ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
シュートスタジアムの巨大なセンターフィールドが、地鳴りのような大歓声に揺れていた。
世界最高峰のトレーナーたちが集う『ワールド・チャンピオンズ・トーナメント』予選リーグ第1試合。緑の芝生を挟んで対峙するカグヤとマリアンヌの周囲を、何十台ものロトムドローンが飛び交い、現地の熱気を世界中へと生中継している。
マリアンヌは優雅に華やかな振袖の袖を翻し、満員の観客からの熱い視線と歓声を一身に浴びながら、不敵に、そして艶やかに微笑んでいた。その独特の瞳が、対角線上に立つカグヤをじっと捉える。
「カグヤはん。ここで一つ、うちと賭けをしませんやろか?」
ピンマイクが拾った彼女のはんなりとした声が、スタジアムの特大スピーカーを通じて大音響で響き渡った。その瞬間、何万人もの観客が「何事だ」と一斉に静まり返る。
カグヤは腰のモンスターボールに手をかけたまま、予想外の言葉に等身大の困り顔を浮かべた。
「賭け、ですか……? 世界大会の、この大事な初戦でですか?」
「ええ、この大舞台やからこそですわ。もしこのバトル、うちが勝ったら――今度こそ諦めて、うちと結婚してクノエのジムを一緒に継いでいただきますえ」
世界中が注目する公式戦の場を真っ向から私物化した、あまりにも強引で、けれど一分の曇りもない本気のプロポーズ。
一瞬の静寂の後、実況席のアナウンサーが「な、なんと、カロス代表のマリアンヌ選手、ここでまさかの求婚です!」と叫び、スタジアム全体がひっくり返るような冷やかしと怒涛の大歓声に包まれた。
ひな壇の選手席で見守っていたナオは、「本当に世界中が見てる前で言っちゃったよ、あの人!」と頭を抱えて座席に沈み込み、隣のシオンは一切表情を変えないまま、「マリアンヌ選手による、試合前の精神的揺さぶり及び主導権掌握戦術の可能性」と無機質に端末へメモを打ち込んでいる。
「……マリアンヌさん、本当に勘弁してください。お母さんのマーシュさんまで巻き込んで僕の両親に打診した話だって、まだ心の整理がついてないんですから……!」
カグヤは耳まで真っ赤にしながらも、首元に巻いた青いスカーフをきゅっと握りしめ、毅然と顔を上げた。確かに綺麗な人だし、アプローチ自体は満更でもないのだが、さすがにペースを握られっぱなしで負けるわけにはいかない。
「僕はマホロバの代表として、全力で勝ちにいきます。僕たちのバトルを、世界に見せるんだ。……いこう、みんな!」
カグヤが叫び、最初に選んだ手持ちは――ハッサム、ルカリオ、ゲッコウガ、スピアー、ジュカイン、カメックスの6体。相性不利を完全に承知の上で、抜群のキレを誇るカロスの主力と、そして配置転換で再び前線に呼び戻した、マホロバで共に歩んだカメックスを並べた。
「ふふ、そうこなくては面白うないわ。おいで、うちの可愛い妖精たち!」
マリアンヌがパチンと扇子を鳴らして放った最初のポケモンは、クチート。そしてカグヤが先陣を切らせたのは、この絶望的なタイプ相性の中で唯一の希望であり、明確な弱点を突ける毒タイプのエース候補、スピアーだった。
「スピアー、『どくづき』! 先手必勝だ!」
カグヤの鋭い指示と共に、スピアーが残像を残すほどの高速飛行で突撃する。しかし、マリアンヌは焦る素振りすら見せず、上品に微笑んだまま、クチートに小さくウインクをさせた。
「クチート、カグヤはんのスピアーに『メロメロ』や」
クチートの瞳から放たれた、無数の可憐なハートマークがフィールドを舞い、スピアーの複眼を直撃する。
次の瞬間、必殺の針を突き出そうとしていたスピアーの動きがピタリと止まった。スピアーの鋭い複眼が完全にピンクのハートマークに染まり、空中をフラフラと泳ぐように、完全に骨抜きにされてしまったのだ。
「なっ……動きが止まった!?」
カグヤが息を呑む。
「あかんえ、カグヤはん。うちのクチートはとっても可愛い女の子。そしてカグヤはんの手持ちは、みんな男気溢れる男の子(オス)ばかりやろ? うちの妖精たちの可愛いアプローチ、そんなに簡単に耐えられますやろか?」
マリアンヌの言葉通り、カグヤが信頼を寄せる手持ちの性別は、全員がオスだった。
メロメロ状態に陥ったスピアーは、愛らしいクチートへの攻撃を本能的に躊躇し、完全に無防備な状態に陥る。その隙を見逃さず、マリアンヌのクチートが獰猛な顎を振り回して『じゃれつく』の猛攻を叩き込んできた。フェアリーの残酷なまでの連撃を浴び、スピアーはまともな反撃もできないまま、大きなダメージを負って交代を余儀なくされてしまう。
「スピアー、戻って! ……頼む、ルカリオ!」
カグヤは即座に、フェアリーの技を半減できる鋼タイプのルカリオを投入し、相性補正のゴリ押しで主導権を取り戻そうとした。しかし、マリアンヌの戦術は徹底していた。
クチートが滑らかに引っ込み、次に現れたのは、美しくリボンをなびかせるニンフィアだった。
「ルカリオ、『コメットパンチ』で一気に決めるよ!」
ルカリオが鋼のエネルギーを拳に宿し、神速の踏み込みを見せる。だが、ニンフィアはその拳をかいくぐるようにして、再び至近距離から濃厚な『メロメロ』のエネルギーを放射した。
どんなに普段はストイックで、特訓に明け暮れるルカリオであっても、世界最高峰のクノエジムで磨き上げられた魅惑の波動には抗えなかった。ルカリオは一瞬にして拳の光を失い、頬をぽっと赤く染めてその場に立ち尽くしてしまう。
「ルカリオまで……!」
観客席のナオが青ざめて立ち上がる。
「相性最悪な上に、全員オスなのを完全に狙い撃ちされてる……! メロメロのせいで、そもそも技を出すことすらまともにできないじゃん!」
データ分析を進めるシオンも、これまでになく険しい表情を浮かべた。
「マリアンヌのメロメロ戦術、ただの色仕掛けじゃないわね。相手の思考を狂わせ、技の発動確率を極端に下げることで、こちらの行動リソースを完全に奪っている。カグヤの持つ『等身大の優しさ』やポケモンの生真面目さが、精神的な隙となって完全に裏目に出ているわ。このままでは全滅を待つだけよ」
フィールドでは、メロメロになってフラフラしているルカリオに対し、ニンフィアの容赦のない『ハイパーボイス』の衝撃波が浴びせられ、ジワジワと、けれど確実に体力が削り取られていく。
「カグヤはん、そんなに苦しそうな顔せんと、うちに身を任せてくれたらええのに」
マリアンヌは勝ち誇るわけでもなく、ただ愛おしそうにカグヤを見つめて微笑む。
妖艶なフェアリーたちの波状攻撃と、外堀を完全に埋められた強引な求婚。その余裕に満ちたトリッキーな包囲網の前に、マホロバの王座は、初戦にしてかつてない絶望的な窮地に追い込まれていた。