ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
サトシとピカチュウによる理不尽なまでの特別授業が始まって3日目。
マホロバの中央コントロールルームのメインモニターに、突如として厳かな金色の紋章が浮かび上がった。
「来たわね……」
シオンがキーボードを叩き、そのデータを展開する。
画面に表示されたのは、世界大会『ワールド・マスターズ・トーナメント』運営からの公式なエントリー案内状だった。世界の頂点を決める戦場へのカウントダウンが、ついに正式に始まったのだ。
「うわぁ、本物だ……。これを見ると、本当に世界大会に行くんだって実感が湧いてくるね」
ナオがゴクリと息を呑み、画面を見つめる。
「うん、そうだね。僕たちの戦いが、いよいよ始まるんだ」
カグヤが瞳の奥に静かな焔を宿したその時だった。コンソールの警告音が鳴り、ロビーの自動ドアが開く音が静かに響いた。
「随分と盛り上がっているようだが――お前たちの『現在地』、俺にも確かめさせてもらおうか」
落ち着いた、けれど確かな威圧感を孕んだ足音と共に部屋に入ってきたのは、鋭い眼光を放つ黒いジャケットの青年。かつてマホロバ本戦の決勝で、カグヤの前に最大の壁として立ちはだかった宿敵、ディランだった。
「ディラン……!? どうしてここに」
ナオが驚いて声をあげる。ディランは静かに腕を組み、カグヤを真っ直ぐに見据えた。
「どうして、か。理由はシンプルだ。俺の元にもその金色の案内状が届いた。世界大会の舞台へ行く前に、決勝で俺を破った男がどれほど牙を研ぎ澄ましているか、確かめに来ただけさ。……おいカグヤ、マホロバの王座に就いたからといって、まさか腑抜けたツラはしていないだろうな?」
冷静沈着ながらも、内に秘めた闘志を覗かせるディラン。
しかし、カグヤは慌てる風でもなく、いつも通り等身大の柔らかな笑みを浮かべて歩み寄った。
「わざわざ来てくれたんだね、ディラン。ちょうど良かった、実はお客さんが来ていて、今みんなでダイニングにいるんだ。案内するよ」
「……相変わらず掴み所のない奴だな。客が誰であれ、俺はお前の今の実力を――」
ディランは静かに息を吐きながら、カグヤの後ろを追ってメインダイニングへと足を踏み入れた。
だが、その部屋の扉をくぐった瞬間、ディランの言葉が不自然に途切れた。
「やっぱりセレナの特製カレーは最高だな! これなら何杯でもいけるぞ!」
「ピカピカァッ!」
ダイニングのテーブルで、短パンにTシャツ姿というあまりにもラフな格好で、大盛りのカレーをバクバクと口に放り込んでいる男とピカチュウ。すでに第一線を退き、表舞台から姿を消したはずの、生ける伝説。
元・世界王者、サトシ。
「……は?」
ディランの脳内が、一瞬で機能を停止した。
カグヤの実力を確かめるだの、世界大会の偵察だの、そんな思考のすべてが吹き飛ぶ。ディランは口を半開きにしたまま、文字通り石のようにその場で完全にフリーズしてしまった。
「あら、いらっしゃい。ちょうど良かったわ、今カレーが化けたところなの。あなたも食べていくでしょう?」
厨房から、いつもの極上の笑顔でお玉を持ったセレナが現れる。
「……っ、……あ、何故……何故サトシがここにいるんだ……? とっくに引退したはずでは……」
ディランの喉から、ようやく絞り出すような掠れた声が出た。しかし、彼の衝撃はそれだけでは終わらない。
のんきにカレーを頬張る元・世界王者の横で、エプロン姿で微笑むその女性。かつてカロス地方で絶大な人気を誇ったカロスクイーンであり、現在はトップコーディネーターとして知られるセレナその人だった。
「……え、待て。そこにいるのは……カロスクイーンの、セレナ……か……?」
ディランの目が限界まで見開かれ、顔面が急速に蒼白になっていく。伝説の男と、その隣に立つ伝説の女性。混乱の極致にあるライバルの姿を見て、カグヤはいつも通り親しみやすい調子で、サトシの方を振り返りながら声をかけた。
「あ、父さん、おかわりまだあるからね」
「おう! サンキュー、カグヤ!」
「……は? と、父さん……? 今、父さんと言ったか……?」
ディランの喉から、魂が抜けたような声が出る。カグヤの顔と、カレーを口いっぱいに頬張る伝説の男の顔、その傍らで微笑むセレナの顔を、狂ったように何度も往復させた。
「まさか……お前、あのサトシとセレナの息子……なのか……!?」
「ん? カグヤ、そいつがマホロバで戦ったライバルか!」
サトシはディランのフリーズや混乱などお構いなしに、カレーの皿を持ったままドカドカと近づいてくると、空いている左手でディランの背中をガシガシと力強く叩いた。
「いい目をしてるな! 世界大会、カグヤだけじゃなくてお前みたいな奴も一緒なら、絶対に面白くなるな! 頑張れよ!」
「あ……、は、……はいっっっ!!!」
ディランは背中を叩かれた衝撃で魂が半分口から飛び出しそうになりながら、直立不動の姿勢で、これまでに聞いたこともないような裏返った声で絶叫した。
「あはは、父さん、ディランが完全に困ってるよ。ディラン、ごめんね。俺の現在の『環境』、確かにとんでもないことになってるだろ?」
カグヤが後ろから苦笑いしながらフォローを入れる。
「お、お前……、環境というレベルじゃないだろう……。何故元・世界王者とカロスクイーンが両親なんだ、意味がわからない……」
ディランは青い顔のまま、いつもの冷静さを完全に失い、ただただ震える指先でサトシを指差すのが精一杯だった。
「ふふ、私のデータ脳を破壊した次は、ディラン氏の戦闘本能を完全に麻痺させたわね。サトシさんとセレナさん、お二人の存在そのものが、やっぱり最大の攪乱戦術だわ」
シオンが冷静に、けれど少し楽しそうにその光景を端末に記録する。
宿戦・ディランの不意の強襲。しかし、歴史に名を刻んだ元・世界王者とカロスクイーンの壁、そして衝撃の事実に挟まれ、その宣戦布告は完全に不発へと終わるのだった。カグヤは真っ白になっているライバルの肩を優しく叩きながら、世界大会への道を、改めて強く見据えていた。