少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第四話、初めてのお注射です。
躱し、殴り、躱し、躱し、躱し───────
そして殴る。
気の遠くなるような永遠、されど今にも夜闇に呑まれそうな夕焼けの陽が微塵も動かない程の一瞬。
赤い空の下で、聖職者の獣と少女の戦いは続く。
少女は銃を使わず、とにかく躱す事のみに集中し、確実に一撃を入れる事が出来る場面のみでのカウンターに全てを賭けている。
素早い薙ぎ払いの対策だろうか。
真正面か真後ろにしか陣取らない少女は着実に、確実に、聖職者の獣を追い詰める。
だがそれでも、一般の狩人にすら劣る少女がただで勝利出来る相手では無いのだ。
「オォォォォォオオオオン!!」
「…っ、まずっ…!」
可能な限り避けていた薙ぎ払いが少女に迫る。
間一髪杖を体と獣の腕の間に挟み防御が間に合った少女だったが、そもそも獣の攻撃とは防御で何とかなるものではない。
物の見事に吹き飛ばされた少女は、それでも崩れた姿勢を直ぐに起こして獣に向かう。
それは獣も承知の事だ。
理性は無いが本能で、少女がこれでは死なない事を悟っている。
ならば当然、行うのは追撃だろう。
その膂力を活かして前方へ跳躍した聖職者の獣は、大きな左腕を振り上げ少女を叩き潰さんとする。
それを見た少女が咄嗟に行ったのは、この戦いで一度も使わなかった短銃を抜く事だった。
少女も無意識に抜いたとはいえ、使わなければそのまま死んでしまう。
使ったとしてもどうにかなるかは少女にはわからないが、使わないよりはマシという事だろう。
「……当たって!」
「ガァッ!?グォォォオオ…」
今回も銃の反動に耐える────ような事はしない。
少女はこれまでの短い経験で、確りとヤーナムの銃の扱いをものにしていた。
無理やり反動を抑えるのでは無く、細く柔らかい子供の腕ならではの、衝撃の殆どを逃がすという手で。
ブレ無く短銃から飛び出た水銀弾は、獣の頭部に命中する。
直後獣の頭部からは夥しい量の血が吹き出し、獣は大きく体勢を崩した。
少女はそれに驚き一瞬間の抜けた顔を晒してしまうが、そんな事をしている暇は無い。
直ぐに獣に近付き、頭を杖で殴り始める。
少女が呆けている時、右腕に一瞬感じた疼くような違和感。
それを無視するように少女は杖を振るう。
恐らくそれは狩人の性であり、少女はそれを利用する事が出来れば強みになるであろうものだが、自身の故も狩人の業も知らない少女からすれば邪魔な疼きでしかない。
銃撃で頭部に大ダメージを負った事で攻撃が通りやすくなっているのか、少女が殴る度に獣の頭からは血が吹き出しており、起き上がった後も獣はなかなか少女に向かって攻めようとはしない。
"回復を待っている"
完全な直感だったが、それは狩人の智慧とでも言おうか。
聖職者の獣は、頭部の回復のために攻撃を中断しているのだ。
「させるもんか…!」
言うが早いか少女は獣の腕が届かない安全圏を捨て、獣の懐へと踏み入る。
当然のように獣はその腕を縦横無尽に振り回すが、ある種の極限状態に入った少女は全てを見極め、躱し、いなして進む。
少女は今夜狩人としての自覚を持ったばかりだ、未だその腕は初心から抜けず、そして何より細く弱い。
細腕から繰り出される杖の打撃は獣がよろめくには足りず、故に少女は今まで最も威力のある攻撃として銃を多用していた。
"この大物相手には銃を撃っている暇がない"から撃たなかったのだ。
こうして効くとわかったのなら────
「もう一発っ!」
「グガァァッ!!」
再び頭部への銃撃、だが先程よりも効力は薄いようだ。
少女の思い至る可能性としては、試し始めたばかりの射法で僅かに弾丸が逸れたか、最初からあの場所が傷付いて血が溜まっていただけなのか。
或いは回復しきってからでなければ先程のようなダメージは期待出来ないのか。
少女は銃をしまった。
頭部への射撃には期待せず、これまで通りの戦いを演じる。
その最中にもし獣の頭部が回復したのなら、もう一度水銀弾を撃ち込む。
これが少女の頭から捻り出された突破口であり、生命線だ。
そうして戦っている内に少女はいつの間にか、聖堂街への門を背にしていた。
獣の攻撃を避けつつ、どうにか獣の致命を突かなければならない。
だがそれをするには、少女はあまりに非力過ぎる。
聖職者の獣は段々と距離を詰め、少女を門へと追い立てる。
少女が門を開ける事が出来たとして、獣がそれを待つ筈も無いだろう。
少女がこれ以上は下がれないとたたらを踏んでいると、聖職者の獣は突然両腕を振り上げ頭を隠す。
血のように赤い波のような何かが見えた直後、獣が両腕を降ろすと、その頭にあった傷が塞がっていた。
今のが回復行動なのだろう、それがわかった所で追い詰められているのに違いは無いが。
これを好機と見た少女はすぐさま短銃を構え、頭部に向けて引き金を引く────が、カチリと音がなるだけで水銀弾は発射されない。
二度三度と引いても同じだ。
むしろこれまでが可笑しかったのだろう、少女はリロードなどしていないのにも関わらず、弾丸は発射されていたのだから。
「な、なんで!弾切れ!?」
少女の事情などお構い無しに、聖職者の獣は迫り来る。
銃での攻撃を諦め杖を構えようとした少女が見たのは、聖職者の獣の足下にある死体、その懐から零れる水銀弾の束だった。
目に付いた瞬間に少女は駆け出す。
今見えた光明を手放す訳には行かない。
聖職者の獣は獲物が懐に入り込んだのを見て両手で挟み殺そうとするが、それを前へと倒れ込む事で回避した少女は、そのまま転がって行き水銀弾を拾う。
十発、それが今拾った水銀弾の総数だ。
懐にしまい込めば、短銃から小さく白い煙のような光が見える。
恐らくはリロードのサインなのだろう。
門と獣との位置関係を入れ替えた少女は必死に体勢を立て直している。
獣はどうやら反応が遅れたようで、振り返り少女を視認してようやく攻撃態勢に入った。
右腕で地面を引っ掻きながら進み、その左腕は高く振り上げられている。
「お願い…っ!」
聖職者の獣の左腕が迫る中、少女は回避行動を取りながらも引き金を引く。
やはり銃を扱う才能があったのか、少女の狙い通り水銀弾は頭部へと命中した。
だが、倒れない。
先程のようなダメージを与えるには一発では足りないのだろう。
元々少女は頭部に何度か打撃を与えていた、銃撃によって獣がよろけたのはただ単にそれまで蓄積していたダメージによるもの。
水銀弾は獣の頭部に対して特効を持っているようだが、それまでだ
なんとかダメージを蓄積させなければ先程のように膝をつかせる事は叶わないだろう。
ならばもう一度当てるまで。
少女は諦める事無く、再び短銃を獣に向ける。
尤も、獣がそれを許す筈もないが。
「オォォォオオオンッ!!」
「あぐぅっ!?」
振るわれた右の拳は少女の元へと素早く届き、少女の左腕を破壊した。
前腕は無事だが上腕はそのほとんどが砕けており、握力もほぼ無く銃を保持するので精一杯と言った所だろうか。
「……っぐ、うぅぅぅぅっ…!」
苦肉の策という言葉が似合う通り、少女が今まで使おうとしなかった一つの道具を取り出す。
輸血液入りの注射器だ、針は太く、少女が今穿いている厚手のズボンも貫けるだろう。
ゲールマンがやっていたように、少女はろくに血管も探さず自身の太腿に針を刺し、そして血を注入した。
太腿から腰へ、腰から尾骨へと染み渡り、そして背骨を伝うようにして少女の脳を稲妻が貫く。
突如少女を襲う高揚感、それは血の誘惑なのだろう。
快楽に塗り替えられて行く脳を、しかし少女は許す事無く頭を振る。
脳にまとわりついていた甘美な感覚を振り払った少女が腕を確認すれば、その上腕の骨は見事に元通りとなっており、何度か腕を曲げ伸ばししても違和感は少ない。
間髪入れずに聖職者の獣は少女に襲いかかる。
いよいよ余裕が無くなっている少女はそれを嫌がるように遠ざかるが、獣は尚も距離を詰める。
少女が距離を取った影響か、聖職者の獣は攻撃態勢に入る直前に更なる前進を余儀なくされた。
それ故に、大きな隙が出来る事となる。
少女が銃を構え、引き金を引くには充分過ぎる程の隙が。
「ギュオォォッ!?」
放たれた水銀弾は頭部に命中し、聖職者の獣は再び膝をついた。
一度目とは違い呆ける事はせずに、少女は杖を一心不乱に叩き付ける。
獣が体勢を崩し、その弱点を晒す度に右腕に走る疼きを、攻撃する事でどうにか紛らわせているのだ。
「はぁっ…なんでっ…これでっ…倒れないのっ!」
どれだけ殴っても決着はつかない。
少女の額には汗が滲み、その表情には焦燥が浮かんでいる。
戦闘の開始からようやく五分が経ちそうかという所、少女の体力は既に切れ掛かっていた。
聖職者の獣が起き上がる頃には少女の息は盛大に切れており、肩を上下させながらも獣から距離を取っていた。
既に余力は残っていない、"ここまで来て負けられない"という半ば意地で戦闘を続けているようなものだ。
薙ぎ払いに合わせた回避にキレは無く、故に大きくスタミナを削られているようで、更に少女は追い込まれていく。
「オォォォォオオオオオッッ!!」
「んなっ!?」
一際大きな鳴き声と共に聖職者の獣は跳び上がる。
少女もそれに合わせて首を上げ、視線で追うが既に獣は最高到達点へと辿り着いていたらしく、そのまま落下が始まる。
落下地点は少女の真上だ。
慌ててその場から飛び退く────というより、顔面から滑り込むようにして少女は踏み付けを回避した。
「あっ……ぶなぁ…」
「ギュアァァァァアアアッ!」
当然それで終わる事はなく、獣は未だに地面に倒れ込んでいる少女へ向けて鋭い爪を振り翳す。
地面を転がるようにして避けながら体勢を整えた少女は、またもや頭を再生した獣に向けて銃を構えた。
少女にもう体力は残っていない、次で決まらなければそのままなし崩しで殺されてしまうだろう。
「ふーっ…!」
獣に反撃の隙を与えないよう、少女はすぐさま二発の水銀弾を撃ち込む。
だが二発目までは気が回らなかったのか、角を掠めるだけで終わってしまった。
倒れないとなれば次は獣の手番だ、再びチャンスが来るまで少女は避け続け無ければならない。
尤も、手番が獣に渡ればの話だが。
「まだまだぁ!」
少女にもう猶予は無い、何があってもこの瞬間に仕留める必要がある。
であれば銃を一発外した程度で退る訳にはいかない。
少女は仕込み杖を蛇腹剣へと変形させ、思い切り振りかぶった。
獣も少女をさっさと仕留めたいのか、真正面から少女に向かって突撃を敢行する。
既に獣は少女を間合いに捉えている、杖であれば届かない射程だ。
それを埋められるからこその変形であり、仕掛け武器なのだ。
「ギュオォォォンッ!!」
振り下ろされた刃は獣の額に命中し、三度目のチャンスが少女に回って来る。
"ただ殴るだけでトドメは刺せない"、ならばと少女は刃を杖へと戻し、右腕の疼きに身を任せ、仕込み杖を獣の眼孔から頭に突き刺した。
「ギュアァァッ!オォォォッ!!」
「うわっ!ちょっ、このやろ…っ!」
杖を捩じ込まれた獣はその痛みに耐え切れなかったのか、思い切り立ち上がって暴れ始める。
少女を振り落とすつもりのようだが、それをされれば敗北するのは少女だ。
決死の思いで杖にしがみつき、更に奥へ捩じ込まんと力を込める少女に対して、聖職者の獣は更に激しく暴れ狂う。
力を込め直す度に獣の頭からは血が吹き出し少女の全身を赤く染め上げるが、それすらも無視してひたすらにトドメの一手を繰り出す少女に、いよいよ聖職者の獣は根負けしてしまった。
獣の体が大きく揺れ動き、直後少女の視界がガクリと下がる。
獣が膝をついているのだ、それだけでなく、一度大きく下がった少女の視界は傾き、段々と地面が迫る。
いよいよ大きな振動が少女を襲い、杖を手放してしまった少女は地面へと投げ出された。
「はっ、はっ、はっ……ま、まずっ────く、ない…?」
少女が痛む体に鞭を打ち、急いで顔を上げてみれば、既に獣は消滅していた。
杖がその場に落ちる音が少女の耳に届いた瞬間、少女は凄まじい高揚感に襲われる。
「は、ぁ…っ」
聖職者の獣の血の遺志だ、討伐した事によりその全てが少女に今受け継がれている。
死闘によって疲れ果てた少女は抗う気概も削れていたのか、その高揚感と快楽に身を委ねている。
少女はその場に倒れ伏し、地面の冷たさに心地を良くしながら体の熱を鎮めているようだ。
暫くして自身に流れ込む血の遺志が落ち着いた事で、ようやく一つの目的を成し遂げた事を理解したのか、どうにか体を起こす。
体を起こした少女の目の前には、先程まで無かった筈の灯りが置かれている。
"あったなら最初から使わせてくれたら良いのに"と心の中で愚痴を吐きながら、少女は灯りを灯した。
そうして次に門を開けようとした少女の目に、何かによって反射された光が映る。
近寄って光の元を拾い上げて見れば、それは首飾りのようにチェーンが繋がった剣のガード────所謂鍔の部分のような形をした装飾品だった。
「……これ、ネックレス?何でこんな所に…」
恐らくは聖職者の獣が落としたであろうそれを懐にしまい込み、少女は門を開けるべく近付いて行った。
門の格子に手を掛けた少女は、その後押すような引っ張るような、それがダメならと持ち上げるような素振りを見せたがどれも失敗に終わったようだ。
「………開かないぃ…」
当然の事ながら、門は開く様子が無い。
どこかに仕掛けがある訳でも、門が勝手に上がる訳でもない。
メモに書いてあった通りだったのかと落胆しながらも、少女はそれ程腐る事もなく来た方へと歩き出す。
杖を拾って銃をしまいながらギルバートの元へと歩いて行く少女は、アテが外れたにしては清々とした表情だ。
やはり聖職者の獣に勝利した事で一種の成長を遂げたのだろう、堂々とした足取りで少女は橋を後にしようとし────
未だ橋の上にいる鴉や大男、そして逃げて来た事により橋の上に屯していた罹患者達に出会してしまった。
「なんでまだいるんですかぁっ!?」
「獣めぇっ!」
「うるさいうるさいっ!獣ならさっき倒しましたって!!」
そう文句を垂れながら、少女は目的地へひた走る。
罹患者を躱し、階段を飛び降り、民家の下階を走り抜けて。
そしてようやく門の前へと辿り着いた少女は、灯りに近付きおずおずと振り返る。
行きで全員に追い駆けられた分、帰りは振り切った事で誰にも追い付かれないまま戻って来れたようだ。
「……はぁ〜っ…」
「お戻りになられましたか、狩人さん」
「ギルバートさん!ただいま戻りました!」
呼吸を整えている少女にギルバートが声を掛けると、少女は吸った息をさっさと吐いて返事を優先する。
その勢いにやや押されながらも、ギルバートは気になった事を告げた。
「先程は、大橋の化け物がどうと言っていましたが…」
「…あっ、そうなんですよ!橋の上にすっごく大きな獣がいて────」
そうして少女はこれまでの道筋をギルバートに伝える。
獣に追い掛けられて大変だっただとか、大きな獣に三度も立ち向かって倒して見せただとか、まるで子供の夢の語り草のような武勇伝を語って聞かされたギルバートはまず少女を労った。
「相当ご苦労されたのですね。大橋ではなく別の道を教えて差し上げるべきでした」
「他の道があるんですか!?」
「えぇ、あるにはあるのですが…なんと言いますか」
「……?」
言い淀むギルバートに首を傾げながらも、少女は次の言葉を待つ。
窓の向こうにいるギルバートはシルエットでしか少女には視認出来ないが、少し俯いた後に少女の方を見たり、かと思えばまた少し俯いたりと、道を教える事を躊躇っているようにも見える。
やがて教えるだけならば、と決心したのかギルバートは口を開いた。
「大橋を挟んで市街の南側に、あなたのように若い方…それも女性が向かうのは憚られるような場所、下水橋という橋が架かっていたはずです」
「下水橋…下水道の近くにあるって事ですか?」
「えぇ、その通りです。そこを通って道なりに行けば、小さな墓地に辿り着く筈です。」
「そこから…聖堂街に?」
「繋がっている、と…そう聞きました。常であれば、よそ者が入り込むような場所ではありませんが…獣狩りの夜です。むしろ、好機なのかも知れません」
下水橋
それほど大きな橋ではなく、ヤーナムの下層の下水道から入り組んだ道や梯子を利用する事で辿り着くちょっとした通路だ。
下水の流れる最下層には死体などが打ち捨てられており、それらを食む事で肥えた鴉などが多い。
それ以外にも、罹患者などが逃げ込んだ獣を追い立てるために入り込んでいる事もあるらしい。
「…市街の、南側……下水橋から、聖堂街……なるほど、ありがとうございます!」
「いえ、ただ道を教えただけですから。それと…」
「はい?」
やはりというか、ギルバートは今も手記に情報を記している少女の変容に気付いているようだ。
もっとも少女本人は気付いていない事なのだが。
「かなりお疲れになられているでしょう、顔色が悪い」
「……えっ」
「何かとても嫌な事を幾つも経験したような、そんな顔をしています。悪い事は言わないから少しはお休みになられた方が良い」
「…あ、あはは…わかりました、何度もありがとうございます」
そう言って少女はギルバートの前から去った。
と言っても夢に戻る訳ではなく、どうやらその足で下水橋を探すらしい。
再び民家を通って大橋の方へ向かい、屯している罹患者達をやり過ごして、二匹の獣がいた道へと進んで行く。
馬車の裏にいる獣は足が早く、少女が逃げ切るにはそれなりに覚悟が必要だろう。
『悪い事は言わないから少しはお休みになられた方が良い』
「…頭はちょっと疲れたけど…体は疲れてないんだから、行ける行ける」
徐々に心を蝕みつつある精神的疲労を無視し、少女は馬車の陰から獣の方を覗き見る。
狩人から見て獣の向こうにある左右への道、その左はギルバートと会する前に通って来た大通りからの道となっている。
右は見た事が無い道でもあり、通りの先にある広場にあった開かない門扉の向こう側、恐らくは下水道に続くであろう道がある筈の場所だ。
当然向かうは右だろう、少女はその辺りに転がっている石ころを獣の向こう、左の道寄りに投げる。
獣は二匹ともその音に釣られたらしく、後ろを振り返った。
その瞬間少女は馬車の陰から飛び出し、一目散に右の階段を駆け降りて行く。
後ろからは獣の鳴き声が聞こえるが、振り返れば間違いなく捕まってしまうだろう。
階段を降りきると、その先にあったのは小さな広場だった。
右側には通りが見えており、左には幾つもの木箱が積まれている。
そしてその木箱の奥からは、微かな悪臭が漂っている。
恐らくはあの木箱の向こうに少女の現在の目的地があるのだろう。
木箱を退かしている暇はない。
少女は木箱を避け、時には上を飛び越えて奥へと向かって行く。
乱雑に置かれた木樽を飛び越えた先には────
「え゙っ」
地面が存在しなかった。
というのも、その先は下水道から地上へと吹き抜けになっており、梯子を使って昇降する必要があるらしい。
梯子の傍には足場があり、更に下へと降りるには足場を少しずつ飛び降りて行くしか無いようだ。
「ふぎゃっ」
地上から一段下の足場に着地…とは行かず呻き声を上げながら落下した少女は、起き上がって段差の下を覗き込んだ。
順当に進んで行けば通路に降りる事が出来るようだが、どちらの通路にも松明と鉈を持った罹患者が徘徊している。
おまけにこの細道では避けて通る事は困難だろう。
それだけでなく、下水道を見てみれば暗がりの中に動くものがあるのがわかる。
幾つかの動くものを注視すると、それは大きな鼠だった。
大きく肥えた鼠が下水を徘徊しているのだ。
「……どうやって進めば良いのこれ…」
ぶつくさと文句を言いながらも、少女は足場から身を乗り出し次の足場へと降りて行く。
足場からぶら下がって足を伸ばし、何とか次の足場までの高さを探りながら降りる姿は滑稽の一言だが、罹患者以外に見られる事も無いだろう。
いよいよ次で罹患者が歩いている通路へと降りる訳だが、少女に許された選択肢は二択だ。
このまま狭い通路で罹患者を倒し進むか、更に下の下水道へと降りて鼠を避けながら進むか。
どちらも苦労するという点では変わらないが、何度か相手をした罹患者と初めて見た大きな鼠ではやはり鼠への恐怖が勝ったようだ。
「見付けたぞ!獣め!」
「ぅ、うるさっ…!」
通路へと降りた少女を視認した瞬間、罹患者は鉈を振り上げ走り出す。
小心の少女は未だに心中でビクついているようだが、反撃自体は慣れたものだ。
即座に短銃を構え、鉈を持っている左腕の肩を撃ち抜き、体勢を崩した罹患者の鳩尾に杖を突き込んだ。
「ご、ごめんなさ────って、げぇ…」
凡そ淑女の口から出てはいけないような声を上げた少女の目に映っているのは、少女自身が着ている服…ではなく、それにべったりと纏わりついた血だ。
今まで何度も戦いを経験し、そして死んでしまった少女は夢に戻る事で怪我や汚れを落としていたが、今回は聖職者の獣との戦いを終えても夢には戻らなかった。
それ故少女の服についた血の汚れは落ちず、先程の罹患者を倒した事でついた血はいよいよ下着にまで侵入してしまったらしい。
「気持ち悪…戻った方が良かったかなぁ…」
愚痴を溢しつつも死体から輸血液を漁り進んで行く少女の前に現れたのは、今まで見たものとはまた違う罹患者の姿だった。
凡その人と言える要素が限りなく見付かりづらくなっているそれは、全身に毛を生やし、大きな杭を持って歩いている。
これでは人ではなく類人猿や猿と言った方が近い。
獣の病に罹患すれば最終的にはこれを経て獣になるのだろう。
そう思い至った少女は背筋に薄ら寒いものを覚えながらも、銃を構える。
この狭い通路で杭を振り回されては躱すのも至難の業だ、であれば先手を打つ他無い。
「ギャアァァァッ!」
「あぶなっ…!」
だが先手を取らんと構えた少女よりも早く、罹患者の杭は少女へと迫った。
純粋な間合いの差だ、先程の罹患者と違い松明を持っていなかったため、少女は反応が遅れ間一髪での回避となってしまった。
「この、落ちろぉっ!」
少女は自身の杖では競り勝てないと踏んだのか、杭を振り終えた隙を見計らい、罹患者に体当たりを仕掛けた。
すぐ真横の柵も塀もない下水へと罹患者を突き落とし、自分は落ちまいと踏ん張るが、残念な事に少女がいるのは下水道の通路だ。
湿った地面に足を取られた少女に、それを制する膂力は備わっていない。
「わぁぁっ!?────おげぇっ」
不幸中の幸いとでも言おうか、少女が落ちたのは鼠の跋扈する下水ではなく、その上に掛かった角材の梁の上だった。
腹部を強かに打ち付けた事で軽い嘔吐感に襲われたが、それを何とか抑えた少女はゆっくりと下へと降りようと体を起こし、何かを見つけたのかビクリと震えて固まってしまう。
真下だ、真下にいる先程落とした罹患者が杭を振り回して少女を威嚇しているのだ。
近くには鼠が一匹おり、死体らしきものを貪っている。
一気に血の気が引いてしまった少女だが、その背丈では上の通路までよじ登るのも困難だろう。
進むとすれば下に降りる以外の道はない。
「うぐ…うぅぅぅ……!」
やっと覚悟を決めたのか、軽く滲んだ涙を拭った少女は杖を両手で構える。
飛び降りた勢いのまま杖の先で突き刺すつもりなのだろう。
下にいる罹患者が杭を振り終わったタイミングで、少女は角材から跳躍する。
構えた杖の石突は罹患者の眼孔に突き刺さり、少女はそのまま体重を掛けるために罹患者の首に脚を巻き付けた。
「グァァァッ!ガァッ!」
「わっ!?う、動かないでっ!」
暴れ回る罹患者に振り回される少女だが、脳漿を掻き回すように杖を捻じ込んでいく。
一度聖職者の獣との戦いで同じ事をしているからか、どれだけ振り回されて慌てようと、その手は離れそうになるほどブレてはいない。
やがて罹患者の動きは止まり、膝をついた所で少女は飛び降りて即座に鼠に攻撃を仕掛けた。
鼠も端から少女を襲うつもりだったようで、杖を構えるのを待たずに飛び掛かられた少女は、何とか咄嗟に銃を取り出し引き金を引く。
「もうっ、起きてっ…来ないでっ!」
当然のように一発を耐え凌いだ鼠に杖での追撃を重ね、ようやく少女は下水の真ん中で安息を得る事が出来た。
「臭いし…汚いし…なんなのここぉ…」
下水道である。
聖職者の獣との戦いが終わって直ぐに灯りで夢に戻っていればもう少し辛抱出来たのかもしれないが、ここまでの様々な経験で少女は既に折れかかっていた。
少女からすればあれだけ苦労して戦ったのにも関わらず、門は閉じられていたのだから聖職者の獣との戦いは徒労に終わっているのだ。
その上血で汚れた服は今しばらく替える事は出来ないだろう。
完全に気が滅入ってしまった少女は、涙で濡れた顔を拭いもせず、鼻を啜りながら先へと歩き始める。
────だが、ヤーナムはとことんよそ者に厳しい街だ、ゆっくり泣く時間など与えてはくれない。
泣きながら歩く少女に、物陰から杭が迫る。
杭は先程の物よりも大きく、当然それを振るう者も大きい。
「ガァァァッ!!」
「ひぃぃぃぃっ!?」
不意打ちに驚いてしまった少女は武器を構える事も忘れて杭を持った罹患者から後退る。
やがて壁に背中をピタリとくっつける程に下がってしまい、そこでようやく少女は戦う意志を固めた。
無理やり頭を振る事で涙を飛ばし、視界を確保した少女は杖を変形させる。
激しく振るわれた蛇腹剣は罹患者の首へと巻き付き、その皮膚に強く食い込んだ。
「人が泣いてる時に!手を出すなんて!どういう性格してるんですか!」
半ばヤケになっている少女が思い切り蛇腹剣を引けば、食い込んだ刃は素早く首を切り裂くが、罹患者は苦しみながらも杭を振り回した。
それにより少女が引き戻そうとしていた蛇腹剣は見事に杭に引っかかってしまい、罹患者の膂力に敵う筈もなく、少女は杭ごと振り回されてしまう。
そうして目の前にまで引き寄せられてしまった少女は、後退は出来ないと見たのか蛇腹剣を杖へと変形させ、罹患者の胸へと突き入れた。
「グギャァァッ!」
「早く…!早く、死んでっ…!」
急所を突かれたのか、罹患者はそのまま後ろへと倒れて行く。
少女もそれに伴って前へ前へと倒れて行き、完全に息の根が止まるまでその杖は離さなかった。
罹患者の死を確認してようやく余裕を持てた少女だが、かと言って油断は出来ない。
つい先程油断して歩き出した所を襲われたばかりなのだ、当然警戒を怠らずに────
「……!お洋服!?」
視界の端に映ったそれを見た少女は、警戒などかなぐり捨てて走り出した。
下水の横、辛うじて濡れる事無く置かれていたその服を持ち上げた少女は異臭に顔を顰めながらも、服を見付けた事自体は喜んでいるようだ。
「……これ、狩人の夢に行ったら綺麗になるかな」
着るつもりだろうか、服を抱えた少女は懐にしまうのに四苦八苦しながらも、輸血液や火炎瓶と同じように"収納"した。
ごく単純な理由ではあるが服を手に入れて気が紛れたのか、少女は僅かに表情を晴らしている。
そんな少女の目の前には大きな下水溜まり、その中央には幾つかの死体が放ってあり、向こう側には梯子が見える。
下水溜まりまではなかなかの高さがあるが、よくよく観察してみれば角に先程と同じくらいの太さをした角材の足場が設置されている。
かつてはここにも梯子などが置かれていたのだろうか。
何にしても少女が先へと進むには足場へと飛び降りて行かなければならない。
高所恐怖症の気があるのか、冷や汗をかく少女は膝が笑ってしまっているが、この場に居ても埒が開かない上に、何時までも下水道にいるのは精神衛生上宜しくない。
"ギルバートが言っていた下水橋は前に見える梯子の上だろう"
そう思い込む事で少女は胸を期待に膨らませながら、高所より足場へと飛び降りて行った。
少女の包帯
少女の血と汗と涙と涙と涙…主に涙が染み込んだ腕装備。
獣の膂力を前に鉄鎧などは無意味ではあるが、それはそれとして重装甲に頼りたくなるのは、恐怖などとはまた別の本能的な物だろう。
当然少女もそれを感じていた。
だがやはり狩人とは獣の一撃を躱し続け、自身の最高の一撃をその臓腑に叩き込む事を良しとする者なのだ。
要するに少女もまた「避ければどうという事はない」と、獣狩りにおける最適解とも言える結論に至ったのである。