トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない   作:Skyjack02

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Lap.33 音速の貴婦人の始まり 3スティント

 臨時医務室に戻る道中2人の言葉は少なく、僅かに交錯が成立する程度だった。どちらが話し出しても、会話のラリーは3回と続かない。この場を支配しているのは、圧倒的な走りを見せられたことによるある種の驚愕。どちらもはっきりと口には出さないが、消し忘れたストーブのようにチロチロと燻る感情の表出だった。

 

「……少しは参考になったか?」

 

「いいえ。全くです」

 

「そうか」

 

 今回も、それだけで流れは途切れる。何を言っても、何も紡いでも、結局先程の衝撃を和らげることは出来なかった。海人は明らかに人智を超えた所に位置しかけている走りに、セイウンスカイは自分のような箸にも棒にもかからないウマ娘で到底到達できない次元の走りに、それぞれ心中をかき乱されている。

 

「もし私があんな走りをしたら、どうします?」

 

 海人の足が止まる。初めて、呆然以外の感情が見えた瞬間だった。セイウンスカイ自身はと言うとは口に出してみて、あまりにバカげた仮定をしている自分を殴りつけたくなった。横にトレーナーがいなかったら、と考えながら、海人のサングラスの奥の視線を想像する。

 

「……私なら、止めさせる。私ができる限りフォローすると言っても限界がある。そして、あの走りはいつ脱線するかも分からない暴走特急みたいなもんだ。気をつけても、どんなに注意しても。破滅に怯えるのはゴメンだな」

 

 私は臆病者だよ、と締めた口元は噛み締められて手元の白杖も細かく振動している。ウマ娘の為に働くと決めてトレセン学園にいる身としては、忸怩たる思いだった。このまま、サイレンススズカがあの走りを続ければ、いつかは破滅が訪れる可能性が高い。

 それは間違いないが、あくまで可能性の話だと言う自分もいるのだ。どちらを信じれば良いのか、海人はこの五分でもう分からなくなっていた。

 

 医者としての自分は、今すぐにあの走りをやめさせろと騒いでいる。もしレース中に限界を超えて足に怪我をしたとして、彼女はいったいどうなる? という意見。もしその怪我をしても命が助かったとして、思い通りに走れなくなって精神的に健康でいられるのか? そもそも走れるようになるのか? 疑念は尽きず、これだけでもう海人の頭はいっぱいになりかけていた。

 

 そして、今度呼びかけてくるのはトレーナーとしての自分。彼女の輝かしい未来を潰すのか? 押し込めて走らせて、果たしてサイレンススズカは幸せなのか? 無事に駆け抜けられる可能性があるのなら、それを信じるべきではないか? と言い続ける声だった。ふたつの声が脳内で延々と反響し、海人は頭を抑えて呻いた。

 

「右堂海人は、一体どうしたいんだろうな」

 

 絞り出された声はセイウンスカイにも届いたか分からない。ただ、立ち止まったトレーナーを見つめる目には、何層にも折り重なった感情が見て取れた。驚愕、躊躇い、心配。なんと声をかければ良いのか分からないままに、昼の太陽に熱された湿っぽい風が吹き抜ける。蝉の声は全ての出来事は所詮他人事と告げるように騒ぎ立て、鼓膜に遠慮なく暴力を振るわれている気分になっていた。

 

「とりあえず、戻りません?」

 

 時間が凍ったかのように動かないトレーナーに向けた声は、永遠に届かないのでは無いかとすら思えた。息を詰めて、知らずのうちに拳を握りしめて、サングラスが動くのを待っているがテントの下から出てしばらく、照りつける日差しが髪を焼いて頭皮まで焦がしそうだ。

 

 トレーニングの時とは違う汗がべっとりと滲む背中に、セイウンスカイはなんとか空気を送り込もうとしていた。首元を仰ぎ、体操服の背中をつまむ。だがそれは応急的な対処でしかなく、脳みそは盛んにシャワーを浴びたがっていた。

 

「────そうだね。戻ろうか」

 

 ようやくサングラスがセイウンスカイを映し、口元がしおれた弧を描く。連れ立って歩く道中は、先程1人で海人を待ちながら太陽に炙られているよりは楽だった。いつもよりは多少フランクとはいえ、ここでもスーツを着込んでいるのはどうだろう? と視線を改めてトレーナーにめぐらす。

 

 汗ひとつかいていないのはさすがと言うべきだろう。顔色も痩せ我慢をしている雰囲気はなく、学園で冷房の効いた医務室にいる時と変わらない。こういう所に何故か大人を感じてしまうのは、セイウンスカイが汗まみれでいるからだろうか。

 

「まあ、帰ったら昼前にシャワーでも浴びたらどうだ」

 

 風と砂利をふみしめる音に紛れて聞こえるセカンドテノールを危うく聴き逃しそうになるが、何とか耳に収めて返事をする。正直その返したボールだって上手い軌道を描いているか怪しかったものの、海人はまたそれを投げ返してきた。

 

「上の空だな。仕方ない……午後はどうする?」

 

「いやぁ、特には決まってないんですよね」

 

「なら、セリカの面倒でも見てもらえるか? 今日はまだ元気なんだけど、まだ辛そうだ」

 

 唯一無二の相棒に対しての引け目を口から漏らし、ちらりと海人は視線をセイウンスカイに向けた。当のウマ娘はトレーニングがあれだけで良いのかという迷いもあり、返事は喉に引っかかって出てこなかった。

 歩き続けるトレーナーからは見えない箱の中身を慎重に探るような、こちらの反応を伺うような動きがあって、またつぶやきが盛れる。

 

「まあ、トレーニングしたいなら止めないし。ちょっとスピカに付き合う用事があるから、合同をお願いしてもいいと思うし」

 

 落ち着かない心境は言葉を揺らめかせて、サングラスの奥の視線も一緒に律動させる。かなり煮え切らない態度の海人を見て、セイウンスカイは微かに同情を寄せた。

 

「……ちょっと休んだらトレーニングします。セリカちゃん心配ですし」

 

「そうか。分かった」

 

 ひとつ頷くとサングラスと背筋を直した男はまた前を向いて歩き出し、セイウンスカイもそれに足を合わせた。そこからは無言のまま臨時医務室の前まで来て、セイウンスカイと別れる。「それじゃまた〜」と気の抜けた声とぺたりぺたりという踵をあげない歩き方を聴きながら、海人も手を振った。

 

 カラカラ、と扉が閉まる音を後ろ髪にからませ、しん、とした合宿所の冷えた空気を存分に吸い込んで自分を落ち着けながら、セイウンスカイは階段を2段飛ばしで駆け上がる。

 2階にもこの時間では人の気配はなく、ただ時折強く吹く風の音が窓を揺らすくらいだった。そんなはずは無いのに、サイレンススズカというウマ娘の足音が後ろから彼女を追い越して抜けていった。

 

 未だ胸中を駆け巡る、はるかな高みにある逃げウマ娘。いつもなら直ぐに忘れようとするのがセイウンスカイの常だったが、今回は心に衝撃が彫り込まれたかのように消えなかった。

 スーツケースから着替えと干してあったタオルを取ってシャワー室に向かう胸中にも、未だに萱草色の静かなる衝撃が反響し続けていた。

 

 

 

 ぬるめのシャワーは体にベタつく汗だけでなく、心のぬめりまでそのお湯で洗い流してくれるようだった。耳の先からつま先まで心地よい温度の水流に身を任せていると、夏合宿やトレーニング、これからのレースなども曖昧になって溶けてしまうような感覚に陥る。

 

「ああ〜、極楽極楽」

 

 本当は湯船に浸かりたいものだが、今の時間は開放されていないという事実は覆せなかった。心の中で学園にケチ! と砂をかけてから、お湯を止める。濡れた肌が空気に触れると、夏の昼間でもとても涼しかった。このまま冷感に身を任せたいとも思うが、こんなくだらない理由で風邪をひいたとあってはトレーナーに怒られるどころの騒ぎではなくなるだろう。

 

 体についた水滴をサッと吹き上げ、髪と尻尾を乾かすのもそこそこに再びジャージを着る。ぬるいとはいえお湯で温められた体は熱く、セイウンスカイは着替えを部屋に放ると落下する前に扉をしめ。新しいタオルを持って医務室に走り出した。サイレンススズカには届かないかもしれないが、走りたくて仕方がなかったのである。

 踊り場は華麗なコーナーワークで駆け抜け、階段最後の3段はジャンプしてすっ飛ばす。他人に見られたら注意されること間違いなしの行為だったが、誰もいないのでよしとした。

 

 古びたタイルが軋むのも構わず、ノックもそこそこに扉を開け放つ。レールを滑った引き戸がストッパーに当たって悲鳴をあげたことにセイウンスカイはマズイ、との背筋が寒くなった。トレーナーには、あまり大きな音を立てないでくれ、と噛んで含められているし、そもそも中にはセリカがいる。

 動物好きとしては驚かせるような行為をしたことを激しく後悔したが、既に後の祭りだった。

 

「……これはやってしまいましたねぇ」

 

 独りごち、冷房が程々に効いた臨時医務室へ足を踏み入れる。後ろ手で今度は静かに引き戸を閉めると、カラカラというリズミカルな音が唸るような空調の吐出音に交じる。かすかに鼻を刺激するオゾン臭に落ち着きを覚えてから、この部屋の主の声を待つ。

 

 だが、予想してたような苦情は降ってこなった。代わりに耳に聞こえるのは、男の呻き声。椅子に腰かけていたのは予想通りだったが、その首は力が抜けていて体はすっかり椅子に預けられている。

 

「ありゃ。寝ちゃってますね」

 

 だが、口元から漏れるのは苦しそうな寝息。暑さが尾を引いて彼にまとわりついているからだろうか。それとも、真夏なのに長ズボンのスラックスを外していないからだろうか。本当のところはセイウンスカイには分からなかったが、まもなく昼食ということもあって起こすことにする。

 

「トレーナーさーん。起きてよ……もしもーし」

 

 肩を叩き体を揺さぶる。大人の男が持つ質量をガクガクと揺さぶれるのはウマ娘ならではとも言えたが、セイウンスカイにそんな感慨は全くなかった。逆に近づいたことで海人の詳しい状態が見えてくると、心配の情が立ち上がってきた。

 

 短く整えられた髪の毛は頭皮まで汗で濡れている。額にも脂汗が浮かんでおり、シャツの襟元まで色が変わっているとあれば、尋常ではないかも? という疑念が足音を大きくした。よく考えてみればさっきまで外で真夏の日差しに焼かれていたことは確かだが、十分に時間は経っているはず。なのにこんな……と腕をとめた所で、年相応に潤いを失った唇から漏れる呻きが、意味を持ち始める。

 

「……めん……みんな……」

 

「え?」

 

 突然動きだした体。彼は喉を強く締め付ける何かから逃れようとするように体をよじり、ワイシャツの襟元を掴む手はまとわりつくものを引き剥がそうとするかのように握りしめられていた。

 

「ごめ……み……な」

 

 まさしくうわ言で繰り返される「ごめんみんな」という苦しみを帯びた言葉が、セイウンスカイの耳を刺激して中に突き刺さる。このままではまずいという根拠に動かされた彼女は、指先に込める力と声をさらに強く大きくして。

 

「起きてよ! トレーナーさん!」

 

 と耳に直接吹き込まんばかりの勢いで叫んで、また肩を揺する。そこまでしてようやく、彼の覚醒の気配がした。眠りという深い井戸の底からやっと抜け出ようとしている肩に手を置き続け、至近でトレーナーを見守る。

 

「……あれ」

 

 私は、と戸惑う声と共に、セイウンスカイは肩から手を離す。起きてくれたとひとまずの安堵。だが盛んにかぶりを振って眠気と痛みと夢を振り払おうとするその様子からして、どんな悪夢を見ていたのかと心配する彼女が居ることもまた事実だった。

 

「起きた? トレーナーさん」

 

 そう言いながら、「そういえば髪の毛と尻尾を乾かしてないな」と思い出す。だが今優先すべきはトレーナーの体調であり、とりあえず異常が無いかを見なくてはならない。

 

「ああ、何とか……起きたよ」

 

 背もたれから背中を浮かせ、両腕を伸ばして体を解凍しようとするトレーナーを、少し離れて見つめる。サングラスの向こうの目はよく見えないものの、しばらく体を曲げ伸ばし、ようやく眠りから醒めてくれたようだった。

 だがその息はまだ荒く、額には前髪がべったりと張り付いている。海人は手の甲でそれを拭い、驚くような動きを見せる。

 

「……今年は早いなぁ」

 

 人には聞こえるか聞こえないか程度の大きさだが、ウマ娘の耳にはよく聞こえていた。「何が?」と聞きたかったものの彼女には追求する度胸はなく、セイウンスカイの口が告げたのは別の言葉だった。

 

「……タオル、使います?」

 

 肩を揺らす海人に、手に持っていたタオルを差し出す。「いいのか?」と聞きたげな首の傾きに対し、少しでも力になれればとの感情を乗せ、大きなタオルを押し付けた。

 

「早くお昼行きますよ。というか、汗そのままにしてたら風邪ひいちゃうじゃないですか」

 

「そうだね。ありがとう」

 

 極めて穏やかな笑顔を見せてから、海人の指がタオルを掴んで顔を拭き始める。こんな時でもサングラスは外さないんだな、とどうでもいい感想を抱いたところで、セイウンスカイは小さく「あ」と自らの失敗にいき当たった。

 彼が使っているタオルは、自分が髪と尻尾を乾かすために持ってきたものではなかったか? 今から悔いても遅いのは重々承知であるが、一瞬天を仰ぐ。

 

「……どうしたの?」

 

「あーいやいや。気にしないでください」

 

 と誤魔化したがしかし海人も、ものが分からない人間ではない。髪の毛を拭いている時には分からなかったが、顔に滲む汗にさようならを告げていると、鼻腔に漂ってきたのは予想外であった。

 

「あれ?」

 

 動きが止まる。タオルを鼻に当て、何回か息を吸い込んでいるようだった。セイウンスカイはなぜか首元から匂いを嗅がれている感覚に陥り、落ち着かなさに足を踏み変えた。持ってきたのは新品だったので自分の匂いは着いていないはずだが、まじまじと動きが止まるとさすがに恥ずかしい。

 

「これ……うちのじゃないな」

 

 モコモコとしたパイル地の白いタオルからは、いささかの菊の花の香りが立ち上っていて、海人は不意の鼻を突き抜ける華やかさに動きをとめた。医務室で使っているタオルは味気ない微かなオゾン臭がするのでよくわかるし、そもそもこんなに柔らかくない。

 

「あ、あの〜」

 

 声に顔を上げた男の耳に届いてきたのはそわそわした足音。腕を胸の前で組み体を小さくよじり、袖が肩口や脇腹で擦れる音も着いてくる。心がさざめき、平穏ではいられないのはセイウンスカイの様子を聞いた海人にはすぐ分かった。そして、原因が手に握られているものであろうということも、よく分かっていた。

 

「なんだその、ごめん」

 

「え? ああ。いやいや気にしないで下さいトレーナーさん」

 

 早口で告げながら近づいて、早く自らを襲う羞恥の現況を取り除こうとしたものの、海人はそれをカバンにしまおうとした。「ちょっ!」と少しばかりでなく焦る。

 

「ん? ……洗って返すよ?」

 

「いやいや。良いんですって」

 

「でも私が使っちゃったわけだから」

 

 海人が言っているのは真っ当な事なのだが、やっぱりセイウンスカイには認められなかった。半ばひったくるようにタオルを掴んで体を引く。

 

「汚いだろう?」

 

「というより! あんまりまじまじ嗅がないでください!」

 

「ごめん。いい柔軟剤だな、と思ってね」

 

 素直に謝ってくれたのでよしとしたいが、乙女の何やかんやを侵犯した罪は重い。

 

「それでも女の子の持ち物を嗅ぐのはいけないんですからね?」

 

「……そうだね。悪かった」

 

 そう言って深々と頭を下げ続ける姿に「許しますから」と声をかけておき、少し胸を張る。少しでも自分を大きく見せる本能のようなものだろうか。

 

「まあ、ちょっとした埋め合わせはしてもらいますけどね?」

 

 それくらいなら、と眉を下げたトレーナーに今度は、早く食堂へ行こうと促す。促された方は暫し呆気に取られたように固まっていたが、ゆるゆると腰を椅子から剥がし、懐から白杖を取り出して真っ直ぐに伸ばす。カラン、と石突が古びた床を打ち鳴らして、トレーナーの存在を周囲に押し広げた。

 

「君はいつものんびりなのにやる気がある時だけ急がせるよね」

 

「ダメです? 思い立ったが吉日って言うじゃないですか」

 

「それはそうかもね」

 

 先に引き戸まで歩いていき、今度はゆっくりと扉を開ける。足元を探りながら歩いてくるトレーナーを待ちながら、セイウンスカイは乾かす時機を失ってゴワゴワとした手触りを返す髪の毛と尻尾の毛に指を滑らせた。

 

「ま、いいよね」

 

 まとまりを半分失った髪の毛も長く伸ばされた尻尾も、人助けをした勲章のように思えている。ならまあ、言い訳は経つだろうとここにはいない世話焼きの同級生を思い浮かべる。

 

「ありがとう」と横を通り抜けたオゾンの匂いを追いかけて、セイウンスカイも外に出る。蝉の声は不思議と止んでいて、静かな合宿所の廊下が目の前に続いていたが、頭には先程の光景がこびり付く。「みんなごめん」という言葉が、サイレンススズカの走りよりも何段も重く、脳裏に滞留していた。




また少し余裕が出てきたように思います。
これからも頑張っていきますので、応援よろしくお願いします。


はてさて、感想評価お気に入りをして頂けると、作者としても励みになりますのでどうぞよしなに。

次回、火曜日にお会いしましょう
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