ポケットモンスター 遥かなる高みへ   作:色即是空

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月下の異分子、溶けゆく哀歌

 ミナモシティの夜は、昼間よりもいっそう幻想的だった。運河の底に仕込まれた照明が水を青白く照らし、街全体が巨大な宝石のように湖上に浮かび上がっている。

 宿の窓からその景色を眺めていたカグヤは、ふと、腕の中のウパーが落ち着かなく身悶えしているのに気づいた。

「どうした、ウパー? トイレか?」

「うぱ……うぱぁ……」

 ウパーは窓の外、街の華やかな光が届かない、暗い湖の境界線をじっと見つめている。その瞳には、怯えとは違う、何かに呼びかけられているような色が宿っていた。

「……何か、聞こえるのか?」

 カグヤが呟くと同時、隣の部屋のドアが開いた。出てきたのは、昼間の疲れも見せず、険しい表情をしたシオンだった。

「カグヤ、ナオ。……異常なエネルギー波形を検知したわ。浄化塔の出力が、夜間にもかかわらず不自然に上昇している」

 

 三人は静かに宿を抜け出し、ウパーの導きに従って街の北端、手入れの行き届いた公園のさらに先にある「未整備区域」へと向かった。そこは、最新の浄化システムが届かない、この街で唯一「濁った」入り江だった。

「……ひどい匂いだわ。これが、表向きの清潔さを維持するために押し付けられた『不純物』の溜まり場ね」

 シオンが鼻をつまむ。ヘドロが浮き、ゴミが散乱する水面。

 その時だった。

「――ッ!?」

 入り江の奥から、短い、だが切り裂くようなポケモンの悲鳴が響いた。

 カグヤが駆け寄ると、そこには管理局の小型ドローン数機が、一匹のポケモンを囲んで電磁ネットを放っていた。

 ネットの中心で藻掻いていたのは、青い皮膚が泥にまみれ、美しいひれがボロボロに裂けたシャワーズだった。

「シャワーズ!? 街の野生種は全個体管理されているはずなのに……」

 ナオが絶句する。シャワーズは逃げようと水に溶け込もうとするが、水質が悪すぎて能力がうまく発揮できない。ドローンの無機質な警告音が響く。

『未登録個体を検知。廃棄対象の「不純物」と判定。処分を開始します』

「処分……? ただの野良ポケモンを、殺そうっていうのか!?」

 ナオが叫ぶ。ドローンのアームから、高電圧のスパークが放たれようとした。

 

「――ルカリオ、『はどうだん』!!」

 カグヤの鋭い指示と共に、影から飛び出したルカリオがエネルギー弾を放ち、シャワーズに迫っていたドローン数機を粉砕した。火花を散らし、黒煙を上げてヘドロの海へと沈んでいく機械。

「……ハァ、ハァ……不合理だわ」

 ドローンの残骸を見つめ、シオンが荒い息を吐く。

「生存可能な個体を、単なる登録の有無で廃棄するなんて。そんなの、管理でも何でもない。……ただの虐殺よ」

「……シオン。理屈はいらないよ」

 カグヤは静かにルカリオを下がらせると、シオンの隣に立った。

「あの子は助けを呼んでる。……それだけで十分だろ」

 カグヤの視線の先。電磁ネットから解放されたシャワーズは、しかし逃げる力もなく、悪臭を放つヘドロの上に力なく横たわっていた。泥にまみれ、美しいひれはボロボロに裂け、その瞳からは生気が失われかけている。

「…………」

 シオンは一瞬、自分の白いシャツと、汚れきった入り江を見比べた。

 効率的に考えるなら、カグヤにシャワーズを回収させ、自分は汚れない場所で治療の指示を出すのが正解だ。

 だが。

 彼女の脚は、論理よりも先に動いていた。

 パシャッ、パシャッ。

 シオンは躊躇なく、膝まで浸かるほどの深さがある、ヘドロとゴミにまみれた濁った水の中へと踏み込んだ。

「ちょ、シオンさん!?」

 ナオが驚愕の声を上げる。洁癖症に近かった彼女が、この街で最も「不純」な場所に自ら飛び込んだのだ。

 シオンはシャワーズの元へ駆け寄ると、泥混じりの水を全身に浴びながら、ボロボロの体を優しく、しかししっかりと抱き上げた。

「……冷たい。こんな、冷たくて汚い場所に、ずっと一人で……」

 シオンの腕の中で、シャワーズがビクリと体を震わせた。自分を害しようとした管理局員と同じ「人間の匂い」に、最後の力を振り絞って抵抗しようとする。

 だが、シオンは離さなかった。

「大丈夫。大丈夫よ……。もう、あなたは『不純物』なんかじゃない」

 泥がシオンの白い肌を汚し、裂けたひれから流れる血が彼女のシャツを赤く染める。シオンは構わず、自分の体温を伝えるようにシャワーズを強く抱きしめ、その泥に汚れた頭を、愛おしそうに撫でた。

 その時。

 シャワーズの抵抗が、ふっと消えた。

 管理局員の冷徹な手ではない。自分をただ「排除」しようとするシステムの手でもない。自分を救うために、自ら汚れの中に飛び込んできた、温かくて不器用な「人間の手」。

「……シャァ……」

 シャワーズは泥にまみれた顔をシオンの首筋に埋め、小さく、甘えるような鳴き声を漏らした。

 この瞬間、シャワーズにとって、自分を救い出してくれたのはカグヤではなく、この泥だらけの少女になったのだ。

 

「……カグヤ。私、この子を私の部屋で処置する。……私の持っている医療用ナノマシンなら、生存率を理論上15%引き上げられる」

 シオンが振り返る。その顔は泥と涙でぐしゃぐしゃだったが、その瞳には、カグヤと出会った時にはなかった、確かな「情熱」の炎が宿っていた。

「……了解。家長(リーダー)の命令だ。ナオ、宿まで全速力で道を切り開け!管理局が来るぞ!」

 カグヤは満足げにニカッと笑うと、ウパーを抱き直し、ルカリオと共に走り出した。

 泥だらけの少女と、ボロボロのシャワーズ。

 合理性を捨て、不合理な愛を選んだその背中に、カグヤはカロスの実家で見た、かつての母・セレナの強さを重ねていた。

 

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