ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
各フィールドでの凄まじい熱を帯びた特訓が、ちょうど一区切りついた瞬間のことだった。
中央メインロビーの重厚なセキュリティゲートが、重低音を響かせて開放される。その瞬間、張り詰めていたフィールドの空気が、まるで見えない巨大な質量に押し潰されるかのように、一瞬で、完全に「支配」された。
「よお、カグヤ! みんなも、めちゃくちゃ熱い特訓をやってるみたいだな!」
その声一つで、広大な屋内トレーニングエリアの全空間が震えた。
地平線まで突き抜けるような太陽の快活さと、一線を退いてなお隠しきれないマスターズエイトの頂点――『世界王者』の絶対的な覇気を纏い、赤い帽子を深く被った男、サトシが不敵な笑みを浮かべて歩み出てくる。その一歩一歩が放つ圧倒的な存在感に、フィールドの自動測定器の数値が、ただ彼が歩くだけで異常なプレッシャーを感知してエラー音を鳴らし始めていた。
「――お父さん、もう。急にそんな大声をあげたら、みんなびっくりしちゃうじゃない」
そのサトシの猛烈な覇気を、まるで春の柔らかな木漏れ日のように一瞬で和らげ、優しく包み込んだのは、隣を歩く女性――セレナだった。
洗練された大人の気品と、かつてカロスクイーンとして一世を風靡し、今もなお世界中の人々を魅了し続ける圧倒的な美しさと華やかさ。彼女がステージに佇むだけで、殺気立っていた怪物たちの空気が一変し、まるで最高峰のショーの舞台へと塗り替えられていくかのようだった。
「と、父さん……母さん……!? どうして、ここに……!?」
普段はどんな理不尽なシステムや強敵を前にしても、冷徹なほど冷静に丁寧な物腰を崩さないカグヤが、この時ばかりは完全に目を見張って驚愕の声をあげた。
「カグヤが世界大会に出るって聞いてさ! バトルスクールの講師として、我が子であり教え子でもあるカグヤのチームに、今俺が教えられる最高の『特別講義』を届けにきたんだ!」
サトシが拳を握り、現役時代と何ら変わらない少年のように目を輝かせて白い歯を見せる。
その横で、セレナは愛おしそうに目を細めると、カグヤの元へとゆっくりと歩み寄り、その少し逞しくなった頬をそっと両手で包み込んだ。
「ディランとのマホロバ決勝戦、アサメの庭でお父さんと手を握りしめながら、ハラハラして見ていたわよ。本当に立派だったわ、カグヤ。……ふふ、やっぱり普段の柔らかい物腰や、周りの仲間たちへの細やかな気配りは、私にそっくりね」
「いやいや! バトルの時のあの『何が何でもねじ伏せる』って牙を剥くギラギラした目は、完全に俺の遺伝だって! なあ、カグヤ?」
腕を組んでガハハと笑いながら、世界王者の顔から一人の父親の顔になって張り合うサトシ。
そんな二人の姿を見て、カグヤは少し気恥ずかしそうに頬を染めながらも、セレナ譲りの穏やかで美しい笑顔を浮かべた。
その、歴史に名を残す伝説の夫婦が目の前で親子の会話をしているという、あまりにも奇跡的な光景の背後では――、
「で、ででで……伝説の、バトルマスターと、カロスクイーンが……生身で目の前に……ッ!?」
ナオが世界の崩壊でも目撃したかのように完全に腰を抜かし、白目を剥いてガタガタと硬直していた。
「……信じられないわね。あの二人の精神的プレッシャーの底が全く見えないわ」
普段は冷徹に数式を弾き出すシオンも指先を微かに震わせ、その瞳に強烈な驚愕と畏敬の色を隠せずにいた。ただそこに立っているだけで、世界の頂点という名の「理不尽な壁」が具現化したかのような二人の覇気に、息を呑むことしかできない。
だが、その微笑ましい親子の再会と、見守る者たちの戦慄が交錯する空気は、サトシの肩から『彼』が静かに飛び降りた瞬間、文字通り一変した。
トプッ、と軽い音を立ててフィールドの土を踏みしめたピカチュウ。
その瞬間、マホロバで戦ってきたポケモンたちが、本能的な寒気を覚えて一歩後退した。電気袋からバチバチと漏れ出る黄金の火花。サトシの引退とともに表舞台から退いたとはいえ、その身に宿る『世界最強』の質量は、1ミリも錆びついてなどいなかった。
「ピカ、ピカチュ……」
ピカチュウは不敵に口元を歪めると、カロス組の面々――ゲッコウガ、カイリュー、ジュカイン、スピアー、そしてブラッキーを、極めて好戦的な目で見据えた。
(よお。アサメの庭じゃ足りなかったみたいだな? 世界大会に行く前に、もう一回死ぬ気で鍛えてやるよ)
その瞳が、明確にそう告げていた。
「コ、コウ……」
「ガ、ガルゥァ……」
その瞬間、カロス組の全個体が、一斉に魂の底からゲンナリとした顔に変わった。
ゲッコウガは思わず額を押さえて天を仰ぎ、カイリューの巨体は目に見えて縮こまり、ジュカインは口に咥えた枝を落としそうになり、スピアーの羽音が不吉な振動を見せる。そして先ほどシオンのフィールドで鉄壁の要塞を見せていたあのブラッキーまでもが、自慢の長い耳をペタンと後ろに寝かせ、一瞬でハイライトの消えた目で地面を見つめ始めていた。
(ウソだろ……あの『世界一の暴力』による地獄が、マホロバにまで来やがった……)
かつてアサメの庭で毎日ボロ雑巾のように のされ続けた悪夢がフラッシュバックし、怪物たちの威厳はどこへやら、完全に顔を引きつらせていた。
それを見て、古参エースのハッサムとルカリオは、文字通りポカンと呆気に取られていた。
「ハサ……?」
「ルカ?」
ハッサムは金属の鋏を少しだけ開いたまま、隣のカイリューがガタガタと震えているのを見て首を傾げる。ルカリオもまた、ゲッコウガが天を仰いで絶望している様子に、深い疑問符を浮かべていた。
(え、何……どうしたんだよお前ら。カロスで一緒に前線を張っていた頃のあのアグレッシブさはどこへ行ったんだ?)
ハッサムとルカリオは、マホロバの地でカグヤの絶対的な二大巨頭として修羅場を潜り抜け、頂点まで上り詰めたという絶対的な自負がある。カロス組の仲間たちが放つ常軌を逸した「成長」には焦りを感じていたが、それでも、目の前の小さな電気ネズミ一体に対して、ここまで魂からゲンナリとする意味が分からない。
(おいお前ら、サトシのピカチュウが凄まじいのは、カロスにいた頃から身に染みて知っているだろ……? それともアサメの庭では、俺たちの知らないとんでもない地獄があったってのか……?)
ハッサムが微かに鋏を鳴らして疑問を投げかけるが、カイリューたちは「お前らは何も知らないんだ……アイツが放つ暴力の本質を……」とでも言いたげに、無言で顔を引きつらせ、首を激しく横に振るばかりだった。
「ウパパッ!」
ウパーだけが、その張り詰めた空気の中で「あ、ピカチュウおじさんだ!」とばかりに嬉しそうに駆け寄り、ピカチュウも「おう」と優しくその頭を撫でる。その横で、ナオのナエトルはピカチュウの放つ神話級の威圧感を敏感に察知し、ついに完全に甲羅の中へと引きこもってしまった。
「ふふ、ピカチュウもやる気満々みたいだね」
カグヤはカロス組の絶望とハッサムたちの困惑を察しつつも、どこか楽しげに、そして丁寧な口調のままサトシに向き直った。
「父さん。俺たちの牙が世界に届くかどうか……どうか確かめてくれ」
「おう! 手加減なしで行くからな、カグヤ!」
「お父さん、ほどほどにね? カグヤ、特訓が終わったら私の特製ポカロンと、みんなのための美味しい差し入れがあるから、頑張ってね」
セレナの心強いエールが、重苦しくなりかけたフィールドに温かな光を灯す。
世界最強の相棒が再び牙を剥く。
マホロバの狼たちが真の世界最強へと脱皮するための、本当の「地獄の特別授業」が、今ここに幕を開けようとしていた。
【補足】
今作のピカチュウ:
サトシの相棒となった初代から数えて3代目。つまり孫ピカチュウ。
性格は初代と比べて大胆不敵で好戦的。
戦闘力は初代ピカチュウをはるかに凌ぐ。
性別はオス。