トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「スペ! まだまだへばるには早いぞ! マックイーン! 姿勢がブレてる! 正しい姿勢を意識しろ!」
昼下がりの合宿所のグラウンドは、強くなり始めた太陽がガンガンと地面を焼き、人を焼いていた。土埃でさえ蒸発してしまうのではないかと思える日差しに目を細めて、男は黄色いシャツの腕をまくり直した。
他のチームはロードワークや海でのトレーニングを選んでいて、土のグラウンドにいるのは〈スピカ〉と〈アルゴル〉だけ。〈アルゴル〉はトレーナーの男しかいなかったから、実質的に〈スピカ〉が占有してると言って良い。
「ウオッカにスカーレット! 張り合うのはいいがオーバーワークになるからな!」
双眼鏡も使いながら、所属するウマ娘の様子を見、足運びと姿勢を見、そして手元のタブレットを見る。メガホンで声を届けてから、成り行きを見守る。半放任ではあるが、締める所は締めるのがこの男、西崎リョウのやり方であった。
「いやぁ。大変ですね」
乾ききった土を踏む革靴の男が再び近づいてきたのをちらと見て、リョウはまたグラウンドを走るウマ娘たちに視線を戻した。メジロマックイーンは、スペシャルウィークは、ウオッカは、ダイワスカーレットの体に異常はなさそうか。双眼鏡が巡る視線の中、一人コースの端で何やら木刀を持ってスイカと相対する芦毛のウマ娘がいることに苦笑してから、今度こそ双眼鏡を下ろした。
「まあな。でも、楽しいだろ?」
「そうですね。私は1人ですが。でも、楽しいです」
横に並び立った年上の後輩を横目で見やり、次はコースの手前を歯を食いしばりながら歩くウマ娘へ視線を向ける。
小さな体躯をジャージとハーフパンツで包んでいるというのは、ごく一般的なウマ娘の格好である。だが目を引くのは足首に巻かれた大きなサポーター。痛々しいまでに主張をしてくる黒い塊を見て、リョウは唇を噛んだ。
「テイオーの調子はどうだ?」
「骨はほとんど問題ないでしょう。想定より早い治りです……しかし、筋肉が戻るか、走りを取り戻せるかは分かりません」
「だよな……」
双眼鏡を強く握り込むとギリ、とプラスチックが悲鳴をあげる。苦悶を浮かべながらゆっくりゆっくりと歩くトウカイテイオーの様子をどこかでは冷静な頭で観察してしまうのは、トレーナーとしての嫌な本能のようなものだった。
「テイオー! 走りたいかー!」
「当たり前だよー!」
「なら腐らずな!」
「わかってるーー!」
最近は、随分と明るく振舞ってくれるようになってくれたことに、リョウはまた安堵する。怪我してすぐの5、6月まではどこか影が落ちている感じであったが、今は多少前向きになってくれたよう。
「なんか。押し付けてるみたいで悪いな」
この合宿の間、トウカイテイオーの面倒を見るのは海人の仕事だった。リョウとしても面倒を人に任せるのは不安だったのだが、今は安定しているとはいえ怪我をして精神的にも肉体的にもナーバスになってしまいがちなトウカイテイオーのことをよく見るため、と申し出たのは海人の方だ。
「いえいえ。彼女の幸せの為ですし」
ふっ、と柔らかく息を吐き、トウカイテイオーがリハビリをする向こうへ顔の正面を向ける。
「テイオーさんが菊花賞に出られるよう、最大限努力しますから」
「頼む」
クラシック最後の1冠である菊花賞。トウカイテイオーが無敗の3冠を摂るために必要な最後のピースは、あと2ヶ月後に待ち構えている。挑めるかは、正直に言ってしまえば分からないと言うのが海人の見解であり、リョウもそれを了承していた。
「ですがその時は……」
「ああ、俺から話すよ」
お願いします、という現実になって欲しくない呟きは、熱された海からの風にまかれて空へ消えていく。かすかな潮臭さが鼻腔を刺激する中、新たな足音に海人とリョウは揃って後ろを振り向いた。
「……そんなに注目されると困っちゃうんですけどね」
「セイウンスカイか」
「〈アルゴル〉のセイウンスカイですよー」
言い直さなくていいからと苦笑した海人の隣に、白群の芦毛をなびかせながらセイウンスカイは並ぶ。だが、彼女は1人ではなく、足元にいるのは茶と黒の毛が混じりあった大型犬。凛々しい表情と大きな耳が目を引くが、さすがに暑いのか舌を出して呼吸をしている犬だった。
「もしかしてセリカ連れてきた?」
「そうなんですよ。トレーナーさんがいなくて寂しそうだったので」
耳をすませば、尻尾が振られるパタパタとした音が足元からしている。ここしばらく聞いていなかった音に海人は内心で申し訳なさを募らせながらも、しゃがんで正面から唯一無二の相棒へ向き合う。手に絡む、柔らかな毛かき分ける感触ともちもちした皮膚の感覚。
「トレーナーさんに撫でられてるのが1番うれしそうですよ? 妬けちゃうなぁ」
4月から今まで、一緒にトレーニングをしてきた。一緒に走った仲ではないか、と半分ウマ娘特有の価値観を滲ませながらセリカの背中を撫でるセイウンスカイだったが、セリカは一向に振り返ってくれなかった。首元に手を回してわしわしと撫でてみても、背中を大きく撫でてみてもダメ。
むう、と唇をとがらせて熱を持つ毛皮に顔を埋めると、どこなく懐かしいような獣の匂いが胸を埋める。じいちゃん家の2匹は元気だろうか。じいちゃんは元気だろうか。不意に湧き上がってきた郷愁を誤魔化すようにギュッと手に力を込めてしまい、セリカは苦しそうに身をよじった。
「あまりいじめないでやってくれ」
「あ、ごめんねセリカちゃん」
セリカからは土と草いきれが混じった匂いがしないな、と実家のシェパードと比べての感想を抱くと共に、今度は懐かしい畳の匂いが脳裏に蘇る。こんな日は縁側に座り、蝉の合唱を聴きながらじいちゃんとスイカを食べたものだ、と毎年恒例だった記憶をたどっていると、「スイカ食べたいな」という本心が思わず漏れる。
「……スイカ?」
「あれ? 口に出てました?」
「残念ながら用意はないな」
昔を懐かしんだ結果口から出たとか、本気で食べたかったわけじゃないと言葉を並べ立てようとすると、思わぬ方向から援護がやってきた。
「スイカか? ならあるぞ」
「あるんです?」
「というか、そこにな」
リョウが指さす先に目を凝らしてみると、背の高い芦毛のウマ娘が木刀を構え、スイカと正面から向き合う姿があった。その腕が動き、木刀が抜き放たれて空中で静止。1拍置いてから、スイカはバラバラになった。
「……何やってるんです?」
「ゴルシが何やってるかは俺にも分からん」
リョウですら匙を投げる奇行をする……ゴルシと呼ばれたウマ娘は食べやすそうな大きさになったスイカを抱えると、猛然と土煙を置き去りにしてこちらに走ってくる。長身なこともあってえも言われぬ迫力に圧倒されかけたセイウンスカイは、海人の後ろに半身を隠した。
「トレーナートレーナー! スイカ冷やしてきてもいいか!?」
「ダメって言ったら傷んじゃうからな」
「話がわかるトレーナーで助かったぜ! じゃあ、ゴルシちゃんは急がなきゃいけないからな!」
スーパードクターUと語り合いたかったぜ……とゴールドシップは後ろ髪を引かれる様な、憂いを帯びた表情を一瞬見せてからかけ出す。それはとんでもなく絵になる光景であったが、残念ながら海人には見えていない。だが、その足音から微かに引き摺られるような、そんなニュアンスがしていたのも、また事実だった。
「私はいつでも暇ですからいいですよ」
海人がその後ろ姿にのんびりとした声をかけてしまうと、一瞬の暴風のようなゴールドシップの奇行はあっという間に見えなくなった。後に残されたのはもうもうと立った土でできた霞で、それは日差しを乱反射してキラキラと輝いているように見えた。
ゴールドシップが楽しいことをやっているからか、それとも、自分が走りたくてたまらないと言う衝動に支配されているからかは分からなかったが、足元はうずうずと何かを訴えている。
「というわけで、リードはトレーナーさんに預けます」
「……君はどうするんだ?」
「テイオーさんの話し相手になってからスペちゃんと走ろうかと」
海人に「他チームを巻き込むならそういうことはもっと前に相談してね」と言われて、それもそうだとセイウンスカイはリョウの顔色を伺う。彼女のトレーナーより半周り位若いリョウの表情は少しばかり驚いたように眉が吊り上げられていたが、俺は構わないぞという言葉が返ってきて、反射的に白群の頭が下げられる。
「じゃ、行ってきます!」
青く輝く今日の空のように弾けた声が2人のトレーナーの耳朶を打ち、年を食った方が「行ってらっしゃい」という前に、セイウンスカイは走り出した。
「彼女、その……評判良くなくてな。上手くいくか心配だったんだが」
リョウもその背中を見送ってから、海人に呟く。
「まあ、何とかやれてますよ」
「誇らしいよ」
そうか、と後輩の成長を喜ぶ表情を見せたリョウは、次の瞬間にはウマ娘の指導者の顔となって双眼鏡をまた覗いていた。海人はその隣で、セリカの影になるように立ちながら、〈スピカ〉のウマ娘の足音を聞き逃さんと聴覚に神経を振り分けた。
2人の少し先を、スペシャルウィークが爆音と表現できるような足音を響かせながら通過する。これからが楽しみな教え子の走る姿を認めて、リョウは一つ大きく頷いた。
「テイオー先輩。調子どうです?」
黒い布の塊、精神的な重しになりそうなほど黒いサポーターを巻いたトウカイテイオーの横に並び、セイウンスカイは努めて明るく言葉を出して顔を見た。
「ゼッコーチョー! って言いたいんだけどさ……歩くのがこんなに辛いなんて思わなかったよー!」
食いしばっていた歯を無理やり開いて思いの丈を叫ぶトウカイテイオーだったが、隣に来た芦毛のウマ娘へ向けて、精一杯強がって笑ってみせた。白くキラリと光る歯はまるで太陽のように眩しかったが、トウカイテイオーが放つ陽性の煌めきがそうさせるのか鬱陶しいとは思わなかった。
「今、足はどうなんですか?」
「んーとね、骨はとりあえずくっついたけど、まだ油断は出来ないってさ。だから普段はまだ松葉杖だよ」
「トレーナーさんはなんて?」
「まだ分からないってさー」
その口ぶりには悲壮感や苦悩と言った感情は籠っていなかった。その事にひとまずの安寧を覚える。
実を言えば2人は違うチーム、違う学年、交友範囲も被っていないということもあり、体育祭以降まともに喋れたことがなかったのである。
廊下ですれ違っても、常に人だかりができているトウカイテイオーと、どちらかと言えば1人でのんびりしていたいセイウンスカイのことであるから、多少挨拶するくらいが精一杯。かといってLANEなどのアプリを使おうにも、マメに返信する方でないセイウンスカイが足を引っ張ってしまう。
「3ヶ月、心配してたんです。連絡取れずにすいませんでした」
「ボクは気にしてないよ? スカイちゃんはいい子だねぇ……よしよし」
思うように走れない、歩けない、そして思うような人生では無いだろうに、笑顔を作ってセイウンスカイを撫でる真似までする。気丈に振る舞うトウカイテイオーの姿に胸が締め付けられる思いがした彼女は、無垢に光る流星の白を目に焼き付けてから、正面を向いて歩き続けた。
「やっぱり私、テイオー先輩には菊花賞走って欲しいです。だから、手伝います」
「えー、ボク、走ったら勝っちゃうし……それよりも、スカイちゃんは右堂センセーと一緒にトレーニングした方がいいと思うけどなー?」
ちらりと出されたピンク色の舌は、輝く笑顔の真ん中で尚生命の力強さ、彼女の意志の硬さを表現しているようだった。すぐに引っ込んでしまった桃色の決意をの欠片が目から離れず、セイウンスカイは次の言葉を生み出すことが出来なかった。
「あ、あれ? 何かいけないコト言ったかな……」
可愛い後輩を怒らせたのか? と誤解したトウカイテイオーが少しばかりの緊張を眉に表してからしばらくして、セイウンスカイはようやく大きく手を振って否定することに成功した。
「い、いや! たしかに私はトレーニング必要ですけども……」
「ゴメンね。またイケないこと言っちゃったや」
「大丈夫ですよ。テイオー先輩にそんなつもりがないのは分かってますから」
それが耳に届くやいなや、大袈裟に息を吐いてみせてから爛々たる笑顔を見せ。そして、グラウンドの向こうで走り込むチームメイトへその瑠璃紺色の瞳を向けた。
「誰が目標なんです?」
「うーん。ボクが1番目指してるのはマックイーンかなぁ。走るとさ、気品があるって言うのかな? 羽が生えたみたいにふわふわーって……なんて言うのかな」
1歩1歩確かに歩きながら、今度は首をひねっている。何十秒事に表情を変える彼女の表情は秋の空のようにくるくると移り変わるが、その言葉が持つ「寂寥」や「哀愁」といった感情には全く当てはまらないのがトウカイテイオーというウマ娘だった。
「レース見れば分かりますかね?」
「うんうん! 絶対に見るといいよ」
オススメはねー、とトウカイテイオーは何個かのレースを指折り挙げる。そのどれもが最高峰の格付けのGIレースであり、〈スピカ〉のエースと噂される実力に違わぬウマ娘であることをセイウンスカイは認識した。
同時に彼女は、グラウンドに設けられたオーバルトラックを走り続ける影に確かに言うところの、気品の一端を垣間見た。
腰の辺りまで伸ばした長髪が潮風になびき、白菫色の残光が一帯に気品ある香りを添える。はるか遠くへ向けられている視線も繰り出す足も、振られる腕も全てに神経が張り巡らされ、「優雅たれ」と言う意識が満ち満ちている。
「おお……」
「ね? キレイでしょマックイーン」
何故か誇らしげなトウカイテイオーだったが、その言葉には全面的に同意する他ない。メジロマックイーンがお嬢様であるという事はセイウンスカイも聞いたことがああった。トレーニングとはいえ熱風を切り裂き、冷ややかに整った顔立ちは脇目も振らず、どこまでも先を見据えている。
「確かに、カッコイイって思います」
「カッコイイのは事実だけど、意外とマックイーンって隙多いよ?」
顎に手を当て、何かを思い浮かべているトウカイテイオー。〈スピカ〉に入ってからのあれこれを思い出しているのだろうと推測してから、同じことをすることにした。
「トレーナーさんの隙、か……」
話の種になるかもしれないと考えたが、瞬間に甦ってきたのは何時間か前に聞いた呻きだけ。脳の下層に淀むあの言葉が再び思考によって撹拌され、頭蓋から溢れて体を汚す。何倍にも重くなった足をあげることが出来なくなり、セイウンスカイはその場に止まった。
「……スカイちゃん?」
「ああ、ごめんなさい。朝早かったのでー」
「休んだら?」
「いえいえ。テイオー先輩についてきますとも!」
そうして、横に並んでまた歩き出す。ザッザッとトウカイテイオーの足が確かに地面を踏む音を心地よいと思いながら、セイウンスカイも足を合わせる。性格の全く違う二重奏は遥かに高い空まで登り、晴れやかな気分を加速させた。
トレーナーの過去も気になるが、大事なのは今。少しばかりの申し訳なさを感じながら、セイウンスカイは敬愛する先輩の横でその足を合わせ続けた。