トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
ぺたりぺたりと鳴る靴を引きずりながら、セイウンスカイは春の学園を歩いている。明日から新学期ということでまだ校内が静まり返っている中、トレーニングを終えて1人だけ廊下を歩いていた。
グラウンドにはそれなりの生徒がいて練習を行っているが、校内にいる生徒はとても少ない。昼間からこうやって医務室に向かうのは去年も散々やったので新鮮味はあまりないが、それでも新年度初めての医務室。去年度までと全く変わったことは無いだろうが、どんな表情を見せてくれるのか。
ガタついた扉を何とか開けて、中に体を滑り込ませる。
漏れ出る光のとおりに中には。
「おっと、来るとは思ってなかったよ」
「今年のセイちゃんはひと味違うの……あれ? フジ先輩?」
確かに、中には右堂海人が座っていた。だがその椅子の向かいに座っているのは艶やかな濡鴉。肩に届かないくらいの長さではあるが美しい黒髪を持つウマ娘。フジキセキだった。
「なんでここに? って顔してるね。サボり……に来たわけじゃないよ。私はルドルフの遣いさ」
「なんだ。フジ先輩もお昼寝の良さに目覚めたのかと思いました」
椅子を引っ張り出してきて海人の隣に座る。彼が手に持っていた紙の束を覗き込むと、『ファン感謝祭実行委員会』との表記がなされている。
「……不親切じゃないです?」
「これか? この紙も職務内容もいつもの事さ」
このファン感謝祭というものは、東京レース場と学園が合同で行う春のイベントだった。ウマ娘の模擬レースがあったり、トレーナー陣のトークショーがあったり。スポンサードする企業のブースがあったりと大きなもの。
「で、〈アルゴル〉も参加する、と?」
「いや。今ん所は〈アルゴル〉じゃなくて私だけ。いつも通りの救護だよ」
「なるほど……今ん所、ってのは?」
疑問を受けた彼がページをめくり、とあるページを指し示す。そこには『クラシックシーズントークショー』という文字列が並んでおり、参加者の欄は空欄だった。
「なるほど。セイちゃんが参加することになる、と」
「おお、なんか強気だね」
声を上げ、ころころ笑ってみせたのは意外にもフジキセキだ。一方の海人は「当然」とばかりに頷き、椅子に改めて深く腰かける。
「弥生賞は惜しかったが、やり方は見えただろう? なら我々が勝てるさ」
「先生がそこまで言い切ると、なんか真実味を帯びてくるね」
彼は口の端に意味ありげな笑顔を浮かべてから紙を閉じる。
「〈アルゴル〉を信じてやれるのは私だけ。他の誰でもない」
サングラスは滑るように動き、椅子に腰を下ろして足をパタつかせるセイウンスカイに向いていた。その奥の目に浮かぶ感情は覆い隠されていて外からは見えない。ただ。
「期待の視線を感じます」
「〈アルゴル〉の調子は良さそうだね」
「というと?」
「いいや。弥生賞から、落ち込んでいるんじゃないかと思ってね」
フジキセキの言葉に白群かかった髪の毛が揺れる。自らの心境をどのように話せば良いか、彼女は口に手の甲を触れさせて唸った。
落ち込まなかったと言えば嘘になる。悔しくなかったと言えば嘘になる。しかしそれ以上に、〈アルゴル〉でのこれからが楽しみという心。あの敗北で学んだことを活かして評判を裏切ってやりたいという心。
とどのつまりまとめると
「〈アルゴル〉ならやれるんじゃないかなーと。運命共同体ですから」
面白みも意外性も何も無いコメントになってしまったがこの部屋にいる限りほのかな期待感は何倍にも増幅されて、彼女の体を満たしている。
「うん。自分のチームやトレーナーさんを信じれるのはいい事だよ」
セイウンスカイより更に短く短く整えられた濡れた黒色がとてもゆっくりと、小さなエクボができる。同性でも視線が釘付けになるほどに光り輝く笑顔。無意識のうちに顔が熱くなっていた。
「そう、ですかね」
顔に風を送りながら視線を逸らす。この寮長の視線に刺されたら、いよいよもってダメになってしまいそうな魔力がフジキセキにはある。
「私は特別誰かを応援する、ってことはしないけど。頑張ってね」
「はい。フジ先輩がいうなら頑張れます」
「ああでも無理はしちゃいけないよ。私みたいになるからね」
そういえばフジキセキの昔の話は聞いたことがなかった。彼女は小さく舌を出し、海人にウインクしてみせた。
「……やめてくれ」
「別に先生を恨んでなんかいないよ。むしろ感謝してるんだ。寮長の仕事は、私にとって天職だからね」
「それでも。私にとっては……いい思い出じゃない」
目線は見えないが握りこまれた拳。唇の端に歯を突き立てる海人。フジキセキは片目をつぶって手を合わせ、ごめんねと呟いた。
「気にするな。結局私の能力不足だ」
トウカイテイオーの時も、同じようなことを言っていたようなと記憶を辿る。それだけではなく、何かにつけて「君は悪くない」という言葉を聞いているような、とセイウンスカイは首をひねった。
「トレーナーさん。抱え込む必要は無いと思うよ? 私達が重荷を背負わないようにしてくれるのは分かるけどさ」
「抱え込む君に言われるとはな」
「うちはうち、よそはよそです」
苦笑いしつつ、海人が背筋を伸ばす。サングラスが光を反射して、なにがしかの決意を現しているようだった。
「ルドルフに伝えておいてくれ。仕事は受けるよ」
「うん。分かった。伝えておくよ」
言葉と、セイウンスカイに対するウインク。小さくヒラヒラと舞った長い指がしばらく視界に残って、彼女は閉まった扉を見つめ続けた。
「さて。今日はどうしたんだ? 学校が始まるのは明日からだろう?」
「セイちゃんの気まぐれです」
「ほう。そうか」
興味を引くために使った言葉を全てスルーされ、彼女は唇をとがらせた。彼女なりに会話を広げられたらと思った訳だが、願いは届かない。
「セリカに会いに来たんだな」
「それもあります」
セリカが理由の全てではない。海人と話すのもセイウンスカイにとっては同じくらいに重要で大事にしている事だった。少なくとも倍以上生きている人間から得られる知識はレースに役立つものも多い。
だが、今の海人はあまり何かを積極的に話す気分ではないように見える。顎に手を当て、ずっと何かを考えている。
「トレーナーさん?」
「ん。いや。大丈夫だ。新学期の身体測定について考えていたんだ」
「ああ、なるほど」
新入生や進級生の身体測定を実際に行うのは養護部の養護教諭や応援の教師だが、結果を取りまとめて診断を下すのは海人の仕事だ。
「君は言わないのか?」
「え? ああ。乙女の秘密が〜とかですか?」
「そうそれ」
「期待を裏切るのがセイちゃんの信条なので言いませ〜ん」
また、彼の場合は仕事としてやっている以上感情を差し挟むことはしないと分かっていた。これが興味本位で聞き出したり、職責を下卑た感じで悪用したりするなら話は別だが、そんな事は一切しない
「まあ、利用はさせてもらおうかな。別に非公開のデータじゃないしね」
「そうなんですか?」
「そりゃ。トレーナー陣も必要とするからね」
申請すれば見られると言う。乙女の秘密をなんだと思っているのだと怒りたくなったが、彼に言っても仕方がない。
「しかし。そろそろ1年か。長かったような気もする」
「そうですね〜。1年ですよ。1年」
すっかり白杖の音も聞きなれたし、トレーナーをエスコートするのも慣れた。セリカと走る、遊ぶという新たな楽しみも生まれた。新学年を迎えた丁度1年前は、こんなことになるという想像は欠片ほどもしていない。
「そう考えると、〈アルゴル〉で良かったです」
「寝れるから?」
「そりゃもちろん」
満面の笑顔、そしてとても満足そうな声色のセイウンスカイの態度に海人は苦笑する。だが、悪い気分はしなかった。心地よいベッドがなければゆっくり休むこともできませんと強弁し、無理を通してベッドを全て入れ替えた過去を思い出したからだ。
「いつでも来なさい」
「もちろん今年もそうさせてもらいますね」
ブレない姿はいっそ清々しい。だが海人としてはそれでこそセイウンスカイだと思うし、多くの人の頭上にある青空が変わらないように、彼女も変わらないと考えていた。
「セリカちゃんにもよろしく言っていいですか?」
「今寝てるから後でな」
「はーい」
改めて足をパタつかせるセイウンスカイ。トレーニングが終わってしまって、暇を持て余しているということらしい。
「トレーナーさん。暇なんですけど」
「また春休みなんだからでかけたりすればいいじゃないか」
「えー。トレーナーさんの元に来たって乙女心を分かってよー」
「やる気があるのはいいことだけどさ」
セイウンスカイが椅子を寄せて海人の肩をつつく。手をはらいのける仕草をした彼の腕をするりと抜け、また彼女はスーツの肩をつついた。
「仕方ないな。夜何か食べに行くか?」
「と言ってもヒレンブランドでしょ?」
「嫌?」
「嫌じゃないですけど。セリカちゃんと散歩行くと決まってそこじゃないですか」
セイウンスカイはたまに、海人が土曜日に決まってするセリカの散歩について行くことがあった。コースはだいたい決まっていて、ドッグランに行ってから川べりを歩き、ペット可の銭湯に行ってセリカを洗って海人も汗を流し、最後にはヒレンブランドでカレーを食べる。
セイウンスカイに言わせれば「ルーティンなのはいいんですけど、セイちゃん的にはおじさん臭いというか」ということだ。
それに対して「私はもうオジサンだからな」と返した男に何を思うかは皆様の胸にしまって頂きたいと思う。
とにかく、セイウンスカイにとっては既に行きなれた店。悪いとは思わないしむしろ好きだが、特別感はあまりないよね。というのか彼女の主張だ。
「多分今年も変わらないぞ」
「散歩の時はいいんです。でもこうやって新年頑張るぞーって食べに行くなら、別の店がいいと思いまして」
「具体的には?」
何か考えがあるもったいつけぶりに、彼は顎を撫でながら聞いた。にんまりと口角を上げながら彼女は歌い出す。
「やっぱり新たな門出には豪華なものを!」
「なんか嫌な予感がするな」
「というわけでスカイの『ス』ってなんだか分かります?」
「予想は着くけど言いたくないな」
彼の頭の中に、『スで始まる豪華なもの』といえば2パターンしか思いついていなかった。
「というわけでお寿司行きましょうお寿司」
嫌な予感が的中し、彼は顎の手をこめかみにスライドさせた。どうしてそうなる、とかこれから寿司か? とか私の歳を考えてくれとか言いたいことは沢山あったが、彼はため息を着くのが精一杯。
「仕方ないな。分かった」
「おお。まさか通るとは思いませんでしたよ……何かよからぬ事を!?」
自分を抱いて後ずさるセイウンスカイ。目を見開いて耳を立てて最大限の警戒を外に出した彼女に対し、海人は眉間に指を突き立てた。深く突き刺さる人差し指が、彼の心境をよく表していた。
「君な」
「にゃは。冗談ですよ」
「まあでも、1年頑張ったんだからいいか。何時がいい?」
「まだお昼ちょっとすぎたくらいですからねぇ。考えておきます」
「そうしてくれ」
そして海人はまた、パソコンに向き合い始めた。
「トレーナーさん。いつもパソコン見てますよね。飽きないんです?」
顔を傾けたまま、彼は指の動きを止める。キーボードの上で迷った10本がまた動き出してから、空気の振動がセイウンスカイの耳に届き出す。
「飽きたよ。でも、君のためだ。意外と、頑張れるものだよ」
「そ、うですか」
真面目な答えにセイウンスカイは足を踏みかえる。
「君が走ってくれれば報われるからな」
視線のひとつすら寄越さず、彼はただ画面を見つめている。サングラスに画面が反射して白く光り、やはり表情は読めない。
「前に言ったことがあったかな。私には空の色が分からないって」
「聞いたことあるような、ないような?」
「この際だから言っておくけど。色が潰れて白くしか見えないんだよね。私って」
「空が、ですか?」
「そう。そうなんだよ」
平坦な口調。ストレスがかかっている時、人間は言葉が平坦になる。彼が切り出した事とはいえ、急にかかる負荷で海人が折れないか。考えないようにしていたことを思い出す辛さはセイウンスカイもよく分かっていたから、何も挟まずに続きを待つ。
「白くてね。もう何年もわからない」
空が1面の白。海人の視界は何年も塗り込められていて、もう空の色も分からない。
そう聞き、セイウンスカイは視線をさ迷わせた。息を吐いて、ぐつぐつと火にかけられた心を落ち着かせようと冷たい空気を肺に入れる。
「だからって訳じゃないけど。表彰台の1番空に近いところに立ってくれ。セイウンスカイ」
「うん。分かった……けど、できる限りやってみる、でいい?」
「ああ。それで良い」
良いんだ、と驚く。しかし、気負いすぎてはいけないと本能が告げているのも事実であり、セイウンスカイは引き続き深く呼吸を続けた。
「まあ、さ。楽しみにしててよ。トレーナーさんの期待は……裏切りたくないんだよね」
「楽しみにしてるよ」
明日から新学期。そして、少し経てば皐月賞。忙しい4月になりそうな予感に、嫌だとは思わない。セイウンスカイは自分のその心持ちに驚きながらも、拳を握る。
勝った暁には、どんな景色が見られるのだろうか。
『表彰台の1番空に近いところ』に2人で立った時、どんな顔を彼がしてくれるのか。
────G1。手強い同期と大きな舞台。それでもやって見せようじゃないか。
セイウンスカイの胸中に強い決意が生まれたところで、彼女は口を開く。
「あ、お寿司は17時からがいいなぁ」
「……台無しだな」
海人の呆れた声が、医務室に充満していた。