少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第五話、出会いのお話です。
「…よっ、ととと…」
下水溜まりの方へと飛び降りた少女は、カクカクと震わせていた脚を意外にも危なげなく足場へと乗せる事に成功した。
勢いそのままに降りて行けば、先程まで見下ろしていた下水溜まりへと降り立つ事が出来た。
案の定浸漬した泥に沈んだ足下を見て眉根を歪め、何かを吐き出すように小さく口を開けて舌を出した少女は、あからさまにこの場に留まる事を嫌がっている。
「汚いなぁ…」
またもや陰から飛び出して来た罹患者に急襲される────なんて事にはならないように吐き出す文句は最小限に、警戒は怠らず進んで行く…のだが。
「あ、弾だ…これで────ひぃっ!?」
警戒しようと自覚している時程周囲が見えていないのか、それとも記憶の無い少女が持ち合わせている"常識"の中にはそんなものは存在しなかったのか。
梯子へと向かう途中、下水を吸って所々腐り落ちている死体が寄せ集められたその中心にあった水銀弾を少女が拾うと、途端に周囲の死体が動き始めた。
驚いた少女は、けれど転倒したりする事はなく一目散に梯子へと向かう。
「よいしょ、よいしょ…っと」
梯子を登りきった少女がちらと後ろを…正確に言えば先程までいた下水溜まりを見てみれば、動いた死体達はそれほど動きが早くないようで未だ梯子の下にすら辿り着いていなかった。
ほっと息を吐いて胸を撫で下ろした少女は、更に下水道が続いている奥とすぐ左にある梯子で別れた道のどちらを行くか決めあぐねていた。
どちらも行先がわからないという点では変わらない、少女は梯子を登って行く事にしたらしい。
一息で登り切るには長く、だがここまでの道程を信じるならまだ上り足りないであろう梯子を汗の滲む手で何とか登って行く少女は、ほんの少しの違和感と不安を感じていた。
どうにも今までの道程からしてこの上に聖堂街へと通じる道があったようには思えないのだ。
梯子を登る途中で、少女はすぐ右手に通路を見付けた。
下水道で通ったものよりも幾分か広い通路には、奥に罹患者が数人見える。
思い切って梯子から跳べば届きそうな距離ではあるが、生憎と少女はそんな度胸を持ち合わせていないらしい。
少し上を向けばそこには下水橋────…というには大分小さな橋が掛かっている、少女の目的地はここでは無いのだろう。
とはいえ乗りかかった船とでも言うのか、少女は上へ続く梯子を登る手を止めなかった。
「やっと、着いた…」
そうして少女が梯子を登りきった先には、橋を通る左への道と民家で隠れて先は見えない右への道が続いている。
"陰には必ず何かが潜む"────ヤーナムのお約束とも言えるそれをこの短時間で何度も経験して来た少女は、必然的に視界の確保された橋を通る事にしたようだ。
橋を渡った先には下から明かりの漏れる大扉があり、その中からは複数人の笑い声が響いている。
向かいには同じ規格の大扉があり、その前に佇む大男の真横にはまたもや上へ続く梯子が見えた。
大男は振り返る様子もなく、ただ扉の前に立っているだけだ。
それを見て警戒には値しないと踏んだのか、少女はまず右手の明かりの漏れる扉をノックした。
「あの、すみません、何方かいらっしゃいますか?」
「……よそ者め」
やはりと言うべきか、扉をノックした少女に返って来たのは侮蔑の声だ。
「お前たちに開ける扉などあるものか」
「お話だけでも────」
「ああ、いやだ、汚らしい」
「────……はぁ…」
そう言って少女の応対をしていた市民も扉の前から離れてしまったらしい。
少女が話している間も止まなかった笑い声の中にもう一つの声が混じった事で少女は諦めたのか、ため息を吐きながらも振り返って大男の方へと歩を進めた。
忍び足で歩く少女は大男との戦いは避け、梯子を登ってしまいたいらしいが…そうは行かず、横を通り抜けようとした瞬間に大男は腕を振り上げた。
「オオオッ!」
「うひっ!?」
大男が右手に持つのは石像だ。
それもかなりのサイズで、その丈は少女の背丈よりも上だろう。
一度殴られればひとたまりもないが、少女は既に大きなものに殴られるという経験を一度では済まない程経験している。
聖職者の獣はもっと素早く大きかったのだ、今更恐怖するような相手では無いだろう。
「ウオォォォッ!」
唸り声と共に横薙ぎに振るわれた石像を姿勢を低くする事で避け、少女は大男の膝を足場にして肩まで駆け登った。
そして勢いを殺さず、大きく反転した事で生じる遠心力を杖に乗せ、大男の右眼へと杖を突き入れる。
絶叫を上げながら暴れる大男の抵抗を何とか耐え、強く強く杖を掻き回した少女は、やがて動きが止まった大男の肩から降りた。
少女の中で杖を突き込むというのは、ある種の必殺に据え置かれたらしい。
聖職者の獣も、下水道で戦った罹患者も、そしてこの大男も。
"弱点を掻き回せば死ぬ"という生物界では殆どに適用される理が今の所は通じているのだ。
おまけに少女の身のこなしも初めての獣狩りにしては上出来だろう、何せ未だに二桁も死を迎えていない。
今では少女の心中も"殺めてしまった"という罪悪感と同じだけの"自分の力で勝った"事による達成感に満たされていた。
これ以上は染み込ませまいと服の血を振り払い、少女は梯子を登り始めた。
短くはないその梯子を登って行けば、上には民家があり、そして門扉とその横にはレバーがある。
少女の頭に浮かんだのは、あの大通りと噴水の広場だ。
階段の傍にあった開かない門扉とその向こうの仕掛けを、少女は一度目にしている。
見付けて早々にレバーを引き、扉を開けてみれば────
「…あなた、だあれ?」
「うえっ!?あ、えっと…」
右手にあった赤いランタンのついた家から、少女よりもずっと幼い声が掛けられた。
明かりのついた窓からはその影が見えるが、そこに映るのは小さな頭に付けられた大きなリボンだけだ。
ギルバートと同じよそ者仲間なのかもと思ったが、だとしたらこんな幼女一人で夜を過ごすだろうか。
「…知らない声、でも、何だか懐かしい臭いもするの」
「懐かしい臭い…って言うのは、わからないですけど、知らない声なのは僕が他所から来たからだと思います…多分」
自身の出身すらわからない故の保険だが、影として映るリボンは少し安心するように揺れた。
少女が危険な人物では無いという安心だろうか。
「もしかして、獣狩りの人?」
「は、はい、そうです」
「だったらお願い、お母さんを探して欲しいの」
「お母さんですか?こんな危険な時に外へ?」
少女の疑問は最もだ、今までの口振りからしてこのリボンの幼女とその家族はよそ者では無く、このヤーナムに元より暮らしていたのだろう。
故に尚更、この夜に外出をする事が不思議に思える。
「うん…獣狩りの夜だからお父さんを探すんだって…それからずっと、帰って来ない…」
どんどんと暗くなっていく言葉尻に、少女も胸を締め付けられ始めたようで、表情が曇って行く。
記憶を失くした少女は、今ではもう父や母の温もりすら覚えていない。
だからこそ家族というものの温かみは、決して失くして良いものでは無い…という思いが強くなっているのだろう。
少女は自分にも居たであろう両親を求めるリボンの幼女を羨むと共に、"見付けてあげなければ"という決心を固めていた。
「私ずっと…でも、寂しくって…」
「…だ、大丈夫です、僕が見付けて来ますよ!」
「本当?」
「えぇ、僕ってば結構強いんですから。大っきい獣が相手でも勝っちゃったんですよ?人探しの一つや二つ、大楽勝ですとも!」
「ありがとう、獣狩りさん!」
大言壮語という訳でも無い、少女は実際に巨大な獣を討ち倒している。
…それと人探しが得意かどうかはそれほど噛み合わないが。
「お母さん、真っ赤なブローチをしてるんだ、大きくてすっごく綺麗なんだから、きっとすぐにわかると思う」
「大きくて、真っ赤な、ブローチ…」
「それで、それでね」
急いで手記にブローチの事を記す少女に、リボンの幼女は小さな箱を差し出す。
少女が手記を仕舞って箱を見れば、何やらハンドルがついている。
小さな箱に見えるそれは、どうやら手乗りサイズの手回しオルゴールのようだ。
「お母さんを見付けたら、そのオルゴールを渡して欲しいの」
「オルゴール…」
「お父さんの好きな、思い出の曲なんだって…もし、私たちの事を忘れちゃってても、この曲を聴けば思い出すはずだって」
「忘れちゃっててもって…」
その言葉を聞いて少女が思い出したのは、助言者ゲールマンから聞かされた獣の病の症状だ。
『感染すればだんだんと正気や人だった頃の記憶を失い、果てには獣へと成り下がる』
目の前にいるリボンの幼女の母は、父が獣の病に罹患し、記憶すら失っている可能性を考慮していたらしい。
伴侶が一考に入れるのなら、既に罹患していてもおかしくはない、そしてそれは母の方も同じだ。
「それなのに忘れて行くなんて、おっちょこちょいなお母さんだよね」
「…そう、ですね」
少女が受け取ったオルゴールを開けてみれば、蓋の内側に古びた紙が貼られている。
"ガスコイン"と"ヴィオラ"…男女の名前だ、恐らくはこれが両親の名だろう。
「ちゃんと、見付けて来ますから…待っててくださいね!」
「うん…お願いね、獣狩りさん」
脳裏に過ぎる嫌な予感を顔に出さないように努め、少女はその場を立ち去り、梯子を降りて行く。
そして下水溜まりのすぐ上へと降りた少女だが、先に進む道は二つ。
もう一つ梯子を降りて下水道の奥へと進むか、先程梯子を登っている際に見えた通路の真下、その下水を通るかだ。
あの通路の下を通れば間違いなく上の罹患者達に襲われるだろう、少女からすれば堪ったものではない。
案の定、少女は下水の奥を目指す事にした。
「ま、まぁ…向こうに梯子もあるし…」
当然ながら何も考えず"上から襲われるのが嫌だから"という理由だけで下水道の奥を目指している訳ではない。
少女が先程降りて来たものよりも長い梯子が下水道の奥に見えているのだ。
"ひょっとすれば、あれが下水橋に繋がっているのかもしれない"
そんな思いはある意味当然のように通路の下を通るという選択肢を蹴飛ばし、奥へ進む事の正当性を証明した。
再び下水溜まりへと降りた少女は、やはり死体を相手にするのは気が引けるのか全て無視して進む事にしたようだ。
奥へ奥へと進み、途中には大橋で見たものと同じような鴉も居たが、これも相手にはせず階段を降りて行く。
そして辿り着いた梯子の横にはトンネルがあり、その奥には何やら大きな影が蠢いている。
触らぬ神に祟りなし、少女はそれすらも無視して梯子を登り始めた。
長い梯子を登りきると、目の前には橋があり、その奥には何やら大玉のようなものが見える。
恐らく今少女の見ているこれが下水橋なのだろうが…橋の上にいる罹患者達と奥の大玉で進む意欲は大幅に削がれているらしい。
ひとまずはと少女は周囲を見回すが、気になる場所は橋以外にはすぐ横にあるエレベーターくらいのものだろう。
「……どこに繋がってるんだろう…」
"確かめてからでも遅くは無い"と、少女は下水橋を後回しにし、エレベーターに乗り込んだ。
真ん中にある盛り上がった部分はスイッチの役割があったようで、少女がそこを踏んで体重を掛けた事で沈み、背後の扉が閉まった。
少女が乗ったのは上りだったらしく、重力によって掛かる一瞬の圧迫感の後、カラカラと音を響かせながらエレベーターは上って行く。
数秒が経ち僅かな揺れと共に上昇感覚が消えると、扉が開いて外へと繋がった。
そして少女が外へと踏み出せば、そこは見覚えのない景色────という訳でもなく、どうやらギルバートの家の近くに、それも少女が聖職者の獣との戦いに赴くため何度か通った民家の裏手に出たようだ。
「…これがあったから、下水橋を…?」
元々ここは開通しておらず、少女が使用した事により上下間の移動が可能になったのだが、それを少女が知る術は無いだろう。
どうせ近いのだからとギルバートの家の前にある灯りから夢へと帰ろうとする少女だが、その前に一つの関門が待ち構えていた。
瓦礫を持った大男だ、それも二人がそれぞれ巡回するように広場を練り歩いている。
両方共が奥へと向かったタイミングで、少女は左に見えた横道へと入って行った。
犬の吠える声や、大男の唸り声が聞こえてくるが、出来る限り耳を貸さずに少女は道を進んで行く。
横道を更に右へ入り、その先の見覚えのある形をした扉を開ければ、そこは追いかけっこの舞台として四度に渡って使用された民家だった。
中にいた罹患者はやはり少女との追い掛けっ子の後から戻っていないらしく、苦労もなく少女はギルバートの家へと向かう事が出来た。
灯りに手を翳す前に、少女はギルバートへと声を掛ける事にしたようだ。
「ギルバートさん、僕です!」
「ごほっ…あぁ、狩人さんですか…下水の方はどうでした?」
「下水橋なら見付けましたよ!一回準備してから向かうつもりです!」
「そうでしたか、それは良かった…」
ほっと息を吐くギルバートは、心底少女の事を心配していたようだ。
その様子を見て安心するような、満たされるような感覚を覚えた少女は、ひとまずそれを置いてギルバートへの感謝を述べた。
「ありがとうございます、ギルバートさん。あなたが居なかったら僕…今頃もっと野垂れ死んでました」
「私の方こそ、獣狩りの方の役に立てたのですから、感謝しています。それに…よそ者仲間ですから。」
「…えへへ…それじゃあ、また」
「はい、お気をつけて」
少女がギルバートとの会話で得ていたのは、ある種の承認欲求に似たものなのだろう。
心配される事で満たされるその欲求は、記憶を失った事による孤独感を他人から寄せられる感情によって埋めるためのものだった。
お互いの無事を確認し再びギルバートと別れた少女は、灯りに手を翳した。
そうして光に包まれ目を開けると、少女が夢を発った時と寸分違わぬ姿勢で帰りを待つ人形の姿が見える。
それを見て駆け寄る少女に人形はお辞儀をし、少女の帰巣の言葉に返事を重ねた。
「ただいま戻りました、人形さん!」
「お帰りなさい、狩人様」
「あの、早速なんですけど…"力に変える"っていうの、やって貰っても良いですか?」
何かを思い出しながら話すように言い淀みつつも、少女はこの夢へと帰って来る理由の内の一つを人形に申し出た。
「わかりました。では、遺志を貴女の力としましょう…少し近付きます、目を閉じていてくださいね」
「えっ、は、はいっ…」
両瞼に力を込め、キュッと音がなりそうな程に強く目を閉じた少女は、僅かに開いていた右手に人形の手の平の冷たさを感じる。
人形は少女の手を自身の右手で手繰り寄せ、左手で少女の手の甲を覆った。
熱いような、冷たいような、何かが抜けるような、何かが入り込むような。
右手にそんな例え難い何かを感じる少女は、それでも言いつけを守り目をキツく閉じ続けた。
「……終わりました、目を開けて構いません」
「はい…えっと、どうなったんでしょうか…?」
「貴女の中に宿る血の遺志を力に変換し、貴女のものとしました。力とした分は獣に敗れても奪われず、貴女の中に留まり続けます」
「な、なるほど…落し物が減ったって事ですね!」
あまりにも単純だが、血の遺志を奪われる可能性が無くなったという意味では真実だ。
だが、この儀式とも呼べる行為はその程度の効果では終わらない。
「貴女の力となった遺志は、文字通り貴女を強化します」
「強化って…?」
「膂力や技術、頑強さや持久力…そして血質や神秘への適正すらも、血の遺志によって強化されます」
初めに出た四つはまだ少女の理解の範疇を出なかったようだが、後の二つ…血質と神秘に関しては、どうにも理解を拒んでしまったらしい。
まだまだ理解が足りない"啓蒙"的な言葉の数々を、少女は一旦置いておく事にしたようだ。
"要するに自分は強くなったんだ"と、特に実感は無いが人形によって施されたという事もあり、少女の心中には謎の自信が芽生えていた。
「これで僕、もっと上手く戦えるようになったんですよね?」
「…かつて、ここを訪れていた方々の言葉通りならですが」
ほんの少しの哀愁を含んだ人形の言葉にどう返そうか迷う少女だったが、真っ白な頭では何も思い浮かばなかったのか、慰める事も諦めたようだ。
無理な慰めよりも、まずは自身の目的を果たすべきだろう。
助言者ゲールマンの言った通り、獣を狩る事こそが少女の目的に適う道筋となるのなら。
────……最も、少女は自身の目的など未だ決めてはいないが。
「え、えっと、じゃあ僕は狩りに戻りますね」
「はい、いってらっしゃい、狩人様」
「行ってきます!」
そそくさと墓標へと駆け寄った少女は、何かを思い出したように足を止めて人形の方へと向き直った。
どこか恥ずかしそうに視線を動かしながら人形の前へと戻った少女は、今の今まで忘れていたであろう事を口にした。
「…あの、着替えられる場所とかって…あります…?」
「狩人様方は狩人の業と呼ばれる特殊な技法を血によって会得しておられました、その中には瞬時に携えた武器を替えるものも────」
「服を替えるのはあるんですか!?」
「────申し訳ありません、私にはその詳細まではわからないのです」
「い、いえいえ!武器の交換があるってわかっただけでも!」
そう言うと少女は何かを念じるように眉根を寄せたり、懐を漁りものを取り出し、そしてしまうのを繰り返している。
恐らくは武器の交換やそれに近い事を試そうとしているのだろうが、手にある手もとにある短銃と仕込み杖が別の物に変わる様子はない……少女の懐に他の武器なんてものは存在しない時点で、武器の切り替えに意味は無いが。
やがて少女は諦めたのか、並んだ墓標の裏手にある切り揃えられた低木の陰で着替え始めた。
やたらと周囲を見回し警戒しているが、元よりこの夢に存在するのは少女と人形、そしてゲールマンの三名のみなのだ。
車椅子に乗ったゲールマンはあの工房からそう遠くまでは動けないだろう、人形は言わずもがな覗くような真似などしない。
少女がそう再認識する頃には着替えはそのほとんどが終わってしまっていた。
「お、おぉ〜っ…なかなか、似合ってるんじゃ…?」
マントをふわふわとたなびかせながら、少女は背中や腰を回して自分の見目を確認している。
隅々まで確認し終えた所で帽子を被り、低木の裏から身を乗り出した。
狩人の装束
工房の用意する、標準的な狩装束の一つで血を払う短いマントのついたもの。
優れた狩装束であり、ヤーナムを蠢く人ならぬ獣に対するとき、安定した防御効果を発揮するだろう。
夜に紛れ密かに獣を狩る、そのための装束である。
────…のだが、少女からすれば先程まで着ていたものよりちょっと洒落ただけの服だ。
獣の爪牙を前に布の服などと思うかもしれないが、それは鉄の鎧を着ていようと大差ない。
ならば当然、素早い身のこなしを確保出来る軽い服を選ぶだろう。
身をもってその膂力と脅威を経験した少女も、既に自身の身を守る防具の性能には頓着していないようだった。
着替えが終わった少女は目に見える程心を弾ませながら、再び墓標へと向かった。
使者の這い出てきた墓標に手を翳し、光に体を預けると、そこはヤーナム市街。
ギルバートの家の前に、再び転送されていた。
「ギルバートさん、僕です」
「あぁ狩人さん、準備の方はお済みなのですか?」
「はい、終わらせて来ました!なので…行ってきます!」
「えぇ、ご武運を」
挨拶を終えた少女は帽子を深く被り直し、民家へと向かって行く。
道中の罹患者は道順の把握をしている最中に邪魔をされたく無いようで、一人一人相手する事にしたようだ。
階段付近にいるものと、民家の一階にいるものの二人を倒し、少女は奥にあるもう一つの扉を潜って行った。
「さっさと下水橋に行った方が良いのかな…でも、ギルバートさんとあの子みたいに優しい人も居るかもだし…」
そう迷っていた少女は、まともな会話を交わせる人間がまだ居るかもしれないという期待に沿って、エレベーターの方ではなく民家の連なる道を進む事にした。
犬の鳴き声が幾つも響く通りへと進み階段を降りて行くと、少女の目の前には無骨な檻が現れる。
乱雑に置かれた檻の中には一匹ずつ犬が入れられており、少女を見付けるやいなや強く吠え立てる。
「ガウッ!バウッ!」
「ひっ……って、ちゃんと閉じられてますね…そんなの怖くないですよ!」
「ヴゥゥゥ…」
歩いて行く少女を見送る事しか出来ない犬は、無力を感じているのか、それとも本能のままそうしているのか、唸り声を上げるだけだ。
檻の中にいる犬は吠えるのをやめたが、未だ鳴き声は響き続けている。
少女が周囲を見回すと、檻のすぐ左に下りの階段があり、そこから続く柵は大きくひしゃげて壊れている。
ひしゃげた部分から階段の先を見れば、壊れた檻とその近くに吠える犬が見えた。
檻から逃げ出したのだろう、少女がひしゃげた柵に手を掛けた音に反応し、一気に階段を駆け上がって来た。
「ガァァヴッ!」
「うわぁっ!?…このっ!」
大口を開け飛びかかってきた犬に対して少女は杖を横に構え、その開いた口に向けて横薙ぎに叩き込む。
そのまま杖に引っかかった犬を柵に向かって振り下ろし、犬が絶命したのを確認して杖の血を振り払った。
ほんの少し、されど確信を持てる程度には、以前よりも少女の攻撃に力が乗っているのがわかる。
それは血の遺志を力にした事によるものなのだろう。
「おぉ…強く、なってる…」
止まない鳴き声がいい加減煩わしくなったのか、少女は再び杖を構えて先へと進み始めた。
檻に入っている犬は無視して歩いて行く少女の目の前にあるのは、小さな橋だ。
その対岸には、赤いランタンのついた民家と、その扉の前で吠える犬が一匹見える。
赤いランタンが灯っているという事は、住人がまだいるという事なのだろう。
民家の住人を助けるべく、少女は橋を駆け渡った。
「ど、い…てっ!」
犬が少女の足音に反応し振り返るよりも早く、少女は杖を犬の首へと叩き付ける。
それによって怯んだ隙を突き、更に下から首を打ち上げた事で、犬は息の根を止めた。
「あ、あの…大丈夫ですか…?」
「…あぁ、あんた狩人なんだろう?」
「えっはい」
少女の呼び掛けに答えず、一方的な質問で返したその声は恐らく老婆のもの。
とは言えこれで会話が出来るヤーナム市民はよそ者のギルバートを入れても三人目、少女からすれば貴重な意思疎通が出来る相手だ。
「だったら、知らないのかい?どっか安全な所をさ」
「安全な所…ですか?」
「あたしゃあ知ってるよ、もう家の中だってダメらしいじゃないの」
家の中も安全ではない、それはこの夜なら有り得る事だろう。
何せこの夜は長く、そして深い。
どんなイレギュラーが出たとしても不思議では無いほどに。
「あんたたち狩人が役立たずで、こんな事になってるんだから、あたしを助ける義務があるってもんさ」
「な、何を…」
「さぁ、はやく、どこか知っているんじゃあないのかい?」
"こんなにも辛い思いをして獣を狩っているのに"、そんな思いを抱えながらも少女は脳内に探りを入れる。
だがどんなに探しても少女の記憶には安全な場所などは無く、当然記憶を失ったばかりの真っ白な脳が一時間にも満たないこの夜の経験を忘れる事など有り得ないだろう。
「ごめんなさい、安全な所は知らないです…」
「なんだい、そりゃあ…役立たずだね。それとも、ババアに用はないってか?」
「で、でも!見付けたらすぐに────」
「あぁ、よそ者なんて所詮そんなものだよ」
少女が続けようとした言葉に、老婆は既に聞く耳を持たないようだ。
その声に乗せられた侮蔑も、段々と強く大きくなっている。
「どうせ、あたしらをおかしいと思ってるんだろう!」
「そんな事!……っない、です…」
間髪入れずに否定する事は出来ない、何せ少女はヤーナムの住人に何度も襲われている。
言い淀みながら入れた釈明も、口先だけのものでしかない。
「消えちまいなよ!あたしゃあ知ってるんだよ!」
「……っ、なんなのもぉ…」
扉から離れた少女の目尻には、薄らと涙が滲んでいる。
今までよそ者というだけで拒絶されたが、狩りという行為を否定された事は無かった。
狩りこそが目的に適うと言ったゲールマンに、狩りの無事を祈る人形。
自身の道行を応援してくれるギルバートや、狩人と知って頼み事をした少女が居た事で、今までは獣を狩るという行為そのものに嫌悪などを抱いた事は無かったのだろう。
むしろようやく獣狩りの腕に自信を持ち始めた所だったのだ。
にも関わらず痛い思いや苦しい思いをしてまで続けた獣狩りを、その恩恵に与っているはずの市民が否定し、役立たずと罵った。
少女はこの街でのよそ者の排斥、そして狩人への悪意をここでようやく思い知ったのだ。
「…すん、ぐずっ…」
鼻を啜りながら目尻を拭い、奥の建物へと入って行く少女は階段へと足を降ろす。
その瞬間、目の前の階段の陰から罹患者が姿を現した事で涙は全て引っ込んでしまった。
「……っと、ここなら────ひゃあっ!?」
急いで階段から離れ、すぐ右の樽や木箱が置かれた方へと下がった少女の肩が、後ろからの微風に首筋を撫でられた事で跳ね上がる跳ね上がる。
何か居るのかと振り返れば、そこには樽があるだけ────ではなく、その更に後ろには恐らく格子窓であっただろう、この建物の更に内側が見える枠を見付けた。
「これどけたら、通れるかな…?」
そう言いながらも罹患者が上がって来る前にと樽を運びどかしていけば、窓枠は少々図体が大きくても通れそうな程の幅があり、高さはあれど窓枠の下には足場があった。
後ろから既に罹患者が迫っているかもしれないと、特に確認もせず少女は窓枠から降りて行く。
「よっ、と…」
降りて直ぐに足場の右側へと進んで行く少女は角へと着いた所で先程降りて来た窓枠を振り返る。
そこに罹患者の姿は無いが、あの高さでは脆い樽を足場にした程度で登る事は出来ないだろう。
実質前に進む選択肢以外を失ってしまった訳だが、先程罹患者が出てきた階段の先はこの空間に続いていたのかもしれない。
下にもまだ足場は見える、降りて足を挫く事はあれど、即死するような高さではないはずだ。
そう考えながら進む少女は、再び首に風を感じた事で足を止める。
「わっ……こ、この風…」
今度は撫でるような微風ではなく、髪をたなびかせる程度の強さがあった。
"外の匂いだ"、そう感じた少女は風の入って来た方向へと歩いて行く。
またもや樽によって塞がれているが、間違いなく外の光が入って来ている場所を見付けた。
樽をどかし、進んで見れば赤焼けの空が見えた。
外へ出てみれば、ここは下水道の上に位置しているらしく、正面には市街の壁が見える。
そして少女のすぐ目の前、何故か街灯のようなものが灯っており照らされているそこには、人影が一つ佇んでいた。
帽子を被り、烏の羽のようなマントに身を包んでいる。
以前のように一般人だと思い話し掛けて一閃、なんて事が起こらないように慎重に近付いた少女は、意を決してその人影に話し掛けた。
「……っあ、あのっ!」
その声に振り返った人影の顔は人間のものではない────という訳ではなく、ただ単にペストマスクのような被り物を着けているだけのようだ。
武器を構えたり少女を襲ったりする素振りは見せず、ゆっくりと首から肩、そして上半身までを少女の方へと向けた推定人間の何かは、少女に返事を向けた。
「…なんだい、あんた狩人かい…それに、外から来たんだろう?」
「……っ!は、はい!多分!」
少女へと返されたその声は意外にも女性、それも老年と呼ぶには少し早い壮年と言ったくらいのものだった。
会話が通じる上にまともな返事が返ってくる。
先程の民家の老婆とは全く違う対応に、少女も思わず興奮してしまったようだ。
「急に元気になった割に確証のない返事だね…まぁいい、因果な事に巻き込まれちまったね。特に今夜は、酷いものさ」
「そう、なんですね…」
「どうやら知ってる事は多くないようだ…これは後輩に、餞別だよ」
そう言って烏羽の女性は少女に幾つかの紙切れを渡した。
羊皮紙のような質感のそれには、縦一本の線の下側に途切れた四角形が引っかかっているような紋様が刻まれている。
狩人の確かな徴
吊り下げられた逆さまのルーン。ハンターの心の中に刻まれたもの。 この図があれば、心の中にはっきりとルーンを思い浮かべることができる。
そして血の遺志を失うことなく、再び目覚めることができる。
話がうますぎるようにも思えるが。
少女はこの紋様────ルーン文字の意味も知らず、そしてこの紙切れが何に使えるのかもわからない。
だがこの紋様の形だけは何故か見覚えがあるように感じた、まるで起きた時点で心の内に刻まれていたかのように。
「えっと、これは…?」
「それも知らないのかい、困ったね」
「うぐ…ごめんなさい…」
「フッ…これ以上進めないと思ったらその文字を見て頭の中でも思い浮かべるんだ、それで目覚めをやり直せる」
目覚めのやり直し、その言葉には少女も合点が行く。
恐らくは狩人の夢からヤーナムへと転送されるアレの事を言っているのだろう、と
「き、貴重なものなんじゃ…」
「言っただろう?餞別さ。それに、もう必要ないものなんでね」
目覚めの事を知っているなら目の前の女性も狩人のはず、なら何故必要無いのか。
そう疑問に思った少女だったが、直後に紡がれた言葉に現実へと引き戻された。
「…しっかりするんだよ、もう誰も人じゃあない。人を喰らう獣どもだからね…」
「…は、はい!」
そう言うと烏羽の狩人は再び市街の方へと顔を向ける。
だが少女としてはまだ会話を終わらせたくは無かった
少女の事を後輩と言っていた事からも、この狩人は少女よりも経験を積んでいるのだ。
その経験を聞く事は、自身の糧となる。
この先の道筋のヒントとなるかもしれない。
────…という建前を置いてはいるが、本音は心が折れそうな程に大きくなっている寂しさと無力感を人との会話で埋めたいだけだ。
先程の老婆との会話の事もあるが、今まで市街で会話が出来た人間は皆姿形は見えず、ギルバートやリボンの幼女も見えたのはシルエットだけ。
こうして目の前に存在し、まともな会話を交わせるのは夢の外ではこの狩人が初めてだった。
「え、えっと…その…」
「なんだい、あんたまだ居たのかい」
「あ、う…ごめん、なさい…」
「どうした?まさか狩人が、獣が恐ろしいのかい?」
「その…はい…」
冗談交じりに、という声色そのその質問は、少女からすれば至極真っ当な自分の価値観だ。
だが狩人が獣への恐怖を表に出すというのは、そう目の当たりにする問題では無いのだろう。
烏羽の狩人はマスクで表情こそ見えないが、どこか納得したような雰囲気を見せた。
「ふぅん…まぁ、あんたみたいなお嬢ちゃんに向いている仕事とは言えないさね」
「うぅ…」
「…フフッ、まぁいいさ。恐れなき狩人など、獣と何が変わろうものか…」
そう言って烏羽の狩人は、そのマントを露でも見付けたように軽く払う。
一方少女は、先達の狩人が自身の恐怖を肯定してくれた事で舞い上がっていた。
それ故離れるのが更に恋しくなってしまったのか、再三とばかりに烏羽の狩人へと声を掛ける。
「あの、その、えっと…」
「なんだいあんた、しつこいね」
「ごっ、ごめんなさい…」
「…いくら恐ろしくても、あんたは狩人…獣を狩るしか無いんだよ」
「はい…」
先程までとは一転、甘さを見せない叱咤で少女は舞い上がった気分を落ち着かせた。
しゅんと落ち込んだ少女の瞳に堪えかねたのか、別れの言葉代わりとでも言うように今度は烏羽の狩人から声を掛けた。
「言伝を頼んでおくよ」
「…?」
「あんた、まだ夢を見るんだろう?人形の嬢ちゃんに、ババアがよろしくってね…」
「……っ、はい!えっと、餞別、ありがとうございます!」
その言葉にひらひらと振られた後ろ手を、話は終わりだと解釈した少女は、再び建物の内部へと戻って行く。
寂しさが消えた訳でも、無力感が解決した訳でも無いが、目に見える存在からの肯定は少女の中で強い柱となった。
少女狩人
名前:不明 性別:女性 年頃:若年(詳細不明)
過去:過酷な運命
レベル 15
体力 10
持久力 12
筋力 12
技量 12
血質 5
神秘 14