ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
あの凄まじい「特別授業」から数時間後。マホロバのメインロビーには、昼間の地獄が嘘だったかのように、甘く香ばしい、幸せな香りが満ち溢れていた。
「さあ、みんな! 焼き上がったわよ。特製のポカロンと、特訓を頑張ったみんなのための美味しい差し入れ!」
エプロン姿のセレナが、山盛りのポカロンが乗った大皿をテーブルに置くと、昼間の大乱闘で泥まみれになり、ボロボロに力尽きていたポケモンたちの鼻先がピクリと動いた。
「コウ……ッ!」
「ガルゥァ……!」
その香りを嗅いだ瞬間、カロス組のゲッコウガやカイリューたちの目が輝いた。アサメの庭で地獄の特訓のあとにいつも食べていた、あの涙が出るほど美味いママの味だ。ボロボロの身体を引きずるようにして、一斉に皿の周りへと群がっていく。
「ハサ……?」
「ルカ……」
一方で、強制電気ショックとピカチュウの理不尽なまでの圧倒的パワーに、完全に自信を喪失して隅っこで体育座りをしていたハッサムとルカリオは、おそるおそる差し出された綺麗なポカロンを手に取った。
金属の鋏で小さく千切り、口へと運ぶ。その瞬間、サクッとした食感と共に、濃厚な木の実の甘みと、疲れ切った身体の隅々にまで染み渡るような優しいエネルギーが爆発した。
「ハサァァァ……ッ!!(美味すぎるやろこれ……!!)」
「ルカァ……!」
二体はあまりの美味さに涙目を浮かべ、昼間の絶望が一瞬で吹き飛ぶような衝撃に、言葉もなくポカロンを口に放り込み始めた。ハッサムたちの隣では、シオンのシャワーズや、すっかり甲羅から顔を出したナオのナエトルも、セレナから直接ポカロンを貰って嬉しそうに声をあげている。ちなみに、非常口のシャッターに激突して気絶していたエアームドも、匂いに釣られて天井からそろりと降りてきて、大人しくポカロンを啄(ついば)んでいた。
「ふふ、みんな気に入ってくれたみたいで良かった。カグヤ、あなたの分もあるわよ」
セレナが優しく微笑みながら、カグヤに温かいスープとサンドイッチを差し出す。
「ありがとう、母さん。本当に美味しいよ」
カグヤはセレナ譲りの丁寧な手つきでそれを受け取り、ふう、と息を吹きかけながら口に運んだ。その様子を、少し離れた席から見ていたナオとシオンが、しみじみと呟く。
「……なんか、兄貴がセレナさんと並んでると、本当にお上品な親子だよねぇ。お父さんがあのサトシさんだとは、未だに信じられないよ」
「同感ね。遺伝子のスイッチの入り方が、完全に母親側で固定されているわ。バトルじゃなかったら、あの破天荒な元王者の要素がどこに隠されているのか、データ的には謎のままだわね」
そんな二人のコソコソ話をよそに、ロビーの隅ではサトシがピカチュウと一緒に、ウパーの丸い頭を撫でながら笑い声をあげていた。
夜も更け、ロビーの灯りが少し落とされた頃。
カグヤは一人、ステージの裏手にある星空が見えるテラスへと出ていた。涼しい夜風が、昼間の特訓で火照った身体に心地よい。
「よお、カグヤ。やっぱりここにいたか」
後ろから声をかけてきたのは、帽子を脱いだサトシだった。その肩には、昼間の鬼教官とはまるで違う、穏やかな顔をしたピカチュウがちょこんと乗っている。
「父さん。……今日の特訓、本当にありがとう。俺たちの足りないところが、痛いほど分かったよ」
カグヤが振り返り、丁寧に頭を下げる。
「気にするな、俺は講師だからな。でもさ、お前たちのチーム、本当にいい牙を持ってるよ。ハッサムもルカリオも、カロス組の連中も、みんなお前を世界へ連れていくために本気で爪を研いできたんだなって、バトルを通してビシビシ伝わってきた」
サトシは手すりに寄りかかり、夜空に輝く星を見上げながら白い歯を見せた。
「カグヤ。世界大会はさ、マホロバのリーグよりもっと広くて、もっと理不尽で、とんでもない奴らがゴロゴロいる。だけどさ――」
サトシはそこで言葉を区切ると、真っ直ぐにカグヤの目を射抜いた。その瞳の奥にある、何者にも屈しないギラギラとした熱い輝き。それを見た瞬間、カグヤの胸の奥が、確かにドクンと跳ね上がった。
「お前には、母さん譲りの優しさと周りを支える強さがある。そして、俺が戦ってきたすべてのバトルを見て育った、絶対に諦めない血が流れてる。お前なら、世界のどんな壁だって絶対にぶち破れる!」
「父さん……」
カグヤは小さく息を呑み、それから、自分の胸のあたりをそっと押さえた。
普段は丁寧で穏やかなカグヤの、その瞳の奥。サトシが言った通り、そこには、どんな強敵を前にしても「絶対にねじ伏せる」という、世界王者の遺伝子が、確かに静かな炎となって激しく燃え盛っていた。
「必ず、世界の頂点を掴み取ってくるよ」
カグヤの丁寧な、けれどどこまでも揺るぎない覚悟の言葉に、サトシは「おう!」と力強く応え、その拳をカグヤの前に突き出した。
トン、と二人の拳が夜空の下で重なる。
伝説の背中を追いかける少年は、今、本物の狼として世界へと吼える準備を整えつつあった。