トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「いやー! 朝の空気が心地いいですね」
「君は元気だな……まあ、心地いいのは認めるが」
未だ雲が多く、空は晴れているとは言い難い。しかしそのおかげで彼女が暮らしている府中よりも幾分か温度が低く、湿度がやや高いが過ごしやすい、という感想をセイウンスカイは抱いていた。
「しかし、富士山は見えないですね」
「ああ、そうなの?」
「曇っちゃってます」
ほら、と言われても彼には分からないが、日差しがないことは何となくわかる。頭に刺さる熱がないとか、視界がさほど明るくない事などだ。晴れでも雨でもいくら見上げても白ばかりなので、すっかり慣れてしまったのが海人だ。
「ああ、楽しみにしてた?」
「少なくとも富士山が見えることはよく分かったので。その他はなんにも分かりませんが」
富士山がいるであろう方向を向きながら、彼女は大きく体を伸ばす。土曜日の朝イチから2時間の車の旅は、若いアスリートである彼女にとっても辛いものだったようだ。
足元に座っているセリカのハーネスを離さないように、海人も固まった体をほぐす。若いセイウンスカイにとって負担になる旅なら、オヤジという年齢に片足を突っ込んだ彼にとってはもう地獄。日々柔軟性を失っていく肉体に、彼は人知れずため息をついた。
「なんか昨日随分遅くまで会議してましたもんね。寝不足?」
「強制参加と言われたら仕方ない」
勤め人の悲しいところだ。おかげで溜まってた仕事が終わらず、彼はセイウンスカイを医務室で見送ることになったのだ。
「しかし、私初めて来ましたよ。サーキット、っていうんですか?」
今ふたりがどこにいるかと言うと、静岡県は富士山の麓、小山町にある冨士スピードウェイだった。日本を代表するサーキットのひとつで、1.5kmのホームストレートが特徴。国内格式国際格式問わず一年中レースが行われているが、今日は特にイベントなどはなく比較的静かと言えた。
「現役のウマ娘にとっては特に縁のない場所かもね」
「同じく走る場所なのに大違いです。何から何まで」
確かに、彼女が走った中山レース場とは1周の長さから道幅、コースの形まで全てが違う。しかし、四輪用のサーキットの源流はウマ娘のレース場にある。
海人が持っている限りの知識を披露したが、彼女の反応は芳しくない。実感などないだろうし、彼女の世界はそんなに広くない。
「……まだ来ないか」
「私としてはもうちょっとこの空気を堪能したいんですけどもね」
府中とは大違いな澄んだ空気に、彼女は何度も深呼吸を繰り返す。富士の渓流で釣りをしたら気持ちいいだろうなといつかの休みの使い方を決めながら、セイウンスカイはチラチラとガラス張りの自動ドアを見ていた。中は暗めで様子は良くうかがえない。反射して映るのは背伸びして中を見ようとする1人のウマ娘だけ。
ならばと全体を見渡してみる。黒の外壁に、所々窓が嵌め込まれて白っぽい空を反射している。窓の枚数から4階建てとわかる以外、これといって特徴があるわけではなかった。
いい加減セリカが欠伸などして暇そうにしてきたところで、ようやく動きがあった。自動ドアが開き、2人の男が姿を現す。片方はすらりとしたビジネスマン、片方はふくよかというか、がっしりしたというか。背の低めの男だった。
「お待たせしてしまい申し訳ございません。TODA GLADS Racingプレジデントの大山です」
「遅くなりました。NOVICE Racing、チーム代表の畑岡です」
揃って名刺を差し出した男たちに応対したのは海人だった。覚束無いながらも名刺入れを取り出し、交換する。セイウンスカイは失礼かもしれないと思いながらも、文字を見ようとする海人の手助けをすることにした。
「プレジデントの
名刺を受け取った彼はしばらくその紙面を眺めていた。
「トレーナーさん?」
硬直していた海人に呼びかけると、ようやく我に返ったのか自分の名刺を取り出して2人へ渡す。残念ながらセイウンスカイは名刺を持っていなかったので横で背筋を伸ばして立つ。正式な場ということで彼女は制服で、スカートにシワがついていないか確かめてからだ。
「名乗るまでも無いかもしれませんが、チーム〈アルゴル〉、右堂海人です。彼女はセイウンスカイ」
「ご丁寧にありがとうございます……おや、セイウンスカイさんの名前が入っているとは」
「え?」
そんなことは露ほども知らなかった彼女が驚いてみせると、海人は1枚取りだして目の前にかざした。「担当トレーナー 右堂海人」と「所属選手 セイウンスカイ」が並んで表記されている。
「知らなかったんですけど?」
前のめりで図らずも詰問する形となってしまったが、微妙に揺れ動く尻尾が感情を表している。
「わ、分かった。後で説明するから」
「約束ですからね。あと、その時に1枚ください」
「分かった。すまない」
勝手に名刺に載せたことを責めていると思った海人はとても申し訳なさそうに名刺ケースを仕舞った。
「いい名刺ですね」
「私もそう思いますよ」
大山も畑岡も目を細めて笑ってから、海人の名刺を仕舞う。
「気を取り直しまして、本日は御足労頂きありがとうございます。まずは中へ。詳しいお話はそこでしましょう」
開かれた自動ドアの中を大山が指し示す。着いて入るとそこは、明るい空間だった。白を基調にした内装は、とてもレーシングチームの建物とは思えない。なにかの研究所かと見間違える程だ。
「まずはコチラに」
通されたひとつは会議室だった。机が向かい合わせに並んでいて、椅子はそれぞれのサイドにふたつずつ。置かれたペットボトルの中身の水が、微かに揺れ動いていた。
「まず、我々について知って頂くとしましょう」
ブラインドが降り、部屋が薄暗くなる。海人は辺りを見回しながら、左手はセリカの頭を安心させるように撫でていた。
見知らぬ場所に来て不安なのは君だけじゃないさ。セイウンスカイはそう言われているような気がして、人知れず息を吐いた。
「綺麗でしょう? 我々の仕事は、ドライバー同士の交流の促進ですが、モータースポーツのイメージを変えるというのも重要な仕事なのです」
TODA GLADS RacingとNOVICE Racingの歴史、理念や活動内容などを説明するスライドを見て、さあいよいよスポンサードに関する交渉だと思ったセイウンスカイだったが、今彼女はファクトリーの中を畑岡の案内で見学しているところだった。
車の工場というと油臭かったり、煤でまみれていたりというイメージを彼女は持っていた。これが偏見の類であることは重々承知していたが、イメージと違う中の様子に彼女は目を丸くしていた。
「モータースポーツというと、どうしても油臭いとか汚れているというイメージが先行しがちです。もちろん、そういう面がないとは言いませんが、悪いイメージを払拭する。NOVICE Racingが大事にしていることなんです」
複数のラボが入っている廊下を、一行は歩く。廊下に大きなガラスがあるおかげで、中の様子はよく分かった。何をしているかは全く分からないが、少なくない人がパソコンに向き合ったり、なにか部品を見比べたりしている。
「ここは何をしてるんですか?」
「ここはですね、車の色々なパーツの研究をしています。レーシングカーも市販車もたくさんの部品が使われていますから、それ一つ一つの性能を上げることは、『もっと良い車作り』に必要なことなんです」
「あ、それさっき聞きました」
スライドで説明された単語を思い出す。これは今のトオダ自動車の社長が掲げるスローガンだと記憶していた。
「具体的に何をしているというのは申し上げられませんが、ここでレーシングカーに採用された技術は、皆さんが乗る車全ての車にフィードバックされるんです」
「レーシングカーとそんな繋がりがあるんですね。スポーツカーだけだと思ってました」
前にトレセン学園近くで見かけたら赤いスポーツカーを思い浮かべる。大きな音を立てながら走り去る姿は確かにサーキットのイメージ、レーシングチームというイメージに合う。だが、市販の箱型の車とは、あまりイメージが合わなかったのだ。
「君がレースで履いてる蹄鉄だって、そこから得られたデータを元に市販品が作られたりするんだ。そういう点ではモータースポーツも君たちのレースもかなり近いところにあると思うよ」
「へぇ……やってることはあまり変わらないんですね」
そう思うと、急にこのファクトリーでやっていることが身近に思えてくる。蹄鉄もシューズも、レースでデータをとって市販品に生かされるということは知っていた。
「離れてるように見えても、血の繋がった姉弟と言えるね」
「その通りです。右堂トレーナー」
「……ありがとうございます」
海人の返事に微妙な間が空いたことが気になったが、畑岡は工場見学の先を示す。今度は下に降りるらしく、これまた広い階段を歩いた。
畑岡の説明は分かりやすく、初心者のセイウンスカイにもよく理解できた。そして、傘下の一部門とはいえなぜトオダ自動車という大企業がなぜ自分にオファーをしたのか、ということについて段々と分かり始めていた。
スピードを求め、それを還元するという点においては、ウマ娘のレースもモータースポーツも理念は同じだからだ。かたや、モータースポーツで得られた技術で市販車を浴する。かたや、レースで得られた知見をシューズやソール、蹄鉄に活かす。
誰もが憧れる1番を目指すために、モータースポーツでは車を作り、ウマ娘はトレーニングをする。
またウマ娘を起用し、期待する『イメージ』において、皐月賞の勝者に送られる『最速』という称号はピッタリだ。
少なくとも、オファーがあるというのは幸運なことだし、とんでもない期待なのではないか。来る前、建物に入る前と全く違う心持ちに、彼女の足取りも早くなる。
その足取りのままに階段を下り、短い廊下を進んだ先にあったのは、とても広い空間だった。
4階までを使ったとても高い天井と明るい照明。反対の端まで、セイウンスカイの足でも時間がかかってしまいそうなくらいに広い空間。
「ここはガレージです」
確かに、何車種かの車がそこには並んでいた。市販車にはない羽や街中ではまず見かけないド派手なカラーリングなどで、ひと目でレーシングカーだとわかる。
「ここでは整備をしたり、テストをしたり、車を保管したり。ファクトリーの1番大事なところですね」
人は誰もいないが、赤い工具箱や台車がかなりの数置かれている。壁際にはジャッキやタイヤなどが身を寄せあっており、ガレージやモータースポーツのイメージに近い光景がある。
「たくさん止まってますね」
重なっているのでハッキリと分からないものの、4台か5台のレーシングカーが並んでいた。近づいて見てみると、スタンドにプレートが掛けられている。
『ENEON α Primes TGR suprior』
「スプリオラ、ですね」
なんて読めば良いのか迷っていると畑岡が助け舟を出してくる。車体のベース色はオレンジ色で、ボンネットに大きく赤い渦巻きが描かれている。その中で目を引くのは白抜きで書かれた『ENEON』のロゴと空いた大きな穴だろうか。
車の後ろ半分はオレンジからのグラデーションで金色に染められていて、目を引くゴージャスさもあった。白地のゼッケンには14という数字が書かれ、主張している。
とはいえ素人目にも、とても低いシルエットや後ろについた大きな羽、ボディから非常に張り出したタイヤの覆いなど『速そう』と思わせる要素が沢山ある。
「なんか……低いですね」
「市販車よりもかなり低く作られていますからね。中を覗いて頂ければ分かりますが、キャビンも狭いですよ」
小さな窓から試しに中を見る。ほぼ四角形のハンドルと、横が大きくはりだしたシートが置いてある。収まった姿を想像しても、身動きは取れなさそうでぞっとしない。
「ドライバーは激しいGに耐える必要がありますから、横のサポートが大きいシートを使ってるんですよ。代わりに、視界はあまり良くないですが」
狭いのが苦手なセイウンスカイには想像ですら耐えられない光景だ。身動きが取れない上に視界が良くないのダブルパンチ。それだけで背筋が寒くなった彼女はオレンジ色の車から離れ、次に向かう。
お次にロックオンした車は、先程の車よりは車高があった。色としては白をベースに、赤と黒という攻撃的な色だ。若干刺々しい塗装だが、それは外見も同じ。ゼッケンは27。
あちこちに羽が着いていたりタイヤの覆いがハンバーガーが置けそうなくらいに張っていたりというのはおなじだが、一際目を引くのは車の後ろ。本棚かと思うほどの羽が着いている。上下2枚の横の羽と、その間に仕切り板のように設置されている何枚もの縦の羽。
「なんか……本棚みたいですね」
「よく言われます」
プレートには『TGR Celiues WR1』という文字が踊っている。やっぱり読み方が分からないので首を傾げていると、畑岡がまた「これはセリエスと読みます」と助け舟を出してくれる。
聞いたことあるような、ないような。車については全く詳しくないのが足を引っ張っていて、上手くリアクションを返せない。
「すいません。勉強不足で」
「いえいえ。これから知っていただければいいですし、NOVICE Racingの理念は『はじめてのモータースポーツ』ですから」
「でも。なんというか、詳しいルールとか技術的なことは分からないですけど、かっこいいと思います」
素人なりの精一杯の感想。
次に目に止まったのは、隣にある車。全体的なシルエットはCeliues WR1に似ているが、ライトの形や屋根の形、ドアの後ろでダクトが口を開けていたり、羽の量もこちらが多い。プレートには『TGR Celiues WRC』という名前があって、これも違った。
「えーと、これは?」
「1つ前の型の車ですね。10年ほど前の車なのでこれはもう走ってないんですけど、トオダの一時代を築いたので」
しかしその車でいちばん気になる所は、ボディの横あたり。ボンネットと若干色が違い、そして焦げたような跡もある。佇まいも、そこまで綺麗ではない。白いはずのゼッケンもくすんで色が悪い。番号は26とついている。
畑岡は何も言わずにセイウンスカイを見守っていた。彼女としては『なぜ焦げているのか』聞きたい気もしたがはばかられる。素人が立ち入ってもいいものか分からない。
そしてそういえば、聞きやすい上にある程度詳しい人がいたと思い直す。だが振り返ってもそこに海人の姿はなかった。
「あれ……?」
予想外の事態にガレージの中を見渡すが、やはり姿はない。
「トレーナーさん?」
「おや、どこに行ったのでしょう」
畑岡もガレージの中に目を走らせるが居ない。畑岡、セイウンスカイ、そして帯同の社員のみだ。
「……迷ったのかもしれない。見かけたら会議室にお連れしてくれ」
一瞬表情の色を落とした畑岡の指示を受けた社員は各所に連絡を飛ばし始める。セイウンスカイはざわざわとした胸の奥を悟られないように、拳を作って深呼吸をした。
右堂海人は屋上への扉を迷わず開くと、セリカのハーネスすら外して欄干を握り締める。荒くなった呼吸を何とか落ち着かせて、熱を持った肺の空気を入れ替えようとネクタイを弛め、ワイシャツのボタンを外して呼吸を繰り返す。
「はぁ、はぁ」
運動した後のセリカみたいだな。他人事のようにぼんやりと考え込み、ふと水を飲みたくなる。み、水……と誰もいない虚空に向かって呟いたと思ったのだが、後ろから「ほらよ」という声がした。
「ありがとう……ってお前」
「こうやるのも久々だな。海人」
そこに居たのは、プレジデントの大山だった。先程の挨拶の時とは違うラフな言葉遣い。海人も口元にできる限りニヤリとした笑顔を浮かべ、ありがとう、とペットボトルを掲げた。
「……活躍は噂くらいで聞いてた。当時はエンジン組み立ててたのに。今やトオダのモータースポーツを統括する立場か」
「それに引替え、と言おうとしたな?」
言葉につまる海人。この兄貴分にはかなわんな。お手上げだ、というように手を掲げた。
「それに引替え、とも言いたくなるだろう」
「そうだな。お前なら監督……いや、現役だったかもな。今でも」
「いいんだ。レースにたらればは無い。無意味な仮定だ」
1歩下がり、欄干に体を預けて天を仰ぐ。大山の姿はどこにも映っておらず、サングラスには白く曇った空しかない。
「しかし。ここで会うとは思わなかった」
「それは車か? 俺か?」
「どっちもだ」
天を呪う。運命のイタズラというのだろうか。こんな運命など信じたくなかったし、待っているのなら来なかった。
「アレは、トオダの保存車両になったんだ。今うちでメンテナンスしてる」
何も言わず、リアクションのひとつすら見せず、彼は欄干に体を預けて脱力する。
「ゼッケン26はトオダにとっても栄光なんだよ」
沈黙。表情の窺えない海人の様子を、黙って大山は見ている。脱力した彼の胸中では、様々な感情が蠢いていた。後悔、羨望、郷愁、憧憬、絶望。歪められた口から漏れたのは乾いた笑い。ひとしきり感情を漏らした後、彼は大山をサングラスに写しながら聞いた。
「なぁ、ひとつ聞かせてくれ」
「なんだ? 海人」
「彼女を選んだのは、勝ったからか? 私がいたからか?」
「当然勝ったからだ。役員もそれで説得したんだからな」
「そうか。私が断るとは思わなかったのか?」
「いや。この名前を見たら、真っ先に来てくれると思ってたさ」
返事はなく、高地の風が吹き抜ける。
「……ほら。戻ろう。彼女も心配してるんじゃないか?」
「そうだな」
平坦な一言。海人がサングラスの奥に押し込んだ感情は、大山からはよく見えなかった。