トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
Lap.47 ニュースタートのふたり
春の日差しも本格化を迎え、お昼時にはとても心地よく眠れる温度になる季節。セイウンスカイは4時間目の授業を早速抜け出していた。
新入生も学園に入ってきて、授業中とはいえどこかソワソワした空気が敷地全体に充満している。在籍生も教師陣もトレーナー陣も新入生を獲得しようという空気。
つまり、セイウンスカイが〈アルゴル〉に入ってから本当に1年がたったわけである。
「今年、どうするんだろうね」
チーム〈アルゴル〉に新しいウマ娘が来るかどうかというのが、目下彼女の1番の興味事だった。増えて欲しくないとは言わないが、セリカを独占できる時間が減るのも惜しい……。そんな不純な思考を弄びながら、新年度になってもガタつく扉を開けた。
「やっほー」
「早速来たね」
「ご挨拶ですねぇ」
いつも通り白衣を着て仕事をする男が部屋の中にいる。そして珍しく、彼はサングラスをかけていなかった。顔の中央に鎮座する黒い色彩がなく、やや油の抜けた肌がよく見える。
「あれ? どうしたんです?」
「ああ、ちょっとつけ忘れてただけさ」
「誰も来ないと思ってました?」
「それもある」
ソファに深く深く腰掛けて、薬くさい空気を胸いっぱいに吸い込む。最初の頃はあまり得意じゃない匂いだったが、今や嗅ぎなれてしまった。
腰を半分ずらすようにして、肌色の多いトレーナーの横顔を眺める。いつもは黒いグラスが顔に鎮座しているのでやや垂れている目もシワの多い目尻も隠されて見えない。
「なんか新鮮ですよ」
「私の顔?」
「ええ。いつもはサングラスばかりで黒黒してますからね」
全体的に色味が暗いのが右堂海人という男だ。スーツから革靴からネクタイから。白衣を着ているうちは白が勝つが、それを脱ぐと何とも地味になる。
「影先輩にも言われたよ。『サングラスだから怖がられるんじゃ?』って」
「ああ、それはあるかもですね」
「でも、滅多な事じゃ外せない」
「事情が事情ですから、仕方ないと思いますけど……」
とここでふと湧いた疑問を口にする。
「でも隠すためなら、私はいいんです?」
横顔が止まり、ゆっくりと首が回る。光の薄い煉瓦色の瞳がセイウンスカイを真っ直ぐに貫くが、焦点はあまり定まっていない。
「君なら、悪し様には言わないだろうし。私という人間を少しは理解してくれただろう」
「まぁたしかに。人についてやいのやいの言うのはするのもされるのも嫌いです」
いいことだ、と現れる白い色彩。歯を見せて笑うことなど滅多にない彼の表情に、セイウンスカイの視線は釘付けになる。くたびれてはいるが、笑うとどこか若さが覗くような感覚。
こうなる前、サングラスが手放せなくなる前の表情はこんな感じだったのだろうか、と10何年か前に思いを馳せた。
「しかしですよ。ここまで3戦。結構頑張ってると思いません? 小芝居にも付き合ってますし」
「そうだね……この前寿司は行っただろう?」
「あ、ひど。私がいつもなにかたかってると思ってません?」
そんなことないのになー。唇をとがらせ、彼女は海人に抗議する。された側のトレーナーは手を止め、不明瞭な視線を投げてから口を開く。
「いや。何回でも請求するって言ってたから」
「いいえ。この前のお寿司で結構満足しましたー」
ウマ娘という存在は、全体の特徴として非常に代謝が良い、ということが挙げられる。つまり、消費するカロリーが多く、よく食べる娘がほとんどだった。セイウンスカイは目を見張るほど食べる、という訳では無いが、一般的な同年代よりは食べる。
「あれでしてくれないと私も困る」
「……まあ、あの時は結構お腹すいてたので」
年頃の乙女として、いつもじゃないというアピールはしておく。彼は全く気にした様子もなく続けた。伝わっているのか不安になる彼女だが、無体なことは思わないだろうと人柄を信頼することにした。
「って、それは良いんです。また皐月賞勝ったら何か考えるんで……今日はですね、作戦について相談に乗ってもらおうかなーと」
「作戦? 私が役に立つかな?」
「頭数は多い方がいいって言うのと、皐月賞の特別規則書出ましたよね?」
「ああ、出たね」
G1クラスの大きなレースになるとURAが定めている競技規則の他に、『特別規則書』というレースごとの規則書が発刊される。競技やオーガナイザーの名称から、レース距離、最低成立距離、出走人数やミーティング、検査の時間などが事細かに記されているものだ。
「1番気になってるのは何?」
「コースですかね」
ほら。ここにある、と海人が掲げたのは白い紙の束。飾り気のない黒文字が表紙に踊っている。セイウンスカイは立ち上がって椅子を引っ張り出し、隣に座った。
「貰いまーす」
「あげまーす」
ペラべらとめくって、目的の文字列を探す。特別規則書の初めの方に書かれていたと記憶したそれは、彼女の思った通りの場所にある。
レース場は中山レース場。距離は2000m。
「コースは……移動してAですか」
「1番内側だね」
「ってことは綺麗な芝が?」
「そうなるね」
レース場の柵は固定ではなく、移動される。芝の保護や整地の順番などを考慮し、3メートル程度の幅で内側に外側に移動する。それが、皐月賞本番では1番内側に移動するということだ。
つまり、綺麗な芝の帯ができる。ざっくりと言ってしまえば、内側は走りやすく外側は走りにくい。外埒まで出てしまえば通るウマ娘がほとんどいない分また綺麗な芝が姿を現すが、そんなところを走っていては大きなロス。
「カギは、抽選か」
「そうですねぇ……特に私にとっては外側はとても良くないですよ」
「そうだな。君が弥生賞を走った時より更にデコボコな可能性がある」
もちろん、ウマ娘によっては、蹄鉄によっては、セッティングによっては荒れた路面の方が良いという場合もあるが、セイウンスカイはそうでは無い。
「特に君は同期と比べても細いからな」
「そうなんですよねー。食べてるんですよ? これでも」
「トレーニングもしてるのにね」
こればっかりは体質なので付き合っていくしかない。筋肉量が増えにくいと相談をもちかけた時に出された返事を彼女は思い出した。ぺたぺたと、自分の腕とふくらはぎを触りながら話を聞く。
「付きにくいってだけで付いてない訳じゃない。自信は持っていい」
「それはわかりますけど。キングとかスペちゃんとか知ってます? というか私以外なんですけどね」
「知ってる。〈スピカ〉に呼ばれて施術するとかあるし」
「そうでしたね……トレーナーさんから見て、スペちゃんってどうです?」
午後になってうっすら青み始めた顎を撫で、彼はまぶたを細めて唸った。片眉を吊り上げ、「私の所感でよいなら」と前置きした上で話し出す。
「彼女の脚力は驚異的だよ。体感も随分しっかりしてきた……パワーじゃ、君は敵わないかもね」
「ですよねぇ。一緒に走ってても思いますもん」
脳裏に浮かぶのは、弥生賞の激走。外側から距離のロスがあるにもかかわらず勝ってみせたレース。
「そこについては君の方がよく実感してるだろう」
「他にはどうです?」
他か、とさらに考え込む。何個か挙げたものは、どれもセイウンスカイとしては納得できるものだった。バランス感覚、体幹の強さ、姿勢がある程度崩れても蹴り出しを強くできる足の力。
「こう聞くとなんか完全無欠の存在に見えてくるんですけど」
「なに。常勝の天才ってのは中々あるものじゃない。付け込む隙はどこかにある」
例えば、と彼は指を立てた。
「体重の増加」
「太るってことです?」
「いいや。筋肉が着いても体は重くなる。その分、自分のイメージを補正出来なければ上手く走ることは出来ない」
彼女の場合、そういう傾向が見られるんだよね。まぶたの間から微かに覗く煉瓦色の瞳が語り、剣呑な光を宿した。しかし、彼女としてはどうしてここまで言いきれるのかと疑問だった。
「なるほど。しかしよくここまで言いきれるな、と」
「気になる?」
実は秘密兵器があるんだ。彼はそう言った。その言葉に、セイウンスカイは胸をときめかせる。なんと素晴らしい単語だろうか。
「見せてくださいよ」
「秘密兵器? しょうがないなぁ」
彼はポケットから鈍く光る小さな鍵を出した。それをカサついた指先で弄んでから、机の最下段の引き出しに差す。
その中は、紙の束でいっぱいだった。小さく文字が書き付けられたり、印刷されたり。多大な積み重ねが見えるその山の中から、なんの迷いもなくクリップで止められたひとつを手に取る。
厚さにして1センチ弱。大きさはA4だが、何枚の紙がまとめられているのか皆目検討とつかない。
「表紙、何も書いてませんけど」
「秘密兵器に『秘密兵器!』って書く奴がいるか?」
「いませんね、そりゃ」
はい、と渡される。それをほぼ反射で受け取ったセイウンスカイは、表紙を指で撫でて納得した。
「お、点字ですか」
「なれると便利だぞ」
「でしょうね」
ポツポツとした指先の盛り上がりを確かめながら1枚表紙をめくる。やや湿気った神が指に吸い付くような感触。そして、中にぎっしり印刷された文字と図を理解したセイウンスカイの目は、大きく大きく見開かれていた。
「あの、これっ、て……」
「だから秘密兵器だって」
口元が緩む。ページをめくる手が加速する。耳は期待に動き、尻尾は溢れる気持ちを我慢できないというように揺れる。
全ての思考と言葉は過去にすっ飛んでいき、ただただ彼女は中身を熟読していた。
「正直合ってるか自信はあまりないんだけどね」
「いやいや。これ、なんて」
精度、と言おうとして言葉が続かない。
「それに、いつこんなデータを……」
「苦労したよ。直接見られればいいんだけどね」
彼女が持つ紙には、主な同期のライバルとなるであろうウマ娘が載っている。
入学時の筋肉量、体躯、肺活量、反射神経。それを前提とし、確認できる限りのトレーニング記録やレース映像などを参考に、心肺機能や筋肉量など今のポテンシャル。レースでの戦法、各レースにでてきた場合の予想タイム、ウィークポイント。そしてこれからの成長予測までしてみせている。
「良く、やりましたね」
「大変だったよ。うん。でも、全部公開されてるデータを元にしただけだ。繋ぎ合わせるのにちょいと苦労したけど」
とんでもない量のデータ。まとめ、関係を見いだし、わかりやすいように図式化する。彼がわかるだけなら、もっと粗雑で良かった。だがしかし、私に分かるように翻案するのはとんでもない労力だったのではないか、と。セイウンスカイは口には出さなかったが、最近ずっとパソコンに向き合っていた姿を思い出して思わず立ち上がった。
「トレーナーさん!」
「どうした?」
もう今すぐに走り出したいというのが、彼女の内面。だが、言うべきことは、やるべき事はあると思っていた。
海人の顔がぐっと近づく。潤いを失いかけ、隈も満足に取れなくなったであろう肌。身だしなみには気を使っているのかふわりと薄まった柔軟剤の香りに包まれて、セイウンスカイは椅子に置かれた手を上から掴む。
「ここまでしてもらっちゃってさ……私、絶対勝つよ」
「知ってる。というか、これが無くても勝てるさ。きみなら……痛いから離してくれない?」
「ううん。これはトレーナーさんにしか出来ないことでしょ」
「その自負はある」
一切の躊躇を見せず、彼は肯定する。
「なら、私に出来ることは走って勝つことだからさ」
命をかけて作ったと言ってもいいこの秘密兵器、その苦労に、労力に答えなければならないと、彼女の心に湧き上がっていた。
「いいか、これは最後の後押しだ」
しかし、彼は冷静に彼女をただす。
「これだけでは勝てないし、勝てるとは思うな」
鋭く、冷たい声に背筋が伸びる。手を離し、椅子に座る彼から向けられる、陽炎のような揺らめく視線に打ち据えられて、足を踏み変えた。
「うん」
「これはあくまで補助。それを忘れるな」
「分かってる。だって、走るのは私な訳ですし?」
そこまで言って、ようやく彼の顔が緩む。
「そんなに信用ないですか?」
「これに乗ってるのが答えだと思って欲しくなかっただけだ。そこまで分かってるならいいよ」
それにしても痛いんだけどと忘れたように付け加えられて、セイウンスカイは慌てて手を離す。
「あ、ごめんなさい」
「よく読んでおいてくれ」
「覚えるほどに読みますよ」
抑えられていた手首をさすりながらも、彼は満足そうに頷く。そうして、そのまま机に向き直った。セイウンスカイはまた椅子に腰をもどし、紙束の中身を読み込む。
「ま、がんばってみます」
「そうしてくれ」
なんでもない様に言った声は、薬くさい空気に溶けていく。
仕事に打ち込む横顔を見ながら、彼女は今日のメニューについて組み立てていた。