ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
静まり返るスタジアムに、タイガの荒い息遣いだけが響いていた。
自慢の重戦車であるゴローニャが、一度の接触さえ許されず、一撃で沈められた。その現実が、大男のプライドを激しく逆撫でする。
「……舐めるなよ、カロスの中途半端野郎が! 行け、カイリキー! 『ビルドアップ』だ!」
地響きを立てて現れたのは、限界まで鍛え上げられた四本の腕を持つ怪力ポケモンだった。フィールドに降り立つや否や、カイリキーは全身の筋肉を怒張させ、防御力と攻撃力を強制的に引き上げていく。その肉体から放たれる圧倒的なプレッシャーに、観客席から再び歓声が湧き起こった。
「ヒノヤコマ、戻れ。――次はお前だ」
カグヤの言葉に応じるように、彼の頭の上から、一匹の小さな影が「ぱちゃり」とフィールドの土の上へ飛び降りた。
ウパー。
お世辞にも戦場に似つかわしくない、手のない小さな身体。緊張感のない丸い瞳。
その姿がスタジアムの大型スクリーンに映し出された瞬間、観客席からは失笑とも困惑ともつかない、奇妙なざわめきが広がった。
「おいおい、冗談だろ!? カイリキーの前にそんなマスコットを出して、一撃で粉砕されるのを待つ気か!?」
タイガが勝ち誇ったように叫ぶ。だが、客席のシオンはノートPCの画面を見つめたまま、冷ややかな声を漏らした。
「無知ね。あのカイリキーの『ビルドアップ』による能力上昇は完璧に見えるでしょうけど……今のウパーの前では、ただの無駄骨よ」
カグヤの波導が、ウパーの放つどこまでも透明な波紋と完全に同調する。
かつてカロスリーグで、相手の圧倒的な覚悟と戦術に嵌められ、エースたちを失ったあの焦熱の記憶。あの時の自分は、相手の「強さ」に正面から応じようとしすぎて自滅した。
だが、今のカグヤには、どんな不条理な強化も、狂気的な殺気も、すべてを無に帰す「凪」がいる。
「ウパー、じわじわ行くぞ。『どろあそび』」
ウパーは呑気に短い尾を振り、フィールドの土を器用にこねて泥の結界を作り出した。これにより、カイリキーの得意とする物理攻撃の威力が、戦場全体の理として減退する。
「小細工を! 『ばかぢから』で消し飛ばせ!」
タイガの怒号と共に、カイリキーが爆発的な踏み込みでウパーに肉薄した。ビルドアップによって限界まで高められた一撃が、小さなウパーに向かって振り下ろされる。並のポケモンなら、その風圧だけで骨が砕けるほどの威力。
だが。
ウパーは、動かなかった。
激突の瞬間、カイリキーの拳は、ウパーの特性『てんねん』がもたらす不条理な「凪」に阻まれた。どれほど筋肉を肥大化させ、攻撃力を何倍に高めていようとも、ウパーにとっては「ただの初期状態の攻撃」でしかなかった。さらに『どろあそび』の減衰が加わる。
ドォン、と重苦しい音がスタジアムに響いた。
砂塵が晴れると、そこにはカイリキーの巨大な拳が、地面を激しく叩きつけていた。
その拳の脇で、ウパーは「うぱ?」と呑気に小首を傾げている。
拳の威力は、ウパーがその存在その目で戦場を凪へと変えたことで、致命的な一撃となる前に霧散していた。
「な……んだと……!?」
タイガが驚愕に目を剥いた。観客席からも、言葉にならない悲鳴のような歓声が上がる。
「ハッサムやルカリオの、命を削り合うような一撃を受けてきたんだ」
カグヤの声は、凍てつくように冷たかった。
「お前のその、中身の伴わない見せかけのパワーじゃ、ウパーの『凪』は一針分も動かせない。――ウパー、『ドわすれ』」
ウパーはふぅ、と息をつくと、戦場にいること自体を忘れたかのように、のんびりと空を見上げた。その瞬間、ウパーの内なる特防が爆発的に跳ね上がる。カイリキーにとっては、目の前の存在が底なしの沼に変わったかのような、凄絶な絶望感だった。
「仕留めるぞ。『じしん』」
カグヤの短い指揮。
ウパーがその小さな足で、パチャリと地面を叩いた。
次の瞬間、ウパーの『てんねん』によって増幅された大地への波動が、スタジアムのフィールドを文字通り真っ二つに引き裂くような、凄まじい大地震となってカイリキーを襲った。
「ゴアアアッ!?」
逃げ場のない大地の怒りを受け、カイリキーの巨体が激しく宙に浮き、そのまま背中から叩きつけられた。ビルドアップの残光は完全に消え失せ、四本の腕が力なく地面に投げ出される。
「カイリキー、戦闘不能!」
審判のフラッグが振られ、スタジアムは地鳴りのような大歓声に包まれた。
「くっ……そがぁ! まだだ、まだ終わっちゃいねえ! 俺のすべてを叩き込んでやる!」
タイガが血走った目で最後のボールを引き抜いた。
「出番だ、ニドキング! 『どくづき』でそのトカゲを毒らせてやれ!」
地響きと共に現れたのは、毒の棘を全身に生やした紫の猛獣、ニドキング。タイガの最後の大将だ。ウパーの弱点である「毒」のエネルギーを爪に宿し、狂暴な咆哮を上げる。
「ウパー、戻っておいで。お前の役割はもう終わった」
カグヤが優しく声をかけると、ウパーはニドキングの威嚇などどこ吹く風で、「うぱー」と呑気に鳴きながらポテポテとカグヤの足元へ歩いて戻ってきた。カグヤは泥を軽く払ってやり、いつものように自分の頭の上へと乗せる。
カグヤの視線は、すでにタイガを見ていなかった。その遥か先、かつて自分を絶望させたアランの背中を見つめるように、静かに次のボールへ指をかける。
「最後の仕上げだ。――ハッサム。正面からブチ抜いてこい」
光の中から現れたのは、カグヤの絶対的エース、ハッサムだった。
極光の断崖でさらに研ぎ澄まされた紅い装甲。そのハサミから漏れ出す剣気が、戦場を一瞬にして焦凍の地獄へと変える。
「ハッ、鋼タイプかよ! ニドキングの『だいちのちから』で粉砕してやる!」
タイガが吼える。だが、彼はまだ気づいていなかった。
カグヤの『理』は、すでに相性すらも超越しているという事実に。