか、それとも狩人も知らず知らずの内に皆を呑み込んだ狂気に犯されているのか。

何とか立ち上がり、外へ探しに行こうと歩き始める狩人の目に止まったのは、一つの置き手紙。

老婆の姿が見えないとわかった瞬間に視線を移してしまった為、椅子に乗っている事すら気付いていなかったらしい。

 

『少しだけ待っていておくれ、私の可愛い子』

 

何を待てと言うのか、帰還か、報せか。

そんな思考すら、狩人の頭には存在していなかった。

諦め所を探していた狩人の目にこの場で止まってしまった事こそ、不幸と呼ぶべきだろう。

待てと言われた、少しだけと言われた。

ならきっと、問題は無い。

とっくに疲労しきっていた狩人の心は、諦め所を見付けてしまった。

 

だがそうなれば、心の拠り所が一つ無くなる。

"人を救った"という拠り所が、"守りきれなかった"という傷になる。

だから狩人は、依存先を探し始めた。

人形では何故駄目なのか、相愛の筈だろう。

理解に苦しむが、元より年端も行かぬ少女など選んだのが間違いだったか。

いや、この子なら成し遂げる筈だ、我らの悲願を。

 

「…そうだ、アルフレートさんに手伝って貰えば…」

 

殉教者ローゲリウスを師と仰ぎ、彼が率いた処刑隊の責務であった女王殺しを、彼等の代わりに成し遂げた男。

アルフレートは聖堂街を一時期の拠点としており、旧市街入口方面と禁域の森入口方面の二箇所を往復していた頃もある。

元々が教会側の人間なのだから、きっと聖堂街にも詳しいだろう。

老婆がここを出て向かいそうな場所も、或いは。

そんな思考を元に、狩人は夢へと戻って行った。

 

 

 

夢へと降り立ち、狩人はまず人形の元へ向かう。

今まで溜めに溜めた遺志の全てを、己が力にしてしまおうと。

思い起こすのは流血鴉の言葉、"殺すと何かを削ぎ落としたように強くなって戻って来る"とは、言い得て妙か。

 

「…狩人様、貴女は…」

「大丈夫です。僕は、大丈夫」

 

人形の心配気な声音を断ち切って、狩人は強化を急かす。

やはりそこは世話人か、人形はもう何を言う事も無く、ただ狩人の中にある遺志を力に変えて行った。

礼を一つ言う狩人の瞳は、昏いままだ。

今までは人形と一言二言交わすだけで少しばかりは晴れていたが、最早それだけでは足らぬ程に沈んでしまっているのだろう。

 

 

 

再転送の後に狩人が立っていたのは、廃城カインハーストの頂上にある玉座の間。

"まだここに留まっているのでは無いか"という淡い期待の元転送を受けた訳だが、残念ながら彼の姿は無い。

もう一度再転送を受け城の入口から隈無く探すが、当然幽霊や小人ばかりで白い装束の姿は無かった。

 

端から端まで駆け回り、時には戦闘が起きる事も厭わず大声で呼び掛け。

それでも尚反応は無く、姿も見えない。

"女王を殺した彼を見て一度は失望と恐怖を、落胆と僅かな嫌悪を覚えてしまった自分が、何故彼に頼れるのか"

そんな事ばかり考えていたからか、瞳は潤み目尻から涙が零れている。

 

駆け摺り回った成果と言えば、幾つかの物品。

中でも目を見張るのは、明らかにカインハースト特有のものである二つだ。

片や死臭と血糊が染み付いた不気味な手袋、片や銃と剣が一体になったかのような形をした武器。

最短で奥地を目指したが故に見落としていたのであろうその二つを、この先扱うかはわからないが少なくとも拾っておいて損は無いだろうと、狩人は戦利品を手に夢へと戻った。

 

 

 

休憩などは挟まず、狩人は再転送される。

転送先は禁域の入口、だが向かう先は禁域の森では無い。

道を戻って階段を駆け上がれば、そこはカインハーストへ向かう以前にアルフレートが立っていた踊り場に繋がっている。

案の定、彼の姿は無かったが。

 

「ここにもいない…なら」

 

狩人が知る彼の居場所など、他には一つしか無いだろう。

今度は灯りを介さず、目的地までの道をひた走る。

巨人や使いなどでは、今の狩人を止める事など出来ない。

 

そうして狩人が足を踏み入れたのは、オドン教会の横から続く道の奥にある、旧市街への入口が隠された廃墟だ。

追跡能力の高い犬は殺し、追い駆けて来る罹患者の足を短銃で撃ち抜く。

階段を上ってやはり犬は殺し、そして建物を抜けた先。

最初に顔を突き合わせたその場所に、白い装束は屈み込んでいた。

 

「アルフレートさんっ!」

 

喜色満面、希望を見付けたと言わんばかりに表情に花を咲かせる狩人は、階段を駆け下りて彼の元へ駆け寄る。

まず鼻を突いたのは、血の香りだった。

表情に咲いた花は枯れ、喜色はなりを潜めて不安、ないし絶望がまろび出る。

一瞬にして脚から力強さを失った狩人は、十数秒を掛けてようやくその死体に辿り着いた。

 

横顔は安らかだ、きっと悔いなど無かっただろう。

彼が寄りかかっている墓碑は、処刑隊のものか、或いはローゲリウスのものだろうか。

そこには血を被った冠が、寂し気に置かれていた。

 

「ぁ…」

 

今まで必死に持ち堪えていた両脚が、いよいよ崩れる。

こんな事で心が折れてしまっては、お互い────いや、三者共にメリットが無いだろう。

 

飛び出したのは白い球体のような光、ある男には導きと呼ばれたもの。

今まで狩人の手を引き、道を示していたそれに、狩人は反応を示さない。

代わりに、狩人は一人で立ち上がった。

それでこそ我らが最高傑作────…と言いたい所だが、どうにも様子がおかしい。

 

「みんな死んじゃうなんて…そんなの、嫌だ…」

 

駆け出した狩人の進行方向は、オドン教会。

避難場所を移すつもりかと思えば、そうでは無く。

少々不味いか、転送と再転送を挟んで狩人が立っていたのは、ヤーナム市街の灯り。

今最も向かうべきでは無い場所だが、残念だ。

 

「ガァァァッ!!」

「なっ…なんで、ここに…っ!」

 

背後から聞こえた獣声に完璧に反応して見せた狩人は、咄嗟に直剣を滑らせ、その獣の胴を斬り裂いてしまった。

即死だった事は、ある意味幸いと言えよう。

獣の死を確認した狩人は、ここに来た目的を果たすべく傍にある窓枠を見やる。

赤いランタンは、点っていない。

 

「え…?」

 

どころか、窓枠は破損していた。

窓と、その外に備え付けられた鉄格子が、内側から破られているのだ。

まるで、そこにいた獣がこの家屋から飛び出して来たかのようでは無いか。

狩人には知識が無いが、それは知恵が無い事を意味しない。

要するに、狩人は存外早く今起きている事象に気付いた。

 

「ぇ、あ…嘘…嘘だ、嘘だ…」

 

『せめて人のまま、死ねるのですから…』

 

狩人と涙ながらの別れを交わした彼は、そう言っていた。

だがここはヤーナム、冒涜的な病が蔓延る獣の街。

この街で最も早く、最も凄惨な最期を遂げるのは、いつだって善人だった。

法則とすら言えるそれが、今回も適用されてしまったのだ。

 

「ぅ、げぇぇっ…」

 

物など入っていない胃から、胃液だけが吐き出される。

折れてしまったか、この子が一番近かったのだが。

のたうち回りこそしないが、心中は嘔吐で治まる程浅い傷で済んではいない。

息は荒く、現状が脳を過ぎる度に嘔吐が繰り返され、既に胃液すら残っていないが故に嘔吐くだけだ。

 

何度か呟こうとして、そして次の嘔吐感に流されてしまっている言葉は、今し方殺してしまった男の名だろう。

自身の胃液に汚れる事も厭わず、狩人は必死に死体まで這い寄る。

恐怖と絶望と、罪悪感とまた絶望。

それらに呑まれてとっくに機能を失った両脚は使い物にならないと早々に諦め、冷たい石畳の上を必死に這って。

 

そうして辿り着いた所にあったのは、冷たくなった獣の死体と、それが落としたのであろう小さな鉄の板。

狩人の瞳に獣の爪痕のように映るそれは、正しく"爪痕"のカレルだ。

洒落のような話だが、彼は狩人の心に爪痕を残し、狩人の手元にまで残して行った。

有難い話だが、少しばかり早過ぎるし、遅過ぎた。

もう少しばかりタイミングが合っていれば、この子の成長に一役買っていただろうに。

 

「ぎる、ばーと、さん…」

 

涙と鼻水と胃液、それから返り血で酷い有様の顔を少し上げて、狩人はカレルを見詰める。

その瞳に、生気など欠片も残っていなかった。

カレルを拾い上げた狩人は、事実を受け止められないという様子で起き上がる。

先程より幾分か力の入るようになったらしい両脚は、それでも幼児のようによたよたと歩くばかりだ。

 

 

 

何とか灯りまで歩き、夢への転送と再転送を挟めば、獣の────ギルバートの血と自分の胃液で汚れていた顔も服も元通りだ。

濁った瞳以外は、の話だが。

再転送先は大聖堂、流血鴉との死合を征した場だが、奴の血痕も消えている。

先程拾い忘れていた短銃を拾ってから外に出てみれば、アイリーンもおらず、その残滓すらも残っていない。

 

ふらふらと頼りない足取りで向かうのは、古教会の方向だ。

導きもまた、本筋を辿る事を優先しているらしい。

何の障害も無く古教会へと辿り着いた狩人は、アメンドーズを一目見上げ、だが感慨も無く通り過ぎて行った。

 

ヤハグルの隠し街、その入口。

階段を降りた先の広場に立った瞬間、地面から血のような液体が噴き出し人型を形取る。

血が晴れた場所には罹患者達がおり、狩人に武器を向けて走り出した。

つい先程人死にかなりのトラウマを覚えた筈の狩人だが、剣を構えた手は罹患者に向いている。

狩人がそうしているのでは無く、導きがそうさせているようだが。

 

「獣…オォォ…!」

 

一つの斬撃を大きく行う事でその場にいた二人共を仕留めた狩人は、直剣の血を払い奥へ歩き始める────が、戦闘は終わっていなかった。

不吉な鐘の音の直後に背後から聞こえる水音は、先程斬った二人が発したもの。

蘇ったのかともう一度斬るが、十数秒程経てばまた血と共に蘇る。

相手にする意味は無いと悟ったのか、三度目の死を送ると、狩人は罹患者達が起き上がるのを待たず奥へと走った。

 

道の途中に灯りを見付けると早速灯し、狩人は更に奥地を目指す。

灯りを灯した事でやり直しが楽になった事もあり、躊躇が無くなったようだ。

道順の確認の為か、或いは復活する敵をいつまでも相手にするつもりは無いのか。

恐らくは両方の理由で、狩人はヤハグルを駆け抜けて行く。

 

ようやく重い腰を上げた、と言うよりは見守る事に徹していたが故に手を差し伸べるのが遅れたからか、その遅れを取り戻すかのように導きが狩人の手を引く。

健気な事だ、壊れた作品をまだ完成へ近付けようとしているのか。

それに従う辺り、狩人もまだ終わったつもりは無いのだろうか。

 

否、これはあの光球のエゴなのだろう。

狩人は"今止まれば二度と歩き出せないから"と、今までとこれからを天秤に掛けている。

ギルバートを手に掛けた時から変わらずその顔を蒼白に染め、はらはらと涙を流しているのだから、これ程わかりやすい事も無い。

 

それにしても、まさか導きがただ導くだけで無く支援までするとは、いつ以来か。

どうやら狩りに必要な物品や死血、血石までもを狩人に回収させているようだが、いやはや既に夜も佳境だ。

最早これ以上狩人の強化を積んだとしても、今以上の成果は見られないとは思うが。

 

諸々を拾い終えて先へ進もうとする狩人を、今度は罹患者などの敵では無く導きが阻む。

狩人が誘われた先は、上層の鍵がある檻の中だった。

後ろから迫る死霊が如き追手と、前方から狩人を睨め付ける者共による挟撃を嫌っての事だろう。

一方通行の縦穴を落ちた場所にあったその鍵を拾い、狩人は檻の格子扉に手を掛ける。

ヤハグルは内鍵の文化なのか、ここも内側からすんなり開いてしまう。

 

ぐるりと外を回ってみれば、元の道から先に進む事が出来る。

元の道順へと歩を進める狩人は、だがその足を止めざるを得ない道へ踏み入る事となる。

目の前の建物、その上部に張り付いたアメンドーズが、攻撃体勢を取ったのだ。

悪夢の辺境で見た、薙ぎ払うような光条。

明らかに大火力であるそれが、罹患者共を巻き込んで一本道を白く染め上げた。

 

小爆発によって舞い上がった塵の中を、狩人はひた走る。

身体中に触れる水滴の感触は、きっと爆発に巻き込まれ飛散した罹患者の肉体、或いは零れ落ちた血液だろう。

それらを掻き分け、掻い潜り、狩人は目の前の建物の中に転がり込んだ。

追手はいない、当然だ。

アメンドーズが全て薙ぎ払ってしまったのだから、たとえ望んでも追っては来れまい。

 

文字通り転がり込んだ室内に、狩人は灯りを見付ける。

寝そべったまま手を伸ばし灯せば、これで新たなセーフルームが出来上がった。

それにしても強引だ、幾ら力を付けたとは言え、あの導きがこうも先を急がせるだろうか。

 

何か目的があるようにも、何かを求めているようにも見える。

英雄をして"狩りの縁"と言わしめる導きを焦らせる辺り、この子はやはり特別だ。

失敗作とするには早計か。

 

とは言え、後はもう堕ちて行くだけであろう少女を見守る事しか出来ない事も確かだ。

ならばせめて、この愛らしく愛狂しい失敗作の行く末を、最後まで見守るとしよう。




少女狩人
名前:不明 性別:女性 年頃:若年(詳細不明)
過去:過酷な運命 カレル獣獣淀
レベル 48
 体力 10
持久力 12
 筋力 20
 技量 15
 血質  5
 神秘 36



鴉の狩人証

ヤーナムの外から訪れ血の医療を受け、そして夢の狩人となった者達に脈々と受け継がれて来た、呪いの一つ。

烏羽の狩人アイリーンは、これを異邦人の狩人に渡した。
"異邦人だったから"でも、"鴉を継ぐに値する"と思ったからでも無い。
むしろ狩人は、慈悲を持って狩人を狩るなど、出来やしないだろう。

託した理由、託された理由は、きっとアイリーンの中に残っていた懐かしさ。
或いは"幼い少女に、この先も身を守れるだけの力を与える"という、親心にも似たものだったのかも知れない。
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