少女の微睡、月香の夜。 作:かなしいな
※第九話、旧市街です。
「狩人よ、警告は読まなかったのか?」
「うひぃっ!?ど、どこから…?誰…?」
旧市街へと踏み入り、更に奥を目指す狩人に向かって、どこからか男の声が響いた。
足が浮いたのでは無いかと言う程に驚愕し、肩を震わせた狩人は周囲を見回しているが、その足は止めない。
「引き返したまえ。旧市街は獣の街、焼き棄てられた後、ただ籠って生きているだけ…上の人々に、何の被害があろうものか」
「む、むぅ…」
確かに旧市街と繋がる扉は閉じられていた、他に出入口が無いとも限らないが、獣が上へ侵入する事はまず無いだろう。
とはいえ狩人も用も無しに旧市街に侵入した訳では無い。
狩人には狩人なりに、譲りたくは無い理由がある。
「引き返したまえ……さもなくば、我々が君を狩るだろう」
「我々って────うわっ」
言葉の意味を考えるべく足を止めようとしたその瞬間、ちょうど狩人が渡っていた橋を包むように昇っている煙の向こうから、一匹の獣が現れた。
獣の病の進行度は上の者どもよりもずっと色濃く、最早人間的な部分は二足歩行と二本の腕くらいのものだろう。
"ただ籠って生きているだけ"という先程の男の言葉が気になったのか、現れた獣に対して狩人は武器を構えない。
「ガァァッ…!」
「────…っ!」
爪を構え襲い掛かって来る獣に、狩人はようやく武器を構え、そのノコギリを獣の頭目掛けて振り下ろした。
獣の爪は狩人の服と皮膚を浅く切り裂き、カウンター気味に狩人が振るったノコギリ槍は頭蓋を潰しながら脳を引き裂く。
先手を取れば無傷のまま倒せた筈だ。
だと言うのに狩人は、この程度の相手に手傷を負っている。
上を通るために殺したのとは訳が違う。
外を徘徊し見境無く襲う罹患者達と、ただここに暮らしていただけで焼き払われた彼らを同等には見られなかったのだろう。
だがそれでも相手は獣、何より人を襲うという本能に負けた獣だ。
追い駆けて来る獣にまで慈悲を掛ける訳には行かない。
先程声を掛けられた時に見回した限りでは、奥へと進むには右手を行くのが最短の道となるだろう。
煙を潜り抜けた狩人は、すぐ右手に見える階段を目指す。
前方の煙からは三匹の獣が現れるがお構い無しだ。
「グゥゥゥッ…オォォッ!」
「ガァッ!ヴゥッ!」
「…ごめんなさい」
苦戦こそしていないが戦闘の最中である狩人に、男は構わず声を掛ける。
「貴公、良い狩人だな…狩りに優れ、無慈悲で、血に酔っている。良い狩人だ」
「こっちが戦ってるからって、好き勝手な事…!」
旧市街の獣は狩人が思っていた以上に脆かったようで、二振り程度で沈んで行く。
ある程度無茶を押しても問題は無いだろう、そう感じ取った狩人は残り一匹も仕留めて先を急いだ。
物陰から現れた獣にトドメを刺し、いざ目の前に見えた梯子を降りようとしたその時────
「だからこそ、私は貴公を狩らねばならん!」
梯子に手を掛け、そして今下へと降りようとした狩人の耳に、謎の駆動音と飛来音が届いた。
瞬時に脳裏を駆け巡る嫌な予感に身を任せ、梯子を握る手を緩めてするすると降りて行けば、狩人の頭上から金属音が響くと同時に火花が飛び散った。
「ひぃぃぃっ!」
飛来して来たのは水銀弾だ、それも雨のように大量に降って来ている。
上を見る余裕は無いが、恐らくは狩人に呼び掛けたあの男が撃っているのだろう。
梯子を降り切って狩人が奥の建物へと逃げ込もうとすれば、目の前から人影が一つ近付いて来る。
右手に仕掛け武器と左手に銃を持ったその人影は、同じ狩人の筈だ。
骨格からして男性だろうか。
「あ、あの────っ!?」
「……」
無言を貫きながらも振るわれたのは、狩人のものと同じノコギリ槍だった。
紙一重でその攻撃を躱し、向き直ろうとすれば、遠くから水銀弾が飛んで来る。
目の前の男を避けて奥へと走ろうとする狩人に、だが男は容易に回り込んで見せた。
狩人としての経験は圧倒的に相手が上だろう。
ノコギリ槍同士をぶつけ合っている内に機関銃の旋回が終わったのか、狩人の元へ水銀弾の雨が迫る。
押し通るには膂力が足りず、避けて行くには技量が足りない。
そんな中でも必死に抗った狩人だが、ようやく男の手が緩んだ。
銃撃の射線が近付いたからだろう。
更に押し込んでしまおうと前に進み出た狩人に水銀弾が降り注ぐが、前進のおかげか直撃は左腕から肩に掛けての数箇所に留まったようだ。
「っぐ、うぅぅっ……」
────最も、軽傷という訳では無いが。
狩人が片手に持っていた短銃でも、犬一匹を吹き飛ばすような威力を持つのだ。
それを連射などしようものなら、狩人の細腕をミンチにしてちぎり飛ばす程度は造作もない事だろう。
それが今、狩人の肉体で立証されてしまったに過ぎない。
「………」
「…こ、こっち、来ないで…!」
弱々しい声で紡がれた拒絶を男は聞き届けず、ノコギリ槍を構えながら近付く。
左腕がつい先程まで繋がっていた二の腕を掴み、抑えている狩人は釣られて段々と下がってしまっていた。
やがて脚が縺れて倒れた狩人の顔は、人形のように色を失った白に染まって行く。
恐怖か、それとも血の不足か。
そしてついに足を止めてしまった狩人に、ノコギリ槍が振り下ろされた。
「貴公、まだ夢を見るのであろう?であれば、あそこで良く考え直す事だな」
皮肉にも最後に告げられたその言葉は、狩人の薄れゆく意識に確りと届いていた。
「………向こうから襲って来たのに!」
そろそろ死の経験にも慣れ始めたのか、夢に送られてからの沈黙は段々と短くなっている。
"旧市街へと踏み入った自分にも非があるとは言え、あの歓迎はどうなのか"
そう憤慨する狩人は、やがて立ち上がると直ぐに旧市街前の灯りへと転送された。
転送が終われば、狩人は脇目も振らず旧市街を走り抜けて行く。
獣の爪を掻い潜り、石畳の上を転げ回りながら、何とか先へ進む道を探しつつ。
梯子の手前、脇に逸れる道へと入る事で先程塔の上から狩人を狙い撃った機関銃の射線から身を隠し、そのまま階段を降りて建物へと入って行った。
「グゥオォォッ…!」
「ひっ!?…な、なんだ…脅かさないでくださいよ…」
入って直ぐに待ち構えていたのは布のようなものを被った獣だった。
獣と知って一息吐く狩人も大分ヤーナムに慣れて来た様子だが、今はそんな茶番に興じている暇は無い。
建物内だと思っていた場所は真後ろの壁が崩落しており、機関銃の射線は確りと通っていたのだ。
「うわわわわっ!」
「ガァッ!ギャアァッ!」
「ちょっ、と…邪魔しないでっ!」
幾分か余裕を無くした様子で振るわれたノコギリ槍で獣は沈み、狩人は機関銃の方角を気にしながらも先を急いで行く。
奥に何かあるのかと狩人が右手の部屋に入れば、そこも見事に屋根や壁が崩落していた。
当然射線は通っており、狩人がほんの少し顔を出しただけで銃撃が開始される────だけで無く。
「きゃあぁぁっ!?」
響いたのは爆発音、そして狩人の元へと届いたのは強烈な熱波だ。
どうやらその部屋に置いてあった壺の中には火薬が仕込まれていたらしく、水銀弾が命中した傍から爆発している。
中に獣が居たようだが、先程の爆発と炎で焼け死んでしまったらしい。
開放的な部屋の左奥に見えるランタンの下には小さな木造の橋が架けてあり、その向こうにも煤けた建物が続いている。
これ幸いと狩人がその橋を駆け渡れば、右手には入口が、そして左手には鴉の群れが地面に這い蹲っていた。
鴉の方は続いていないだろうと踏んだ狩人は入口から奥を覗き見る。
中に見えたのは先程まで見てきた獣よりも一回り大柄な獣だ、未だ狩人には気付いていないらしい。
背後から奇襲を掛けようと忍び足で近付けば、直後自身の背後から小石を蹴り飛ばすような小さな音が響く。
咄嗟に右へ飛び退けば、そこには二匹の獣が隠れ潜んでいた。
「ウゥゥゥッ…!」
低く唸るそれを大きな獣と同時に相手するような事は避けたいのか、狩人は建物から少しずつ外へと獣を誘導して行く。
変形させたノコギリ槍を駆使し、射線が通らない範囲で二匹を片付けると、狩人は即座に槍からノコギリへと戻して大柄な獣の方へと近付いた。
「────…なぁっ!?」
「グァァッ!」
狩人が発した驚愕の声、その理由は獣にあった。
大きな体に似合わぬ俊敏さを持って、獣は狩人の攻撃を回避して見せたのだ。
恐らくは狩人の足音や僅かな衣擦れの音で察知する事が出来たのだろうが、狩人が気になったのはその速さや危機察知能力では無く、眼光だった。
狩人と対峙している獣の眼からは、赤い光が迸っている。
「……っ、行ける!」
「グァッ!ガァァッ…!」
振り回される左右の爪に合わせて狩人が短銃を撃ち込めば、獣は大きく体勢を崩した。
その隙を突いて、狩人はノコギリ槍を大きく振り被る。
地下墓地の男にそうされたように、致命の一撃を構え、そして叩き込む。
頭を割られた事で絶命した獣をよそに、狩人は先へと進む。
建物から外へ続く道を進み、恐らくは獣が多く潜んでいるこの地帯を素早く抜けようとするその足は、一歩踏み出すにつれ速さを増している。
その足音に釣られたのか、案の定潜んでいた獣が動き出した。
「げっ!?」
その数は三、いや石像の傍に居たものを含めて四匹だろうか。
数の暴力から逃れようと振り返れば、そこには既に四匹目が回り込んでいる。
せめてもの抵抗をと振り回したノコギリ槍で一匹が沈んだが、ささやかな抵抗で道連れに出来たのは、その一匹だけだった。
「うぎっ…こ、の…触るなぁっ…!」
「ギギャァッ!」
「フーッ…ガァゥッ!」
侵入者への怒りか、それとも久々の獲物に向けた喜びか。
少しずつ狩人の体を傷付ける獣達は、狩人からすればその様子を楽しんでいるようにも見えた。
そして数回目の攻撃で狩人の抵抗する力が完全に削がれると、獣は喉や腹、頭を潰して喰らってしまおうと牙を立てる。
その頃には既に、狩人の意識は夢の中に運ばれていた。
「ぅ、おぇ…ぐずっ」
弄ばれるような死に様と、初めての死以来の経験である"餌"としての死に少なからず思う所があったのか、狩人は少しの嗚咽とそれを隠すように片手で口を覆う素振りを見せる。
だがそれも直ぐに呑み込み、涙を拭い切る事で狩人は"少女"としての側面を心の内に押し込む。
「もう相手してやるもんか…」
拗ねるように吐き出されたその言葉と同時に立ち上がった狩人は、再び旧市街の灯りへと飛んだ。
二度の洗礼が余程効いたのか、狩人は目の前から迫り来る獣は全て無視し、梯子の方向へと走り抜けて行った。
梯子を出来るだけ素早く降りると前方からはノコギリ槍の男が迫り、上からは水銀弾が飛来する。
その状況でも狩人は走る事をやめず、振るわれたノコギリ槍を前に転がる事で何とか躱し、機関銃の射線が通っていないであろう木造の足場部分へと飛び込んだ。
「はぁっ、はぁっ……つ、着いた…?」
足場に辿り着いた時点で連射は終わり、追って来るのは男一人のみとなった。
そこで狩人は振り向いてノコギリ槍を構える────が、男は既に狩人を追っては来ない。
恐らくはあの機関銃の射程外には出ないのだろう。
最初から全て織り込み済みの十字砲火だった訳だ。
「こ、こっち来たらどうなんですか……やーいずるっ子!意気地無し!」
「………」
「────…はぁ…」
狩人がどれだけ罵詈雑言を吐こうとも男は距離を詰める事はしない。
むしろ狩人の事をその視界に捉えながらも、ゆっくりと射程内まで退いて行った。
ため息を吐きながら木造の足場を降りて行けば、その先は煉瓦造りの通路となっている。
目の前に見える梯子を登ってみれば、またもや木造の足場に上へと続く高い梯子が架けられていた。
右手の通路と左手の梯子、梯子の上には最初に狩人に声を掛けた機関銃の射手がいるのだろう。
厄介事は無視するに限る。
狩人は梯子には手を掛けず、右手にある木柵の途切れた部分から見える有り合わせの足場へと降りて行った。
「おわっ…!」
「ウゥゥッ…」
狩人が降りた足場の先から聞こえたのは低い唸り声だ、目の前の建物の内部へと架けられた木橋の上には、当然のように獣が一匹反対を向いて待ち構えている。
狩人の上げた小さな悲鳴に気付いたらしく、振り返って狩人を視界に収めた途端に腰を落とし、臨戦態勢に入った。
「グァァァッ!」
「ふっ!」
真っ直ぐ飛び掛かって来た獣を、狩人はただ横に構えたノコギリ槍を前のめりに振るう事で相手の跳躍力を利用し仕留めて見せる。
顔にまで飛んだ血を拭いながら先を見る狩人は、その暗闇に辟易したのか少々顔を歪めながらも死体を跨いで先へ進み始めた。
建物の内部は踏む毎に軋む頼りない木の足場が続いており、どうやらここは階層というよりも梁に位置するらしい。
これまでこのヤーナムで通った道に一般的には道と形容するべきでは無いであろう部分が多い事を不思議に思いながらも、記憶を失っている自身の常識など頼りないとその不思議を受け入れつつ、狩人は慎重に足場を歩いて行く。
直ぐに目に付いたのは天井から吊り下がっている布袋だった。
狩人が今右手に持っているものも吊り下がっていたのだから、ひょっとすれば中には良い物が入っているのかもしれない。
だが狩人はそれを拾うために痛い目を見ているのだ、決して油断はしない。
幸いにも中身はそれ程ごちゃごちゃとした装飾品などが入っている様子は無い、落として割れ砕けたりするような物も無いだろう。
しめしめとそれを吊っていた紐を切れば、袋は下へと落ちて行く。
「よし、これで───────」
狩人がそれを落とした事を後悔するのは、ほんの一瞬後の事だった。
「ひゃあぁぁっ!?」
落ちた先を確認せずに狩人が奥へ進んで降りて行こうと足を動かした瞬間、大きな音と有り得ない程大きな明かりが下から立ち昇る。
咄嗟に頭を抱えて身を屈めた狩人は、所々に空いた足場の隙間からそれの正体を見た。
炎だ。
恐らくは先程の袋に入っていたのは大量の火薬や油で、落下した先にある何かに衝突して引火したのだろう。
「ど、どうしよう…これ、どうしたら…」
その顔は腕がちぎれ飛んで血が不足した時よりもずっと青白くなっており、見るからに混乱している様子だ。
だがここは旧市街、既に棄てられた獣の街。
放って置く事を良しとしたのでは無く、あくまで獣の病に手を付けられず放棄されてしまっただけの筈だ、獣が苦手とする炎を焚べて何が悪いか。
その上一度は焼き棄てられたのだ、今更建物一つに炎を追加した所で非難するのは機関銃の男ぐらいのものだろう。
「ご、ごめんなさぁい…」
誰とも知れないこの建物の主に謝罪しつつ、狩人は"さんざ煮え湯を飲まされたのだからこのくらいは"という中々にふてぶてしい思考で探索を再開した。
奥へ奥へと歩いて行くが、梯子や階段のようなものは見えない。
その上途中からは細い梁になっており、上を歩く勇気など持ち合わせていない狩人はそこに寝そべり芋虫のように這って進んで行く。
半分ほど進んだ所で諦めて引き返そうかと狩人が歩みを止めた時、その目に映ったのは今いる場所から少し離れた所にある頼りない足場だった。
「あ、また火のやつ…」
落ちている死体が抱えていた火炎瓶を拾いながら、狩人は進むべき道を探し始めた。
梁から先までほんの少しだけ続いているが、その先に繋がっていた筈の道は崩れてしまったのだろう、所々に歪んだ金具や折れた木材が散らばり、引っかかっている。
「ここしか、ない…よね…?」
少なくとも狩人は下水橋へ辿り着くまでに二度、高所からの飛び降りを経験している。
一度目は下水道の最下層、下水溜まりへと降りるため。
二度目は狩人が今も左腕に巻いているリボンの持ち主の家へと繋がる梯子の傍、幾つもの舟が棄てられていた恐らくは小型の造船所であろう建物でノコギリ槍を拾うため。
前者はまだ足場が点々と続いており、着地の衝撃や高度もそれ程では無かった。
だが後者は違う、意図した降り方では無い上に狩人は右腕を砕いているのだ。
恐らくはそちらがトラウマになっているのだろう、ただでさえ苦手な高所から更に飛び降りるという行為を狩人は忌避していた。
だが外へ戻った所で的になるだけ。
となればこの建物内、ひいては下層へ降りるのが安牌ではあるだろう。
ようやく覚悟を決めた狩人はノコギリ槍と短銃をしまい、僅かな足場で目一杯の助走を付けて前へ跳んだ。
「届けっ!」
掛け声と共に伸ばされた右腕は、見事向こう側に届きその端を掴んで見せた。
とはいえ安心は出来ない、既に壊れてしまった部分に腕が掛かっただけなのだ。
変に揺らさないよう慎重に登って行けば、そこに奥へと続く道は無かった。
この足場はあくまで壁沿いに掛けられていただけらしく、あとは柱を掴んで少しずつ降りて行くしか無いだろう。
「よい、しょ…よい、しょ…」
狩人は両腕両足で柱を抱き締め、少しずつ体を揺らす事で下へと降りて行く。
やがて辿り着いた下層の床にも炎が撒き散らされており、所々にある獣の焼死体も先程狩人が落とした炎によって出来たばかりのようだ。
かなりの数があるが、その殆どが死を迎えたばかりのもの。
つまり後ろに見えるどこかに繋がっているであろう通路を通って来れば、相当な数に襲われていた事になる。
「無駄足…って訳でも無いですね」
恐怖に勝る対価はあったと納得した狩人は、建物の内部を見渡し始める。
火薬袋が落下したのであろうオブジェは、どうやら獣の磔だったようだ。
背中の皮がめくれ上がり、胴体どころか前足までを覆っているその姿は、今まで狩人が見た獣のどれよりも凄惨な見目をしていた。
その後ろには何やら祭壇のようなものがあり、更に後ろに道が続いている。
ようやく歩道を見つけた事もあって、狩人の歩調は少しばかり軽やかになっている。
先には外が広がっており、左右の道が続いているが左は直ぐに行き止まりが見えていた。
となれば無駄な労力を割かないためにも、まずは右からだろう。
「また梯子…」
右へと向かって直ぐに見えたのは上へと続く梯子だった。
扉から入って登る以上、どこか建物へ続いているのだろう。
狩人が時間を掛けて登ってみれば、そこはノコギリ槍と機関銃によって阻まれ続け、それでも押し通ったあの道だった。
「……近道って事ですよね、これ」
所謂ショートカットというものを開通した狩人はもう一度下まで降りて行き、探索を再開した。
梯子の部屋の手前、煙が上がるその道を歩いて行けば奥には数匹の獣が座り込んでいる。
態々喧嘩を売る必要も無いと狩人が視線を外し奥へ向かうと、その内の幾匹かがおもむろに立ち上がり、狩人に襲いかかった。
「ギィッ!ギャアァッ!」
「ちょっ…なんで!僕急いでるんですよ!」
自身に時間的余裕があるのかどうか、狩人はそれさえ知らないが、獣にそんな道理は通じない。
狭い通路ならまだしも広場で相手をすればタダでは済まない。
先程食い殺された事で広場と数の暴力の危険性を知った狩人は、相手が複数居るのを視認した瞬間更に奥へと駆けて行った。
階段を降りて更に先を急げば、正面に見えたのは二匹の獣だった。
最初に狩人を食い殺したあの獣だ、トラウマを卒業したとはいえ、二匹を同時に相手取ったのは狩人の存在がバレていない状態で火炎瓶を使用したあの戦いのみ。
となれば取るのは当然───────
「ごめんなさぁい!」
「グゥゥゥッ…!」
狩人を視認した獣が唸り声を上げ、飛び掛かるタイミングを計るような動きをした瞬間、狩人は二匹の間を走り抜けて行った。
勝てないのなら逃げる、それがこのヤーナムで最も重宝される戦術だろう。
だが、ヤーナムはただで逃がすような優しさは持ち合わせていない。
二匹をすり抜けた先にはもう一匹罹患者の獣が待ち構えており、それすらも躱して走って行った狩人の右手前方にある建物、その木板で塞がれた扉から更に罹患者の獣が飛び出して来た。
「わぁぁぁっ!?」
「グォォッ!」
罹患者の獣に前を塞がれてしまった上に、後ろからは同様の獣が三匹迫っている。
対処の為に足を止める訳にも行かず、狩人が選んだのは今し方目の前の獣が飛び出して来た建物だった。
内部は螺旋階段になっており、駆け上がって行けば獣が待ち構えている。
だが後ろからはもう四匹の獣が追い立てて来る。
最悪の追いかけっ子が始まっていた。
「ぐずっ…なんで来るんですかぁぁ…」
いよいよ泣き出してしまった狩人は階段の途中に下へと降りる横道の階段を見つけるが、後ろでは獣達がその爪を構えている。
ならばと更に上へと登って行くと、今度は鉄格子の扉を発見した。
これならば獣の爪や牙も防げるだろうと開けてみれば、その先は外に通じており、目の前には梯子が掛けられている。
扉を乱暴に閉じて梯子を登ると、そこには直近で何度か目にした大扉があった。
「ここって、最初の…?」
旧市街へ入るための扉、そしてその奥には灯り。
狩人はスタート地点に戻って来てしまっていたのだ。
「────…はぁぁぁっ……」
大きな溜息を吐いた狩人は、涙を拭って元来た道を戻って行く。
扉の前まで戻れば、そこに獣達の姿は見えない。
だが聞こえて来る唸り声や足音からして、まだその建物内に居るのだろう。
無駄足、骨折り損。
散々走り回った挙句スタート地点まで戻されてしまった事で、狩人はどうやら吹っ切れてしまったらしい。
一度強引に閉めた扉をゆっくりと開けると、階段を跳ぶようにして駆け降りて行く。
道中に獣が見えるが全て無視して、とにかく無我夢中で走る。
「痛っ…!」
ただ前へ走るだけで獣を全て躱せる訳では無い。
どれだけ回避に集中しても獣は強大で、かつ多勢だ。
四方八方から振るわれるその爪が、狩人の体に幾つかの赤い筋を刻む。
それでも狩人は走り続ける。
獣の爪に引っ掻かれ、時には階段を転がり落ちながらも、どうにか下まで辿り着いた狩人は建物を出て直ぐに右へと走る。
「はっ、はっ…どこがゴール…?」
荒い息を隠す事無く走り続ける狩人が抱いたのは、一つの疑問。
ゲールマンが狩人に寄越したのは、旧市街に聖杯が一つ残っているという事のみ。
今までそのような物は見掛けていないし、回った中でありそうな場所と言えば炎を落としたあの建物にあった祭壇だろう。
だがそこにも、杯なんぞは置かれていなかった。
迷っていても仕方が無い、後ろからはまだ獣が迫って来ている。
奥まで行っても聖杯が見つからなければ、諦めて幾度目かの死を享受する他無いだろう。
前へ前へと進んでいる内に罹患者の獣は増えて行き、最終的には六匹以上に追われる事になってしまったのだから。
走り続けて疲れ果てた脚は頼り無く、フラフラと揺れる体は大した速度を出せなくなっているが、速さは五分と言った所。
後は捕まらないようにいち早く進むべき道を見つけなければならない。
全体的に高低差が激しいヤーナムの地形は狩人の脚をこれでもかと言う程痛め付けるが、ここに来て下りの階段は狩人に味方していた。
たとえ転倒してしまっても、自傷覚悟で転がり落ちてしまえば下には辿り着けるのだ。
そうして怪我や見目など微塵も気にせず降りて行った先にあったのは、崩落した教会のような厳かな建物だった。
扉は残っておらず、あるのは柱ばかりで天井すらもそこかしこが崩れている。
後ろから追って来ていた獣達も、どうやら階段前で撒く事が出来たようだ。
そこら中を転がっていたからか、いつの間にやら帽子を失くしてしまった狩人の真っ白な髪は煤や土埃で汚れ切っている。
狩人が髪の汚れを手で払いながら教会へ入って行けば、その奥には大きな獣が鎮座していた。
どこかで見たようなその姿形は、恐らく炎をばら撒いたあの建物で磔にされていたものと同様の獣だろう。
ゆっくりと近付く狩人に、だが僅かな音や匂いで気が付いたのか獣は振り向き、そしてのそのそと歩き始めた。
またもや狩人の脳に、何かが芽生えるような奇妙な感覚が走る。
三度目、正確に言えば五度目のその感覚を、狩人は"強敵との遭遇"として捉えている。
聖職者の獣、そして地下墓地の男。
それらとの初の邂逅と打倒した時の感覚が、この獣を前にして起こったのだ。
気味が悪いようで、どこか満足の行くような奇妙な感覚に酔いしれる暇も無く、獣は唐突に走り出した。
「キィィアァァァッ!!」
「うわっ!?」
叫び声と共に振るわれた前足の爪を紙一重で躱すと、狩人は慎重に構え直しつつ背後を取るようにして動き始める。
今まで遭遇した獣の殆どが背後への対応に疎かったのだ、そしてそれは今回も同様らしい。
大回りに歩きながら狩人の方へ向き直ろうとするその獣は、明らかに背後へ攻撃する事が出来なかった。
「よ、よし…それなら…」
「ギュアァァッ!」
しかし弱点があるからと言って弱い訳では無い。
攻めに転じようと狩人がノコギリ槍を獣に向けた瞬間、獣は一目散にあらぬ方向へと走って行く。
建物内に幾つも立っている柱の一つを蹴る事で無理やり方向転換した獣は、再び狩人にその爪を振るった。
「いっ……たい、けど…!」
躱しきれなかったが大きなダメージでは無い。
腕に負ったかすり傷は戦闘に支障を来すようなものではなく、それだけで狩人から冷静さを奪えるような一撃でも無かった。
素早く動く獣に攻撃を仕掛ける事は未だ出来ていないが、狩人は着実にその動きを見切り始めている。
狩りは順調に進んでいる、そう確信していた狩人は三回、四回とその爪に浅く切り裂かれた所で小さな違和感に襲われた。
「あ、れ────」
「ギャアァァッ!」
「ぐぅっ!?」
たかが一瞬、されど一瞬。
脚が命令に応答せず、獣の大振りな一撃をノコギリ越しとは言え真正面から受けてしまった狩人は、その違和感が段々と強まっているのを感じ取っていた。
少し無理に進み過ぎたのか、今まで足場を気にせず走り過ぎたのか。
そんな考えが過ぎるが、それらは決定的な理由では無い。
戦闘を続けるには重すぎるダメージを一度回復するべく下がろうとした狩人の体は、本人の意思に上手く応答しなくなっている。
そして遂には───────
「ごぷっ……ぁ、え…?」
たった今吐き出したそれを狩人が見下ろせば、地面に出来た染みは胃液の黄色では無かった。
血の赤、吐血だ。
何が原因か、狩人は意外にもそれ程時間を掛ける事無く答えを出した。
「…毒?」
「ギュアァッ!ギャアァッ!」
「ぐ、ぅ…あぁぁ…」
地面を引っ掻き、火花を散らしながら迫る爪を躱す事が出来ず、狩人の右脚が宙を舞う。
バランスの取れない体は大した抵抗もしないまま崩れ落ちて行くり
歯を食いしばって耐えている訳でも無いのに、その喉から絶叫は響かない。
響かせる程の余力が残っていないのだ。
毒の効力はあまりにも強く、既に抵抗どころか泣き叫ぶ力すらも根こそぎ奪い取っていた。
「うぶっ…げぇぇ…」
喉からせり上がって来る吐き気を我慢する事も出来ずに口を開けば、出てくるのは血ばかりだ。
いよいよ指先も言う事を効かなくなった段階で、獣は狩人の様子をまるで品定めするかのように覗き込む。
飢えて渇いたような獣は、その前足を狩人が吐き出した血に浸す。
最早威嚇の鳴き声も必要無いという様子で血に浸した前足を持ち上げた獣は、その足で狩人の頭を踏みしめた。
「フゥゥゥッ……」
「……っ、ぁ…」
獣の膂力と硬い地面に挟まれてギリギリと骨が悲鳴を上げるが、狩人はその苦痛に喘ぐ事すらも出来ず、ただ死を待つのみ。
何かが砕け始めた感覚に恐怖は無い。
自身の頭が砕けるその瞬間、毒の苦しみと頭に響く鈍痛からの解放に、狩人が感じていたのは安堵だった。
そうして狩人の血に渇いた獣との初邂逅は、呆気ない敗北で幕を閉じた。
少女狩人の帽子
下水道に落ちていた装束と共に狩人に拾われた、かつては違う狩人が身に着けていたのであろう防具の一つ。
明らかに狩人の頭に合っていないその帽子は、製作者の想像よりもずっと深く狩人の頭を覆っていた。
その被り心地はお世辞にも良いとは言えなかっただろうが、それでも少女は愛着を抱いていたのだ。