ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
トレーニング施設の静まり返った一角。その場で蹲ったまま荒い息を吐くハッサムの傍らに、タケシはスッと膝をついた。プロのブリーダー兼ドクターとして数々のポケモンを診てきたその手つきで、ハッサムの全身の筋肉の状態や関節の可動域を丁寧に見極めていく。
固唾を呑んで見守るカグヤやサトシたちの前で、タケシの表情はかつてないほどに険しく、そして重く沈んでいた。
「……タケシさん、ハッサムの体は一体……どうなってるんですか?」
震える声で尋ねるカグヤに、タケシはゆっくりと顔を上げ、静かに首を横に振った。
「カグヤくん、安心してほしい。ハッサムの体は決して『衰え』なんかじゃない。……これは、極限状態の戦いを重ねた末に起きた、尋常ではない『蓄積疲労』だ。筋肉の深部にまで疲労物質が溜まり、神経の伝達系統がパンク寸前を起こしている。これまでの試合で、どれほどの負荷をその身に背負い続けてきたか……想像以上だね」
タケシの言葉を耳にしながら、ハッサムはガリガリと音を立てるように拳を握り締め、荒い息のなかで遠い記憶の底へと意識を沈めていた。
(――そうだ。俺たちは昔から、ずっとカグヤのそばで戦っていたな……)
脳裏に過ったのは、アサメタウンの実家の庭で過ごした懐かしい日々だった。
あの頃のカグヤはまだ幼く、ポケモンたちはそれぞれの気まぐれで庭に現れた。
庭の池で勝手に優雅に泳ぎ回っていたケロマツ(ゲッコウガ)。裏の草むらから飛び出してきては、毎日カグヤと泥まみれになって取っ組み合いをして遊んでいたリオル(ルカリオ)。
そして、ストライクだった頃の自分は、カグヤが庭で見つけた木の棒を構えると、わざわざ鎌の『背』の部分だけを使って、飽きもせずチャンバラに付き合ってやったものだった。
庭の特等席の木の上に縄張りを作っていて、カグヤが近づくたびに尻尾でビシッと叩こうとしていたキモリ(ジュカイン)。日向ぼっこで行き倒れていたドジなミニリュウ(カイリュー)。その辺の木の枝にぶら下がっていただけのビードル(スピアー)。果ては、どこから入り込んだのか、いつの間にかカグヤの部屋のベッドで呑気に丸くなって寝ていただけのイーブイ(ブラッキー)まで――。
誰に命じられたわけでもなく、ただ面白そうだからとふらっと集まり、いつの間にか居着いた。あの何気ない日々のすべてが、自分の原点だった。
それがいつしか皆で強くなり、集まった皆で世界を獲ろうと誓い、カグヤの傍で戦い続けてきた。
特に自分はカロスリーグが終わった後も、アラン戦のダメージが抜けきれていないままルカリオと共にマホロバに渡り、絶対的エースとして負傷を隠して休まず突っ走ってきた。そこに後悔は無い。後悔は無いが――。
「じゃあ……治療すれば、元のキレに戻るのか?」
サトシが気遣わしげに尋ねると、タケシは重い溜息を一つ吐き、真剣な眼差しでカグヤとハッサムを交互に見据えた。
「……時間をかけて十分に休ませれば、完治しないわけじゃない。元に近い動きを取り戻すことは十分に可能だ。だけど……もしこの状態で決勝の舞台に立ち、無理を重ねて戦えば……今度こそ、二度と戦えなくなる。筋肉が再起不能なレベルで破壊され、ハッサムの選手生命そのものが終わることになるだろうね」
その場に、冷水を浴びせられたような重苦しい沈黙が落ちた。「二度と戦えなくなる」――その宣告がハッサムの胸を抉る。これ以上無理をすれば、カグヤの隣で戦う未来そのものが失われてしまう。しかし、エースとしての誇りが、それを拒もうと必死に牙を剥く。
『(……バカヤロウ。一人で全部抱え込もうとするなよ)』
静寂を破るように、野太い声が響いた。
ハッサムがはっと顔を上げると、そこにはカイリューが腕を組んでどっしりと立ちふさがっていた。その隣にはルカリオ、ゲッコウガ、ジュカイン、スピアー、そしてブラッキーが、まるで壁を作るように一歩前に歩み出てきている。
『(一人で背負うなと言っただろう、ハッサム)』
ルカリオが鋭くも温かい瞳でハッサムを見据え、静かに言い放つ。
『(お前がずっと俺たちの先頭を走り、このチームを引っ張ってきたのは事実だ。だが、お前が潰れていい理由にはならねぇよ。あとは俺たちに任せろ。お前の分まで、いや、俺たち全員の魂を込めてあの決勝を駆け抜けてやるからよ)』
『ケロ……。(お前が繋いでくれた道は、ここで途絶えたりはしない)』
ゲッコウガが深く頷き、ジュカインもまた『(そうだ! ゆっくり休んで、俺たちの戦いっぷり特等席で見てろって!)』と不敵に笑ってみせた。
仲間たちの圧倒的な信頼と優しさに触れ、ハッサムの胸に熱いものがこみ上げる。張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れ、ハッサムは力なく、しかしどこか晴れやかな笑みを浮かべながら、その場にふっと体を預けた。
『(……まったく、お前らには敵わねぇな)』
絶対的エースの離脱という最大の試練を前にしながらも、絆で結ばれた仲間たちの心は、かつてないほど一つに固く結ばれようとしていた。