トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
体育祭が終わって6月も半ばになり、気温と湿度が階段を駆け上がっても、チーム〈アルゴル〉は平常運転だった。
セイウンスカイとしてはサボってやろうかとも思うのだが、誰にも気兼ねせず休める場所で、空調が完璧な場所と言うと、やはり医務室しか思いつかないのだった。
図書室はたまに寒いし、何より寝れない。教室はちょうど良い温度のことが多いが、硬い机と椅子では満足な睡眠は望めない。屋上は熱いし、中庭は段々虫が多くなってくる。別に虫は平気なのだが……ひたすらにうるさいし鬱陶しい。
という訳で彼女は、トレーニングの時間になったらさっさと医務室に行ってトレーニングをして、早く終わらせて戻ってくるという道を選んでいた。
サボることも考えたが、海人の「セリカが運動不足にならないように助けてくれてありがとう」とか「セリカも君と走るのを楽しみにしてるんだ」とか。そんな言葉を聞いてしまえば、サボるにサボれない。
今日も愛しのセリカちゃんのため頑張りますかねー。となるわけである。
上手く操られてる気がしないでもないが、セイウンスカイとしてはそれで良かった。かわいい動物と触れ合うのは、良い心の洗濯になる。疲れる毎日に舞い降りた私の天使だ。
というわけで、セイウンスカイはトレーニングを終え、ソファでのんびりしながらセリカと戯れていた。座る彼女の太ももに、セリカは顎を乗せて大人しくしている。
「よっぽど君といるのが楽しいんだね。ちょっと羨ましいな」
いつものようにパソコンを打ちながら、海人が話しかけてくる。未だに彼はテイオーの怪我に重きを置いて仕事をしているようだが、セイウンスカイへのアドバイスやマッサージも欠かしてはいなかった。
「トレーナーさんお仕事ばかりだからセリカちゃんに嫌われるんだよ? 遊んであげないからさー」
「家に帰ってから遊んでるんだけど」
「足りないーって言ってますよ? ねー」
タイミング良く、セリカが吠える。ここまでピッタリだと真実味が少しは出てきて、手を止めて海人は椅子を少し回した。
「でも夜だから。あまりうるさく出来ないだろう?」
「それは言い訳じゃないです?」
「と言われてもね。マンションなのは知ってるだろう?」
「知ってますけど。でも工夫するのがトレーナーさんの役割ですもん」
「それを言われるとな……」
シェパードとして、本能的に必要な運動はセイウンスカイで事足りている。だが、ご主人と遊ぶ時間が少ないのは問題ですよ、とこの前動物病院で言われたことを思い出した。
「新しいおもちゃでも買いに行くかな」
「ちゃんと遊んであげないと意味ないよ? 知ってるとは思うけどさ」
「おもちゃもね。結構ボロボロになってきたからね。新しくしようと思ってね」
「点数稼ぎとかじゃないですよね?」
疑いすぎである。仕方ないとは思うが、さすがにここまで言われるいわれはない。
「信じてくれないね」
「セリカちゃんを大事にしない人ってトレーナーさんを思いたくないので」
「手厳しいなぁ」
もし悪いイメージがつけば、彼女になにかした訳でもないのにチーム解散ということになってしまう。だが、暫くはセリカに負担をかけそうだ。申し訳なさにベッドを買い換えることにして、またパソコンに向き合う。
「じゃ、私はトレーニングしてきまーす。何かやることあります?」
「今日もいつも通りでよろしく」
「はいはーい」
カーテンを閉める音。いつものようにトレーニングのため着替えるセイウンスカイがゴソゴソする音を意識の外へ追いやり、彼はテイオーのリハビリプランの監修を急いだ。
翌日、セイウンスカイはいつもより早く起き、登校の準備を始めていた。同室の子はまだ夢の中。起こさないようにそっと布団をたたみ、歯を磨き、顔を洗う。
6時半は、いつもならようやく起き出す時間。その時間にもう制服に袖を通していることに「自分は模範的な生徒なのでは?」といつもは絶対に言われないことを口走ってみた。
結局、昨日はトレーニングを終えてセイウンスカイはすぐ帰ることになった。結構時間かかるから、今日は早く帰って貰えないかな、との彼の言葉に従ってである。
いつもより帰るのが2時間早いと、どうやって時間を使ったらいいのか分からない。同期みんなはまだトレーニングしてるだろうし、同室の子もいなかった。
やることも無いので全ての予定を前倒しで進める。そうしたら、眠気まで前倒しで襲ってきて、その結果がこの朝練レベルの早登校である。
湿り気を帯びてはいるが、朝の空気は非常に冷たかった。夏服の上に1枚欲しい位であり、特に木々が立ち並ぶ正門からの道は温度が低い。
こんな時間でも、ロードワークに行くらしいジャージ姿のウマ娘がちらほらといる。厳しいチームと呼ばれるところは朝練もやるらしい。放課後の短い時間しかやらない〈アルゴル〉とは大違い。
「……しかし早く来たはいいけれど、どうしましょうね」
彼女はいつも学園のカフェテリアで朝食を摂るが、開くまではまだ一時間弱時間がある。どこかのんびりできる場所……と考え始めるが、やはりひとつしかない。
正門から外れ、医務室の外に面した引き戸に手をかける。開けようとした時に、彼女は人の気配を中から感じた。
「まさか、ね」
息を止め、音を立てないように極めて繊細に注意を払い、すこしずつ戸を開ける。見慣れた医務室の風景が広がってきて、その部屋の中ほど。
机に向かってパソコンを打ってる影があった。
そんな人間は、トレセン学園人多しと言えども1人だけだ。
「トレーナーさん?」
彼の背中が大きく跳ね、椅子もガタガタと落ち着かない。セイウンスカイが中に入って戸を閉めると、海人は椅子を回転させてこちらを向いていた。
「おはよう。早いね?」
「それはこっちのセリフなんですが」
セイウンスカイは、自分が信じられないほど険しい顔をしているのを大いに自覚していた。逆に海人は、彼女の声がとんでもなくトゲトゲしいのを感じている。
「私は朝早く起きちゃったのでここでのんびりしようと思って来たんですが……なんでトレーナーさんはここに?」
サングラスがサッと逸らされ、口元が曖昧に開く。首元に右手が当てられて、生え際を盛んにさすっていた。
「……昨日の夜で終わらなかったから、朝早くやろうと思ってね」
「……なるほど。徹夜をしなかったのは褒めたいと思いますが、何時からやってるんです?」
「時間はね、5時半とかかな」
おおよそ一時間前から医務室に籠って仕事をしているらしい。机の上には朝食に食べたと思われるサンドイッチか何かの包装がころがっているし、徹夜をしていないことも本当そうだった。
とはいえ、セイウンスカイは「無理をしないで」と常に言っている。無視できるものでは無い。
「ねぇトレーナーさん。これも無理してるうちにはいるんじゃないの?」
「……まあ、入るね」
「まあ、じゃなくて」
「入ります、はい。入ります」
セリカは朝早くから起こされたおかげか、部屋の隅のケージで寝ている。セイウンスカイはその事についても海人に詰め寄りながら非難し、パソコンの画面を確認する。
「どのくらいで終わるんです? それ」
「あとはリョウ先輩に見せて、テイオーさんの実情に合わせて修正してもらって終わりかな」
「なるほど。じゃ、朝には終わります?」
海人は顔を動かして視線を上から下に。下から上にと円を描く様に一周させる。作業見積もりを立てているのだろう。20秒ほどそのまま上を向いて考え込んでいたが、「終わると思うよ」という答えが返ってきてセイウンスカイは細く息を吐いた。
「じゃあ、放課後にシューズとかソールの見繕いのついでにセリカちゃんのおもちゃ見に行きません?」
「おもちゃに見に行き……な、なんて?」
オウム返ししたものの、予想だにしない提案に思わず聞き返す。首の動きでずり落ちそうなサングラスを直すことなくそのまま固まった海人に、セイウンスカイは唇をとがらせつつもう一度繰り返してみせた。
「だーかーらー。トレーニング用品を見に行きたいですし、そのついでにセリカちゃんのおもちゃ見に行きません?って」
「ああ、そういう事ね」
やっと合点がいったようで、何回も彼は頷いていた。だが、ふと動きを止めると、顎に指を当てて額にシワがよる。
「その顔。他の仕事がーとか考えてません?」
「いやいや。大丈夫。行けるよ」
ようやく仕事の能率が戻ってきて、余裕が出てきたんだよね。という言い訳にもならない言葉が飛び出し、彼は後悔した。
「なら、約束守ってくださいね? くれないとスネちゃおっかな〜」
「スネたら何するの?」
セイウンスカイはセリカに目を向け、はっきり言った。
「セリカちゃんをうちの子にします」
「それは、困るなー。本当に」
額を覆うように手を置いて天を仰ぐトレーナーを見て、我ながら良い案を思いついたと思う。この際だから、非人道的というそしりは受けようではないか。
「セリカ連れてかれたら困るから、じゃなくてちゃんと時間あけていくよ。何時からにしようか」
海人はぼやける視界の真ん中に、教え子のウマ娘を捉えて尋ねる。少しの思考ののち、彼女はトレーニング後、17時くらいからと提案してくる。
だが、彼としてはその時間からで果たして間に合うだろうか?という疑問が出てくる。トレーニング用品を見るのなら、シューズやソール、その他プロテインやテーピングなども調達したい。それにセリカのおもちゃも見るなら……。
「いや。君も頑張ってるし、今日はトレーニング無しだ。私も授業中に今日の分の仕事は終わらせておくよ。放課後すぐに行くのはどうだ?」
それなら、2時間ほど早く出発できる。時間にも余裕ができるし、良い休みになる。彼は自分の考えに胸中大いに自画自賛しながら反応を待ったが、彼女から帰ってきたのはなんとも気の抜けたへんじだった。
「へ? トレーニング……ナシですか?」
結構良い事を言ったと思ったのだが、響かなかったらしい。そんなことってある? と海人は肩透かしをくった気分だ。
「嬉しいんですけど、私としてはもうセリカちゃんと走る時間は減らしたくなくてですね」
「うん。なるほどね。そういうことね」
合法的にサボれるとあっては食いついて来るかと思ったが、彼女にとってはあまり良い提案ではなかったようだ。サボりは人生を豊かにするスパイスと言っていたが、セリカと走るトレーニングの時間はサボり以上に人生を豊かにしてくれる、ということか。
どうしようかなと唸るトレーナーを、セイウンスカイは真剣に見つめていた。最初こそトレーニングは嫌だしサボりたかったものだが、セリカと走るのは好きだった。
やはり、張り合う相手がいるというのは良いもの。他のチームではチームメイトと併走したりするのだろうが、〈アルゴル〉にはセリカがいる。気遣ってくれるのは嬉しいのだが、セリカと走れなくなるのは嫌だった。
ゴクリと唾を飲み込み、答えを待つ。足がじっとしていられないし、袖を強く握っている自分に気づいて、慌ててシワを伸ばす。
「なら朝練にしてしまおう、3キロだけやってきて。2本くらいでいいから」
「はーい。じゃ、そうしますねー」
まさか、自分に何かをやれと言われて「良かった」という感想を抱く時が来るとは思わなかった。朝練なのは予想外だったが兎にも角にも、これで心の平穏は守られる。
安堵と歓喜の息を吐くと、肩が強ばっていたのを今になって自覚する。解すように肩を回すと壁掛け時計が目に入り……その針はなんと止まっていた。
「あれ、トレーナーさん。時計止まってるよ?」
「そうなの? 見ることないから気付かなかったよ」
彼の返事が一拍遅れるが仕方ないことだと彼女は思う。時計が見れなければ、電池切れに気づくこともない。セイウンスカイも、時間を確認する時はスマホか海人から貰ったスマートウォッチのことが多い。そもそも、医務室に壁掛け時計があること自体意識していなかった。
「後で電池変えなきゃね。ありがとう」
感謝されて良い気分になって、改めて時計を確認する。まだ食堂があくまでは30分くらいあるので、まず彼女は落ち着くことにした。
ソファに荷物を投げ出し、体も投げ出す。ひんやりした皮の感触がなんとなく心地よい。
「トレーナーさん。ちょっと聞きたいんですけど」
「うん。何かな?」
いつもだったら間髪入れずにテーブルの上のお菓子に手を伸ばすところだが、今は少し我慢する。
「テイオー先輩って、今どうなんです。足は」
「どう、か……まだ骨はくっついてないし、普通に歩けるようになるのもリハビリもまだまだ先。だけど、順調とは言えるかな」
この前、苦労しながらも〈スピカ〉の面々と共に松葉杖で歩いているトウカイテイオーを見た。体育祭で救護班のテントに来た時から比べると、少しは表情が明るくなっていたのには安心した覚えがある。
「菊花賞、には。菊花賞には、間に合うのかな」
あの思いを聞いてしまうと、菊花賞に何とか出て欲しいと、まにあってほしいと思わずにはいられない。
「菊花賞、ね。今はまだなんとも言えない。骨がくっついてすらない状態で今後を言うのはナンセンスだけど……」
骨は治ると、思う。その答えにセイウンスカイは首を下に折りながら息を吐く。少し体が軽くなった気がしたのは、なんとかなるのでは無いか。ただし、と彼が付け加えるまではそう思えていた。
強く、強く吐き出された逆説の言葉に、彼女は体が硬直してしまう。続きはなんだ。
振り返って、パソコンに向かった海人がまた口を開くのを待つ。きっと、その時間は何秒もなかっただろう。だが、まるで時間が止まったように感じられた。
「体のバランスを元に戻せるかは、よく分からない。戻せなかったなら、当然走らせる訳には行かないよ」
筋肉は、内部のグリコーゲンや水が抜けることで細くなる。だが、細くなるのは大した問題ではない。マッスルメモリーという働きにより、筋肉はトレーニングが行われると急速に元に戻ろうとする。戻るには時間がかかるかもしれないが、長くても2週間くらいだろうと彼は踏んでいる。
問題なのは、筋肉や関節が使われなくなって固くなること。そして、固くなった筋肉を戻したとして、体のバランスは取れるか、新しいシューズや蹄鉄に順応できるか、ということだ。
もし、体の動きが悪いまま無理に走らせれば怪我が再発する恐れがある。バランスを取れないまま走らせたら、今度は別の場所を怪我する可能性が出てくる。
「私も精一杯やる。手を尽くす。だけど、まだ分からない、かな」
心のどこかで、良い情報が聞けるのではないかと思っていた。実際に聞くと、結構ショックが大きい。意識して呼吸を深くしないと、背筋の寒気が止まらなくなりそうだ。
「で、ですよね。そんな簡単にはいかないよね……」
「もちろんテイオーさんには話してあるよ」
テイオーはこれを聞いて尚、明るく振舞っているということ。同じレベルの怪我をして、同じことを告げられた時。セイウンスカイというウマ娘は、同じように振る舞えるだろうか
彼女は、自分にそんな自信があるとは、とても思えなかった。