ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
アコマ・コロシアムの決勝戦。その舞台は、これまでのどの試合とも異なる、不気味な静寂に支配されていた。
カグヤの対面に立つ男、ガイル。その瞳にはトレーナーとしての矜持など微塵もなく、ただ「効率的に獲物を仕留める」ことだけを目的とした、冷え切った殺意が宿っていた。
「……うぱ、うぱぁ」
ウパーがカグヤの胸元で小さく震える。空気に混じった微かな毒の香りと、観客席のあちこちから投げかけられる、この街の興行主たちのどろりとした視線を敏感に感じ取っているのだ。
「……大丈夫だよ、ウパー。すぐに終わらせて、ここを出よう」
カグヤの声は穏やかだったが、その瞳からは、アーサー戦で見せたような温かな光は消え失せていた。
「絆だの、家族だの……。この街では、そんなものは弱者の言い訳に過ぎない」
ガイルが投げたボールから、紫色の巨大な蠍、ドラピオンが姿を現す。その甲殻には不自然な改造の痕跡が見え、過剰な興奮状態で口角から毒液を滴らせていた。
「勝利こそがすべて。お前のハッサムも、その腕の中の無能な生物(ウパー)も、等しく泥にまみれさせてやろう」
試合開始の合図と共に、ドラピオンが動いた。だが、それは単なる突撃ではなかった。
「ドラピオン、『どくびし』。そしてフィールドギミック、作動だ」
ガイルの合図と共に、スタジアムの床から不気味な紫色の煙が噴き出した。公式戦では許されないはずの、興行主が仕掛けた「毒の罠」。はがねタイプのハッサムには効かないはずだが、その煙は視界を奪い、粘着質となってハッサムの関節に絡みつく。
「ハッサム、上空へ退避!」
カグヤの指示でハッサムが舞う。しかし、ガイルの狙いはさらに卑劣だった。
「逃がすか。ドラピオン、トレーナーエリアへ向けて『ヘドロばくだん』!」
ドラピオンが放った猛毒の弾丸は、ハッサムではなく、その後ろに立つカグヤ、およびウパーを目掛けて放たれた。
「――ッ!?」
爆発的な毒の飛沫がカグヤたちを襲う。咄嗟にハッサムがその身を盾にして降り立ち、鋼の背中で毒液をすべて受け止めた。ジュウ、と嫌な音を立ててハッサムの美しい紅の甲殻が焼ける。
「あはは! 守るものがあるから、動きが読みやすいんだよ。ハッサム、次はその足元を狙わせるぞ?」
ガイルの嘲笑が響く。観客席のナオが「兄貴、危ない!」と叫び、シオンが憤怒に拳を震わせる。
だが。
その瞬間、カグヤの周囲の空気が、物理的な「重圧」へと変質した。
「…………」
カグヤは一言も発さない。ただ、ゆっくりとハッサムの肩に手を置いた。
焼けた甲殻を労うように。そして、自分たちを傷つけた「悪意」を、決して許さないという冷徹な意志を伝えるために。
カグヤの脳裏に、カロスの庭で誰よりも鋭く、誰よりも静かに獲物を仕留めていたスピアーの残像が重なる。そして、影に潜み、一瞬で勝負を決するゲッコウガの冷徹な精度。
「……ハッサム。もう、手加減はいらない」
カグヤの瞳から、完全に「人間らしい揺らぎ」が消えた。
「『剣の舞』。……ただし、自分を殺して研ぎ澄ませ。……行け」
ハッサムの瞳が、深紅の光を帯びた。
ドラピオンが再び放った『ヘドロばくだん』の弾幕。しかし、ハッサムはそれを避けることすらしない。ハサミを僅かに振るうだけで、飛来する毒の弾をすべて「切断」し、無力化していく。
「な、何だ!? あの速さは……」
「終わりだ。……『シザークロス』。その構えを、断て」
ハッサムの姿が消えた。
ガイルの視界に残ったのは、引き裂かれた毒の煙と、スタジアムを一直線に走る紅い雷光だけだった。ドラピオンが防御姿勢を取る暇すらなかった。
カチッ、という硬質な金属音。
ハッサムのハサミは、ドラピオンのハサミの付け根――最も力が伝わる「関節」の一点を、完璧に捉えていた。
切断ではない。だが、極限まで凝縮された衝撃がドラピオンの全身を駆け抜け、その神経を一時的に麻痺させる。
「……ガ、ア……」
ドラピオンが巨体を震わせ、武器であるハサミを力なく地面に落とした。戦意を完全に喪失し、そのまま沈黙する。
スタジアムを覆っていた毒の煙が晴れていく。勝利の歓声は上がらない。観客たちは、カグヤとハッサムが放つ、あまりにも純粋で暴力的なまでの「強さ」に圧倒されていた。
「……ドラピオン、戦闘不能。勝者、カグヤ選手!」
審判の宣告が下り、場内にファンファーレが鳴り響く。ガイルは恐怖に顔を引きつらせて後退り、カグヤは彼に一瞥もくれず、ハッサムを労ってからボールに戻した。
「おめでとうございます! 優勝したカグヤ選手には、アコマ選抜杯の優勝トロフィーが贈られます!」
促されるまま、カグヤは表彰台へと上がった。黄金に輝く重厚なトロフィーを手に取るが、その表情には喜びよりも「やれやれ」といった色が強い。
カグヤは興行主たちが座る豪華な観覧席を一度だけ冷たく見据え、すぐに視線を足元のウパーに戻した。
「……この街のやり方は、俺には合わないな。行こう、ウパー」
スタジアムを後にしたカグヤは、そのまま近くの国際配送ショップへ向かった。
受付のカウンターに、鈍く光る優勝トロフィーを無造作に置く。
「これ、カロス地方のアサメタウンまで送っておいてください。宛先は……『セレナ』。俺の母さんです」
「アサメタウンのセレナ様ですね。承りました。……あの、これ、さっきの大会の優勝トロフィーですよね?」
「ええ、まあ。邪魔なんで、実家にでも飾っておいてくれって伝えてください」
店員が呆気にとられる中、カグヤは手際よく伝票を書き終えると、店を出ようとしてふと足を止めた。
店の外の影で、自分を待っている二人の気配に気づいたからだ。
「……ナオ君に、シオンか」
カグヤは少しだけ考え、受付のメモ帳を一欄借りて、サラサラと何かを書き込んだ。
「お姉さん、これ。もし僕を訪ねてくる人がいたら、渡してもらえますか?」
その後、カグヤは宿舎に戻ると、最小限の荷物をまとめて夜のゲートへと向かった。
背後に広がるアコマシティの不気味な熱狂が、次第に遠ざかっていく。
「……あーあ。また賑やかになっちゃうかな」
カグヤは困ったように笑い、腕の中のウパーの頭を優しく撫でた。
「まあ、パフェを一緒に食べる相手が増えるのは、悪いことじゃないか」
「うぱぁー!」
暗くなり始めた街道を、カグヤとウパーの影が静かに進んでいく。
一都市での騒乱を終え、カグヤの武者修行は新たな「家族の兆し」と共に、次なる物語へと繋がっていく。