少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第三十四話、独自設定がまろび出てます。
場面は飛んで十二度目の戦闘。
繰り返して繰り返して、試行回数が二桁に乗って尚、勝利の目処は見えない。
遠ざかる事は無かった、だが近付いている感触もまた少ない。
見えないゴールに向かって泥沼の中を歩いているような感覚は、一度死んで夢に戻る度に消えてしまう肉体的疲労とは違い、既に弱った精神にこれでもかと疲労を蓄積させていた。
何時かの血に渇いた獣との戦いでそうだったように、精神的コンディションとは真逆の成果を肉体が叩き出す。
流血鴉が語ったように、死を迎える度に己を削ぎ落とすが如く。
少女という器に押し込まれた遺志達が、器の消耗によって表出している。
無尽蔵の体力、異常な攻撃力、反応するのが精一杯な程の速度。
全てに於いて今までの強敵を凌ぐこの獣に、それでも狩人は食らい付く。
折れた心は諦めず、進化する技量が一瞬の希望をちらつかせ。
その光が目前にあると錯覚してしまうからこそ、足を止める事が出来ない。
「ギィィァァアアアッ!!!」
「ぅぎゅっ」
尤も狩人の止まる止まらないは関係無く、英雄であった彼はただ敵を滅するのだが。
十六度目、"勝ち目が無い訳でも無いが、到底届き得るものでも無い"という状況だが、狩人は挑戦し続ける。
弱点の一つとして、突進を躱されると振り返るまでに隙が生まれる事がわかったが、近距離からの突進の回避率が低い事は言わずもがな。
判明する弱点全てに"前提を攻略出来たら"と言う枕詞が付いている辺り、その難易度は絶大だ。
挑戦を重ねる毎に業が磨かれるが、それでもまだ届かない。
数十と死を重ねれば、或いは。
そう思えるだけの成長が、今までの狩人にはあった。
だと言うのに、今回はどうも"違っている"。
冴えが見えないというだけなら、まだ経験があった。
だが今の狩人は、明らかに"退行"している。
まるでこの夜に訪れたばかりの頃のように、我武者羅な狩りをしているのだ。
蹴り飛ばした地面から血飛沫が上がる音と、同時に上がる獣の咆哮。
反射的に取った回避によって致命傷こそ逃れたものの、血溜まりを呑み込みながら迫った大顎が、狩人の片脚を捉えた。
ぶつりとちぎれたのは、左脚の膝から下。
左下腿を食いちぎられて尚、狩人はもう片脚で体を支え、回転を加えた斬撃を振るう。
「グオォォォォオオオッッ!!」
が、当然体重が乗り切っておらず、おまけに踏ん張りも効かない攻撃がこの獣に通用する筈も無い。
浅い斬り傷がついた事すら奇跡のような反撃は、更なる反撃によって返される。
「ぐぶっ」
真下から掬うように振るわれた爪が、下腹から胸、そして顔面を斬り裂いた。
主要な内臓に届いてしまった爪によって、意識が途切れて行く。
閉じていく瞼の裏にある瞳には、英雄が背負う翠緑の光が映る。
幻覚だろうか、錯覚だろうか。
暗くなる視界の中、導きの光にノイズが走った。
十九度目、磨かれて来た業に翳りが生まれる。
今まで完璧に程近い精度で行われていた回避も、いよいよタイミングがズレ始めた。
英雄に挑むのは早かったのやも知れない。
この悪夢へと誘った導きも、先程からただルドウイークに対してのポインター程度の役割に甘んじている。
「フルルルルッ…!」
「ふーっ…ふーっ…」
狩人の息は荒く、既に体力の大部分を消耗しているのがわかる。
本来なら有り得ない。
ルドウイークという獣を相手にするのは、かつて無い程に難度の高い狩りだ。
だとしても、今まで成り立っていた"死を迎える毎に業が磨かれる"という法則が崩れるのは、あってはならない事なのだ。
薙ぎ払われる爪に、少しばかり早い回避。
どうにか避けきれた所で、次は水銀の奔流。
これには少し回避が遅れたか、濁流に腹を強打され、血の海の中を押し流される。
やがて両脚で踏ん張りきれなくなり、水銀と血の中で膝を着いた狩人の体を、馬脚が蹴り飛ばした。
「ぅぷっ…ぐぇ…」
血反吐が喉と鼻奥に詰まったか、荒かった息は細いものになる。
勝機は未だ遠いのだろう。
目を瞑った狩人の顔を、蹄が踏み潰した。
二十二度目、ここに来て大きな成果が見えた。
磨かれ続けて来た業が、狩人に更なる進歩を齎した────とも言えない。
戦法は流麗なものから一転、いっそ雑とすら言える程に荒削りなものへと変貌を遂げている。
とはいえ成果は成果、進歩は進歩だ。
たとえ我らが知るものと違くとも、先を見せてくれると言うのなら文句は言うまい。
嘶きが聞こえるや否や身を躱す狩人の肩を、ルドウイークの爪が斬り裂く。
身体中に擦り傷や打撲を負っている狩人は、だが輸血液を打とうとはしない。
念願の機会が、今目の前にあるのだから。
捨て身とすら言える戦法だが、狩人はただでさえ厳しい回避に反撃を組み込んだのだ。
今まで見せていた業の翳りは、燃え上がる直前の静寂だったのだろうか。
突進の回避中に胴を浅く斬り付け、爪の回避中には左腕を斬り付け。
そうして積み重ねたダメージがいよいよ隙を生み、荒くなった攻撃を制するように直剣が脚を突いた。
「グオォッ!?」
痛みと怒りのままに暴れ狂い、振り乱される全身による攻撃を、血溜まりに浸かりながら転げ回る事で何とか避ける。
見目だけならば満身創痍だが、狩人の瞳の翳りは晴れ始めていた。
「グギュアァァァアアッ!!」
転げ回る最中にも振るった斬撃の幾つかが命中したらしく、ルドウイークの攻撃は苛烈に、そしてそれに反撃を繰り返す狩人の動きもまた激しさを増す。
これでは獣狩りと言うより縄張り争いだ。
片や己が悪夢という縄張りを、片や己が内という縄張りを必死に守り、外敵を殺さんとしている。
細い体を押し潰すように上から振るわれた右腕を躱し懐へ入り込んだ狩人は、異形の胴に渾身の斬撃を────叩き込む事はせず、直前に視界の端を掠めた目玉の口に突きを入れた。
火に飛び込んで来た虫を散らしてやろうと沸き立っていた水銀が、口の上下を直剣によって縫い止められた事で出口を失う。
吐血のようにただ垂れ流された水銀に腕を濡らしながらも、狩人は直剣を抉り抜いた。
「ギャアァァァアアアッ!?」
これ迄で最も大きなダメージを与えたであろう攻撃の直後、ルドウイークが大きな跳躍を見せる。
取り残された血の水滴が足下に落ちると同時に、狩人はその全身を血の海に曝す。
真後ろに飛び込んだ狩人はボディプレスを避けて見せたが、着地の衝撃と同時に聞こえて来た音と、その正体への反応が僅かに遅れた。
「ぅげっ…!?」
狩人の脇腹が大きく裂け、体内を形成していたパーツが溢れる。
どちゃりと音を立てて血溜まりに沈んだ内臓は、その内の幾つかがルドウイークの爪に絡み付いていた。
"聖職者ほど恐ろしい獣になる"
ここで言う恐ろしさとは、きっと強さを含めているのだろう。
獣と化した教会の英雄は、着地と殆ど同時に前への突進を行っていたのだ。
"勝てる訳が無い"と、そう思ってしまう程の見事な攻撃。
だと言うのに、狩人の瞳は輝いている。
翳りと濁りは何処へ行ったのか、その瞳はまるで目が醒めたばかりの頃のような、美しい宇宙を湛えていた。
「…ふふ」
導きの光が、欺瞞の糸が。
弾かれるようにして狩人から離れる。
光球からでは無く、狩人による拒絶という形で。
「あはっ」
純粋な笑い声だった。
壊れた訳でも無い、濁った訳でも無い。
その懐かしい笑い声と、満面とは言わないまでも屈託の無い笑顔に、あの人形ですら驚きを隠せない程。
何が可笑しいのか、いや、きっと可笑しくて笑っているのでは無いのだろう。
狩人の周囲で瞬く光球が、まるで行き場に迷うようにふらふらと揺れている。
ただ進む道を示すが故の導きでは無い、戦いの最中敵を見失わない為にと導に使われていた筈だ。
或いは見失わない為の導だからこそ、自身を取り戻した狩人の傍に着くのは憚られるのか。
「…行ってらっしゃい、狩人様。」
出立の合図は無いが、狩人は人形に一つ目配せをする。
晴れた瞳は、最早翳りなど一分も見せていない。
死によって表出していた彼らは。
この夜で積層していた業は、最早そこには存在しなかった。
『おぉ、素晴らしい!夢の中でも狩人とは!…君の場合は、夢の中だからこそとも言えるが!』
もしあれが、答えそのものだとするなら。
この少女が人よりも、狩人よりも夢に近しいものだという事なら。
或いはきっと、この少女ならば。
二十三度目、死体溜まりに踏み入った狩人は、今まで通り遺志を拾うとルドウイークに向かって駆け出す。
突進を斜めに潜り抜けて行う反撃は、力強くも今までのような歴戦の冴えは見えない。
初心に帰ったと言うよりは、初心に戻ってしまったような一撃。
躱し、躱し、躱し。
その全てで行っている反撃は、今までのものと殆ど変わらないというのに、何処か太刀筋が素直になっている。
死による摩耗と亡霊共の介入が無く、ただ経験のみを糧としていれば、きっとこうなったであろう動き。
内に潜んだ亡霊の業が、何故だか狩人に影響を及ぼさなくなっていた。
無遠慮に誰のものとも知れぬ血を掻き分け迫る爪に、狩人は回避では無く一歩踏み込む事で応戦する。
無論正面から力でぶつかり合えば勝機など欠片も無い、だからこそ技を、業を使うのだ。
踏み締めたのは爪でも手の平でも無く、それらを左腕と繋ぐ手首。
真上では無く牙が向かれた馬面の方へと跳んだ狩人は、右目に向けて直剣を突き入れる。
「グゥゥォォオオッ!?」
「ふーっ…!」
優位に立ったとは思えない、隔絶した能力差。
だと言うのに今戦況を押し進めているのは狩人だ。
着地による硬直を狙った蹴りにも躱しながらの反撃を合わせ、ルドウイークの体に他人では無く自らの赤を増やして行く。
血溜まりに幾重もの波紋を揺らし、狩人が低く駆ける。
向かう先は大部屋の端、死体が積み重ねられ山となっている区画だ。
追うように血の海を奔るルドウイークが、死体の群れを散らかして行く。
正しく肉盾を作り出した狩人は、狙いが定まらないが故に乱雑となる一撃を反撃によって制した。
胴へと向けた斬撃は、"戦闘を続ける為"と意識していた次の回避に備える為にある程度空けていた間合いすらも捨て、今までよりもずっと深い傷をルドウイークに与える。
勿論それに対する更なる反撃をルドウイークは行うが、狩人はその時点で遺骨から加速を引き出していた。
ルドウイークは白い煙を纏って加速を続ける狩人の姿を捉えきれず、今までの戦いで主とされていた速度の差が逆転した。
一度の攻撃に二度の反撃、二度の攻撃に五度の反撃。
微々たるものの積み重ねではあるが、着実にダメージを与えて行く。
前蹴りと爪によって僅かに隙間が空くと、ルドウイークは水銀を吐き出す構えを取る。
この距離では狩人の攻撃が先に届く可能性と比べて攻撃の成功確率は五分と言った所。
本能によって行われた賭けは、狩人の理性と感覚によって食い止められた。
先程と同様の、口を直剣で縫い止める攻撃によって。
「ギャアアァァァアアアッ!!」
加速しつつ一歩前へ踏み出し、その足で溜めた突きを斜め上へと放つ。
向けられた直剣は沸き立つ水銀の中を抜け、上顎と下顎、そして口腔内にびっしりと生え揃う瞳を貫いた。
痛みに絶叫を上げながら振るわれた右腕を躱すべく、狩人は右手を直剣から放し、その場で跳躍しつつ体を捻る事で下に空いた空間に右腕を滑らせる。
着地と同時に掴んだ直剣を引き抜けば、口腔内で暴発した水銀が真下にぼたぼたと零れ落ちた。
逆上した恐ろしい獣からの攻撃を一つ、二つと躱した所で加速が切れた事を感じ取ると、狩人は再び左手の中にある遺骨を優しく握り締める。
左手の辺りを煙が包む直前に鋭い爪が狩人の肩を掠め、肌と少しの肉を削ぎ取って行くが、怯む事は無い。
恙無く加速の儀式を終えた狩人は、輸血液を刺さず前へ進む。
攻撃にしろ回復にしろ、最早怯んで退っていては勝てないのだと、身に染みて理解したのだろう。
ずくりと痛む左肩は、だが右腕で振るいきれば良いと捨て置き、直剣の刃が剛腕に浅い斬り傷を付ける。
手首を回しながら直剣の柄を持ち替えるように動かし、狩人は体勢を変更する事無く二撃目を放った。
切っ先までの重心を、柄を軸にした回転で入れ替える事で、剣を振るう直前に起こる硬直を極限まで減らして見せたのだ。
絶技とまでは行かなくとも、凡百が扱えるようなものでは無いその業。
しかしルドウイークは、その業によって僅かに威力が落ちた一撃を、ただ獣の身体能力のみで上回る。
無理やり力を込めた腕は、今まで狩人を襲った地面を引っ掻く二連撃よりもずっと素早いもので、だが狩人は直感のみで何とか斬撃を逸らし爪に合わせた。
紙一重のやり取りの直後ですら、体を止める余裕は無い。
"落ち着く"という情動よりも先に"回避"という行動が求められる。
取り戻したばかりの平常心すら投入しているそれは、激戦なんてものでは無い。
最初の一戦でわかりきっていた不利が、何度も並び、覆して来た不利が。
あろう事か目の前の獣の匙加減一つで、また元へと戻ってしまった。
回避は効く、ルドウイークの攻撃を布一枚掠めるまでに留める程に。
だが反撃はどうだろうか。
今まで成立していた連撃は、一撃ずつ斬り込むものへと変化している。
何故かと言えば答えは単純、後隙が無くなったからだ。
回避しつつの一撃目に、返す刃での二撃目。
返す刃を振るう隙が無くなれば、二撃目も当然消えてしまう。
噛み付きを躱しつつ胴に一撃、二撃目を振るおうにも直後には前蹴りが迫る。
蹴りを躱しつつ脚への一撃、二撃目を振るおうにも隙を庇うように爪が迫る。
狩人がルドウイークとの戦いで己を取り戻し成長したように、ルドウイークは一人の"狩人"に対する戦法を学んでいたのだ。
前進する為に支えとしている左腕すらも攻撃に回したルドウイークに、狩人は直剣を用いて攻撃をいなしながら反撃を繰り出す。
幾本も生えた脚では支えきれない程に重い上体と言うのも、なかなか可笑しな構造だ。
本来はこのような前傾姿勢では無く、直立での動きをする構造。
人型が元になっているとは言え、ここまで合理性を欠くだろうか。
いよいよ立ち行かなくなった狩人は、自身の体勢を無理やり斜めに崩す事で狙いを逸らしつつ、反撃では無く攻撃という形で剣を振り下ろす。
その程度のフェイントに反応出来ない筈も無く、ルドウイークの爪は軌道を変えて防御に回る。
再三飛び散る火花は、今回ばかりは地面からのものでは無く、両者の武器が打ち合った故のもの。
硝子に爪を立てたような不愉快な音を立てて、互いの矛が競り合う。
押し比べを制したのはルドウイークだが、ダメージを与えたのは狩人だ。
一瞬の拮抗、直後には敗北が決まるであろう膂力勝負を、狩人は直剣をズラす事で一方的に終了させる。
次手は大型の獣相手に何度か試した"体に乗り上げる"という戦法。
体格差さえあれば使えるこの戦法は、ルドウイークが相手でも一定の成果を出せるだろう。
押し比べが唐突に解除された事で行き場を失った力が、一瞬前まで狩人のいた地面を抉り、血を跳ね上げる。
その飛沫を背中に受けながら、狩人は直剣を手にルドウイークの左腕を駆け上がった。
軽い身のこなしで肩まで駆け上がった狩人は、ルドウイークが纏っていた襤褸切れと、肩に掛けられた何かを踏み付ける。
ガードと柄が見えるそれは、剣だろうか。
その瞬間、導きの光球が揺らぐ。
成程、今まで静観に徹していたのは、みるみる内に弱っていたのはこれの所為か。
狩人が見出した導きは、英雄が嘗て師と仰いだ導きとは別物だ。
英雄の秘した刃と、それによって得られた人の身には強過ぎる光。
それを持って英雄は"導きの光"としたのだろうが、狩人の導きはあくまで人由来のもの。
神秘の光と人魂の寄せ集めでは、やはり神秘が勝る筈だ。
先程潰してやった水銀を吐き出す目玉だらけの口の周囲を、これでもかと斬り付ける。
肩を、首を、顔面を。
無論自身の体に乗り上げた害獣を放っておいてやる程ルドウイークは甘くない。
暴れ始めるその体の上では、姿勢を保つ事も困難を極める。
攻撃は直ぐに止み、狩人の体は宙に投げ出された。
着地、そしてその硬直を狙っての攻撃。
迫る左腕を潜り抜けて躱し、突き上げるように振るわれる頭突きを最小限の動きで避け、狩人の持つ直剣の切っ先がルドウイークの胴を捉える。
致命にはいまいち届かないが、確実にダメージとなる一撃。
それを受けたが故か、今まで蓄積したダメージの引き金が引かれただけか。
ルドウイークの上体がぐらりと崩れ、血溜まりの中に倒れ込んだ。
「はっ…はっ…」
浅い息を繰り返す狩人は、直剣を握り直し必死に息を整える。
ルドウイークは倒れた、だと言うのに何を警戒するのかと思えば、直ぐにそれは顔を出す。
倒れ込んだと同時に跳ね上がった血飛沫に紛れて、獣が背負っていた一振の剣が地面に突き立てられた。
じわりと、空間に光が滲む。
「あぁ…」
誰が上げたか、辺りに感嘆のような声が響く。
尤も狩人を除いてしまえば、声を発する事の出来る生物など、一つしかいない。
ルドウイークの、彼の未だ人の面影を残す顔に、生命の輝きを最も色濃く表す瞳に。
翠緑の光が、映っていた。
「ずっと、ずっと側にいてくれたのか…」
今度は呻き声などでは無く、明確に言葉が発された。
まさか獣に堕ちてから、悪夢に身を落としてから、正気を取り戻す事などあるのだろうか。
禁域の森で一つの家庭を貪り食ったあの獣も、悪夢に呑まれた訳では無かった。
真なる光を宿す月とは、理を跳ね除ける程に強く輝くのか。
「我が師、導きの月光よ…」
左手で柄を手に取り、持ち上げる。
ゆっくりと前に持って行った剣を今度は両手で構え、翠緑の刃がルドウイークの顔を、獣と化した右半面を隠した。
彼はもう、醜い獣などでは無い。
狩人の目の前に立ちはだかる異形は、その姿がどれだけ醜悪であっても、人であると言えるだろう。
"聖剣のルドウイーク"が、一人の狩人との決闘を承諾した。
ルドウイークが聖剣を構えたとほぼ同時、狩人は遺骨を握り締めながら直剣を背中に回し、大剣へと変形させる。
見目を合わせるなどと言う遊び心は存在しない。
ただ狩人の目に映る英雄は、今までの手数勝負が通用する程の隙を与えてくれないと、そう直感で判断したのだろう。
狩人が大剣を構え駆け出した直後、ルドウイークが聖剣を僅かに下ろしたかと思えば、残光を纏ったその刃が輝きを増す。
金属音でも、鈴の音でも無い。
甲高いようで重厚感のある音が響き、聖剣が振るわれる。
「フンッ!」
お互いが未だ間合いの外、そこで剣を振るうという事は当然理由がある筈だ。
そうして聖剣の刃がなぞった場所から跳び退くと、大きな風切り音と共に、一瞬前まで狩人がいた空間を"光"そのものが斬り裂いた。
間合いの有利は一方的に奪われた。
この大部屋の中、あの光刃は何処まででも届くのだろう。
ならば距離を詰める以外に選択肢は無い。
連続して迫る光刃の全てを紙一重で躱し、狩人は聖剣の本身が届く間合いへと踏み入った。
ルドウイークの左腕に構えられた聖剣が、再び音を発して振るわれる。
「オォォッ!」
「くぅっ…!」
両手で構えた大剣を今まで以上に力強く、今まで以上に精確に振るい、狩人は何とか聖剣をいなした。
だがたったの一撃で終わる程、英雄の攻勢は温くない。
返す刃で一つ、そして叩き付けるようにもう一つと攻撃が降りそそぐ。
二撃目を再びいなし、三撃目に振るわれる叩き付けを躱し、狩人はようやく大剣の届く間合いまで近付いた。
血溜まりの中を強く踏み込んで薙ぎ払った大剣は、聖剣によって軽く防がれてしまう。
計三合の打ち合いを終え、狩人は数歩退がる。
徒に打ち合っても勝機は見えないと踏んだか、隙を見付ける為にルドウイークを観察しつつその周囲を走り回り始めた。
手数勝負を捨てたのは、偏に反撃の隙すら無くなったからだ。
取り回しの良い直剣だからこその反撃戦法であり、だが小さなダメージの積み重ねでは先に狩人の集中力が切れてしまう。
故に完璧なタイミングで一撃ずつ入れる形に方向転換したのだろう。
鳴り響く音を合図に振るわれた一撃を、最早いなす事などせずに避け、懐に入り込み大剣を振るう。
そうしてやっと入れた一撃ですら、与えたのは浅い斬り傷一つのみ。
回避の直後に無理やり行ったとは言え、攻撃の通りが悪過ぎる。
"誘い込まれた"と理解した時には、燐光を放つ刃が狩人の眼前に迫っていた。
全身を素早く駆動させて何とか放った斬り返しが、すんでの所で聖剣のガードに叩き付けられる。
僅かに逸れた剣筋は、それでも狩人の右肩の肉を削ぎ取り、傷以上のダメージを刻んで行く。
暴力的な光は、ただそこに在りその場の全てを照らしながら、確かに狩人の体を蝕んでいた。
「フンッ!!」
得物を支えるだけで血を噴き出し痛みを訴える右肩に、何とか力を込めつつ反撃を狙う狩人の行動を、裂帛の気合いによって発された声が捻じ曲げる。
聖剣を弾いた己が大剣を狩人が再び引き戻そうとした時点で、ルドウイークは既に次の構えを取っていた。
既に全力で踏み込みを入れてしまっている狩人は、今から行われるであろう攻撃をいなすか、或いは防ぐかを選ぶしか無い。
当然、今現在"好調に見える絶不調"といった状態の狩人が容易に防げる攻撃など、目の前の英雄は持ち合わせていないが。
「ヌゥッ…!!」
聖剣二閃。
巨大にして強大なその図体で、どういう訳か狩人を上回る程の剣速を見せた聖剣は、通り過ぎた空間に二つの線を刻む。
直後に散った火花は、防御が間に合ったが故のものか。
「っ…!?」
低く薙がれた聖剣が血で汚れる事は無く、一滴一滴が余す事無く聖剣を包む光によって阻まれ、散らされる。
振るった大剣を何とか引き戻し、左肩から響く"がこん"という嫌な音を無視して盾として構えた狩人は、聖剣の直撃を受け血溜まりの中を転がって行った。
"防げたのか、否か"と確認したいのは山々だが、生憎と狩人の状態は思考を一つに纏められる程安定していない。
聖剣の刃自体は防げても、それを覆う光は防げず、質量が有るようで無いその光によって大きな打撃を受けてしまったからだ。
歴戦の古狩人が、獣狩りの夜で英雄と呼ばれた男が、まさかその隙を逃す筈も無い。
大部屋の中心から入口付近まで転がされた狩人に向けて、ルドウイークは再び光刃を飛ばした。
震える脳が死に物狂いで体の各部に発した"次の攻撃を避けろ"という司令に答え、狩人は全霊を持ってその光刃を回避する。
脳震盪でも起こしたのか、揺れるどころか回るように動く視界に、だが狩人は足を止めない。
縦に、横に、斜めに。
飛んで来た刃を三つとも躱した頃、ようやく狩人の思考が晴れ始めた。
第一の問題は、狩人の手から大剣が離れている事。
元より無理を効かせて左肩が外れてしまう程強く剣を引いてようやく盾に出来たのだ、両手で握れなくなってしまえば剣よりも軽い狩人の体がより遠くへと飛ばされるのは自明だろう。
次いで狩人を脅かした第二の問題は、攻撃では無く身体の状態。
左腕の上腕部が、灼けるような鈍痛を訴えているのだ。
"あぁきっと、自身の左腕は酷い事になっているのだろう"という思考はすれど、目線をそちらに向ける事は無い。
確認自体が大きな隙となり、且つそれを目にした所でどうにもならない事がわかっているからだ。
かと言って今も夥しい量の血を垂れ流している"切断された左腕"を放ったらかしにしておく訳にも行かず、狩人は視線をルドウイークから離さないまま懐から一つの試験管を取り出した。
赤に金の刺繍がされた布が被せられたその試験管は、中に鮮やかな血が溜められている。
"アリアンナの血"を取り出した狩人はその布を咥え下ろし、中の血を一滴残さず呑み干した。
アリアンナの血はアデーラのものと違い持久力が回復するようなものでは無いようだが、造血作用でもあるのか、少なくとももう暫くは戦えるだろう。
試験管をしまい一目散に走る狩人は、その間も飛来する光刃を避けながら何とか地面に突き立った大剣の元へ辿り着く。
"このまま大剣を振るうのは無茶だ"、"直剣では決定力が足りない"
そんな思考を余所に、ルドウイークは聖剣を両手で眼前に構え、祈り始めた。
同時にルドウイークの、聖剣の周囲に衝撃波が迸る。
ゆっくりと掲げられる聖剣の光が、まるで収束するように輝きを増し、遂には刃が伸びたのかと錯覚する程に重厚な光を纏う。
"攻撃の予備動作だ"と察するには容易過ぎるその構えに、狩人は背を向ける訳でも、ましてや近付く訳でも無い。
そんな隙は、欠片も無い。
狩人は地面に突き立った大剣を一時的に引き抜き、その場に膝を着いて右半身をルドウイークへ向け、それを庇うように大剣を体に立て掛けた。
"光刃のように間合いの概念が存在しない攻撃が来るのなら、これが最適解の筈だ"
そうしてルドウイークが聖剣を振り下ろすまでの一瞬の内に行われた"防御"という行動は、果たして正解だったのか。
「オォッッ!!」
「っ…ぐ…!」
そんな思考もお構い無しに、光の奔流が大気を割り裂く。
やがて狩人は大剣ごと呑み込まれ、その姿は翠緑の極光の中に消えた。
空から降って来た隕石に押し潰されているような、大滝の真下で降り注ぐ水を前に盾を構え続けているような。
大質量をぶつけられ続けているような感覚が、狩人を襲う。
光と形容するにはあまりに強過ぎる、だが光とは本来これ程の威力を持つのだろうと納得出来る攻撃。
その前に盾として構えた大剣は、まるで強烈な圧力に晒されているかのように軋む音を上げている。
五秒か、十秒か。
いや、寧ろ秒と呼べる程の時間は経っていない。
その程度の、或いはこの攻撃を前にすれば途方も無い時間、盾として存在し続けた大剣の刃が、ぼろりと崩れた。
端から黒ずみ、穴が空き、周囲が崩壊する。
そうして面積の減った盾は、既に鉄塊や盾と形容する事すら難しいガラクタと化していた。
それでも大剣は、狩人の駆った聖剣は、見事主人を守って見せた。
光が止み、直後小さな影がルドウイークの正面を、光の柱が置かれていた跡を走り抜ける。
右手にはボロボロの大剣を、軽くなってしまった大剣を確りと握って。
対するルドウイークは手を抜かず、聖剣に力を込める。
撃たせまいと狩人が放ったのは、斬撃でも何でも無い、投擲だった。
「────…行けっ!」
「グッ…!?」
意表は突いた。
だがそれだけで決定打が通る相手では無い。
放り投げられたガラクタを聖剣で弾いて、ルドウイークは一瞬の内に狩人の方へ視線を戻す。
その目に映ったのは、狩人よりも大きな直剣だった。
否、狩人より直剣が大きいのでは無い。
大きく見えてしまう程、直剣が近くにあるのだ。
一度目の投擲は、直剣と鞘の接続を外した状態で剣を振る事で、大剣の刃だけを飛ばしたもの。
そして二度目の投擲によってルドウイークに寄越された直剣は、狙い通りの場所を"貫いた"。
「ガァッ…!!」
直剣が皮膚を、肉を突き破り、反対側からその切っ先を突き出す。
命中した箇所は首、それも骨を少し左へ逸れた場所。
ただの獣であれば致命的だが、相手はルドウイークだ。
武器を失った狩人が行える攻撃は、もう無い。
勿論、狩人は武器を失ってなどいないが。
「
じゃらりと金属同士が擦れる音を立てて振るわれたのは、変形した仕込み杖。
首元を通り過ぎる程度の所まで届くように近付いた狩人の手によって振るわれた蛇腹剣が、ルドウイークの首では無く直剣に巻き付く。
次手で狩人は、ルドウイークの膝に足を掛け肩まで乗り上げようと跳躍した。
「ウォォォッ!!」
食い止めようと薙ぎ払われる聖剣すらも足場に、狩人は跳ぶ。
無論聖剣を踏み締めた左足は酷い有様だが、構う事は無い。
ルドウイークの左肩を跳び越えながらの一閃。
仕込み杖と連動して振るわれた直剣が鈍い音を立てながら回り、ルドウイークの首を断ち斬った。
「ぶへっ」
左足は足の裏から内側の肉がミンチにされ、中身の骨は当然のように粉砕されている。
それが無くともここまでの疲労で両脚は限界なのだ、まともに着地が出来る筈も無い。
ルドウイークの背を跳び越えた先にある階段の上、石畳の通路に顔面から着地した狩人は、三度程の回転の後に何とか体を起こす。
"まだ戦いは終わっていない"と更なる追撃を行う為に振り返り、先程の無茶で遂に変形機構がイカれ、ただの紐にぽつぽつと鉄の欠片が付いたような有様の仕込み杖を構えた。
走るどころか、歩くどころか、最早立つ事すら叶わないであろう左脚は立膝で何とか姿勢を維持し。
無事ではあるもののステップの起点に使う事で疲労は左脚の比では無い右脚を何とか起こし。
そうして強敵の方を見詰めた狩人の瞳に映ったのは、首を切断された事で崩れ落ちる首から下の胴体と、隅に落下し転がって行く馬の頭のような形の生首だった。
「はっ…はっ────…はぁぁっ…」
その様子を見て勝利を確信したが故に気が抜けたのか、狩人は再びその顔面を地面に打ち付ける。
痛みを声に出す気力すら残っていないのだろう。
無言のまま、指先一つ動かす事すらも惜しんで、ただ石畳に体を預ける。
べちゃりと上半身を石畳に着け、下半身は立膝だったせいで座っているかのような姿勢で、腰を突き出したまま固まってしまう。
途轍も無く不格好な姿勢だが、ここまでの疲労を鑑みれば致し方無いというもの。
やがて周囲に響き始めたのは、小さな、小さな寝息だった。
ルドウイークの聖剣
かつて医療教会の英雄と、それに連なる教会の狩人達が駆ったとされる剣。
巨大な鞘との合体機構を有しており、変形によって直剣から大剣へと姿を変える。
狩人が扱うには直剣は長く、大剣は重い。
使い勝手の良さと頑丈さ、そして威力が不便を上回るが故に使い続けられた狩人の聖剣は、奇しくもこれまでの夜で最も手にした期間の長い武器となった。