少女の微睡、月香の夜。   作:かなしいな

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狩人、教会の狂気に触れる。



※第三十六話、ブラボ屈指の美少女登場です。

(遅い上に長いです。)


狩人の邂逅、実験の末路。

入口右手側から伸び、中央の柱に沿ってそこかしこに繋がる階段を、狩人は上り始めた。

心底どうでも良い事で消費された輸血液は、いよいよ二桁に届くかという所。

とはいえ狩人の耐久度では"斬られずに斬る"という戦法が当然となるが故に、大した痛手とは捉えていないようだ。

その"斬られずに"と言うのがそもそも難しい場所ではあるが。

 

一つ目の階段を上りきった踊場で、二つの人影が狩人の前に現れる。

両方共が下で見た者と同じように肥大した頭部を持っている事を確認して、ようやく狩人はあの毒を浚っていた男が異常だった訳では無く、そもそもこの実験棟に存在する者達が異常だという事に気付いたらしい。

 

「アァァッ!アァァァッ!!」

「なっ────ぐぅっ…!?」

 

"下の男同様、ある程度なら会話が可能なのではないか"と、狩人は警戒は解かずに武器だけを下ろして近付いて行く。

下に居た男も会話が通じてはいなかったが、どうやら目の前の二人は更に質が悪かったようだ。

片方は狩人を視認────というより、気配を察知した瞬間に奇声を上げ、もう片方は叫び散らしながら狩人に襲い掛かった。

 

我武者羅に振るわれた右腕を聖剣で防ぎながら斬り飛ばし、返す刃で首を断つ。

その様に驚愕すらせずに飛び込んで来るもう一人の胴を両断した事で、一先ず脅威は去った。

一安心出来た事でまず狩人が疑問に思ったのは、その場に斬り捨てた二人の格好。

 

この空間の管理人ではまず無いであろう病院着からして、恐らくは患者や実験体と言った所。

であるならこの頭部も、下に居た男が言っていた目玉というのも、実験の果てに"そうなってしまった"ものなのだとしたら。

そこまで考えて、狩人は罪悪感に胸を締め付けられた。

 

「…おやすみなさい」

 

先程の絶叫は威嚇だったのだろうか。

少なくとも狩人にはそうは聞こえなかったらしい。

助けを求めるような、泣き叫ぶような声だと。

そう聞こえてしまう程度には、同情心を持ってしまった。

 

この程度で心を痛めていたら、この先は進めないだろう。

医療教会の負の側面を裏漉ししたような濃度の狂気が、実験棟では凝り固まっている。

不純物無しの好奇心が生み出した失敗作の群れを、この先では斬り捨てて行かねばならないのだから。

 

気を確かに持つようにゆっくりと階段を上る狩人の耳には、絶えず患者達の絶叫が響き届く。

悲鳴は老若男女を問わず、手段と相手を選ばない凄惨な実験の数々を物語っている。

介錯をするように襲い来る患者の全てにトドメを刺す狩人は、歩いて行く内に二階の角部屋へと辿り着いた。

 

患者寝室二階と書かれた表札の横には、所狭しと置かれた車椅子と輸血液の提がった点滴棒。

それらを退けた所にある扉を開いた事で見えた暗闇の中からは、呻き声と泣き声ばかりが聞こえて来ている。

携行ランタンをそっと点した狩人の目にまず映ったのは、薄汚れたベッドとそれに寝かされた患者達。

 

「殺してくれ…もう、殺してくれ…」

 

饐えた匂いを気にも留めず、狩人は息を呑む。

最早匂いや悲鳴など気にならない程に、目の前の光景は常軌を逸していた。

肥大した頭部を抱えて"殺してくれ"と呟く男であろう患者は、狩人の存在を感じ取ったのか、頭を抱え込んでいた片手を狩人へと伸ばす。

 

「こんなんじゃ俺は、頭がおかしくなっちまう…頼むよ…」

 

伸ばされた手を取る事はせず、だが聖剣の刃を触れさせる事によって終わりだけを告げる。

意思表示から数秒の後に行われた介錯に、男は感謝を告げて静かに息を引き取った。

 

「あぁ…ありがとう…」

 

だが一人殺した所で、この惨状は終わりはしない。

 

「誰か助けて…懺悔します。もうしません、だから…この恐ろしい湿った暗闇から…あ、アア、ウアアアッ!」

「マリア様、お願いします…手を握っていてください…」

 

乞い願うような口調は他の患者同様余裕など欠片も無く、だがその名前を呼ぶ事こそに希望を抱き、"名前の主なら救ってくれる"と信じている。

勿論"マリア"という名前の人物は、この場にはいない。

 

「そうでないと、もう…溺れちまう…」

 

もしあの女がこの実験棟周辺の主なら、成程確かに悪夢なのだろう。

であれば恐らく、実験棟の奥には教会の恥にして原罪が。

我らが夢見て、そして幾人かが見付けた"宇宙"がある筈だ。

 

この部屋に寝る患者全てに介錯を送った狩人は、重く苦しげな息を一つ吐き、部屋を後にする。

次に入ったのは、患者の叫び声ばかりが響く大部屋だった。

"この叫び声が本当に苦しみから上がるものなら"と、可能な限り介錯を行いながら進むつもりでいるらしい。

 

部屋の出入口から見えるだけでも、患者は三人。

上階へと続く階段には更に二人、上階にも三人。

計八人の患者達は、全員が唸り声や呻き声を上げ、暴れ狂っている。

 

「ギャアァァッ!!」

「アァッ!アァァッ!!」

 

その姿を見て聖剣を軽く持ち上げた狩人は、足下にあった瓶の欠片を踏み割りながら駆け出した。

その音に釣られた二人の首を断ち、残る一人の心臓に聖剣の刃を突き立てた直後、上階の患者達が叫び声を上げる。

瞳だけを動かしてそちらを見やれば、患者達は幾つかの小物を投げ寄越しているようだ。

 

急制動と同時に剣を構えた狩人は、飛来するそれらを打ち落とそうとし。

その小物が全て瓶である事を確認した瞬間、両脚に全力を込めて後退した。

躱された事によって地面に着弾した瓶が割れ、内からは白い煙が吹き出す。

 

見覚えと嗅ぎ覚えのあるその煙は、水銀によるもの。

古狩人達の水銀弾や、ビルゲンワースの学徒達が用いた水銀。

それらが自身に一定の効果を及ぼしていた事もあり、狩人は少なからず警戒を強めた。

 

再びの投擲を避け、狩人は階段を上り始める。

途中に居た二人の首を刎ねると、速度を落とす事無く駆け上がり、三度目の投擲を柱で防いでステップを挟み"加速"する。

瞬く間に上階の足場にいた三人に介錯を送った事で、この部屋は一先ずの静寂に沈む。

 

「はっ…はぁっ……」

 

遠くから響く患者達の叫び声は、未だ止まない。

実験体が多過ぎるが故か、それとも今までに聞いていた患者達の声が鼓膜にこびり付いてしまったのか。

内と外の何方から声が響くのかも判断が効かなくなり、狩人はある種のノイローゼに陥っているようだ。

 

この悪夢に入り込んだ直後、或いは入り込む以前の精神状態なら、問題は無かったのだろう。

だが狩人は聖剣によって正気を取り戻してしまっている。

真なる正気か仮初の安定かは別として、真面になってしまっているのだ。

 

止まっていても埒が明かないと決心したらしく、狩人は心の傷に蓋をして進行を再開する。

悪い癖だが、この場限りでは有効な手だ。

上階から通路を進むと、そこには梯子が一つあるのみ。

登って行けば、そこにはまたも患者の寝室であろう部屋がある。

 

中に居る患者は、どうやら一人。

点滴棒を引き摺りながら部屋を練り歩く様は、他の患者よりもずっと狂気的な姿だ。

どうやら部屋に立ち入った狩人には気付いていないようだが、油断は欠かせない。

慎重に歩き始めた狩人の靴裏には、先程踏み砕いた瓶の欠片が刺さったままだった。

 

「ウァァッ!!ギャアァァッ!!」

 

ちゃり、と小さな音が静かな室内に響くと同時に、その患者は雄叫びを上げる。

目は見えていないようだが、その分聴覚が鋭敏になっているようだ。

おまけに右手に持つ点滴棒を振り回しての攻撃は間合いが長く、避けるにはどうしても音を立てながら大きく駆け回る必要がある。

 

もう一度身を潜めてやり過ごす事は叶わない。

であれば、正面から挑む他無い。

 

「……今っ!」

 

短銃の発砲音に反応した患者の横腹に、直後水銀弾が突き刺さる。

貫通した銃撃によって膝を着いた患者の右肩と首筋を、聖剣の刃が連続して斬り裂いた。

が、断ち斬るには至らず。

筋繊維のちぎれる音を発しながら無理やり動かした右腕によって、点滴棒が狩人の足目掛けて振るわれた。

 

「っぐ…!?」

 

両脚を浚われた狩人が今にも転倒するというタイミングでの追撃として、一度真横へ薙がれた点滴棒が振り下ろされる。

対して狩人は左手の短銃を即座に手放し、左腕一本で体重を支え、回し蹴りを放って見せた。

点滴棒のフックが柔らかい脇腹に突き刺さり肉を抉ると同時に、鞭のように振るわれた右足の踵が患者の首を砕く。

 

「ギィッ…」

 

蹴り抜く勢いで姿勢を戻した狩人は、地を這うように聖剣を振るう。

砕けた頸椎は剣を防ぐに能わず、その首は綺麗に刎ね飛ばされた。

輸血液を一つ消費した所で、狩人は辺りに散らばる瓶の存在に気付く。

大半が空瓶や薬瓶だが、内幾つかは輸血液の瓶だ。

 

思わぬ所での補給に内心歓喜しつつも、音を立てて集めるような事はしない。

最下で無駄に浪費した分まで補給出来た所で、もう一度気を引き締めつつ狩人は歩き出す。

見えている道は幾つかあるが、音の少ない道は一つだけ。

暗く細い通路を行けば、先にあったのは下りの梯子だった。

 

下は暗過ぎるが故に視界が届かないが、左から入る薄明かりは出入口から小さな足場を照らしている。

足場は階段や梯子が繋がっている訳でも無く、不可思議が過ぎる構造で足場が途切れているが、これもまた継ぎ接がれた悪夢故のものだろう。

少々高さがありはするが、狩人の軽く柔軟性のある体なら、足場まで飛び降りても重傷とは行かない筈だ。

 

一度思い付いてしまえば、それ以外の道は選べなかった。

だが直ぐに実行という事にはならず、狩人はその場で耳を澄ます。

足場の方向から聞こえる物音を聞き逃すまいと。

 

「ア……アァ……」

 

小さな呻き声だ。

蹲っているのだろう、少しばかり曇って、低く響いている。

真左の石柵の向こう、その真下から響く声は、飛び降りてしまおうかと考えていた足場の隅から聞こえて来る。

そのまま飛び降りてしまえば、奇襲を受けていたであろう位置から。

 

狩人は石柵の上に立ち、聖剣を構えながら飛び降りる。

"話が通じる相手なら会話を"という考えは最早頭の中に無い。

介錯を与える事の義務感だけで無く、耳に残る鳴り止まない叫び声を早く止めてしまいたいのだ。

 

「ギィッ!?アァァッ……」

 

飛び降りた先に居たのは、やはり頭の肥大した患者だった。

聖剣は患者の頭から腹までを貫き、崩れ落ちる体をクッションにするように狩人は着地する。

立ち上がり、患者を見た事で狩人はようやく思い付きもしなかった可能性に辿り着く。

"ただの人で無くて良かった"と。

 

既に死体となった患者の右手には臭気を放つ布が巻かれた棒が握られており、漂う毒の香りに気付いた狩人は即座に距離を取る。

後ずさった先で狩人の足に触れたのは、足場にしがみつくように絶命している死体の左手。

固く握られた手を解いて見れば、中には出入口から入る明かりを鈍く反射する金属が一つ。

 

「これ…鍵?」

 

その手に握られていたのは、小さな鍵だった。

狩人の考えでは最下にある二つの扉のどちらか、或いは両方のものだと踏んでいるが、この鍵は明らかに二つの扉と規格が合っていない。

恐らくはその更に下、死体溜まりから実験棟へと向かう途中に通った地下牢の鍵だろう。

 

鍵を手に入れた後に狩人は出入口から外を確認する。

二人居た患者を斬り払いながら進んだ先には、階段が繋がっていなかった。

先程と同様、夢特有の歪んだ設計。

そう断言するには、中央の柱とそれに沿った階段は怪し過ぎる。

 

"まだ見ていない道へ"と、道を引返す狩人の向かう先は、患者寝室三階。

鍵を拾った足場から跳躍し、梯子を掴んで登り始める。

登った先の点滴棒を振り回していた患者が居た部屋にある扉を開いてみれば、そこは四階通路。

 

いつの間にやらかなりの高所まで上って来てしまっている事に少々足を竦ませながら歩く狩人の目の前には、またも階段が一つ。

流れ作業のような機械的対応で患者を下し、僅かに目を伏せて数秒程の祈りを送っている最中、その音はけたたましく鳴り響いた。

 

「アーッハハハッ!」

 

嗄れた哄笑と、ガトリング砲の発砲音。

標的は自身かと柱の陰に身を隠した狩人の視線の先では、階段を上っていた患者の体が水銀弾によって肉片へと変えられていた。

威力は今まで何度か経験したものとそう大差無いようだが、問題点は寧ろ大差が無い所にある。

 

「ふーっ……」

 

それでも尚進む意志に濁りは無く、狩人は既に駆け抜ける覚悟を決めていた。

柱から飛び出し、直後白い影を視認した砲手が射線を合わせる。

真っ直ぐに駆け抜けて来る狩人に対して、スピンアップの済んだガトリングが掃射された。

 

手摺などは無く、つまりは躱す為の足場となるものが無い階段は、右へ左へと連続して避けるのが難しい程に狭い。

故に狩人は階段の上下という高低差を利用し、姿勢を低く保つ事で射角の更に下へと潜り込んだ。

当然砲手も合わせて来るが、何も横への回避が不可能という訳では無いのだ。

 

「そこっ────……?」

 

大きく斜め前へ踏み出し、全力での跳躍を行う筈だった右足が、床に付いていない。

否、そもそも床が存在しない。

 

「わぁぁぁっ!?」

 

狩人が走っていた階段と砲手が鎮座していた足場は、繋がっていなかったのだ。

銃弾を避ける助けとなった高低差は、逆に狩人から僅かな隙間を視認する為の視界をも奪っていた。

或いは回避の為に姿勢を下げるような真似をしなければ、事前に気付く事が出来たのやも知れない。

 

「…っく、いったた…」

 

落下した先は研究室四階の通路。

今まで歩いていた患者寝室側の向かいであり、当然探索の目が一度も入っていない場所だ。

とはいえ、あの階段の上が気になるのもまた事実。

"情報が錯綜しないように一度戻って患者寝室側を最後まで"と階段を降り始めた所で、視界を掠めたのは人形の影。

 

左腕を僅かに上げ、まるでこちらを手で指しているような。

次の瞬間、狩人の真横にあった木柵が"弾け飛んだ"。

ただ爆発した訳では無く、咄嗟に身を隠した狩人を追って放たれた水銀弾が柵へと着弾したのだ。

 

「……っ、狩人…!」

 

狩人の目に映ったのは、間違い無く古狩人だ。

得物は仕込み杖と、左手に持つ銃は威力からして連装銃だろう。

数歩下がって足場の安定した通路を戦場に選んだ狩人に、古狩人も応戦する。

変形した仕込み杖が唸るように風切り音を上げながら迫った所で、狩人の短銃が火を噴く。

 

「グ、ゥオォォッ!!」

 

が、どうやらタイミングを無理やり外されたらしく、パリィは成立しない。

銃撃を耐えきるという無茶によって撓んだ杖の刃は威力の大部分を失い、容易く避けられた事で柱に衝突する。

杖を引き戻そうと動く右腕は、今にも攻撃が可能となるといった所で、聖剣によって断ち斬られた。

 

「落ちて…!」

 

斬撃から刺突の連撃で急所を貫かれた古狩人は、直後横方向に掛けられた力で柵を乗り越え落下して行く。

高さは充分、恐らくは即死。

たとえ生きていたとしても、死は免れ無いだろう。

ようやく一安心出来た事で、狩人は階段を降りて行く。

 

「チュパ、チュパ、チュパ……」

 

その声が聞こえた段階で、早くもこの階段を降りた事を後悔し始めてるいるが。

声からして、恐らくは女性。

だがそれを女性、性別という括りに入れても良いのかは、甚だ疑問な所だ。

体だけが性別を示すものでは無いが、少なくとも肥大した頭しか存在しないのでは、何方なのかわかりはしないだろう。

 

「マリア様?私はコマドリ…」

 

どうやら人ですら無かったらしい。

狩人はのろのろと歩み寄り、聖剣を構える。

 

「ゆるゆると、私卵になるのかしら?ねぇ、マリア様?マリア様?」

「………」

「ねぇ……」

 

寂し気な声に耐えきれなかったか、狩人は構えた聖剣を振り下ろす。

断末魔の絶叫すら上げず静かに絶命した生首、或いは肉の塊は、突き刺された傷口からしとしとと脳液を垂れ流している。

液体である筈なのに染みず、だがとろとろと流れ出ているそれを、狩人がつまみ上げる。

 

ぷるぷるとした弾力を手に伝えるそれを何故か懐にしまい込めば、足下の溶けた肉塊が再び形を成し始めた。

ぎょっと驚いた狩人が数歩後退る間に突き刺される前の状態まで戻った肉塊、コマドリは再び見えない口から言葉を発する。

 

「マリア様?私はコマドリ」

 

今までは、介錯という名の殺人が通用していた。

相手が生き物であり、殺せば死ぬ者共だったからだ。

だがこれでは、殺しても死なないのでは、最早介錯という言い訳すら通じない。

 

「あぁ…えっと、コマドリさん」

「なぁに?ふふ、あなたはだぁれ?」

「…僕はその、狩人です。夢の狩人」

 

狩る対象で殺す対象だったから、聖剣を振るう事が出来ていたのだ。

相手が襲い掛かって来るから、反撃として攻撃出来たのだ。

ある種の封殺、箍を外した狩人への最も効果的な防御。

"死ぬ事すら出来ない"コマドリに狩人が同情心を抱いた事によって、戦闘は成り立たなくなってしまった。

 

「夢…とっても素敵だわ!それにとっても可愛らしい声…まるで深海のよう」

「……深海のような声って、可愛らしいものですかね?」

「そうよ、きっとそう…だってこんなに安らぐんですもの」

 

視覚が無い分無駄な先入観が無いのか、今や患者の返り血で全身を濡らしている狩人に、コマドリは警戒もせず語り掛ける。

深海のような安らぐ声、それは狂気から来るものか、それとも元来持ち合わせているものか。

何方だとしても、この夜で狩人の"声"に言及した者は少ない。

 

「ごめんなさい、僕には難しいみたいです」

「そう…でもあなたもマリア様に会えば、きっとわかるようになるわ」

「マリア様…」

「そう、マリア様よ!マリア様もあなたみたいな、とっても安心するお声をしているから!」

 

どうにも要領を得ない会話だ。

そもそも質問も何もしていないのだから核心に至るような事は無いのだが、それで無くともあまりに情報量が薄い。

狩人もなかなか困惑しているようだが、それはそれとして目的は出来上がったらしい。

 

「わかりました。そのマリア様って人を探してみます」

「えぇ、お気を付けて。マリア様はきっと上に居る筈よ」

 

どうやら狩人は"マリア様"に会う事を主目的へと据えたらしい。

悪夢に入り込み幾重にも揺らいだ狩人には、ここまで終ぞ目的というものが無かった。

迷い込んだのだから悪夢での目的などハナから無くて当然だが、それが無くては立ち行かない事もある。

 

コマドリの居た踊り場は行き止まりのようで、そこから降りる階段などは無かった。

ならばどう先へ進むかと思案している中見付けたのは、今いる踊り場より少し下、三階であろう足場だ。

遠くは無く、跳躍で辿り着く事が出来る程度の距離。

狩人は然程迷いもせず、踊り場から跳んだ。

 

着地した先にあった足場からは扉と表札が見えており、そこには研究室三階と書かれている。

開いた先には研究室という名称がこれ以上無い程に似合った、凄惨な光景が広がっていた。

 

手術台のようなものに乗せられた二つの体は金属の器具で縛り付けられており、余程暴れたのか血がこびり付いている。

頭には特大の器具が捩じ込まれているのが見えるが、恐らくはそれが致命傷となったのだろう。

 

下手人はまだ、この部屋にいる。

潜みなどせずにいるそれらに、刃を向ける影が一つ。

まず踏み入った時点で見えた生者は三人。

車椅子に乗ったそれらを狩る為に、狩人は疾駆する。

 

「か、狩人だと…!?」

 

心底驚いたという顔で絶命したのは、今し方狩人が聖剣を持ってして急所を貫いた、扉から最も近い箇所の壁際に居た者。

その音に気付いたもう二人が狩人の方を向くが、既に音の方向に姿は無い。

低く低く駆け回る狩人は、二人目の首を刎ねた所で手術台へと跳び乗り、続く跳躍で三人目の背後を取って見せた。

 

「…終わり」

 

研究室三階は、これで音を失った。

静かで陰鬱、そして凄惨なその部屋から続く道は二つ。

一つは恐らくエレベーターだろうが、今は起動していないが故に使えない。

もう一つは下へと続く梯子だ。

他に道が無いのだから、降りるしか無い。

 

梯子から降りて行けば、そこは上同様教会の狂気的側面が前面に出た様相を呈している。

僅かに顔を顰めながら進む狩人に飛び掛かった患者は、次の瞬間には上下に両断されていた。

タイミングを見計らったように躍り出たもう一人の患者も易々と眠らせてやった狩人は、戦いの最中視界の端で捉えたものを拾い上げる。

 

古狩人の細工装束、その上下。

貧金、真鍮によって作られた細工の施された装束は、汚れも然程無いままに捨て置かれていた。

これ幸いと今まで身に付けていたカインの騎士装束の上下を着替えると、狩人は両手の篭手をしまい、最初に身に付けていたフードを取り出した。

 

防御を考えるのなら手袋すら身に付けないのは愚策だが、そもそも防御などしても貫かれて死んでしまうのだから、何も問題は無い。

役にも立たない装飾より、素肌に伝わる感覚を重視しての事だ。

身に付けるものに人らしさを見出し、重要視していたのは、とうの昔。

 

扉を開いた先の二階通路から、下を見渡す。

つい先程まで、もっと言えば足場を見誤って転落するまでは、随分と高い所に居た筈だが。

思わぬハプニングだったとはいえ、高所に良い思い出の無い狩人は最下の床が近い事に少しばかり安心しているようだ。

 

通路の左右を確認し、右奥に見えた薄ら明かりへと歩いて行けば、それは外へと繋がる扉だった。

外と言っても小さなバルコニー程度のもので、石柵から外は奈落と言って差し支えないもの。

だがそれ以上に狩人の興味を引いたのは、バルコニーの済で座り込んで土埃を掻き集める患者だった。

 

「チュパ、チュパ、チュパ…」

 

聖剣を構えながらそっと近付く狩人に、患者は全く反応しない。

気付いていないのか、興味が無いのか、或いはそれ以上の興味に没頭しているのか。

戦闘の意志どころか立ち上がる素振りすら見せない患者に、狩人は剣を下ろして歩み寄る。

 

「あの……」

「ピチャ、ピチャ、ピチャ」

 

"コマドリと言い、この患者と言い、何故攻撃を仕掛けて来ない患者達は水音ばかりを呟くのか"

そう考える狩人の思考の中で唯一繋がっていそうだと思える情報は、コマドリの言っていた"深海"。

彼女は深海に安心を抱き、また狩人の声に安らいでいた。

"呟いている水音は、深海のものなのだろうか"と、患者が掻き集める土の真ん中で咲く花を見ながら思考に耽る。

 

向日葵に似たその花は、星輪草。

星に向かって咲く花だが、この空の何処に星が見えるのか。

見えなくても求め、そして咲く姿は、ある意味では研究者達に似ているのやも知れない。

 

星輪草の下に散りばめられた花弁は、きっとその花から落ちたのだろう。

なのに星輪草は健在で、今もその花弁を揃えている。

不可思議な花と、不可思議な行動をする患者。

最早剣を構え直す気も無くした狩人は、何をする訳でも無くバルコニーを後にした。

 

実験棟内に戻ってちらと右を見やれば、そこには上へ続く階段が見える。

だがその先は何処にも繋がっておらず、中空で途切れている。

それを見て、狩人は何やら閃いたらしい。

 

「ひょっとして、回るの…?」

 

階段と繋がっていない足場、中空で途切れた階段。

今まで狩人を何度もひやりとさせた罠のような構造は、もしや何らかの仕掛けによって階段自体が移動する事を想定した構造なのでは、と。

先んじて言えばそれは正解なのだが、狩人は未だその仕掛けがある最上部へと辿り着いていない。

 

仕掛けに気付いた事で主目的へと繋がるであろう目標が出来た狩人は、一先ず研究室二階から梯子を登り三階へと向かう。

その一室で一際目を引く箱のような空間の床には、感圧版のようなスイッチが一つ。

入って踏めば反対側に見えるものと同様の格子扉が閉まり、足場がぐらりと揺れて狩人の体を浮遊感が襲う。

やがて小さな揺れと共に浮遊感が収まり、開いた格子扉から一歩踏み出せば、そこには────

 

「今の音…マリア様?それとも、別のお方?」

 

未だ正気のままで居るかのような落ち着いた声に目を向ければ、そこには声音とは正反対の姿で置かれた患者が一人。

椅子に座った状態で様々な器具を用いて縛り付け、括り付け、拘束されている。

何れ来る発狂を抑える為か、声に反して既に狂いきっているが故の措置なのか。

一先ず理性的な会話が出来るという事で、狩人はその姿については一旦置いておく事とした。

 

「あ、えっと…マリア様じゃ、ありません。その…僕は狩人で……」

「あら、そうなの?ごめんなさい。マリア様以外の方なんて、ずっと来ていないものだから」

「え…っと、ずっと、一人で?ここにこうして?」

「フフ、えぇ…でも少し寂しいくらいで、他は平気なのよ?」

 

会話に淀みは無く、暴れる素振りも無い。

ただただ穏やかに世間話に応じる患者に、狩人も次第に警戒心を解いて行く。

だからと言って拘束されている理由を知れた訳でも無いのだから、解くような真似も近付くような真似もしてはいない。

 

「ねぇ、あなた。会ったばかりで不躾なのだけれど、お願いを聞いてくれないかしら?」

「えっ?あ、はい…出来る範囲であれば…」

「脳液が欲しいの。暗く蕩けた、脳液が……」

 

普段ならその狂気的な願いに否を突き付け、そして理由を聞くかしてから再び考慮するのだろう。

だが酷く残念な事に、狩人には心当たりがある。

有ってしまっている。

 

「あ、あぁ…その…」

「だめ、かしら?」

「そうでは無くて…その脳液って、こんな感じのだったり…」

 

そう言って狩人が懐からあのぷるぷるとした分泌液を取り出せば、目の前の患者の声音が明確に変化する。

 

「そう、それよ!あぁ…貰っても、良いかしら?」

「は、はい…どうぞ…?」

「ありがとう。それと申し訳無いのだけれど、口許まで持って来てくださる?」

「く、口……はい、口ですよね。口……」

 

"何処が口かなどわかる訳が無い"とは思いつつも、人の頭なら凡そこの辺りだろうと思われる部分まで両手の平に置いた脳液を持って行けば、患者の頭がゆるりと動き脳液と触れる。

 

「ずず、ちゅる…ちゅう……」

「うぅ……」

 

口先とも取れる部位が手の平に触れたか、ぞわりと総毛立つような感覚を何とか抑えて時を待てば、やがて患者の頭が離れる。

聞こえて来たのは、恍惚の声。

 

「あぁ、美味しい…それにね、湿った音が聞こえて来るの。安らかな水音が……」

「そ、それは良かった…」

「ウフフ、思えばあなたも、深海のように凪いだ声をしているのね」

「…さっきもそれ、言われました。僕の声が落ち着いているとは、到底思えないですけど」

 

狩人がそう答えると、患者はクスクスと笑いながら返答する。

 

「そうじゃないわ。声音や高さとは違う、雰囲気がそうさせるのよ」

「雰囲気…?」

 

確かに狩人の声は、マリアとは似ても似つかない。

ぽそぽそと喋るか細い声は高さこそあれど、それに見合った快活溌剌な様子よりも、ずっと暗さが目立つもの。

叫んでいる様など、持ち前の高い声と臆病さによる過剰な反応も相まってキンキンと響き、聞き苦しい事この上無い。

それが深海のような安らぎというのは、雰囲気の話だとしても理解し難いが。

 

「小鳥の囀りのような可愛らしい声だけれど、内側はまるで違う…マリア様達が求めた宇宙というのは、きっとあなたのような暗さを持っているのね」

「はぁ…?」

 

成程、識る者の知識こそ解き明かす鍵となると思っていたが。

こういった異常に置かれたものの歪んだ視点もまた、参考にはなるのだろう。

或いはこういう者達でないと出せない答えというものも、存在するのやも知れない。

 

「そうだ、お礼。お礼に私の血はいかが?あなたになら役立つと思うのだけれど」

「血の施しってやつですか…?」

「えぇ、こう見えても私、血の聖女だなんて呼ばれていたのだから」

 

そう言って身動ぐ患者の誘導通りに狩人が器具を動かせば、患者の右腕から血が抜かれて行く。

やがて試験管一本分になろうかという所で器具は止まり、取り外した小瓶には患者の血が詰められていた。

 

「私はアデライン。かつては血の聖女としてこの血を役立てていたのだけれど…今はそうも行かないから、こうしてまた使って貰えるなら嬉しいわ」

「アデラインさん…ありがとうございます」

 

短く別れを告げて、狩人はアデラインに背を向ける。

受け取った血は何処か甘い匂いを発しており、色も濃い。

血の聖女とは、優れた血を宿す為に調整を受けた存在。

まさか一人でも実験棟に居ようとは。

 

「ここって…一番下?」

 

部屋にある唯一の扉を開いて外へ出れば、そこは実験棟最下階。

目玉を探す患者がただ一人座り込んでいるだけの空間だった。

先程見付けた鍵をもう一つの扉に試せど、鍵は通らず扉は開かない。

どうやらこの実験棟で見付けた鍵故に、建物内で使うものと思い込んでしまっているようだ。

 

何はともあれ、今は上を目指すか夢に戻るかの決断をスるべきだろう。

血の遺志も貯まっており、水盆での取引や自身の強化をする事で、狩人の道行での困難は少しばかり減る筈だ。

だがもし、あの患者達も夢を行き来する事で蘇ってしまうのだとしたら。

狩人は既に、彼ら全員を殺しきれる覚悟を備えてはいない。

 

ただでさえ人だったであろうものを殺す事は憚られるというのに、そんな状態でも会話が可能な者が一定数居る事を知ってしまった。

明確に物を考え、感じ、そして生きている者を殺す事を躊躇ってしまっている。

ならばこのまま勢いだけで突き進み、後戻りが出来ないくらいに殺してしまうのも、一つの手だ。

 

再び殺す道と、新たに殺す道。

狩人は後者を選び、階段を上り始めた。

目指すは患者寝室側四階、そこから延びる階段だ。

途中に居た患者達はその殆どを殺し尽くしたが故に襲われる事も無く、楽々と辿り着いた四階から階段を見やれば、五階の足場からガトリング砲を構えた老人が狩人を見下ろしている。

 

小さく鳴る金属音は、スピンアップの始動。

その音が届いた瞬間、狩人は短銃の引き金を引いた。

狙いは老人では無くガトリング砲、それも砲身部分。

悪夢に堕ちる程に血に酔ったものとは言え、老人とて患者達を処分していた狩人の端くれだ。

己が武器の構造を理解していない筈も無い。

 

ガトリング砲は、未だ歴史の浅い武器。

本来は旧市街にて罹患者達を護っていた灰狼のデュラが扱っていたもののように、銃座として扱われるものだ。

それを車椅子に備え付けられる程に軽量化、小型化したとなれば、当然脆くもなる。

砲身に一発受けた程度で破損する程柔では無いだろうが、少なくともその状態で撃ち始める事はしない程度の理性は残っていた。

 

初動を抑えた狩人は、狙い澄ました射撃から一転して直進を始める。

正面から来る筈だった攻撃はもう来ないのだから、その脚に淀みは無く。

ただ突き進むのみの狩人を阻むものもまた無いが故に、容易く老人の喉元に辿り着いた聖剣が、また一つ命を刈り取った。

 

「……よし」

 

短い勝利宣言の後、探索を再開した狩人の道行に、一つ不穏な影が現れる。

今まで見た患者達と同じ格好だが、決定的に違う部位が一つ。

頭だ。

形が違うだとかでは無く、"そもそも頭が存在していない"。

 

故に声すら発さず、ただ両腕を振るうしか出来ていないが、狩人にとっては今まで実験棟で見た何より恐怖を駆り立てられる存在だった。

何せ下で頭以外を無くしてしまったものを見たばかりなのだ。

"もしかすれば、これが"という考えが過ぎってしまっては、剣閃も鈍る。

それが一体だけならば、ずっとマシだったのだが。

 

「ひっ……」

 

息を呑む音は狩人の口から。

原因は今も目の前で両腕を振るっている首無しの、更に奥。

蠢いている影もまた、頭が存在しない。

その更に向こうに薄らと見える影も、きっと同様なのだろうと思い至り、狩人は心底恐怖した。

 

『秘密と、そして恥を隠す者には注意する事だな。ここには奴らの恥、罪となるものがあるのだから』

 

秘密と言うなら、まだわかる。

これを秘さない理由など、余程の狂気に染まっていなければ、たとえ染まっていたとしても無いのだから。

だがこれは、"恥"と呼ぶにはあまりにも────

 

「────…正気じゃない」

 

思わずそう零してしまう程に、度し難い。

酷く救いようが無い教会の深淵。

恥と捉える者が管理しているだけまだ良いだろう。

もし一帯の主がこれを成した本人達なら、今もきっとこの悪夢で治験を続けているだろうから。

 

"体を刻めば下の脳味噌も死ねるだろうか"との思いで介錯を送ったが、ただ倒れたのみで断末魔などは聞こえて来ない。

頭が無い目の前の体からは当然として、下から響き昇って来るものもまた無し。

ならば関係が無いのだろうと奥に居た二人にも介錯を施し、そして辿り着いた患者寝室五階。

扉を開けたその先を見た狩人は、即座に扉を閉め直した。

 

「ふぅ……ふぅーっ……」

 

下階で出会い、そして一度は介錯した筈のその姿。

聖剣を突き入れた直後のコマドリ同様、溶けて潰れた頭の群れ。

反射的な瞬間記憶によって目蓋の裏で想起されるその光景は、自身の正気すら疑う程に精算で。

頭から突き出る黒い槍が、狩人の精神的ショックを確りと表している。

 

「…やめておこう」

 

通路を戻って来た狩人が次に開いた扉は、研究室五階。

開いた先は短く細い通路となっており、入った所には仕掛けのレバーが一つ。

目の前のエレベーターに"いつものか"と警戒もせず乗り込めば、先程のものと同様の浮遊感が狩人を襲った。

下へと着きエレベーターを降りて見れば、そこは研究室三階。

"こんなものか"と夢へ戻る選択肢など頭にも入れず五階へ戻り、狩人は研究室五階の前にある階段を上る。

 

「ガァ、アァァッ…!」

 

正面に居る点滴棒を持った患者は、階段を上る狩人の足音に反応してよたよたと歩き出す。

上る狩人と降りる患者、先んじて動いたのは患者の点滴棒だった。

 

「アァァァッ!!」

 

予備動作ばかりが大きい為に避ける事は容易い筈の攻撃が、狭い階段の上という事もあり凶悪なまでに狩人を追い詰める。

三度目を躱した時点で正攻法での突破などは考慮に入っていなかった。

四度目の振り下ろしを敢えて正面から、聖剣でもって受け止める。

思考する余裕すら無いが故にただ押し込む事しか出来ない患者を、狩人は横腹を蹴飛ばす事で階段から突き落とした。

 

「……ごめんなさい」

 

聖剣での介錯ですら無いただの殺害は心を痛めるに違い無いが、そんな事を言い始めれば、狩人は今まで何人もの罹患者を葬って来た。

"目の前で苦しんでいるから"などという理由で無理をして弔うなど、今まで雑多に斬り殺し、撃ち殺した者達に面目が立たないだろう。

今更になって一端の覚悟を決め始めた狩人は、階段を上りきった先にある梯子を登る。

 

「うわぁ……」

 

辟易とした声の理由は、梯子を登った先の光景によるもの。

まともな足場を期待していた狩人の目の前には、床などと呼べはしない梁を伝う必要があるであろう道行が見えている。

ふと上を見れば、そこには更にもう一段上の梁から狩人を見下ろす鴉の姿。

短銃を一発撃ち込んでやれば、鴉は梁に着地する事すら無く真っ逆さまに下へと落ちて行った。

 

"あの鴉のようにはなるまい"と梁の上に立つ足を更に固める狩人の脳裏に過ぎるのは、更なる上階の存在。

階層とまでは言わなくとも、鴉が居た梁へと登る術があるのではと周囲と頭上を見渡せば、案の定登って来た梯子の傍にそれはあった。

何処ぞに繋がっている訳でも無い小さな足場と、そこから上へ続く梯子。

梯子の上には緑の明かりが備えられており、一度見付ければそうそう見失う事は無い。

 

傍から飛び降りて梯子を掴み、登った先には細い梁の足場が続く。

暗所故に見難いが、狩人の瞳は視界に映ったその形を見逃しはしなかった。

もごもごと蠢く肉塊、肥大した頭。

慎重に梁を渡り近寄れば、またあの呟きが聞こえて来る。

 

「ピチャ、ピチャ、ピチャ……」

「コマドリさん────…じゃ、無さそうですね」

 

姿形こそ違いは無くとも、声は別人のもの。

狩人の声に反応して僅かに震えた肉塊は、そうしてようやく人の言葉を紡ぎ始めた。

 

「ねぇ、あなた。海の音は不思議ね」

「海の音って、そんなの────」

 

そこまで言って、狩人の体が止まる。

何かを感じ取ったのか、それとも何かが聞こえているのか。

動きを止めた狩人を気にする事もせず、肉塊はただ語り続ける。

 

「嵐のようで、雨のようで……あなたの声も似ているわ。まるで海の底のように、私の底に染み渡るの。ゆっくりと、滴るように」

「……そう、ですか」

 

狩人は未だ動かず、だが聖剣だけが狩人に熱を伝える。

何かしらを理解したせいか、狂気に落ちて行く狩人の手を引くように、その手だけに熱を伝える。

まるで跳ね上がるようにして持ち上がった、持ち上げてしまった聖剣の下ろし所を、狩人は目の前に見付けた。

"きっと彼女は、また脳液を欲しがるだろう"

 

そうして手に入れた脳液を懐にしまうと、狩人の両足が梁から離れる。

飛び降りた先にあった梁に着地して、するすると向かった先は踊り場程度の広さがある足場。

柱の最上に近い部分に出来ているそこには、レバーが一つ、柱から伸びている。

"果たして押して回るだろうか"などと考えつつも両手を掛け、強く踏ん張って押すと、突如として足下が揺らいだ。

 

「おわ、おわわわ……!」

 

情けない声を上げると共に両手両膝を地面に着け、揺れを耐え凌ぐ。

暫く床を見たまま揺れを体感していたからか目を回しそうになっていると、狩人の視界と最上の梁が並んだ。

上昇によるものだった揺れが収まった頃、狩人が居た足場は一段上の梁と繋がっていた。

 

ふと下を見れば、先程まで何処とも繋がっていなかった筈の梯子のある足場も、今は下へ降りる階段と繋がっている。

梁を渡って梯子を降りてみれば、やはり下は五階の通路。

階段の縁から更に下へと目を向ければ、そこには大扉と、そして扉へ繋がる階段が一つ。

目的地はあの先だろうと確信出来る景色に、狩人は苦労が一段落したのだと心持ちを良くし、階段を軽やかに駆け下りて行った。

 

存外に長かった階段を駆け下りた所為で普通に歩いて降りるよりもずっと体力を消耗した狩人は、己が浅慮を呪いつつも、大扉への階段を上る。

長らく開かれていなかった事がありありとわかる扉は、悪夢故の封か、それとも悪夢として成る前から錆びきっていたのか。

或いはこの悪夢一帯の主であるあの女が、こうして錆び付く程に厭われる事を望んでいたのか。

 

体力の回復を待ってから扉に手を掛け押して行けば、実験棟の暗さに慣れてしまった目が眩む程の光が射し込む。

扉が開くと同時に入り込む外気が、狩人の顔を強打し、生きた植物特有の青臭さが鼻を擽る。

白んだ視界が晴れた頃、扉の向こうの空間にそれはあった。

 

一面が星輪草に覆われた庭のような空間に、中央ではまるで塔の如く星輪草の束が聳え立つ。

そして次に狩人を刺激するのは、脳に流れ込む啓蒙の感覚。

啓蒙の影響で冴えた頭は、星輪草の異常を何と無しに感じていた。

 

「……全部、空を向いてる?」

 

ただ太陽を見上げる向日葵とは違い、一つ一つが別々の星を見上げている星輪草は、狩人の目には歪に映っているらしい。

花畑に圧倒されつつも歩を進める狩人を迎えたのは、この地で狩人に啓蒙が流れ込んだ原因。

この実験棟で行われた実験の果てであり、潰えた者達。

人の出来損ないのような体は、この悪夢でも何度か退治した岩投げの巨人の頭に大きなコブでも生えたようなシルエットをしている。

 

「……っ!」

 

臨戦態勢を取った狩人にゆっくりと近付く"失敗作"は、次の瞬間狩人に向けてその大手を振り翳した。




脳液

弾力のあるアメーバ状の液体。
確かに液体だというのに、掴み持ち上げる事が出来る程に強固で、そして何より儚い。

患者達は、皆海の音を聴いていた。
それを知った狩人にも、さざめく音が聴こえてしまったらしい。
あの時聖剣によって正気を取り戻さねば、狩人はどうなっていたのだろうか。
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