トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
夏は既に過去のものとなり、秋のタップダンスが盛大に世の中に響き渡る10月も半ば。医務室には、誰も近寄りたがらない程に思い空気が漂っていた。二酸化炭素濃度が高くなると、頭痛などの症状が発生する。
まるでその時の重さのような。海人は現実逃避の一環で、医学書のページを思い出しながら座っていた。目の前には、この部屋唯一の客人。
「でさ。センセー。ボクは……もう覚悟できてるからさ」
「先輩を待たなくて良いのですか?」
目の前から放たれるのは、穴の空いた風船に無理やり空気を押し込んだような声色。いつもは陽性に輝いている軽快な声が、今ばかりは沈んでいた。
「いいよ。トレーナーも先始めてていいって言ってたし……ボクにだって、誰かに見せたくない表情あるもん」
「分かりました。先輩には後で話しておきましょう」
ギシ、と椅子が抗議するかのように軋む。私だって、こんなことはしなくない。辛い思いをさせるために医者になったんじゃないんだから……と机に積んだ資料をとりながら、唇を噛む。
薄い鉄錆を感じながら、咳払いをひとつ。
「ではトウカイテイオーさん。よく聞いてください」
「うん」
胃がキリキリと痛む。じっとりと額が汗ばんでいる。だが、それを出すわけにはいかなかった。この瞬間、自分より辛い思いをしているウマ娘がいるのだから、という気持ち。
トウカイテイオーのかかりつけ医と、メジロ家の主治医からもたらされた情報を、彼女に伝える。海人はただの伝言役だ。だから、努めて平静に、感情を出さないように。
「骨は完治しています。しかし、筋肉や体の柔軟性、そして、走る際のバランスは、まだ戻っておりません」
「うん。だよね」
無味乾燥な声色のトウカイテイオー。〈スピカ〉のウマ娘たちと医務室に遊びに来た時とは大違いな雰囲気。
「このまま3000mを走った場合、どのような結果が起こるか。私には想像ができません」
決め手となったのは、メジロ家の主治医からもたらされた「小走りの際にも、足を引っ掛けることが多い」という1文。未だ、怪我によって変化した体を御しきれていない証拠だった。
「ですので……菊花賞は」
この先の一言を発さなければ、トウカイテイオーの怪我がなかったことになって、菊花賞を走れて無敗の3冠に輝くのではないかと。そんな幻想に囚われる。かぶりを振ってその甘言を必死に引き剥がし、働きを拒否する顎を動かした。
「断念して頂きたい。あと2週間でバランスを戻すのは、とても厳しいでしょう」
一息に吐き出して、トウカイテイオーの様子を観察する。時間が凍ったようなしばらくの沈黙の後、彼女は唐突に口を開いた。
「だよねー。ボクもさ。厳しいとは思ってたんだー。やっぱり、そうだよね」
自分に言い聞かせるような言い方。
「申し訳ない」
もっとやり方はあったのではないかと脳内を駆け巡る後悔と、医者として何をやっていたんだという胸中に蠢く自分への怒り。それをできる限り覆い隠して、表情を作る。
トウカイテイオーは微かに震える言葉で、海人に感謝すら述べてみせた。
「謝らないでよ。感謝してるくらいなんだからさ。センセーは色んなこと考えてくれたでしょ?」
「最善だとは、思っています」
「なら仕方ないよ。だからさ、センセーはこれからも、ボクのリハビリプランを考えてよね」
ぼやけた視界に、揺らめく光が現れる。目の前の彼女の胸中は想像するしかない。だが、この感情には覚えがある。自分が進む道が見えなくなった絶望。
「分かりました。ですがテイオーさん。辛いのなら、養護教諭にでも相談してください。私も目がこうですから、走れないつらさは分かるつもりですし」
「え、そうなの? でも、センセーは陸上選手には見えないよ」
「……これは数人にしか言ってないんですけど、私は車で走るのが好きだったんですよ」
「へぇ〜……」
心の奥から引っ張り出された最早懐かしい感情に胸中をかき乱されながら、トウカイテイオーの反応を伺う。心から驚いたという反応。そんなに意外なことだろうかと首をかしげつつ、話を元に戻す。
「その話はおいおいするとして。ですから、感情を溜め込まないでください」
溜め込まれた感情は腐り、そして身を蝕む。かつての海人もそうだった。未だに思い出したくない出来事だが、役に立つのならいくらでも思い出してやる。胸のむかつきに耐えながら、話し続ける。
「私も走れなくなって。どん底に落ちた気がしました。なので、少しばかり気持ちは分かるつもりです。なにか無くても、医務室に来てください。歓迎します」
「センセーって優しいね?」
「仕事ですからね」
「それでもさ」
しかし海人は、意外な落ち着きぶりにサングラス下の目を丸くしていた。クラシック最後の1つ。無敗の3冠の可能性は限りなく低いとしても、出られなければ可能性はゼロになる。無よりも、僅かな可能性にかける……というのは人の心理としてごく当たり前のものだからだ。
「……取り乱さないのですね」
「んー? ボク? そうだなぁ。何となく、そうじゃないかなって思ってたし……センセーも悩んでくれたんでしょ?」
「できる限り協議はしました」
言い訳にもならないことを言っている自覚はある。だが、自分にはこんなことしか言えない……。黙り込むことは彼女の為にはならないとも思うが、こんな言葉も彼女の為になるのだろうか。
「なら仕方ないよ。思ったよりケガが酷かったってことだしさ」
そう。仕方ない。だが、それは医者の無能を棚に上げる言葉だ。認める訳にはいかず、彼は唇を噛む。
「テイオーさんは、私のせいにはしないのですか?」
海人のせい、といえのには文脈が違うかもしれないが、
「えー? なになに? して欲しいの?」
「そういう訳では」
ないですが、という声は出なかった。失言でしかない。申し訳ないです。と頭を下げると、トウカイテイオーがふっと体の力を抜く気配がする。
怪我や病気を治しきれず、「治してよ! 私を治してよ!」とか言われるのはたまに経験しているから、思わず出た言葉。全部は言わなかったが、トウカイテイオーは察したようだった。
「センセーも大変なんだからさ。ボクがとやかく言えないでしょ?」
「ありがとうございます」
また、良くないことだと内心何度かのため息をつく。もう何回も飲み込んだそれが、体の亀裂から出ていってしまいそうな胸の苦しさを、彼は味わっている。
今すぐに職責を全て投げ出してしまいたい衝動に駆られた心に、鈴の音色が届いてきて彼は顔を上げた。
「わー。セリカちゃんだー」
寄ってきたのはセリカらしかった。トウカイテイオーの傍らに来て撫でろ、と言うように頭を押し付けている。顔をほころばせて手を伸ばし、小さな手でいっぱいにツヤのある毛並みを撫で回し。
「可愛いねぇいつも。励ましに来てくれたの?」
手の動きに合わせて鈴がチリンチリンと揺れる。少しばかり緩んだ体のこわばりと柔らかくなった雰囲気に海人も背もたれに体を預ける。人知れず目を細め、こめかみに人差し指を差した。
「ふふ。ありがとーセリカちゃん」
そうやって喜ぶ様子を聞き、幾ばくかの無力感があるのも事実。口に新たな鉄の味を噛み締めながら、よしよしと盛んにセリカを撫でるトウカイテイオーの様子を聞き続けた。
「はーっ! またリハビリ頑張らないとねー」
意外と清々しい気分の中、トウカイテイオーは〈スピカ〉に割りあてられたプレハブの中で、ストレッチのためのマットを広げていた。
悲しい宣告であったのは事実。しかし、確実に良くなっているのだから、根気強くリハビリをしていればいつかは走れる。そう思えるようになった。セリカもはげましてくれているようだったし、恥じる動きをする訳には行かない……と決意したのもあった。
丸められたマットを隅まで広げ、テーブルの上に放り出しておいた海人から渡された紙を手に取る。
「……読みにくいのどうにかならないかな」
細かな文字が混雑している紙面に目を走らせるが、どうにも滑って仕方がない。もう頭からして「このストレッチの効果は元に足回りの柔軟性を高める為であり……」と文字が多い。
何とか必要ところを抜き出して、今日はこのメニューか、と脳内で組み立てる。ストレッチで身体を伸ばし、その後軽く走り始める。今日は昨日より少し距離を伸ばしてジョグ程度で4キロ。タイムは気にせず走る感覚を取り戻す……と頷いたところで、プレハブの扉が勢いよく開けられた。
吹き込んできた風で飛ばされそうになった紙を何とか抑え、室内の動揺がおさまるのを待つ。その騒がしさの真ん中にいたのは、〈スピカ〉のスペシャルウィークだった。彼女は肩で息をしつつ、部屋の中を見回している。
「……スペちゃんどしたの?」
「あ! テイオーさん! 聞いてくだ〜い!」
救いの女神を見つけたように駆け寄ってくる後輩に対し、何となく犬を見るような感情を抱いた胸中を誤魔化しながらトウカイテイオーは言葉を待った。スペシャルウィーク背負っていたカバンを歩きながら床に落とし、縋り付くように彼女の肩に手を置く。
「……セイちゃんが! セイちゃんが!」
落ち着かない様子の後輩をなんとか宥めすかして、トウカイテイオーは事情の把握をしようと試みた。
スペシャルウィークの言によれば、それを見たのは昨日のことだったと言う。彼女はちょっとした用事からチームでのトレーニングを休み、寮に向かっていた。秋口にさしかかり、少しばかり冷たくなり始めた風の中を小走りで移動していると、どこからか男女の争う声が聞こえてきたのだと言う。
こんな空高く気持ちの良い日に何なんだろう、と首をめぐらすと、見覚えのある背中を見つけた。すらりと伸ばされた白衣に包まれた背中。上から下まで仕立ての良さそうなスーツで固めた姿。友人のトレーナーということはすぐに分かった。
だが周りに人はおらず、スペシャルウィークはまさか、と思い始める。揉めている片割れは〈アルゴル〉の医者なのでは、と。見つからないようにジリジリと移動する中、聞こえてきた苛立ちは……懸念を的中させるものだった。
「トレーナーさんがそんなこと言うなんて思わなかったよ!」
「私のスタンスは変わってないだろ? 夏に言ったじゃないか」
「やっぱりスズカ先輩見てから変だし。まさか逃げやめろって言うなんてさ!」
全身の毛を逆立て、20cm近く上にある顔を見上げているのは白群の髪色。セイウンスカイ。そして、相手をしているのはこの学校の医者、右堂海人。
空いた口をとじられず、固まった足を動かせず、スペシャルウィークはその口論を眺め続けるしかできなかった。止めるべきなのか悩んでいるうちに、〈アルゴル〉のふたりは決裂してしまい、セイウンスカイは歩き去ってしまう。
やけに冷たく吹く風によって寒さを感じているのか、目の前の状況に寒さを感じているのか分からないまま、彼女は今日の授業を過ごし、そして〈スピカ〉の部屋に駆け込んできた訳である。
「……にわかには信じ難いけどさ……」
「そうなんです!」
〈アルゴル〉の2人がまさかそんな……という気持ちが、トウカイテイオーにあった。もちろんスペシャルウィークにもあり、視線は左右に、落ち着かない手はあっちにこっちにとどうしたらいいのか分からないようだった。
「セイちゃんどうしちゃったんだろ……」
「聞いてみたりはしなかったの?」
「聞けないですよ〜むりです」
友人が喧嘩していたとして、その本人に直接聞くのは流石のトウカイテイオーもはばかられる。まあ落ち着いてスペちゃんと彼女を落ち着かせようとしたが、冷静でいないのは2人とも同じだった。
「でもセンセーがスカイちゃんを傷つけるような事言うかなぁ……」
「そうなんです。私、どうしたらいいんでしょう」
ぺたりと元気の無い耳と、表情と、力なく垂れた尻尾。このウマ娘は、トレーナーと喧嘩したであろう親友のことを本気で心配しているのだろうとトウカイテイオーは分かった。
「誰にも言ってないの?」
「はい。誰に相談すればいいか分からなくて……」
長く緩やかに流れる白い流星を揺らし、良くスペシャルウィークと一緒にいる、セイウンスカイを覗いた3人のウマ娘のことを思い浮かべる。そのうちの誰かに相談するとかは出来なかったのだろうか? と考えて、いやダメだとポニーテールが揺れた。
あまりに互いに親しい間柄だと相談しにくい。友人関係を壊したくないとか、そういう理由。テーブルを挟んだ向かいに腰を下ろした後輩の心労を察し、その心労の原因となった〈アルゴル〉のトレーナーのことを思い出し、そっと口をすぼめた。
呆れとか落胆とか同情諸々の感情を乗せた息が吐き出され、停滞したプレハブの空気に混ざって重さを増す。一体全体、どうしたものかとトウカイテイオーにも糸口が全く見えない中、また部屋の空気が外に吸い出される。
キィとガタが来た扉を開けて入ってきたのは、オレンジのシャツに濃い色のベストを合わせた伊達男。西崎リョウだった。
「お、テイオーとスペのふたりとは珍しいな」
トウカイテイオーはマックイーンやゴールドシップといることが多く、スペシャルウィークはウオッカとダイワスカーレットの後輩ふたりの面倒を見ていることが多い。お互いに対立しているとかそういう訳では無いが、この2人だけという組み合わせは珍しい。
「……なんか暗いな? どうした」
一瞬、話して良いものかと迷う目をスペシャルウィークは敬愛する先輩へ向ける。目は口ほどに物を言う。その言葉通りに未だ収まらない心情を浮かべ、落ち着かない様子。
「あー、実はさ。スペちゃんが見たらしいんだけど……」
腹を決めて、心を据えて口を開く。少しは先輩らしい所を見せないとね、という動機からだが、多分に自身も動揺している。取り留めのない説明になってしまったことを反省しつつ、トウカイテイオーは自らのトレーナーへ状況を全て話した。
秋の空に鋭い男の素っ頓狂な声が響いたのは、それからすぐのことだった。
その頃。医務室では渦中の医者が1人パソコンに向かっており、窓を揺らす秋口の強い風に耳を傾けながら、パソコンに向かい合っていた。
「……今日みたいな日だったっけ」
昔の話をして感傷的になっているようだ。いけない兆候だね、と身を震わせても、まとわりつく過去がいなくなってくれる訳では無い。浮遊感は苦手だ。何かが壊れる大きな音も。それに耐えるためにも、人は1人では生きられない。大きくため息をついてから、深呼吸をしてみる。
1人だと色々と考えてしまう。セイウンスカイ。多分に今更な事だが、彼女の存在は大きかったんだなと思いながら画面をスクロール。
「うまくやってくれよ」
そこには、セイウンスカイの同期のウマ娘の名前がずらりと並んでいた。