トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
セイウンスカイが、競技者として中山レース場に姿を現すのは都合4回目。もうとっくに見慣れてしまった関係者ゲートをぬけ、『チーム〈アルゴル〉』というプレートがかけられた控え室を目指す。
半歩後ろからは白杖が床を叩く音と、革靴が地面を踏む音。だいたいいつもと変わらない音を耳に、彼女は扉を開けた。中には予め発送しておいた諸々の箱が積まれていて、主の到着を待っていた。
「来ちゃいましたねぇ」
「そうだね。いよいよG1だ」
例えば軽食。例えば、ドリンク。例えば、リラックスするためのアイテム。
「やっぱり私としてはセリカちゃんがいるのが1番癒されるんですけどね」
海人が連れていないジャーマン・シェパードを思い浮かべる。今、セリカはペットホテルに預けられていて、お店から送られてきた写真を見せてもらったが見事に丸まって、耳を伏せて寝ていた。
「まあ。色々とあるさ。仕方ない」
各所が今、改正に向けて動いているといえど、この時代遅れぶりはどうなのだろうと問題提起したくなるセイウンスカイである。
「セリカの為にも走ってくれ」
「ん〜まあ、考えときます」
「いいさ。勝負は結果だ」
部屋の隅に歩くと、椅子を引いて座る。危なっかしい足取りに案内すればよかったと少し後悔しながら、ダンボールの中から紙束を取り出す。最後の復習だ。
空調が静かに効いている部屋に、紙をペラリとめくる音が混ざる。手持ち無沙汰な海人がつま先で地面をゆっくり叩くリズムに合わせて、彼女はまとめられた情報を改めて頭に叩き込んだ。
「作戦は決まってる?」
「作戦ですか? 高度な柔軟性を持って臨機応変に、じゃだめですかね?」
「行き当たりばったりじゃないか」
おおかたまだ秘密にしておきたいというところだろうと当たりをつけた海人は、「期待してる」とだけ言って黙る。そもそも、詳細な作戦を聞いたとして。彼が出る幕があるのかという疑問もあった。
「十分にアドバイスとデータは貰ったんで。組み立てるのは私がやります」
「ん。楽しみだ」
出走まではまだ時間はあってまもなく、使用蹄鉄の決定と最終検査が待っている。これに合格しなければ出走は叶わない。
「蹄鉄は決めた?」
「はい。決めてます」
いつもより質問が多いトレーナーを少しばかりおかしく思ってから、彼もまた緊張しているのだと考え直す。当のセイウンスカイはリラックスしていてとても足取りは軽いのだが、わざわざそうやって自分を確認するということはまた、緊張している証拠という考えもあって、手を止めて天井を見上げた。
「いよいよ、かぁ」
「実感?」
「いやぁ。じいちゃんの事なんですけどね」
「ああ、たしか夢とか言ってたね」
「そうなんですよ〜。昨日も電話が長くて長くて」
困った困った、というような口調だが、本心としてはどうかと言った所。海人としては、照れ隠しなのではないかと思っている。
「そりゃあ。君が走るんだから。期待もするでしょ」
「まぁ確かに。じいちゃんはずっと私が中央で走るの夢だって言ってたので。大舞台を見せたいとは思いますけど」
「けど?」
海人の問いかけに、彼女はううむと唸る。暫く首を巡らせて脳みそを動かし。
「結局、私が走りたいから走ってるので」
「いいんじゃないの? 君が走りやすいように考えればいい」
海人としては、走る理由に貴賎はないと考えていた。自分のためでも人のためでも、賞金のためでも名誉のためでも良い。勝てば官軍という言葉を全面的に支持するわけでは無いが少なくとも、理由はあくまできっかけに過ぎず、重視すべきは結果の方。
「まあそうですね。好きなように走って、結果が出れば万歳! でいきましょ」
「そう言って。勝ちたくて仕方がないんだろう?」
「トレーナーさん。お言葉ですけど『負けてもいい!』ってスタートするウマ娘はいませんよ?」
「そうだな。すまん」
それから、部屋には沈黙が降りた。部屋の隅の椅子に腰掛けるトレーナーと、ペラペラと紙を未だにめくるウマ娘。
一般的にはもっと熱いやり取りとか最後の確認とか、気合を入れるルーティンとか。そういうものをやる時間ではなかろうか? とセイウンスカイはどこに注がれているか分からないサングラスの顔を見る。極めていつも通りに光を反射する向こうの感情は読めない。
なら、1人でレースについて考えるのも良いかもしれないと彼女は顎に手を当てた。
走る決定的な理由というものは、ひとつしかなかった。自分のため。じいちゃんのため、とか〈アルゴル〉に勝利をというのは、その他に付随するものでしかない。自分が動く理由のいちばんは自分のため。
とても分かりやすく、だからこそ見失わないものだ。
部屋に据え付けられたテレビでは、今日のレースが垂れ流されている。今日のメインレースである皐月賞の前の、GIIやGIIIのレース。ここから、次のダービーに出るウマ娘が出てくるのかもしれないと思うと、自然に目が吸い寄せられる。
音は消されているので実況が何を言っているかは分からないが、このレースを見事に制したウマ娘が大写しになっている。そうして、ふと彼女は思った。
「トレーナーさんに、どう知らせればいいんだろ」
関係者席に上がってみていたとして、確かに実況やタイミングモニター等で勝利は分かる。だが、今回はそんなレベルの低い話ではない。チーム〈アルゴル〉としてやっている以上やはり、勝ちに1番に気づいてもらいたいという気持ちがあった。
「勝ちを知らせるのにも。簡単じゃないんだなぁ」
思わぬ障害にほぞを噛み、ううむと考え込んでは閃かない名案に思いを馳せる。暫くテレビにぼーっと視線を落とし、2個目のレースが終わったところで、セイウンスカイは諦めることにした。
策士らしくないとは思うが、これはそもそももっと早く考えるべきことだった。むしろ、レースの準備として一番大事なものかもしれないと思う。
「トレーナーさん。よくテレビ聞いててね」
「ん。そうしよう」
とりあえずの落とし所を見つけておいてまた復習に戻ろうとしたセイウンスカイ。スマホが音を鳴らし、時間を知らせる。
「あれ? もうこんな時間じゃないですか」
「……何時?」
「もう一時間前です」
「じゃあそろそろ着替える?」
そうしますと答える前に立ち上がり、手探りで扉から外に出た海人。せっかちなのか緊張しているのか分からないが、平常心ではいられないということだろう。
鍵のかかったロッカーに歩み寄り、暗証番号を入れて扉を開く。
中には、新品の勝負服がかけられていた。セーラー服を模したシルエットと、袖や裾の大きなフリル。鷗緑の黄色かかった緑色のショートパンツ。何度観ても、弥生賞の後に発注したセイウンスカイの勝負服だった。
「フリルってセイちゃんには似合わないんだけどなー」
薄く、その向こうが透けて見える生地。手触りは滑らかで、
しかし、彼女はフリルを選んだ。釣り、船、マリーン、セーラーと連想し、そこでやめる事も出来た。しかし、海人がこうつけ加えたのだ。
「シルエットが大きい方が、私は見つけやすいな」
これにはセイウンスカイも困ってしまった。シルエットを大きくすればドラッグが増えて不利だ。だが、余計な部品をつけなければ彼の要望を叶えられない。そこで、『空気が見える男』の異名を持つ勝負服デザイナーが提案してきたのが、このフリルだった。
「そんな要望を聞くなんてさ。私も甘いよね」
とはいえ全体で見るとガーリーさとスタイリッシュさが併せられた良いデザインになった。そう彼女は総括して、上着に手をかけた。勝負服のボタンを外し、袖を透す。
厳密に採寸してあるのでピッタリであるが、それでも動きを邪魔しない按配。セイウンスカイには覚えきれないような名前の縫製技術が……と言っていた。
「完璧」
下のショートパンツは制服のスカートの下から履いてしまって、ホックを外せば上下の勝負服は完成だ。あとはは……と言ったところで小さな箱を手に取る。
計時用のトランスポンダ。バッテリーは邪魔にならないような腰ベルトに括りつけ、アンテナは上着の裏側に設けられたポイントにクリップで止める。
昔はなかったひと手間だと言うが、正確にタイムを出すためには仕方ないもの。澱みなくつけてしまって、ボタンをとめた。あとは少々のアクセサリー。全て身につけ、姿見の前に立つ。
「寝ぐせとか……ないよね」
少なくともこのレース場に来ている〈アルゴル〉の関係者に、寝ぐせを指摘できる人間はいない。左右に首を回して、白群かかった髪の毛に不自然に跳ねてるところがないか注意深く探した。
服は完璧。そして次は足元、ということでレース用ソックスを履く。簡単にズレないような色んな技術が使われ、足の形を測定して作った一点物。先程名を挙げた勝負服デザイナーの紹介によるものだ。
そしてシューズ。これも彼女専用に仕立てられたもの。かかとからつま先までフィットしながらきつ過ぎず、緩すぎず。足の指の稼働を損なわないように何種類もの素材と技術が詰め込まれた専用品。
蹄鉄は、ビレヂストンが供給する数百のスペックの中から海人が選んだもの。そしてそれを装蹄師の影貴がレース場に合わせた調整を施してからシューズに組み付けた。左回りのコースに合わせ、微かに右側を削った蹄鉄。職人技に感謝して、そのシューズで足元を彩る。
検査に向け彼女は上から下までまた点検し、扉の向こうへ声をかけた。
「いいですよ〜」
1拍以上の間があってから、扉が開かれた。
「どうです? 似合ってます?」
意地悪な質問をしていると自覚しながら、くるりと一回転したセイウンスカイ。フリルが拡がり、尻尾が風に舞い、柔らかなくせっ毛が踊る。
海人はふわりと香る春の匂いに頬を緩め、小さく頷く。
「ああ、とてもね」
「本当です? なら良かった……ってちょうど検査の時間っぽいですね」
「みたいだね」
その言葉の直後、ノックがあってオレンジのつなぎを着たオフィシャルが扉を開けて入ってくる。
「セイウンスカイさん。まもなく検査です」
「はいはーい」
私物が入ったロッカーを施錠し、その鍵は海人に渡す。カサついた指先につままれた鍵にサングラス越しの視線が向けられる。
「いつも思うけどいいのかい?」
「別に見られて困るものは入ってませんし」
「ああそう」
渋々と言った様子で鍵をポケットにしまって、海人もセイウンスカイの後ろを歩き出した。蛍光灯に照らされた地下道を歩く。
出走前検査を行う大きな理由は、競走において有利になるような不正が行われないようにするためだ。通信機を使って動きを伝達すると言った不正な通信。最低重量が決まっている各装具に対し、その加減を割り込むような工作。ほかの競技者に対して害を加えられるような器具の持ち込み。エトセトラエトセトラ。
URAの長い歴史の中で、レギュレーションとその穴をつこうとする競技者のいたちごっこ。そのひとつがこの検査というわけだ。
特段セイウンスカイがやることは無い。歩いて、所定の位置で止まる。金属探知機を抜け、ボディチェックも受ける。トランスポンダのアンテナの位置が規則通りになっているか確認され、シューズの重量を測る。
そうして、出走前検査は終わりだ。
「終わった?」
「問題なく」
ちなみに、トレーナーの側も身体検査を受けることになる。検査後、不正に繋がる物品の受け渡しなどが出来ないようにである。
そして2人は、パドックエリアへ足を向けた。これからランナーズアピアランスと言う、出走者が観客へ向けてのアピールをする時間が始まる。
思い思いにパフォーマンスをし、やる気や仕上がりをアピールする場、と言われているが、大体のウマ娘はお辞儀して手を振る、くらい。たまに寸劇をやったり仮装したりするウマ娘がいるが、それはごく少数だった。
軽く雑談をしながらパドックの控えエリアに到着するやいなや、セイウンスカイはオフィシャルの手で待機場所へと連れていかれてしまう。
「セイウンスカイさんはここで」
そうやってアピアランスの始まりを待つセイウンスカイを何となく視界の中心に捉えて待っていると、後ろから近づいてきたのは彼にとって聞き覚えのある音だった。
「よう」
そう片手を上げながら近づいてきたのは、チーム〈スピカ〉のトレーナー、リョウだった。
「先輩ですか。どうしました?」
「いや。後輩の初GIを喜んでるだけだよ……調子はどうだ? 彼女の」
顔を近づけ、他に聞かれないように配慮してくれるのは嬉しかったが、さすがにホイホイ教える訳にはいかない。敬愛すべき先輩と素晴らしきチームであることは認めるが、スペシャルウィークとセイウンスカイはライバルだ。
「まあ、ボチボチですよ。ど素人がここまでやったのは褒めてくれてもいいと思います」
「ど素人ってお前」
「いやいや。私はまだまだですからね」
『まだまだ』と『ど素人』には天と地ほどの差があるだろうに、と言う表情を隠したリョウは、海人の隣に並び立つ。緊張した面持ちのウマ娘が多い待機列を眺めながら、彼は切り出した。
「しかし。お前もここまで来たんだな」
「さっきと同じこと言ってません?」
「いいんだよ。喜ばしいことは何度でも言うべきだ」
「悲願だったんだろ?」
「まあ、それは」
歯切れの悪い後輩の言葉に、怪訝そうに片眉を吊り上げるリョウ。
「しかし。こうも思うんです……私は叶わなかった自分の夢を、彼女に背負わせてるだけなんじゃないかって」
「そもそも競技が違うだろうに……セイウンスカイには言ったのか?」
硬直する海人。強ばる唇がこじ開けられ、「言えてません……言えるわけ」と絞り出される。リョウにとっては驚くべき答えではなかった。
「まあ、クラシックの間はトレーナーとウマ娘の気持ちを一致させやすいからな。問題は菊花賞の先」
「選択肢が増えて、どうなるか」
「そうだ。考えておいた方がいいさ」
海人の表情は一気に硬くなった。その様子を横目で窺ったリョウは後輩の行く末を案じる。すれ違いは何もかもを殺す。上手くやり取りしてくれると良いが、と祈ったところでスピーカーが人の声を流し始めた。
《さあご来場の皆様! いよいよ、本日のメインレース、皐月賞、中山2000mの出走者を紹介する、ランナーズアピアランスの時間です!》
パドックのランナウェイの出口から、競技場全体を揺らして崩すのではないかと思うほどの歓声が吹き込んでくる。それに強かに全身を殴られた海人は体をかがめて硬直していた。
《ゼッケン1番! team S-Line <MIRA>、シオンムーバー!》
海人は何とか轟音に耐えながら、セイウンスカイが呼ばれて戻ってくるの待つ。彼女は至ってのんびりと構え、あまり気負っていなさそう。
最後尾のスペシャルウィークは表情こそ硬いが、キングヘイローとセイウンスカイに油断なく視線を向けていた。スペシャルウィークの少し前にキングヘイロー。
一流を証明するために、深呼吸を繰り返している。
三者三葉の皐月賞は、コースに出るこの段階から、既に始まっていたのである。