ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
アコマ・コロシアム。そのメインスタジアムを埋め尽くす観客の熱気は、予選の比ではなかった。本戦からはテレビ中継も入り、マホロバ地方全土にその様子が放映される。
入場ゲートの重厚な鉄の扉が左右に開くと、眩いばかりのスポットライトがカグヤの姿を照らし出した。
「……あ、ウパー見て。あそこの売店、あとで寄ろうな。ミックスオレ、あんなに並んでるってことは絶対美味しいぞ」
『ウパッ、ウパー!』
カグヤはいつも通り、胸の高さでウパーを抱きかかえたまま、のんびりとフィールドへ歩みを進める。緊張感の欠片もないその姿に、実況の声もどこか困惑気味だ。
『さあ、本戦第一試合! カロス地方から彗星のごとく現れた異端児、カグヤ選手! その腕の中には……やはり、あのウパーが鎮座しています! 一体どんな意図があるのか、あるいはただの余裕か!?』
対戦位置についたカグヤの視線の先には、昨日の屈辱を雪辱せんと燃えるレイが立っていた。彼はカグヤの緩みきった表情を睨みつけ、忌々しげに吐き捨てる。
「……そのふざけた態度は、今この瞬間までだ。マホロバの洗礼、たっぷりと味わわせてあげるよ。行け、グレイシア!」
レイが鋭くボールを投じると、白銀の毛並みを誇るグレイシアが姿を現した。その瞬間に空気が凍りつき、グレイシアがひと鳴きすれば、スタジアムの天候は瞬く間に変貌する。
技『あられ』。
空から鋭い氷の礫が降り注ぎ、視界を白く染め上げていく。氷タイプ以外のポケモンの体力を削り、同時にレイが得意とする戦術の「舞台」が整った。
カグヤは、連れてこれなかった仲間たちのことを一瞬思い出した。本来なら、ここにゲッコウガやカイリューたちがいたはずだ。しかし、今は違う。今、信頼できる背中を預けられるのは、カロスから唯一同行を許された二体の戦友、そしてこの新入りのウパーだけだ。
「ハッサム、出番だ。……ウパー、お前は足元で見ててな」
カグヤがウパーを芝生の上に下ろすと同時に、紅蓮の甲殻を纏った戦士、ハッサムが静かに現れた。あられの礫が甲殻に当たって硬質な音を立てるが、ハッサムは微動だにしない。
「無意味な虚勢を。グレイシア、特性『ゆきがくれ』発動! 『れいとうビーム』!」
レイの指示とともに、グレイシアの姿が猛吹雪の中に溶けるように消えた。直後、死角から青白い冷気の奔流がハッサムを襲う。ハッサムは咄嗟に巨大な鋏でガードするが、氷の結晶がその脚を凍りつかせ、機動力を奪っていく。
「当たらないよ。この吹雪そのものが僕の盾であり、僕の目だ。カロスでどれだけ実績を積もうと、この環境を支配するマホロバのバトルの『重み』に、君は耐えられない」
レイの冷徹な声がスタジアムに響き渡る。一方的な展開に、観客席からは「やっぱりウパーなんて連れてる奴はハッタリか」「カロスリーグなんてレベルが低いんじゃないか」という心ない野次が飛び始めた。
――その瞬間だった。
カグヤの周囲の空気が、まるで真空になったかのように一変した。
つい先ほどまでウパーを見てとろけていた目から、光が消える。代わりに宿ったのは、深淵のような漆黒の静寂。伝説のトレーナー、サトシの血が、その奥底で静かに、だが激しく脈打ち始めた。
「……ハッサム、目をつむれ」
カグヤの声は、低く、そして恐ろしいほどに透き通っていた。
ハッサムはその言葉に一毫の疑いも持たず、静かに瞼を閉じる。視覚という最大の情報を遮断したことで、ハッサムの全神経は、別の領域へと研ぎ澄まされていった。
「視覚に頼るから惑わされるんだ。ハッサム、『心眼』。雪の結晶が空気を裂く音、風の淀み……。お前の拳が届かない場所なんて、このフィールドには存在しない」
カグヤの言葉は、もはや指示ではなく、魂の共有だった。
ハッサムの触覚が、あられの合間を縫うように移動するグレイシアの気配を捉える。グレイシアが再び『れいとうビーム』を放とうと深く息を吸い込み、冷気が一点に収束するその刹那。
「……そこだ。左後方、二時の方角。三歩分、踏み込め」
カグヤの指先が、何もない雪煙のただ中を指し示した。
ハッサムの姿が、爆発的な踏み込みとともに現場から消失する。
「なっ……!? グレイシア、回避――!」
レイの叫びは、物理の法則を凌駕する速度の前には無力だった。
猛吹雪を真っ二つに切り裂いて現れたハッサムの鋏が、グレイシアの眼前に肉薄する。それはカロスで幾多の修羅場を潜り抜けてきたエースのみが到達できる、洗練の極致。
「――『バレットパンチ』」
ドォォォォォォン!!
スタジアム全体を揺るがすような轟音が響き渡った。
鋼鉄の拳がグレイシアの胴体を正確に捉え、その衝撃波だけで周囲のあられが霧散する。グレイシアの身体はまるで砲弾のように吹き飛び、スタジアムの強化外壁にめり込んだ。
一撃。それだけで十分だった。
あられが止み、静寂がスタジアムを支配する。壁からずり落ちたグレイシアの目は、完全に回っていた。
『……グ、グレイシア、戦闘不能! 勝者、カグヤ選手! 圧巻……! わずか一撃、目にも留まらぬ速攻でレイ選手を粉砕しました!』
実況の叫びが響いても、観客はすぐには反応できなかった。あまりにも圧倒的な、次元の違う「強さ」。それを目の当たりにして、恐怖すら感じていたからだ。
「よしっ、ハッサム! 今のパンチ、カロスにいた時よりキレてたんじゃないか!? 最高の立ち上がりだぞ!」
審判の勝ち名乗りが上がった瞬間、カグヤの顔に再び「日常」が戻ってきた。
つい先ほどまで死神のような殺気を放っていた男はどこへやら、彼は満面の笑みでハッサムに駆け寄り、その硬い甲殻を親愛を込めて叩いた。
「ウパー、見たか!? ハッサム凄かったよな! シュバッ、ドーン! って感じだったよな!」
『ウパッ、ウパー!』
カグヤは足元で誇らしげに跳ねていたウパーを勢いよく抱き上げると、その柔らかな頬を自分の頬にすり寄せた。
「いやぁ、ウパーの応援のおかげだわ。ハッサムもそう思うだろ? よーし、約束通りミックスオレ買いに行こう。ルカリオもお前の分も、みんなの分な!」
カグヤはハッサムをボールに戻すと、膝をついて呆然としているレイには一瞥もくれず、鼻歌混じりに退場ゲートへと向かっていく。
観客席にいたナオは、口を半開きにしたまま固まっていた。隣に座っていたベテラントレーナーらしき男も、震える手でカグヤの背中を指差している。
「……あいつ、何者だ? あの切り替えの早さ、ただの才能じゃない。バトルの瞬間にだけ、あいつは別の生き物に入れ替わっているみたいだ……」
マホロバ地方の強者たちは、この日、最悪の「渡り鳥」が自分たちの領域に踏み込んできたことを理解した。
それは、聖母のような慈愛と、魔王のような冷徹を同時に持ち合わせる、計り知れない器。
退場口の闇の中へ消えていくカグヤ。腰のベルトに並ぶボールは、ハッサムとルカリオの二つだけ。だが、その背中は、かつて世界を制した父の背中に、ほんの少しだけ重なって見えた。
カグヤの、そしてウパーたちとの、マホロバ地方制覇への道は、まだ始まったばかりであった。