トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
そこには猫がいた。気持ちよさそうに全身で日差しを浴び、芝生にごろりと転がっては微睡んでいる。傍らにいる白群かかった芦毛のウマ娘も同じように日差しを浴びながら眠っているのが常だったが、今日は違う。
先週までに行われた同期達のレースの結果を眺めながら、セイウンスカイはいつか来るデビューに想いをめぐらせていた。そう言うと呑気に構えているように見えるが、将来的にぶつかることになるライバルの走りを彼女なりにできる限り研究しようとしているのだ。
「いやいや、みんな凄いなぁ」
今再生しているのは、グラスワンダーの朝日杯フューチュリティステークス。スタートから中間につけ、3コーナーを過ぎたあたりで加速。勢いのまま最終コーナーを鋭く立ち上がり、チェッカーを受けた時には後方と2バ身半。デビュー以来4連勝。
レコードをコンマ7も更新する走りは、何度見ても素晴らしくてため息が出る。以前のセイウンスカイなら見もせず寝ていたかもしれないが、今の彼女は全く違う。繰り返しライバルの走りを観察し、勝ちを掴むための何かを見つけるために画面に目を注いでいた。
情報を集め、分析する。その為に、人を観察する。噂に耳を傾け、何が真実で虚偽なのかを見極める。
「……策を練るって大変だったんだなぁ」
正直に言えば非常に面倒だ。特に、噂をより分けるのに体力と気力を使う。それに、みんなのレースを見たとして……素人に何か分かるかという問題もある。だが、やらないよりは何かの力になると、セイウンスカイは信じていた。
「……うーん。グラスちゃんは……」
何か。何かを掴みそうな感覚。3コーナーで速度を上げて進出。スリップストリームも使いながら前走を順調にどんどんオーバーテイクしているように見える。そして、ホームストレートに入ってから素晴らしい立ち上がりを見せ勝利。
仕草を見る。表情を見る。動画に写る全てをヒントにして、普段のグラスワンダーの様子を思い出しながら、いつか来る対戦に向けて。
「もしかして?」
巻き戻す。再生する。遠くからの中継映像だが、一人一人の表情が伺えるくらいの解像度はあった。コーナー中の表情と、ホームストレートに出てからの表情。足運びと体さばき。
よくよく目を凝らすと少しだが、コーナリング最中の表情が険しいように見える。調子が悪いようには全く見えないし、怪我をしたという話も聞かない。何故だろうかという疑問が浮かぶものの、結論はとんと出なかった。
「餅は餅屋、トレーナーさんに聞きますかね」
まだしばらくお昼寝としゃれこみたかったし、日差しの下で丸まっている猫を残すのは後ろ髪を引かれる。だが善は急げ。ひと撫でして荷物を持ってから立ち上がり、医務室へ向かうことにする。
年末の有馬記念が近づいているからかどこかざわついているトレセン学園の中を1人歩く。レンガが敷かれた足裏の感触を楽しみながら、人の噂も七十五日という言葉は本当だったのだという感慨を抱く。果たしてどこまで意味があるのかイマイチ理解が追いつかなかった『仲違いのフリ』という一連の行動も、すっかり過去のもの。
できる限りトレーニングを行っていないように見せかけることは続けているが、それもどこまでもつのだろうか。
「やっほー。トレーナーさん」
ガラガラ。年季の入ったローラーに鞭打って扉を開けると、空調がよくきいた部屋の空気が漏れ出す。勿体ない勿体ないと呟きながら後ろ手で閉め、部屋の中央寄りに置いてある机の人影を見る。
「ああ、よく来たね」
そうやってセイウンスカイを出迎えた海人の目の前には2人の人が座っている。〈スピカ〉のトウカイテイオーと、西崎リョウ。話している内容は、すぐにピンと来た。
「あ、もしかして私、邪魔者ですかね?」
「どうですか? おふたりとも」
「んー、ボクは構わないけど。トレーナーは?」
「ん? ああ、聞かれて困るようなもんじゃないしな。外に話したりもしないだろ?」
そもそも人のあれこれを言うのは好きじゃないし、その上敬愛する先輩に関すること。セイウンスカイの口は岩場に貼り付いた貝のごとくかたくなるのだ。
「ならそのままでいいよ。暫くはゆっくりしてて」
「はーい」
ソファにカバンを投げ出してから、診察机の横に椅子を持ってきて座る。教え子の予期せぬ動きに動きを止めた海人だが、その残響が消えてから切り出した。
「さて。トウカイテイオーさん。走る足音やシューズのへたり具合、各種検査の結果を見させて頂きましたが、怪我の前と遜色ないレベルにまで回復しております。それは間違いありません」
「おおー、ボクの努力のおかげだね」
「テイオーはよくやったよ。俺も根詰めすぎてないか心配になるくらいでな」
「やはり、メジロ家での逗留が良かったのでしょう。主治医も、随分得意げでしたから」
褒められて得意げなトウカイテイオーだったが、主治医の話題になった途端に声を曇らせる。よほど嫌なことがあったのか、それとも医者という人種が苦手なのか……。海人の事はなんとも思わないセイウンスカイも、見知らぬ医者と相対するのは緊張する。同じようなものだろう。
「そんな声を出さないでください。彼も嫌われたくてやってる訳では無いですから」
「わかってるけどさー……苦手なものは苦手だよー!」
「医者は嫌われやすいですからね。仕方ない事です」
目の前の2人から顔を外し、小さく頷く自らのトレーナー。寂寥と悲愴を大いに湛えた煤けた背中がそこにあった。
「あ、でもボクセンセーの事は好きだからね!」
「そう言って貰えると嬉しいですよ」
応じてから、彼は1枚の紙を差し出した。
「と言う訳で、こちらが診断書です。能力が戻っているかはともかくとして、完治と言って良いでしょう」
たった1枚の紙だが、彼女にとっては大きすぎる意味を持つ紙。隅から隅まで目を通してからトウカイテイオーはいつもの利発さを潜め、絞り出した。その色は僅かに震えていて、手は強く握られている。
「……ありがと。センセー」
「お気になさらず」
海人もあくまで平静を保っているように見えるが、机に置かれ、さっきは開かれていた手がこちらも握られている。サングラスの向こうの目は全く見えないが、多少なりとも思うところはあるようだった。
「なら、有馬はどうなんだ」
「出走しても、問題ないと私は考えております」
「ほんとう!?」
「ええ。私は、仕事で嘘はつきませんよ」
有馬記念のファン投票の結果は、セイウンスカイも詳しく追っている訳では無いので漏れ聞こえる、程度にしか知らないが、トウカイテイオーは上位にいたと記憶している。
「ただ、勝てるかどうかは分かりません。私ができるのは、『出走可能』ということまでです」
「いやいや。それで充分だ……なあテイオー、気合い入れていくぞ?」
「モチロン!」
「で、注意するところはあるか?」
「そうですね。あまり厳しいトレーニングは行わないでください。こまめに休息をとり、不安がありましたらすぐに医務室へ」
「おう。分かった」
その他にも海人は紙を指し示しながら何個か注意を述べ、それをトウカイテイオーとリョウは真剣な顔で聞いていた。張り詰めた空気は、部外者のはずのセイウンスカイにも容赦なく襲いかかってきて、強く拍動する心音と共に唾液を飲み込んだ。
「いいですか。トウカイテイオーさん。無理は絶対にしてはいけません。もし、違和感を放置したならば。一生走れなくなる結果に繋がることもありえます……ですから、隠さないで、抱え込まないで言って下さい」
「分かった。ボク、約束するよ」
「俺も注意を払うし、〈スピカ〉のヤツらにも協力してもらおうと思ってる」
「そうしてください。では他に、なにかご質問などは?」
交互にサングラスを向ける海人。いや、特にはないなと応じたリョウの返事を聞き、テイオーも追随したのを聞き届けて微笑んだ。
「わかりました。では、本日はおしまいです」
1呼吸溜め、そして吐き出す。
「お気をつけて」
その言葉を聞いた2人は、医務室から出ていった。部屋の空気が動いて温度が少し下がる。貼り詰められていたものが急に緩んで、セイウンスカイは大きく体の力を抜いた。
「君が緊張してどうするんだ?」
「いやいや。しない方がおかしくないです?」
「確かにテイオーさんのこれからが決まるけどね」
「尊敬する先輩がどうなるか、なんですよ? しますって」
ようやく納得した表情のトレーナーを見て、また椅子に深く座り込む。トウカイテイオーの復活が喜ばしいのはもちろんのこと、久々に心からの安堵と歓喜を見た。やはりあの先輩には心から笑っていて欲しい、とセイウンスカイは思う。
「まあ、これで一段落かな」
「先輩、勝てますかね」
「さあ。私にはなんとも言えないよ。ただ、勝てる可能性はある」
「応援いかないと、ですね」
「ああ、行ってきたらいい」
「行かないんです?」
テイオーのダービーを見に行ったことがあったし、海人としても調子は気になるはず、と考えたのだがあてが外れる。
「有馬記念は特に出走チーム以外の関係者席への立ち入りは難しい。ダービーの時だって、席に余裕がなかったら私たちは入れなかったんだから」
「なるほど。確かに、トレーナーさん人混みダメですもんね」
「仕方ないことではあるんだけどね。あまり迷惑をかける訳にも」
相談すれば、君ひとりなら何とか入れるかもよ。それがトレーナーの最大限の気遣いなのかもしれないが、セイウンスカイとしては〈アルゴル〉として見に行きたいという気持ちが強い。
わかれ〜、わかれ〜と念を送る。すると何かを思いついたかのように彼は顔を上げた。
「だけど、君のデビューは今のところ中山予定だから……行ってもいいかもね」
「お、どういう心変わりです?」
「色々考えることがあるってことだよ」
「なるほど」
顎に手を当てて色々考え込んでいる海人。トレーナーさんは大変だね、と思いながらセリカを呼ぶ。首輪の鈴を鳴らしながら、軽快な足取りで近寄ってきたシェパードを撫で回してから、聞きたかったことを思い出した。
「そう言えばトレーナーさん。今日、グラスちゃんの朝日杯を見てたんですけどね」
「……ん? ああ、どうしたの?」
「ちょっと、コーナーで走りにくそうにしてたような気がしまして」
「なるほどね。怪我とかって話は?」
「いえいえ全く」
また深く考え込んでしまう海人。一瞬蛍光灯に透けて見えた目は鋭く細められていた。
「馬場が良くなかったとか、体調がちょっと悪かったとか、原因は色々考えられる。これ、と断定することは出来ないけど」
可能性が高いのは、蹄鉄かな。という回答。蹄鉄……大事だということは知っているが、具体的に何がどう、と言われると答えに言い淀む。勉強不足を悟られないようにしながら、詳しく聞いてみた。
「蹄鉄というのは、自動車のタイヤと同じく走るのに必要不可欠な器具だ。それが個人に合わないと、上手く走れない原因になる」
例えば、材質や金属どうしの組み合わせ方、溝の切り方、組み付け方、
それを減らすために走り込みを行い、蹄鉄とシューズ、体をマッチさせていくのだ。
「その中でも、メーカーの違いってのは大きいかな。スーパートゥインクルズで使用可能な蹄鉄はそれぞれメーカーごとに独自の技術が注ぎ込まれてる……グラスワンダーさんのメーカーは?」
メーカー……。ああ、蹄鉄のメーカーね、と思い立ち、URAのレースリザルトを呼び出す。
「えーと……ギアンナ、だって」
「ギアンナってことはアメリカのメーカーだね。帰国子女なんだっけ? グラスワンダーさんは。なら、向こうで使い慣れてるのを選んだのかもしれない」
ジナンナはアメリカの蹄鉄メーカーで、現地では高い人気を誇るブランドだ。だから、アメリカの馬場で鍛えられ、それに合わせて技術を発展させてきた。日本向けに蹄鉄を製造しているのは日本法人であるが、技術の根幹はアメリカで鍛えられたもの。
「日本生まれ日本育ちとは、少し違う。それが、今回は良くない方向に働いたってところじゃないかな」
「ふうむ。なるほど……」
「路面……じゃなくて馬場を読むのは難しい。今回はちょっと合わなかったのかも」
「難しいですねぇ」
たかが足裏の蹄鉄。されど蹄鉄なのである。
「君がどのメーカーを使うかってのも決めないとね」
「ああ、そうですね……お試し行ってないんですよねぇ」
「……早めに行くこと」
「はーい」
足元を守る1番大事なものだからというのは分かっているが、ついつい後回しにしてしまうのだ。そんな空気を察知した海人は姿勢をただし、柔らかく微笑む。まるで聖母のような。
「じゃあ、蹄鉄について
聖母のような笑顔から悪魔のような先んじて漏らすべき感想を封じられ、セイウンスカイは固まった。
「ペーパーテストは良かったんだろ。始めるよ……スーパートゥインクルズに蹄鉄を供給している会社は?」
唐突に始まった問題に目を白黒させながら、寝ぼけ眼で聞いていた記憶を引っ張り出す。
「えーと、4社」
「それぞれ?」
「ビレヂストン、ウェッジズ、ギアンナ、AZ」
日本のメーカーがふたつ、アメリカとイタリアがひとつずつ、と授業の断片を思い出す。意外と覚えているものだなと自分を褒めながら、第2問を待つ。
「蹄鉄にはどんな基準が設けられている?」
「あー、ええと。URAが示した耐久性、耐摩耗性、耐腐食性、剛性、などの基準をクリアした物にホモロゲーションが付与され、URAを通じて競技者に供給されます」
厳密に言えば、4社が供給している蹄鉄と同等の性能を持つことを証明すればハンドメイドの蹄鉄を使用することは可能だが、その基準は果てしなく高い上に多賀の費用がかかる。今ではほとんど行われていない有名無実化した条文は飛ばす。
「よく出来ました。じゃあレースウィークに持ち込める蹄鉄は何セット?」
「ドライ用4セット、ウェット用2セット、です」
「正解」
続いての質問は、どのような流れで競技に使われるか、というもの。それぞれのウマ娘が前日に持ち込んだ蹄鉄は、競技場に着いた段階で靴へ組み付けられて着用する体操服や勝負服とともに検査を受け、パルクフェルメにて保管される。そして、出走約3時間前に使用する蹄鉄を選び、再検査。合格すると、晴れて出走が可能となるわけだ。
ちなみに、検査に合格してからの蹄鉄の変更は急なウェットコンディションへの変更など競技者の身体に悪影響を与える場合以外は禁止されており、もし変更すればタイム加算等のペナルティが待っている……。
というようにペナルティの事まで入れて答えきったセイウンスカイに海人は拍手をする。本気で感心している笑顔を見ると、嬉しいような悲しいような気持ちになる。
「……もしかしてここまでできるはずない、とか思われてました?」
「正直いうと怪しんでた」
「ひどーい」
足をパタパタさせて抗議。結局のところ自分の行いの結果な気もしているがそれはそれ、これはこれ。テストもそつなくこなせるのがセイウンスカイというウマ娘の凄さなんですよ、とアピールする。
「確かにね。私も騙されたよ」
「ならお詫びの印に教えて欲しいんですが。私にはどの蹄鉄があってるんでしょ?」
「それは自分で確かめなさい。アドバイス位はできるからさ」
「けちー。まあ、そんなうまくはいかないか」
トレーナーのむこうずねに靴の先をコツコツ当てて不満をぶつける。やめなさいと嫌がるスラックスを追いかけてローファーが踊る。
「あのね。汚れるからやめなさい」
「仕方ないですねぇ」
砂埃がついたスラックスを払い、これでどうです? と立ち上がる。呆れたように眉をゆがめ、ありがとうと漏らしてから、海人は引き出しの一番下から紙を取りだした。
「はい。今日のメニューね」
「はーい。分かりました」
「セリカも連れてっていいから」
聞く前に先制して置かれた答えに固まってから、お座りして待つセリカを見る。もうちょっとやり取りしていたかったような気もする。
「それ、トレーニングしたくないだけじゃない?」
「いやー、そんなことないですよ」
「そう。ならいいけどね」
トレーニングメニューに目を通して、いつもと変わりないことを確認する。1ハロン13秒。4月からは1秒短縮され、分速にすると約70mのスピードアップ。当時の私からしたらよくやってるし偉いと言いたくなるくらいの進歩だ。
「蹄鉄、後で手伝ってくださいね」
「ああ。分かったよ」
荷物から体操服を取り出し、着替える準備。後ろでヒラヒラ手を振りながら見送るトレーナーに手を振り返して、カーテンを閉める。デビューが近づいていることに少なくとも沸き立つ心があって、セイウンスカイは自らがターフの上を走る光景を幻視する。
しかし、それまでに乗り越えるべき課題は多くある。ただ〈アルゴル〉ならば、乗り越えられるのではないかと根拠の無い自信ではなく確固たる確信がある。
あと少し。セイウンスカイの競技生活は、そこでようやく始まるのだ。