ポケットモンスター 遥かなる高みへ   作:色即是空

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星明かりの灯火、檻の外の足跡

 熱狂が未だ冷めやらない準決勝の夜。

 スタジアムの喧騒から離れたカグヤの控室は、いつも通りの静けさを取り戻していた。

 カグヤは長椅子の端に腰掛け、小さなバケツに汲んだ水で、泥まみれになったウパーの体を優しく拭っている。タオルが触れるたび、ウパーはまだ少し緊張が残っているのか、「うぱ……」と小さく鳴いてカグヤの手のひらにすり寄った。

「悪かったな、怖い思いをさせて。よく頑張ってくれた」

 ぶっきらぼうな労いの言葉。だが、ウパーの背を撫でる手の動きはどこまでも穏やかだった。

 その時、コンコン、と静かにドアがノックされた。

「入るよ」

 返事を待たずに開いた扉から現れたのは、レオンだった。

 昼間の華やかなレーシングスーツではなく、シックな私服に着替えている。その表情からはあの傲慢な笑みは消え去り、どこか憑き物が落ちたような、清々しい勝負師の顔をしていた。

 カグヤは手を止めず、視線だけを彼に向けた。

「レオンか。部屋、間違えてないか」

「まさか。君に、どうしても伝えておきたいことがあってね」

 レオンは部屋の真ん中まで歩み進めると、カグヤの頭の上、今はカグヤの膝の上でのんびりしているウパーをじっと見つめた。そして、小さく息を吐いて微笑む。

「見事だったよ、カグヤ選手。僕の方程式は、君たちの過ごした『時間』の前に完敗だ。……完膚なきまでにね」

「……」

「マホロバのシステムがすべてだと思っていた。でも、君のルカリオの神速も、ハッサムの見切りも、そしてそのウパーの『てんねん』な強さも、データという檻の、遥か外側にあるものだった」

 レオンはそう言うと、懐から1冊の分厚い電子端末を取り出し、長机の上にカツンと置いた。

「それが、ここへ来た本題かい」

 カグヤはウパーを優しく抱き上げ、いつものように自分の頭の上へと乗せた。ウパーはレオンを不思議そうに見つめている。

「そうさ。決勝の相手――ディランのデータだ」

 レオンの瞳に、プロとしての真剣な光が戻る。

「あいつはマホロバジュニアユースの絶対的な影であり、僕が一度も勝てなかった男だ。君のデータもすでに徹底的に解析されているだろう。ここには、あいつのパーティの隠された努力値調整、技のシナジー、そして唯一の『計算のバグ』をすべてまとめてある」

 レオンは端末をカグヤの方へと押し出した。

「僕のプライドは君に折られた。なら、せめて僕のデータが、君の『理』と融合して世界の頂点を穿つところが見たいんだ」

 エリートとしての、彼なりの最大限の敬意と、勝利への執念。

 

 しかし、カグヤは机の上の端末を一瞥しただけで、触れようとはしなかった。ただ、ふっと小さく笑う。

「気持ちはありがたいよ、レオン。だけど……それは預かれない」

「なぜだい?」

 レオンが眉をひそめる。

「ディランは君の想像を超えるバケモノだ。データを拒むのは、それこそ単なる『甘え』じゃないのか」

「甘え、かもな」

 カグヤは頭の上のウパーの頭をぽん、と叩いた。ウパーが「うぱー」と気楽な声を上げる。

「だけどな、こいつらは、お前がくれたその綺麗なデータを読んで戦う俺の顔を見たら、きっと退屈そうな顔をするんだよ」

 カグヤは真っ直ぐにレオンを見据えた。

「俺たちは、目の前に現れたバケモノの理不尽と、その場で泥だらけになって殴り合うことしかできない。カロスでも、実家の庭でも、ずっとそうやって生きてきた」

 相手がどれほど完璧な牙を隠していようが、出会い頭のその瞬間、五感のすべてを「オン」にして、その檻ごとブチ抜く。それこそが、カグヤと「不揃いな家族」の戦い方だった。

「せっかくのデータを無駄にして悪いが……俺は明日も、こいつらの野生を信じて、ぶっつけ本番で戦うよ」

 カグヤの言葉には、拒絶のトゲはなかった。ただ、決して曲がらない一本の芯が通っていた。

 

 レオンはしばらくの間、カグヤの瞳の奥にある静かな波導を見つめていたが、やがて「はは……」と肩を揺らして笑った。

「やっぱり君は、徹底的に僕の計算が通じない『異端児』だね」

 レオンは長机から端末を回収し、ポケットへと仕舞い込んだ。

「お節介が過ぎたようだ。でも、少しだけ安心したよ。君がデータに頼るような男なら、僕の負けた価値がなくなってしまうからね」

 レオンはゲートに向かって歩き出し、ドアノブに手をかけたところで、振り返らずに言い残した。

「明日、特等席で見せてもらうよ。君たちの『庭の理』が、マホロバの絶対的な影をどう踏み潰すのかをね」

 パタン、と静かにドアが閉まる。

 

「……さて、ウパー」

 カグヤは再び静寂に戻った部屋で、頭の上の相棒に声をかけた。

「明日が最後だ。いつも通り、怖くなったら俺の後ろに隠れていいからな」

「うぱー!」

 ウパーは今度は怯えることなく、元気よく尻尾を振って応えた。

 窓の外には、マホロバの冷たいネオンの街並みが広がっている。だが、この小さな部屋の灯りだけは、カグヤの実家の庭と同じ、温かい星明かりのように静かに燃え続けていた。

 

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