トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
Lap.1 道の先で燃えた夢、空の下の独り夢
当たり前とは何だろうかと聞かれて、すぐに何かを導き出せる人間が居たら、それは幸せ者だ、と右堂海人は考えていた。
辞書を片手に持っていれば、『そうであるべきこと。 誰が考えても、もっともであること。 特段変わっていないこと。 ごく普通であること』という講釈を垂れることも出来るだろう。
だがその『普通』は、誰かにとっての『特別』であることに、気づける人間はどのくらいいるのだろうか。
────ちょうど自分が、空を見上げても、何も見えないように。
そこに青空があるのは『当たり前』だと誰かは言う。
人生に人の笑顔があるのは『当たり前』だと言う。
夢を持つのは『当たり前』だという。
だが彼には、当たり前が見えなかったのである。
大阪で開かれたウマ娘やスポーツ生理学に関する学会を医師、理学療法士としてはしごして約2週間ぶりの東京。
そんな男、
「長旅お疲れだったな。もう少しで着くから、辛抱してくれ。セリカ」
セリカと呼ばれたのは、ハーネスをつけたジャーマン・シェパードだった。彼は『Guide Dog』と刺繍されたスカーフをつけており、多くの人が近くを行き交う中、吠えることひとつせずに主を待っていた。点検を終えた男は纏ったスーツの裾を払い、かけているサングラスの位置を確かめる。
「よし、GO」
その命令とともに、セリカは歩き出す。駅の入口から外に出ると、春の昼前にしては強い日差しが1人と1匹を刺した。スーツを着込んでいるのもあるが、予想外の熱さに空を見上げる。太陽が出て、空には雲ひとつなく晴れている。駅のロータリーを行き交う人々はそれを無視するように誰も見上げている者はいなかった。
だが、海人の視界には青空はなかった。白飛びした空。いつ見ても同じ色でもう、『青空』がどんな色だったのか思い出せない。いくら手を伸ばしても、『青空』には届かない。
「私は、何をしているのかな」
昔を思い出す。
もはや遠くにおいてきたエキゾーストノートが、くすぶる火の焦げ臭い空気が、鼻の奥に焼け火箸を突っ込まれたような感覚が甦ってきた。自分の夢は、そこで燃えてなくなった。未来も、『当たり前』も、そこで見えなくなったのだ。
目を開けても何も見えない。目を閉じても、そこにあるのは後悔と羨望。何年も前から変わっていない感傷に、右堂海人は暗澹たる気分でハーネスを握りこんだ。
こんなんだから。進歩がないからきっと────チームにウマ娘も来ないのだろう。
4月は、スーパートゥインクルズが本格的に盛り上がりを見せ始める時期だ。トレーナーの端くれとして、その熱気に身を置いて見たいと思うが……いかんせんチームにはウマ娘がいない。ウマ娘がいなければ、ジュニア級の華やかさも、クラシック級の熱気も、シニア級の闘気も感じることはできない。
困難を承知でこの道に進んだのだが、それでも現実を目にするとショックだ。今年もあまり期待はできない。毎年チームを立ち上げるための書類は準備するが、あえなくゴミ箱行きだ。
〈アルゴル〉はまた、明るくなるのではなかったか。
「今年こそは……ってもね」
状況は、去年と全く変わらない。ウマ娘が加入しない原因は自分にあるが、ちょっとやそっとで改善できるものではないのだ……そんな簡単に良くなるのだったら、夢を諦めずにいられただろうに。
緊張した主から、不安が伝わったのか、セリカが足を止める。主に異変があったと思ったのだろう。
「ああ、ごめんね」
私は大丈夫だよ、と声をかけ、相棒を安心させる。
立ち止まった海人とセリカの周りを、人々は変わらずに歩いていく。ただ1人だけが、その場に取り残されていた。
ああ、空が綺麗なのは好きだが、日差しが強いのは頂けない。鬱陶しいとまで思う。4月も中旬とはいえ、汗がじっとりと浮かぶくらいである。張り付いた白群かかった芦毛をおでこから剥がす。
屋上は去年まではお気に入りスポットであったが、学年が変わってやってきた1号校舎の屋上は、日陰が全くなく快適とはいえなかった
不満そうに畳まれた耳と、深く深く付かれたため息。
「冬はいいかもしれないけどさ……」
青空を恨めしげに睨みながら起き上がり、顔を手で扇ぐ。日差しが強いのなら木陰で寝るのが心地良いのだが、今グラウンドはチームメンバー募集中のウマ娘とトレーナーと、自分のチームを探すウマ娘でごった返している。
チームに所属しないとな、という漫然とした義務感はあるのだが、能動的にチームを探すのは柄では無い。そもそも熱気や喧騒といったものが、このウマ娘。セイウンスカイは苦手だった。
チーム所属と競走ライセンスは別だから最悪所属しなくても……という悪魔の考えがよぎるが、1人でトレーニングに挑んだとして、効率よくやれるだろうか、という自己分析が邪魔をする。
海のことは漁師に問え、ということわざがあるように。任せられるのなら、考えるのが面倒臭いことは専門家に任せた方が安心だ。
「でもなぁ……」
トレーナーがウマ娘を見る基準は何個かあるが、授業の成績と健康診断の結果だ。見られる項目としては授業の成績は模擬レースでの勝率やタイム。健康診断は筋肉の量、付き方や種類などである。
彼女は、あまり才能に溢れている方ではなかった。
模擬レースの結果もそこそこ。身体の方もそこそこ。
何人かのトレーナーが彼女の前に来たが、誰も彼もが取ってつけたように「今の才能は……」と言う。「今の素質は……」と言う。そんなことは、セイウンスカイがいちばんよく分かっている。その言葉を言われる度に、「お前は無理だ」と突き付けられているようで、彼女はすっかりこの喧騒から離れたところにいた。眼下で繰り広げられるやり取りから目を背けて、彼女は昼寝を決め込もうと思ったのである。
こんな時に屋上に来る人間はいないと踏んでここを選んだのだが、屋上自体は彼女を歓迎してはくれなかった。
フェンスを五指で掴みながら、彼女はまたため息を着く。
理解はしていた。自分から動かなければいけないと。何かを言ってくるのは期待の裏返しだから、聞き届けて答えるのが学園の生徒としてのあるべき姿なのだと。何かを抱いてここに来たからには、それに向かって歩むべきなのだと。
だが、開口一番にやれ才能だのやれ素質だのと言われると、これまでのあれこれを、特に生まれを否定される気分がして反発してしまう。願わくば、素質や才能についてとやかく言わないトレーナーはいないものか。
「見つかったら苦労しないよね」
改めて、見下ろす。誰も頭上には注意を払っていない。その事がいっそう、自分が熱気から取り残されていることを自覚させて来て、セイウンスカイは両腕をだらりと垂らした。
だがその視界に、何かがある。注意を向けてみると、一人の男が立ち止まり、空を見上げていた。
「何やってるんだろ、あの人」
純粋な疑問から、セイウンスカイの視線はそちらに吸い寄せられる。
生来の
髪は短めで、全身は仕立ての良さそうなスーツで固められている。その横顔は30を過ぎ、40手前と言ったところだろうが、注意を引くのは目元を隠す大きめのサングラス。表情の大きい部分が隠されてしまっているため何を思って空を見上げているのか、伺うことは出来なかった。
テンプレートな不審者といった風貌だが、その傍らには犬がいた。犬種は恐らく、ジャーマン・シェパード。ペットではなさそうだが、なぜ連れているのかは分からなかった。
観察を終え、なぜ彼に目が惹き付けられるのか考えてみる。そうして、彼女は分かった。
他のウマ娘も職員も、空など見上げてはいない。何百人という人間がいる中彼だけが空を見て、唇を歪めていたからだ。
苦しそうだと思った。
何かを求めていると感じた。
彼も、グラウンドの熱気から取り残されていると感じた。
根拠はないが、同じだ、と思った。
幼い頃に感じていた万能感。それが、奪われた時の痛み。そんな表情。セイウンスカイは、そんな男を見続けていたが、ふと彼の顔が巡り、こちらを見た。
「やばっ……!」
見られただろうか? 気づかれただろうか? 動悸が早まる胸を抑えつつも、また下をのぞき込む勇気はなかった。人をジロジロ見るとは、なんて失礼なことを。
昼寝の場所開拓は、結局失敗に終わった。
何となく上手くいかないことに落ち込みつつ、1号校舎に移って最初に見つけたお昼寝スポットを目指すことにした。
薬品の匂いがするのが玉に疵だが、新学期からずっと人がいないしなによりふかふかのベッドがある。外で寝る方が好きなのだが、この際仕方ない……。
だが彼女の心には、眼下にいた男の姿がずっと引っ掛かっていた。
晴れ渡る空を追い求めている。
喧騒と熱気から取り残され、立ち止まっている。
昔に置いてきた何かを、探している。
彼女の考えすぎかもしれないが、この晴れやかな春の日差しとは裏腹に、あの男の心は白く濁っているような気がした。
1階へ降りながら、セイウンスカイはあの表情について考え続けていたのだった。あの、歪んだ唇の意味を。
人が多くなかなか歩き出せなかったこともあって、右堂海人は予定より遅れて学園に到着した。上司である管理部長に帰ってきたことを報告すると、お疲れ様の後に帰ってきたのは「今日はもう上がっていいよ〜」という声だった。
「あれ? いいんです?」
「朝イチの新幹線は疲れたでしょう。休みなさい」
「まあ、そういうことなら。少しやって帰ります」
2週間の出張で、随分溜まっている仕事もあるが、朝イチ移動で腰にかなりガタが来ていることも事実だった。歳は取りたくないよな、と思いながら、とりあえず自分の城である医務室を目指すことにした。
半月ぶりに顔を出す医務室は、薬品の中にそこはかとなくホコリっぽい匂いがしていた。ただ全く人の出入りがなかった訳では無いようで微かに人の残り香を彼は感じていた。
「……後で物を確認しとくか」
包帯やガーゼ、生理食塩水など、必要だったら持って言って良いと開放している物品の減りを確認しておかなければなと考えながらも、体は正直で。
部屋に着くとまっさきに、いつもの椅子に腰を下ろすのだった。
「仕事はしないといけないんだけどな……」
仕事に真摯、というのが自分の存在価値だと思っている彼は、のろのろとパソコンに手を伸ばして、14時まで仕事を消化しようと心に決める。
「少しでも明日楽にしたいし」
ごめんなセリカ、とうずくまっているであろう相棒に詫びを入れて、画面に向き合う。読み上げ機能用のイヤホンをはめて右目だけでディスプレイを見ながら、彼はいつものように仕事を始めた。どこかのんびりとした打鍵音とは裏腹に、顔を顰めた男。ちぐはぐな印象のする医務室に漂う空気は、至っていつも通りだった。
何分か、何十分か経過して、海人は作業を中断して伸びをした。
「とは言っても、進みは良くないな」
14時までと言ったが、もう肩と目の疲労が限界だ。腰に残ったダメージも大きい。さっさと前言を撤回するという事実に自己嫌悪に陥りながら、立ち上がって腰を回した。
ピロン、とスマートフォンが通知を鳴らす。メールが来ていたようで、差出人は……。
「ルドルフか」
中身も同じく確認すると、「明日の放課後に時間はあるか」というものだった。この時期の要件は大体限定される。問題ないよ、とだけ返事して、またポケットの中へ。
「いや、いいや。帰ろう」
集中力は切れてしまい、そしてそれを再スタートする元気は残っていなかった。セリカに呼びかけると、それはもう素早く立ち上がり、ピッタリ並んでくる。ハーネスをつける時もどこか足取りが軽く聞こえた。
歩き出して、校舎の外へ。
玄関先から外に出るとやはり、彼を指すのは強い日差しだった。また、空を見上げてしまう。
やはり、空は白飛びして青くなかった。
更に彼の周り……正門前への道、噴水広場、切り株の広場。ありとあらゆる所にはウマ娘とトレーナーがごった返していて、彼はその喧騒に取り残されている。
誰も、青空を気にしている様子はない。『当たり前』だからだ。
「ああ、何でだろう。私には」
強い日差しばかりがあって、青空は無いのだ。
じっと。いつまでも空を見上げるが、何も変わらない。そして、彼を気にする人間は誰もいなかった。自分の周りにだけ、断絶された空気が漂っているような感覚。
とその時、どこかから視線を感じる。上から。教室か、屋上だろうか。首を回してその持ち主を探そうとして、一瞬。何か色が見えた気がした。
「あれ……誰かいたのかな」
残念ながら、彼の両目では正確な状況は分からない。だが確実に、何かが自分を見ていたのは事実だった。
「それにしても……なんだったんだ?」
白く飛んだ空に、薄い緑がかった青色がついていた気がしている。何回か周りを見渡してみるが、何も変わったところはない。色がついたところもない。
首を傾げながら、彼は正門へ向かって歩き出す。だがその足取りは、珍しく見えた「色」のおかげで、何かが変わるかもしれないという期待のおかげで、微かに軽かった。
『青空』とは『当たり前に見えている』もの。
願い、夢、希望、未来。青空は全てを橋渡す。
だがそれを
『
彼は何かを見いだせるのだろうか? 彼女は何かになれるのだろうか?
それはまだ、誰にも分からないのである。