トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
夏の昼下がり。蝉が鳴く声が外ではうるさい。室内にもその余波は流れ込んできて、とても寝れるような環境でないことに、セイウンスカイはソファで唇をとがらせていた。
「トレーナーさーん。セミがうるさ〜い」
「そうだね。私にどうしろと?」
「静かにさせてきてー」
「無理だね」
「えー……」と不満を漏らしながら、彼女はソファ座面に体を投げ出す。対角線上で窓を開けると風が通って良い。というアドバイスに従っているのになんでこんなに暑いのか、と不満を漏らすその額には髪の毛が張り付き、それを鬱陶しそうにかきあげていた。
「高原だから涼しいよって聞いたんですが。何なんでしょうこの暑さは」
「酷暑だねぇ。地球温暖化ってやつでしょ」
「なら、空調使ってない我々はエコロジーってことになりますね……はぁ」
セイウンスカイが話している相手は彼女のトレーナーで、医者でもある右堂海人。彼はいつものスーツのジャケットを脱ぎ、ワイシャツにノーネクタイで仕事をしていた。ジャケットやグレーのネクタイがないのは新鮮な格好なのは間違いないが、結局上に白衣を羽織ってしまえば見た目の印象は余り変わらない。
はてさて、2人がどこにいるのかと言うと、静岡県は伊豆に設置されたトレセン学園の合宿所のうちひとつである。夏合宿は主にクラシック級以降のウマ娘がスキルアップ、レベルアップを目指す場であるが、ジュニア級でも参加出来ないという決まりはない。
というわけで海人とセイウンスカイのチーム〈アルゴル〉も、夏合宿に参加して能力の向上を目指すことにしたのである。
彼が直前まで出張だったのもあり、学園を出発する時には燃えていたセイウンスカイも……あまりの暑さに2日目でダウンしていた。
「まだ2日目だろう?」と苦言を呈してみたものの、海人にも暑いものは暑い。
「明日はちゃんと早朝にやろうね」
「えー……早起きですか?」
「昼はここで休んでていいから」
「でもでも〜。2度寝が出来ないってセイちゃん的に大きなマイナスというかー」
パタパタと不満げに足をばたつかせる。分かっている。彼の言っていることは正しいのだ。涼しい朝のうちにやった方が良いのは頭でわかっているが、やはりもっと寝ていたいと体は正直だ。
「ダメ。メニューはそんなに多くないし。涼しいうちにやってシャワー浴びてあとはゴロゴロ。それでいいんじゃない?」
「ならば」
「ならば?」
「トレーナーさんは私のやる気を引き出してみるのはどうでしょうか」
海人の動きが止まる。そう。ウマ娘のやる気を引き出すのもトレーナーの仕事。これまではセリカと共に走るということ自体が彼女のやる気を引き出していたが、今セリカは夏バテ気味で不調だ。だから彼がやる気を引き出さなければならないのだが、いきなり言われたトレーナーはパソコンを打つ手を止めてしまった。
「トレーナーさーん?」
「分かった。君がそう言うならやってやろうじゃないの……アイデアだけはあるんだけどね」
その言い方に、セイウンスカイはムッときた。
「なら最初からやってくださいよ」
「使わないなら1番いいと思ってね」
正論ではあるが、あるなら最初からやって欲しいとも思う。何も言わなくてもトレーニングするのがいちばん望ましいとはいえ、だ。
「わーい。じゃ、今日は休ませてもらいますね……」
「まあ、いいけどね」
再びパソコンに向き合い始めた海人。本当に、いつもずっとパソコンに向き合っているので彼女は思わず聞いてしまった。
「今日は何やってるんですー?」
「今日? メジロ家の主治医氏が書いた論文のチェック」
「うへえ」
そういえば、繋がりがあるとか言ってたような。どんな論文なのか聞こうと思ったが、難しい言葉が返ってきそうで躊躇する。その間にも彼はどんどんと論文を読み進めているが、いつもより医者らしい姿に彼女は感動すら覚えていた。
「ここの君たちの体調管理、指導も仕事なんだけどね。下の砂浜に行っても上のロードコースに行っても邪魔なだけさ」
そもそもトレーナーとして働いている者なら熱中症への対処程度はできて当然であるし、よっぽど大きな怪我は即救急車を徹底させている。
「なるほど。そのおかげで私は今ここでのんびり出来ているというわけですね」
「君のためじゃないんだけど」
セイウンスカイは答えない。ここまで言って動かないのは、もうやる気が出ていないということだ。ちゃんと言うことを聞いてくれていると思ったが、彼女にとってはセリカ>自分だったようでショックと言えばショック。
「そういえば最近模擬レースはどう?」
「おやおや。どういう心変わりです? 授業の様子を気にするとは」
「たまにしてただろ?」
「そうでしたか?」
「してない?」
さあ、と首を傾げ合う2人。していたとしても、あまり意味の無い会話だったからかお互いに覚えていない。
「やっぱり逃げかな」
「そりゃあセイちゃんは希代の逃げウマ娘として売ってますので」
「だよねぇ」
「先行とか差しとか。こう、蓋されてるのが我慢ならないというか。好きに走れないのが嫌なんですよね」
とことんマイペースなウマ娘だと思うが、だからこそ自分を選んでくれたのだろうか、と海人の頭に一瞬よぎる。それは自意識過剰だと頭の中から考えを追い出してから、彼は顎に手を当てた。
「どうしたんです?」
「逃げは攻略されると後が無い」
「はい?」
口元に手を当てて、ぶつぶつと呟いただけでは彼女に聞こえなかったようだ。体を起こし、座面に膝を立てて背もたれから体を乗り出す。
「逃げは攻略されると後が無い、って言ったんだ」
逃げという戦法を取るということは、レース全ての局面で後ろに控えているウマ娘と比較して早い速度で走るのを余儀なくされる。レース展開によっては中盤に足を溜めてスパートという真似が出来るかもしれないが、その場合でも序盤に前へ行くための体力は必要だ。
だから、逃げウマ娘には本当に高い総合力が求められる。それが故に、逃げウマ娘は勝ち上がれる事が少ないし、現役も長いとは言えないことが多い。
「それに、君はマルゼンスキーのような大逃げタイプでは無い。そもそも逃げは攻略されると何も残らない」
「それは……そうですけども」
マルゼンスキーを呼び捨てにした事におや、と思うが、そういえば彼女も〈リギル〉の所属だったとセイウンスカイは思い出す。
それはそうと、切れる末脚や根性が不足しているのは自分がいちばんよく分かってる。そして、それをできる限り補うためにスパートの練習をしているのではなかったか。こうもはっきり言われるとムッとせざるを得ない。もしこれ以上失礼なことを言うようなら物申すつもりだったが、彼の口から出てきたのは意外な言葉だ。
「攻略されるのを遅らせるにはどうしたらいいと思うかな?」
「どうしたら、って言われても……」
自分の逃げが攻略される。いつかは来ることなのかもしれないが、ぞっとしない光景だ。想像したくないという脳みそが、思考を邪魔する。
「あげるとしたら2つ。大逃げともうひとつ」
「その心はなんでしょうね?」
椅子をまわし、彼はセイウンスカイを正面に捉えようとして……少し行き過ぎる。そのまま「これは仮定の話なんだけど」と話し出そうとしたので声をかけ、向きを修正させた。
「ああ、ありがとう。1つ目の大逃げに見せ掛けるのは文字通り。君は大逃げの暴走ウマ娘です、となる。勝っても、誰もまともに並んでこようとはしないし、どうせまぐれだと思われる可能性は高い」
「ほう?」
「皐月賞で初めて頭を使う逃げをする。少しは……効果があるんじゃないかな」
何も考えてない逃げだと思わせて、実は頭を使って逃げていました、という方法。逃げられるならそれでもよいのでは?と思わないでもないが、彼はふたつ問題がある。と神妙な顔で指を立てた。
「1つは君の負担が大きいこと。逃げ自体負担が大きいのに、大逃げなんてやった日の足の負担なんて考えたくもない」
「2つ目は?」
「逃げてることには変わりなし、かな」
そううまくは行かないようだ、とセイウンスカイは落胆。そして表情から察するに、彼は体への負担の方を重要視しているようだった。
スタミナの持つ限り全力で走る。言うのも書くのも簡単だがやるのは困難が伴う上に、後に続かない。最終的に逃げることには変わりないと思うが、意図的な無茶はさせられないということか。
「じゃああともうひとつってのは?」
よくぞ聞いてくれた。と言うように海人はニヤリとした笑顔を見せる。背筋に走るゾワゾワした感覚。嫌な予感だ。
「そっちはね。逃げない」
「なるほど逃げな……はい? なんて?」
耳を疑って首を傾げてから、やっぱり何かが聞こえの邪魔をしていたのではないかと思って自分の耳の前に障害物がないか確かめる。手は空振りするばかりで、何も無い。
「えーと、何とおっしゃいましたかね?」
「だから、逃げないって」
「……逃げない」
「そう。逃げない」
何を言っているんだこの男は。セイウンスカイは眉間というか顔全体にシワがよっていて、細かく振られる首は心からの幻滅を表している。
「い、一応聞きますが、そのこころは?」
「逃げなきゃ対策のたてようがないでしょ?」
「それは、そうですけどっ!」
思わず声を荒らげる。いやいや。こんなことを言い出すとは思わなかった。今すぐに立ち去りたいと拳を握り込む。
「まあ待って。何もずっと逃げるなって言ってる訳じゃない」
「……話だけは聞きましょうとも」
「おお、ありがとう」
視線の先のトレーナーは満面の笑顔だ。やっぱりどこかズレている気がする。
「逃げは君の切り札だ。だから皐月賞で切る」
「私の切り札……」
いきなり戦法を変えれば、多少なりとも他のウマ娘はまごつくはず。そこでさらに手を重ねれば、勝ちは大きく近づく、と言うようなことを彼はつらつらと述べていた。見せていないものを対策はできないし、いきなり繰り出されたものに即対応できるウマ娘は中々居ない。もしそれで即座に対策できるのなら、もはや勝ち目はないから諦める。
「それはともかくとして、人間もウマ娘も。予想外には弱い」
「で、そのために大事なデビュー戦からしばらくを先行か差しで行くと?」
「そうだね」
「大事な時期を」
「そうなるね」
頭の中でメリットとデメリットを計算する。彼が自分を勝たせようとしてくれているのはセイウンスカイにも良くわかる。ただそれと自分の走りが出来なくなる窮屈さは別問題だ。やるそかやらないかは自分で決める。
その前に文句を言っておくことは忘れないが。
「うぅぅ……酷いひどーい! トレーナーさんがこんなに横暴だとは思わなかったー!」
「ごめんね」
「ごめんで済むなら怒ってませーん! このままだったらやる気がなくなっちゃうよー!」
両手で交互にソファの背もたれを叩いて抗議。唇をとがらせて頬を膨らませて。ジトーっとした目が椅子に座る医者を刺す。
「とーぜん。トレーナーさんには埋め合わせを期待していいんだよね?」
「ああ。勿論。レースで勝つごとに何か考えるよ」
「ほうほう」
考える間もなく埋め合わせを承諾した答えを聞いて、セイウンスカイは今色々なものを天秤にかけている。先行や差しで戦えるのか。顎に手を当て、唇を結び。そして、じっと床を見すえる。
夏の湿った風が扉をカタカタ鳴らしていて、彼女は無意識のうちに尻尾をその音に合わせて揺らしていた。
「はーあ。しょうがないなー」
「お?」
意を決したのかソファから立ち、彼女は腰に手を当てながら歩み寄る。
「ちゃーんと勝たせてくれるのと、ご褒美、期待してますからね?」
「勿論」
「もー! やりますよーっと。トレーナーさんの言うことだしね」
海人はその言葉を聞くと背筋を伸ばし、顔を緩ませる。穏やかな笑顔が心底からの破顔になって、恥ずかしくなったのか咳払いしていつもの笑顔に戻る。
「もしかして……緊張してたとか?」
「まあね。君に上から押さえつける提案をするのは勇気が必要だった」
「じゃあしないで貰えると嬉しいんですけど」
「正論でしかないからやめて欲しいな」
彼の顔がサッとそらされる。罪悪感というか、後ろめたさというかをちゃんと感じてくれていることには安堵するものの、指先を弄んでいる上に何やらリズムを刻み始めた。
「トレーナーさん?」
「何かな」
「なんでこっちを向かないんです?」
正面に靴を鳴らして回り込む。今度は扉の方へ顔を向けた。頬がかすかに痙攣している。
「いやぁ。まあ、仕事に戻ろうかな。なんてね」
「戻ってもいいんですよ?」
「そうだね」
今度は床に。3歩近づいてしゃがむ。
シルエットが真ん中に来たことを察した彼は、視線を上げた。指遊びはまだ続いている。サングラスは天井の蛍光灯を反射し、やっぱり奥の目を見ることは出来ない。
「なんで逸らすんです?」
「……やっぱ怒ってるだろ」
「そりゃ少しはムッとしますよ。でも、トレーナーさんが色々考えてくれたんでしょ?」
「そりゃ。足引っ張ってるばかりじゃいけない」
視覚障害だからと、彼女が負ける理由になってはいけない。新人だからと、彼女が3冠を逃す理由になってはいけない。法律と道徳に悖らない範囲でどんなことをしてでも、彼女を勝たせる。
人の悪い表情を笑顔で覆い、セイウンスカイに笑いかけた。
「だから、私も策を考えようと思ってね」
「しかし、逃げを封印するって……練習できなくなりません?」
「そこは考えてあるよ。レースは理論。座学してもらうことになるけど。確かに実践も必要。そんな中で周りも欺いて、逃げの練習もちゃんとできる」
「ほう?」
また、悪い笑顔。捉える人によっては陰険と評される表情でもって、彼は口を開こうとする。
がしかし、その言葉は外に出ることは無かった。ガラ、と閉めていた側の扉が開けられて、男が顔を出す。
「ありゃ。取り込み中だった?」
「話してはいたけど取り込み中じゃないかな」
「なら良かった……こんにちは。セイウンスカイ」
頭を掻きながら入ってきたのは装蹄師の左鎚影貴だった。想定外の客である上に来ているとは思わなかった。まさに「はぐれた金属」を見たような表情をしてしまう。
「なぁ。やっぱり俺ってレアキャラ?」
「じゃないの?」
「落ち込むわ」
一通りのやり取りをした後、影貴はちょっと着いてきてくれないか?と切り出す。彼は二つ返事で了承し、パソコンをスリープさせて立ち上がった。
「じゃあ、行ってくるよセリカ……って、君はついてくるの?」
セリカに呼びかけてから白杖を手に取った海人は、後ろに足音を感じて振り返る。半身引いたが直ぐに立て直し、首を傾げた。
「なんか面白そうなんで」
「まあ、レアキャラ脱出のチャンスじゃないの? 先輩」
「言うな言うな」
ゲンナリした顔の影貴だが、海人は極めて愉快に笑っている。それでも緩い空気が漂っているのは本人たちの仲が良い証だろう。
「気を取り直してだな。外に車あるからきてくれ」
「分かった」
歩き出した2人の後ろについて彼女は歩く。何やら楽しそうなものが見られる予感が、セイウンスカイにはしていた。