ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
アコマ・コロシアム、準々決勝。
スタジアムを包む空気は、これまでの熱狂とは一線を画していた。観客席のあちこちで、期待よりも「不安」が入り混じった囁きが漏れている。対戦相手であるシオンの異名、『完封者(サイレンサー)』。彼女と当たったトレーナーの多くが、愛するポケモンの自信を完膚なきまでに打ち砕かれ、再起する意欲を失うという噂が、重く冷たい霧のようにフィールドに立ち込めていた。
「……ウパァ、ウパ」
カグヤの腕の中で、ウパーが心細げに鳴き、その柔らかな身体をカグヤの胸に押し付けた。昨夜、闇討ちを受けた恐怖がまだ僅かに残っているのだろう。
「大丈夫だ、ウパー。……あんな奴ら、ハッサムとルカリオがいれば敵じゃない。それに」
カグヤはウパーの頭を優しく撫で、その視線をカロスのある北東の空へと向けた。
「俺たちがどれだけ最強の家族に守られてるか、見せてやろうな」
入場ゲートを潜り、フィールドの中央へと立つ。対面するシオンは、朝日を浴びてもなお、一滴の温もりも感じさせない瞳でカグヤを見据えていた。
「……カロスからの渡り鳥。昨夜、不合理な野盗共を掃討したそうね。無駄な労力。君がここで私に折られる運命は変わらないのに」
「折れるのは、芯が一本しかない時だけだよ」
カグヤは静かに、腰のモンスターボールを手に取った。
「俺たちの芯は、何本も束ねられてる。……行け、ハッサム!」
紅蓮の戦士が、鈍い金属音を立てて大地を踏み締める。
「アリアドス。その不合理な絆を、絡め取りなさい」
シオンが放ったのは、巨大な毒蜘蛛、アリアドス。
「はがねタイプのハッサムに、毒は効かない。……そんなことは計算済み。アリアドス、『ねばねばネット』、そして『いとをはく』!」
試合開始の合図とともに、アリアドスの口から無数の白い糸が、弾丸のような速度で射出された。ハッサムは鋭い回避を見せるが、シオンの狙いはハッサム本体ではなかった。
放たれた糸はスタジアムの芝生、外壁、そして空中に幾重にも張り巡らされ、瞬く間にスタジアム全体を巨大な「クモの巣の檻」へと変えてしまったのだ。
「ハッサム、上だ! 『つばめがえし』!」
カグヤの指示を受け、ハッサムが飛翔する。しかし、その瞬間。空中を舞う目に見えないほど細い糸がハッサムの翅(はね)に絡みつき、その機動力を著しく奪った。
「……言ったはず。動けなければ、その鋼もただの鉄屑よ。アリアドス、さらに『こわいかお』」
アリアドスの腹部の模様が不気味に歪み、恐怖の波動がハッサムを襲う。糸による物理的な拘束、そして心理的な萎縮。ハッサムの動きは目に見えて鈍くなり、自慢の高速移動すら、粘着質の糸のクッションに吸い込まれてしまう。
「苦しい? 悔しい? ……無駄よ。家族だの絆だの、そんな重荷を背負っているから、傷つくのが怖くて踏み込めない。その優しさが、君たちの限界」
シオンの冷徹な言葉が、沈黙する観客席に響き渡る。ハッサムは糸に足を取られ、膝をついた。その甲殻にアリアドスが這い寄り、鋭い顎を突き立てようとする。
絶体絶命の光景。ナオが客席で「兄貴! ハッサム!」と悲鳴を上げる。
だが、その時だった。
「ウパッ、ウパパー!!」
フィールドの端で、カグヤの足元にいたウパーが、精一杯の声を上げて叫んだ。震える足で立ち上がり、兄貴分であるハッサムへ声援を送っている。
「……ハッサム。聞こえるか?」
カグヤの瞳が、ふっと深い静寂を湛えた。
「ウパーが呼んでる。……それに、お前には見えてるはずだ。俺たちと一緒にマホロバへ来られなかった、アイツらの姿が」
カグヤの背後に、巨大な幻影が立ち上がる。
暗闇の中でも決して折れない、ブラッキーの強靭な精神。
どんな厚い壁をも一撃で穿つ、スピアーの貫通力。
一瞬の隙も逃さず、獲物を断ち切るジュカインの鋭さ。
そして、空からすべてを見下ろし、勇気を与えるカイリューの翼。
「俺たちは二人じゃない。カロスにいるみんなの戦い方は、全部お前の中に刻まれてる。……思い出せ。ブラッキーなら、この窮地をどう凌ぐ? スピアーなら、この糸をどう貫く?」
カグヤの言葉が、波導となってハッサムの核へと流れ込む。
ハッサムの瞳に、紅蓮の炎が再燃した。糸に縛られたまま、彼は静かに、だが力強く『つるぎのまい』を開始した。
「無駄よ、動けば動くほど糸は――」
「いや、動く必要なんてない。ハッサム、一点集中。ブラッキーの『しっぺがえし』のように力を溜め、スピアーの『とどめばり』のように一点を貫け!」
ハッサムは回転を止めない。それどころか、わざと自分の身体に糸を巻き付け、その張力を限界まで引き絞った。そして、全エネルギーを右の鋏、その最先端の一点へと収束させる。
カグヤの脳内で、カロスにいる仲間たちのイメージが完璧に重なった。
「――ぶち抜け、『シザークロス』!!」
閃光。
ハッサムの鋏が放ったのは、単なる技ではなかった。溜め込まれた張力と、全精霊の意志を乗せた「断罪」の一撃。
スタジアムを覆っていた巨大なクモの巣が、その衝撃波だけで一瞬にしてズタズタに引き裂かれた。物理的な檻を、絆という名の熱量が上回った瞬間だった。
「なっ……嘘でしょ!?」
シオンが初めて声を荒らげた。
糸の檻から解き放たれた紅い閃光。ハッサムはアリアドスの懐へ、まさに「スピアー」のごとき直線的な速度で踏み込み、その巨躯をスタジアムの彼方へと吹き飛ばした。
「……アリアドス、戦闘不能! 勝者、カグヤ選手!」
審判の宣告が下った。一瞬の沈黙の後、スタジアムは昨日を上回る割れんばかりの歓声に包まれた。完封者の異名を持つシオンを、逆に「完封」し返したのだ。
「ハッサム! よくやった!」
カグヤは、先ほどまでの鬼神のようなオーラを霧散させ、満面の笑みでハッサムに抱きついた。ハッサムもまた、満足げにカチカチと鋏を鳴らし、主人の愛に応える。
「ウパァー!」
駆け寄ってきたウパーを、カグヤはひょいと抱き上げた。
「ウパー、お前の応援のおかげだ。ハッサムも、カロスのみんなも、最高の家族だよな」
対戦位置で膝をつくシオンの元へ、カグヤはゆっくりと歩み寄った。彼女は震える手でアリアドスをボールに戻し、俯いたまま掠れた声を漏らす。
「……理解できない。不合理よ。なぜ、守るべきものがある方が、あんなに鋭く……強くなれるの……」
「不合理かもしれないけどさ。俺は、この絆があるからこそ、一歩も引かずに戦えるんだ」
カグヤはウパーの頬をツンツンしながら、穏やかに笑った。
「シオンも、いつか見つかるといいな。自分を『最強』にしてくれる、家族みたいな存在がさ」
カグヤはそのまま、混乱と興奮が冷めやらぬスタジアムを後にした。
勝利の後のミックスオレ。それが今のカグヤにとって、何よりも大切な「報酬」だった。
だが、退場ゲートの影から、その戦いを見つめる新たな瞳があった。
アコマ選抜杯、ベスト4。
カグヤの進撃は、ついにこの街を牛耳る「本当の闇」の関心を引くこととなる。
腰のベルトで揺れる二つのボールと、腕の中の小さな命。
カグヤは今日も、のんびりと、しかし確実に、父の背中へと続く道を歩み続けていた。