ポケットモンスター 遥かなる高みへ 作:色即是空
アコマ・コロシアムの熱狂から一夜明けた。
掲示板に張り出された準々決勝の対戦表は、観客やトレーナーたちの間で大きな波紋を呼んでいた。昨日、圧倒的な実力を見せつけたカロス出身の少年・カグヤの対戦相手に、この街で「最も戦いたくない」と敬遠される少女、シオンの名前があったからだ。
「……ふわぁ。よく寝たな、ウパー」
宿舎の窓から差し込む朝陽を浴びて、カグヤは大きな欠伸をした。その胸の上では、同じように寝ぼけ眼のウパーが「ウパァ……」と気の抜けた声を漏らしている。
カグヤはウパーのひんやりとした身体を優しく抱き上げると、窓辺に腰掛け、ベルトに固定された二つのモンスターボール――ハッサムとルカリオのそれを見つめた。
「悪いな、ハッサム、ルカリオ。昨日はお疲れ様。……みんなも、カロスで元気にしてるかな」
カグヤの脳裏には、今は遠く離れた実家に預けているゲッコウガやカイリュー、ブラッキー、ジュカイン、スピアーたちの顔が浮かぶ。彼らは単なる「戦力」ではない。幼い頃から共に育ち、泥にまみれて特訓し、敗北の悔しさと勝利の歓喜を分かち合ってきた、かけがえのない家族だ。
ウパーを溺愛するのも、その延長線上にある。カグヤにとってポケモンを愛でることは呼吸と同じだ。そこに理由などない。ただ、そばにいてくれることが嬉しくて、可愛い。その真っ直ぐな愛情が、カグヤというトレーナーの根幹を成していた。
「さあ、約束のミックスオレ、買いに行こうか」
カグヤが宿舎のロビーに降りると、そこには昨日の試合を見ていたナオが、今か今かと待ち構えていた。
「兄貴! おはようございます! あの、次の相手……シオンについて調べたんですけど」
「お、ナオ君。おはよう。ミックスオレ飲む?」
「飲んでる場合じゃないですよ! シオンは『完封者(サイレンサー)』って呼ばれてるんです。相手のポケモンを倒すことじゃなく、『戦う意欲を完璧に削ぐこと』に特化した戦い方をするって……! 彼女と当たったトレーナーは、みんな自信を失くして引退しちゃうくらい、残酷なまでに弱点を突いてくるんです」
ナオの必死の訴えを、カグヤは「へぇー」とミックスオレのストローを咥えながら聞き流していた。その足元ではウパーが自分の分のボウルから器用に喉を鳴らしてオレを飲んでいる。
「戦場に不要なものを持ち込むのは、弱さの証」
不意に、背後から感情を削ぎ落としたような冷たい声が響いた。
振り返ると、そこには灰色の髪を短く切り揃えた少女、シオンが立っていた。彼女の瞳には光がなく、まるで精密な機械のようにカグヤとウパーを観察している。
「……君が、次の獲物?」
「獲物ってのは物騒だなぁ。カグヤだよ。よろしく、シオン」
「私は、君のハッサムとルカリオの心を折る。……そして、その足元の生物(ウパー)が、どれだけ君の足を引っ張るかを証明する」
シオンの視線が、カグヤの腕の中でミックスオレを飲んで満足そうにしているウパーに向けられた。
「不合理。非効率。甘え。……そんなものは、この地方のバトルには不要。私は徹底的に、君たちの絆という名の欠陥を突く」
言い捨てて去っていくシオンの背中を、カグヤは無言で見送った。
ナオが「な、なんなんだよアイツ……!」と憤慨する中、カグヤの表情からは、いつもの「デレデレ」とした緩みが、僅かに消えていた。
「……ウパーが足を引っ張る、か」
カグヤはウパーをひょいと抱き上げると、その柔らかな背中を撫でた。
カグヤは知っている。自分が最強でいられるのは、ウパーがいてくれるからだけではない。ハッサムの鋼の信頼、ルカリオの揺るぎない忠誠、そしてカロスで待つ仲間たちの期待――そのすべてが自分の中にあるからだ。誰一人として欠けていい存在などいない。
その夜。
翌日の試合に備え、カグヤはコロシアム裏の練習場でハッサムとルカリオの調整を行っていた。
月明かりの下、ハッサムが鋭い鋏を振るい、ルカリオが波導の弾を掌の中で転がす。その傍らで、ウパーが水溜まりでパシャパシャと遊んでいる。そんな、いつも通りの穏やかな光景。
――だが、その静寂を、複数の「殺気」が切り裂いた。
「ギギィッ!」
「グラァ!」
闇の中から飛び出してきたのは、三体のゴロンダと、四体のスカタンク。それらを操るトレーナーの姿は見えない。明らかに大会の「妨害」を目的とした、闇討ちだ。
突然の襲撃に、水溜まりで遊んでいたウパーが「ウパァ!?」と悲鳴を上げ、その場にすくみ上がった。
「…………ッ」
カグヤの脳裏で、何かが静かに、だが決定的に弾けた。
それは、父から受け継いだ「ポケモンを守るための闘争本能」であり、母から受け継いだ「大切な家族を守るための決意」だった。
「ルカリオ、ハッサム。……掃除の時間だ」
カグヤの声は、もはや少年のそれではない。地を這うような低音、そして氷よりも冷たい響き。
「一分で終わらせろ。ウパーが、怖がってる」
指示はそれだけだった。
だが、その一言で二体のエースが「暴嵐」へと変わる。
ルカリオが青い残像を残して闇を疾走した。一瞬でゴロンダの懐へ潜り込み、重力に逆らうような掌打を放つ。波導の衝撃が体内を駆け抜け、巨漢のゴロンダが声を上げる間もなく吹き飛んだ。
同時にハッサムが金属音を立てて空を舞う。スカタンクたちが放った毒液の弾幕を、神速の身のこなしですべて回避。次の瞬間には、三体のスカタンクがハッサムの『バレットパンチ』の連打を受け、地面に沈んでいた。
「ぐ、あああぁっ!?」
影に隠れていた襲撃者のトレーナーたちが、あまりの制圧速度に耐えきれず、悲鳴を上げて逃げ出していく。
ルカリオが追撃しようとしたが、カグヤがそれを手で制した。
「深追いはしなくていい。……おいで、ウパー。もう大丈夫だよ」
カグヤは震えるウパーを優しく抱き上げると、その小さな身体を包み込むように抱きしめた。ハッサムとルカリオも、先ほどの荒々しさが嘘のように、静かにカグヤの傍らに寄り添う。
「悪かったな、怖い思いをさせて。……ハッサム、ルカリオ。ありがとな」
カグヤは二体のボールに触れ、感謝を伝える。そして、カロスの方角にある夜空を見上げた。
シオンは言った。戦場に不要なものを持ち込むのは弱さだと。
だが、カグヤにとっては逆だ。
守るべき家族がいるからこそ、愛すべき日常があるからこそ、カグヤの「スイッチ」は、誰よりも鋭く、そして苛烈に研ぎ澄まされるのだ。
「……さあ、寝よう。明日は、俺たちの『強さの形』を、あの少女に教えてやらないとな」
翌朝。
スタジアムに入場するカグヤの手には、いつものようにウパーがいた。
観客席からは「今日も連れてるよ」と笑い声が漏れるが、対戦相手のシオンだけは、カグヤを一目見て、その奥に潜む「何か」に戦慄していた。
カグヤの瞳は、昨日よりも深く、そして静かに燃えていた。
ハッサム、ルカリオ、ウパー。そしてカロスで待つ仲間たち。
そのすべての想いを背負った少年が、マホロバの「完封者」を迎え撃つ。
アコマ選抜杯、準々決勝。
伝説の血筋、その本当の意味が、今まさに示されようとしていた。