トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
夕食を奢るよ、と言われてセイウンスカイが海人に連れてこられたのは、なかなかに年季の入った喫茶店だった。店内はカウンター席が5つと、ボックスのテーブル席が3つ。
カウンターの向こうでは壮年のマスターがサイフォンをセットし、コーヒーを入れる準備をしている。その後ろにはコーヒー豆が壁一面に並べられており、コーヒーには詳しくない彼女も思わず感嘆の息を漏らしてしまうほどだった。
その他にも古びた冷蔵庫や小さな流し台、ふた口のささやかなコンロにダイヤル式の公衆電話など、どこか懐かしさを感じさせるものばかり。ソファや壁から、染み付いたタバコの匂いが微かにしている。それが、この店の年季というか、歴史を感じさせてくれた。
「ヒレンブランド」というのが、その店の名前だ。
府中駅近くの商店街。そこから路地を1本入った中に、その喫茶店はある。
「いい所でしょ」
目の前に座るトレーナーは、なぜか得意げだ。サングラスが、小さな電球を反射してキラリと光っている。「いいところ」なのは認めるが、彼が得意げになる理由は全く分からない。
「落ち着く雰囲気があっていいですねー。グラスちゃんとか好きそうなところです」
「へえ。たまにウマ娘が来るって言ってたし、もしかしたらもう来てるかもね」
こういう所で静かに本を読んでいるのが似合うのが、彼女の同級生のグラスワンダーというウマ娘だった。
「ココ、何がオススメなんです?」
セイウンスカイとしては、もう少し彼の話に耳を傾けていたかったが、正直空腹が限界を迎えていた。また、腹の虫が存在感を発揮する前に何か食べたい。
「オススメは……1番はカレーかな」
「ほう。カレーですか」
確かに、店内にはカレーの匂いがよく漂っている。コーヒーとカレー。なんでも、それがこの店の名物なのだと言う。
「マスターのこだわりが詰まったカレー、でしたっけ」
「こだわりは詰まってるがね……オレのじゃあない」
マスターは照れくさそうに、それでいてどこか懐かしむような口調。
「そうでしたか。ではカレーセット1つと……君は?」
「あ、私もカレーセットで」
「おうよ」
二つ返事でマスターは注文を了承し、皿やカップを出して動き始める。カレーの温度を確認し、冷蔵庫の中身を見て。
「しかし、右堂先生がまた別のウマ娘を連れてくるとはねぇ。隅に置けないな」
「ゲホッ!」
「……トレーナーさん?」
マスターに投下された爆弾で、海人がむせる。セイウンスカイはじとっと目の前に座るトレーナーを見ていて、答えを待っていた。
「誤解を産むことを言わないで欲しいですね」
「誤解も何も、事実っちゃ事実だろう?」
「半分違ってますからね?」
マスターは面白がるような人の悪い笑顔を浮かべていて、2人の様子を観察している。セイウンスカイはじーっと口の周りを拭いている海人を見つめていて、当の医者はやりづらそうに言葉を探していた。
「あー。いやいや。ルドルフとかさ、フジとかに店を教えただけだよ」
「なるほど?」
「だから、一緒に来たのは初めてだ」
「修羅場になるかと思ったんだがな。残念残念」
愉快そうにけらけら笑うと、マスターは温めていたカレーの鍋を覗きに行った。セイウンスカイは何となく嬉しそうに足をゆらゆら揺らし、水をちびちび飲んでいた。
「チームが出来たら、一緒にここに来たいなって思っててさ」
「お、セイちゃんもしかしてトレーナーさんの夢叶えちゃった系ですか?」
「そうだね。またひとつ叶ったよ」
「ふふん。なら、もっと感謝してくれないとなー?」
「……そうやってすぐ調子に乗る」
「もー。いいじゃないですかー」
まあいいんだけどね、と彼は椅子に座り直した。
「君がいなかったら、どんな夢も叶わなかった」
本心からそう思う。ありがとう、と感謝する。
「もー。これくらいで感謝されてたらさ、3冠取ったらどんな感謝されちゃうんだろうなー」
伸びをしてから、腕を頭の後ろで組んで笑う。とても楽しそうに、少しだけ悪い顔。海人にはその顔は良く見えていないが、つられて楽しそうに笑っていた。
「そりゃもう一生崇め奉るかもね」
「お、トレーナーさん言ったね?」
テーブルに肘をついて、ニヤリ。言質取っちゃいますけど、いいんですか? という言葉に、海人は鷹揚に頷く。てっきり否定されるかと思ったセイウンスカイは意外そうな顔をしていた。
「意外か? でも君が結果を残してくれれば……それでいいんだ」
「うわーお。セイちゃん期待されすぎ?」
悪い気はしない。けれどもやっぱり、知っている人からの期待でも重すぎるのは勘弁願いたかった。背負うものが多いと人生は云々。
「主役は君だから。君が輝けるなら何だってするし、君が望むならなんだってやるよ」
穏やかな笑顔と共に言い放たれると凄味のあるセリフ。それはとても真実味を帯びていて、サングラスの先にある目は光など放っていないように感じられた。厳密には黒いレンズで、彼の目元など見ることは出来ないのであるが。
「そこまでしなくていいですよー。気楽に行きましょ。気楽に」
「そうだね。気楽に行こう」
と口で言いつつ、医務室での仕事のように無理するのだろうな、とぼんやり思う。トレーナーがウマ娘の舵を握るのは分かるが、その逆とはどういう状況だろうか。今日のようないい感じに出かける催しを……セリカの為にも開くことを密かに決意した。
これはセリカの為であって、自分がトレーニングをしたくないからでは無いという方便である。もちろん今は口に出さない。
「お、コーヒーのにおい」
かすかに甘みの強いコーヒーの匂いが漂ってきて、セイウンスカイはカウンターの上のサイフォンに目をやった。海人もそれに釣られるように顔を向け、鼻を動かしている。
「ここのコーヒーは絶品だよ」
「香りの善し悪しはわかんないですけど……落ち着きますねぇ……」
今、サイフォンの中では沸騰したお湯が上がっていき、コーヒーが抽出され始めたまさにその時であった。
サイフォンというものは、先に書いたように上下ふたつのガラス容器とそれをセットするスタンド、お湯を沸かす為の熱源がセットになって構成されている。
下の丸いガラス容器をフラスコ、上の円筒型の容器をロートという。フラスコに水を入れ、ロートにはフィルターと挽いたコーヒー豆を入れておく。
セットし終えたらフラスコの中を水を、熱源で熱していく。ヒレンブランドでは、アルコールランプを使うらしい。ゆらゆらと揺れる炎には、何とも駅前の喧騒とは隔絶された静けさがあった。
しばらくして水が沸騰し、フラスコの中の圧力が高まっていくと、サイフォンで淹れるコーヒーの見どころと言っても差支えのない、お湯がロートに上がっていくところが見られる。
「おお……」
セイウンスカイは、その光景を実地に見られて少し感動していた。目の前でコーヒーを淹れてくれるなどというのはなかなか出来る体験ではない。彼女が目を向けた時にはもう結構な量のお湯がロートに移動していたが、それでも感動する光景なのは、間違いなかった。
お湯が上がりきると、マスターはロートの中身をかくはんし始める。キラキラとしたセイウンスカイの目に気づいたマスターは、軽く頷きながら作業を続ける。
「ちゃんと見てくれるってのは嬉しいな」
「すいませんね。よく見えなくて」
「別に先生の事じゃねえ。スマホしか見てないって客もそれなりにいるからな」
「なるほど」
海人は少し安堵したような声つき。
「嬢ちゃん。こっからも面白いぞ」
「ほうほう?」
楽しそうなマスターの様子に、彼女の期待は高まっていった。
マスターはアルコールランプの火を消すと、再びロートの中身をかくはんしていた。どうなるのだろうと彼女が興味深くその光景を見ていると……ロートの中身が、みるみるうちに抽出されたコーヒーが落ちていき、フラスコが黒く艷めく液体でいっぱいになる。
「どうだい。すごいだろう?」
「なんというか、感動的です」
「お、分かってくれるとは嬉しいね」
マスターはニコニコと笑いながら、最後の1滴が落ちるのを待っていた。その視線の先で、ロートからの最後の一滴までを見届ける。湯気と共に、再びコーヒーの香りが立ち上ってきて、彼女の鼻腔を良くくすぐってきた。
「おまたせしました。カレーセットです」
コーヒーをカップに着いだマスターは、先にいつの間にやら準備していたのかカレーとサラダ、デザートのヨーグルトを乗せたトレーを持ってくる。
「いただきまーす」
「まって。ここのカレーはコーヒーと一緒に食べるといいんだ」
早速手を着けそうになった所を、海人にとめられる。目の前にこんなに美味しそうな香りをさんざん振りまく皿があるのに、食べられないとはもはや拷問。
拳を握りこんで海人を恨めしそうに見るセイウンスカイに、マスターは苦笑しつつコーヒーもテーブルに置いた。
「別にそんな変わりはしねぇよ。ちょっとくらい早くたっていいじゃないか」
ごゆっくり、とマスターが下がると、海人はスプーンを手に持ってセイウンスカイに促す。直前でお預けくらったのはあなたのせいですけどね! とむかっ腹が立つものの、コーヒーとカレーの香りに打ち消されていく。
「いただきます」
改めて、2人の声が重なる。海人は少し顔をかたむけ食器の配置を覚えようとしているが、セイウンスカイは早速カレーに手をつけた。暖かな白米と、いくつもの積層されたスパイスの刺激。最初の1口くらい視覚と嗅覚で楽しみたいものだったが、もう空腹は限界だった。
口に運ぶ。
その瞬間に突き抜けるのはピリ、としたスパイスの刺激だ。思ったより辛めのファーストインプレッションに、セイウンスカイは驚く。
「結構辛いのは気をつけてね」
向かいの医者はひょいひょいと口の中にカレーを運んでいて、たまにコーヒーに手をつけていた。もっと早く言え、という言葉を食事中なので呑み込めたのは、褒めて欲しいところである。
2口。結局1口目は楽しむ余裕がなかったので、やり直す。やはり、口に入れて最初に感じるのは突き抜けるような辛さだ。だが直ぐに潜伏すると、代わりに台頭してきたのはフルーツの甘みと、微かな酸味。その甘みも余韻を残しつつ引いていき、最後にはスパイスのさわやかさが残って、口はまた食べたいと主張する。
「おいしい、ですね」
「コーヒーも飲んでみ。後味に凄い合う」
「なるほど?」
ならば、と3口目の余韻の後に、コーヒーを飲んでみる。
「おお、これはすごいですねー。感動です」
後に残るスパイスのさわやかさがコーヒーの苦味と合わさり、とんでもなく深い味になる。これはコーヒー単体の完成度も非常に高くないと出来ないのではないだろうか、とコーヒーに詳しくないながらも思う。
真っ赤な何とも懐かしい福神漬との相性も抜群。こりゃ、トレーナーさんもハマるわけだね、と納得。ついでに自分もハマりそうであった。
「はあ。美味しかった。ご馳走様」
「……早すぎません?」
「カレーは飲み物じゃないけどね。ここのは飲み物だよ」
爆速で食べ終わった向かいのトレーナーに驚愕しながら、彼女も追いつこうと食べ進める。普段はあまり辛いものが得意でない上に猫舌を自称する彼女だったが、思いもよらぬ速さでこちらも食べ終わってしまう。
紙ナプキンで口の周りを拭きつつ、口の中の余韻を楽しんでいた。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さん」
皿を下げたマスターを見送ってから、セイウンスカイは口を開く。
「いやはや。トレーナーさんがこんなに良いお店を知ってるとは」
「意外?」
「あんまり出歩かないと思ってたので」
コーヒーを飲む手が止まる医者。
「そんなに引きこもりに見える?」
「出かけにくいんじゃないかなーと」
「まあそれはそうなんだけど。セリカの散歩はしないと」
「あー。確かに」
そういえば前言っていたことを思い出す。「土日は寝なくて大変だ」と。シェパードが必要とする運動量は多い。平日はウマ娘と駆け回ることが出来るが、それを覚えているので散歩だけだと満足しないのだと言う。
「で、散歩の最後にはここで夕食とって帰るのがルーティンかな」
「毎週来てくれんだよ。食うもん無くなるから、そんなに来なくていいってんだけどな」
マスターはそうは言いつつもニヤニヤ笑っていて、面白がっているようだ。セイウンスカイとしてはやはり、トレーナーが孤立しているとかではなくて安心したと言ったところ。当の本人は通いつめてることをばらされて視線を彷徨わせている。
「おっと、いらっしゃい」
彼はマスターになにか言おうとしたが、その前カランカランと扉が開いたので途切れてしまう。悪いね、とマスターは片手を立てて詫びてから、新しく来た客のところに水を置きに行った。
「でさ。トレーナーさん」
「どうした」
「テイオー先輩の怪我って、結局原因はなんだったんです?」
セイウンスカイは声を落とし、目の前の医者に聞く。海人は持ち上げかけていたコーヒーカップを静止させると、ポツリとつぶやく。
「走り方とテイオーさんの身体的特徴によるもの、だと思われる。かな」
「……だと思われる?」
「結局怪我っていうのは原因は複合的だから、『これ』っていうのは中々ね」
「なるほど」
心のどこかで、彼は確実な原因を発見し、それで治してくれると思っていた。もちろんそれは夢物語と分かっていたことのはずなのに、彼女はショックを隠せない。目を伏せたセイウンスカイに、彼は続ける。
「学校医としては起こってしまったことは仕方がなくて、どう次に繋げるかが大事かな」
「どう繋げるか……」
「あらゆる原因。指導が悪いなら指導を、用具が悪いなら用具を、環境が悪いなら環境を。治すことももちろん大事なんだけど、繰り返さないためにどうするか」
治すのは外の専門家の仕事。彼の仕事はトレセン学園において、どうやって同じ怪我を防止するか。なんとなくだが、そういう棲み分けがされているようだ。
「私は医者だけど、広く浅く。勉強して無いわけじゃないけど餅は餅屋に任せた方が安心だから」
「なんか。恨まれそうですね」
「……まあ、そういう事もあるよ」
『治してくれるんじゃ無かったのか』
『何のためにいるんだ』
『期待してたのに』
何度も何度も投げられた言葉だ。その度に、自分の無能さに嫌気がさす。無力感が体を満たす。自分の目がこうじゃなかったら良かったのにと、自分の体を恨む。いや、そもそも。目がこうならなかったら、夢を諦めずに済んだ。頭の中にまだ残るアンチラグと浮遊感が、呪いにならなくて済んだ。
半ば俯いて唇を噛むトレーナーを見て彼女は思いを推察するしか無いが、サングラスの奥の目は何かに耐えんとしているように感じられた。
「トレーナーさんが頑張ってるのは私がよく見てるからさ」
「ありがとう」
薄っぺらい慰めしか出来ない自分が歯がゆいが、彼は穏やかに笑っている。それが、少しとはいえ救いだった。