トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「君は何を話してたんだい」
〈スピカ〉の面々に別れを告げ、段々と大きくなるざわめきを聴きながら階段を上る。グランドスタンドの熱気がジワジワと肌に刺さるが、その暑ささえ何故か心地よかった。
「んー? まあなんと言いますか。皐月賞の精算と言いますか」
「誤解を解いた?」
「そういうことになるんですかね」
断定しない言い方に、彼女の心が現れている。そんなつもりじゃなかったのに、とかそこまで深刻な事じゃないのに、とか。
「これで君も少しは懲りた?」
「言葉を選ぼうと思いました」
「教訓があるならいいんじゃない?」
自分にとってはなんでもない事でも、相手にとっては大事だったりする。逆もまた然りということを学んだ彼女は、昨日より進歩したと言えるだろう。
「言葉って恐ろしいなぁって」
「それを知っているのなら、大丈夫だ」
自分の行いを素直に反省できるのはなかなかできることでは無い。こういう時は自分を正当化したくなるものだが、彼女はそれをしなかった。その事に感心しながら、彼は太鼓判を押す。
押された側は眼を開いて海人を見てから、「ありがとうございます」と言う。彼女の歩様が乱れたのを少し微笑ましく思っていると、2人の目の前に喧騒が現れた。
「すごい人ですね」
「なんというか。想像通りだけど」
「どうしましょう。って、私のわがままですもんね」
「気にするな」
セイウンスカイは〈スピカ〉の部屋を出る前にしたやり取りを思い出す。空気を実地で感じたいとか、コースを直接目で見たい、とか。嫌な顔ひとつせず付き合ってくれる海人には感謝しかない。
「なにか飲みます? お詫びと言っては弱いかもですが」
「お詫び?」
「その。トレーナーさんを連れ出したことに対すると言いますか」
「別に気にしなくて良かったんだけどね」
ふっと歯が覗く。君の飲みたいものでいいよ。あ、サイズは小さくしてね。歳を考えなければ微笑ましい注文をつけてから、座る場所を探す素振りをする。とはいえ、人混みの中で視程の何か出来る訳でもない。
「先席決めましょっか」
「そうしよう」
広いフードコートは見渡す限り人だが、ポツポツと歯が抜けるように机が空いている。その中の一つ。余り中に入らない程度の場所を見つけたセイウンスカイは、ほら、行きますよと言いながら手を差し出す。
「案内します」
「うん。よろしく」
伸びてきた海人の手をセイウンスカイの手が掴んで、自らの二の腕を握らせる。歳の割にはよく手入れされた指が腕を包んで、熱が伝わってくる。
「じゃあ」
それを皮切りに、彼女は1歩進んだ。それに合わせて海人もセリカも歩いてくる。さすがに、手を引かれた盲導犬を連れた男とあっては周りからもどういう状態かは一目瞭然で、海が割れるように道ができる。
「これ、トレーナーさん的にはどうなんです?」
「ん? まあ別にどうにも」
腫れ物というか避けられてるというか。セイウンスカイがこういう扱いをされたら耐えられないと感じていた。ただ、気にしていないと言うよりも諦めたという雰囲気の口調で、どんな表情をしているのか彼女はとても気になる。
「君は理解してくれているしね。そんな急激に世界は変わらないよ」
「そういうものですか?」
「ああ。そういうものだ」
そうこうしているうちに机に到着。椅子を引いて促すと、微笑みながら彼は椅子についた。セリカは机の下でうずくまり、待ちの姿勢に入る。彼女も座りたかったが今ここで自由に動けるのは自分しかおらず、財布を取りだして飲み物を買いに行くことにした。
「まあ待っててくださいよ」
「うん。いつもありがとう。助かってるよ」
感謝されるのは悪い気持ちではない。こそばゆい指先で帽子のかぶりを直しながら、並んでいる店を選ぶ。飲みたいものはあまりなく、海人の好みを思い浮かべる。
「カフェオレないかなー」
苦いのも辛いのもダメという「舌がお子様で悪かったな」という言葉。いつも飲んでいるのは黄色い、やたらと甘い千葉名物のコーヒー。練乳が1番入っているコーヒーを飲むような男だ。
「あまーいやつ。あまーいやつ」
ちなみに、セイウンスカイはブラックコーヒーが好みだ。舌に来る苦味と喉越しがたまらなく好きなのである。
「あ、ここいいかも」
とあるコーヒースタンドに目を留める。海外から上陸したハイカラなものではない。これなら胃もたれなどなく飲めるだろうという判断のもと、ふたつ注文する。もちろん片方はミルクも砂糖もたっぷりのカフェオレ、片方はブラック。
豆の匂いがダイレクトに伝わる方と、薄まってどうにもならない方。そんな印象を抱きながら確保した席に戻る。相も変わらず人は多く、左右に前後に人を避ける羽目になった。
「おまたせしましたよトレーナー……さん?」
「いやしかし……おや、おかえり」
にこやかに出迎えた海人だが、なんと隣の机の人たちと会話をしていた。珍しいこともあるものだと思っていると、どこかで見覚えがあるような。
「あーーー!」
年末の中山で彼が人混みの中迷った時に助けてくれ、その次、冬の阪神でも同じことがあった。細めのメガネの男性と、ふくよかなパーカーの男性の2人組。
「その節はお世話になりました。本当に」
「いやいや、困ってる人を助けるのは当然ですよ」
メガネの男性が答えた横で、手でそれぞれのシルエットを示したのは海人だ。
「こちらが皆見さん」
「これはどうも」
「こちらが益生さん」
「よろしくおねがいします」
メガネの方が皆見、パーカーが益生というらしい。いやいやどうも、とへらりとした笑顔を見せながらコーヒーのカップを置く。ため息のような、感嘆のような。そんないきが2人から漏れた。
「いやしかし。こんなところで会えるとは思いませんでしたよ。2回も助けていただいて」
「ここで会うとは私も思わなかったです。ありがとうございます」
セイウンスカイも頭を下げた。海人とはぐれ探し回る中、かかってくることは無いと思っていた電話がかかってきた瞬間の安堵はいかほどだったか。そして、その電話口から場所が告げられた時にどれほど全力で走って行きたかったか。
「大したことは出来てないので……あの時は誰か知らず。失礼な態度をとっていなかったでしょうか?」
皆見が恐る恐ると言ったように聞く。彼らも海人のような人間と接するのは初めてだったと推察された。
「どうだったんです? トレーナーさん」
「ん? とても助かりましたよ。特にいきなり肩を掴むとかは無かったので、大丈夫です」
「ああ、それは良かったです」
今度は益生が胸を撫で下ろす。白杖の意味には後で気づき、色々調べたらしい。その上でずっと気にしてくれていたとか。
「あの時助けた人がまさか現役のトレーナーだったとは皐月賞の時に知りまして」
「ああ、私のことですか?」
「はい。その通りです」
皐月賞のウィナーズインタビューで正体を知った時の驚きは凄かったですよ、2人は揃って恐縮しきりだ。セイウンスカイとしてはもっとリラックスして欲しいと思うが、彼女もだいぶ有名になってしまった。
「まあトレーナーさん派手な感じじゃないですしね。〈アルゴル〉もですが」
「比べる先が悪いよ。〈リギル〉とか〈スピカ〉だろう?」
トレセンのトップチームと言っていい面々と比べちゃいけないよ。そう自虐気味に言った海人に、皆見と益生は異を唱える。
「いえ! 〈アルゴル〉も素晴らしいチームだと思います!」
「はい。その証拠があの見事な勝ちじゃないですか!」
2人とも、とても嬉しそうに言ってくる。その後も言葉は止まらず、本当にレースが好きなのだろうとセイウンスカイは感心する。彼女だけでなく、あのレースに出ていたウマ娘の走りについていかに素晴らしいか語る口調、応援はするが贔屓目は控えめな姿勢、そして知識に舌を巻いた。
「でも本当におめでとうございます……なんて呼びましょう?」
「あー、私ですか? そうですねぇ……ブルーシャークなんてどうです?」
「君サメってイメージからほど遠いところじゃないか」
「茶々を入れないでください」
丁々発止のやり取りにファン代表2人は感動しているようだ。そんなに目を輝かせることかなぁ? と思うが、彼らからしたらテレビの向こうにいた人たち。こうなるのもむべなるかな、1人疑問に思って納得する。
「ならブルーさんで」
「はーい」
声を潜めていてくれた事といい、ウマ娘のことを考えてくれているのは悪い気はしない。もしこれが大声で喚くようならセリカのこともあるし立ち去っていた。
「しかし、前評判を覆しての勝利は見事でした」
「あはは。ありがとーございます」
「弥生賞から変えたところはあるんですか?」
「どうでしたっけ?」
益生の質問にもう関係ないやと言う空気を出してカフェオレを飲む海人に話を振ると、サングラスの下の眉間にシワが寄ったのが見える。ゆっくり何口か含んでから微笑んで答えた。
「いえいえ。特に何かしたということはありませんよ」
全ては彼女の実力で、私はただ横で見ていただけだから、と会見と同じ答えをした海人。謙遜が過ぎるが、こればっかりは変わらないだろう。
「そんなこと言っちゃって。まあいいですけどね」
「その、ブルーさんにお聞きしたいのですが、不安のようなものは無かったのですか? 何に対してもそうですけど」
今度は皆見が質問をぶつけてくる。『不安』という言葉の中に込められた意味を、2人は敏感に察知した。散々ぶつけられてきた言葉。ただ、オブラートに包んでくれた事には感謝をせねばなるまい。
ただ、海人の様子は気になった。椅子に背筋を伸ばして座る彼のサングラスのつるがピクリと動いたこと以外に変化なし。しばらく見てから思う。答えても問題ないだろう。
「そりゃあ、未知の世界でしたから多少の不安はありましたよ。でも、お互いに初心者同士だったから気楽にやれたのはあるかもですね」
過去にすごい実績を挙げたトレーナーだったら引け目を感じていたと思うし、逆になんの裏付けもないトレーナーでも着いて行けなかった。程よく初心者で、尚且つトレーニングにも裏付けがある。そして程よく厳しくなく、そして面白そうなことが出来そう。そんな理由で〈アルゴル〉を選んだ。
「彼女は自分で考えることが出来るので。私はそれを修正するぐらいですよ」
「それにですよ? 前評判をひっくり返すのってとても楽しいじゃないですか」
「なるほど。それがブルーさんの原点という訳ですね」
「原点ってほどじゃ」
それからもファンサービスは続き、かなりの質問に答えてしまった。1時間弱座りながらこういうことをするのは初めてで、意外と楽しいという感慨を抱いていた。
海人はそんなに口を開かなかったが楽しそうに話しているセイウンスカイの声を聞き、青みを増す視界を心地よく思っている。こうやって彼女がずっと初対面の相手と話すとは予想していなかった。どちらかと言えばファンサービス的なものも面倒くさがると予想していた。
「随分楽しそうだ」
「まあなかなかないことだし?」
「確かにねぇ」
言葉が切れて、彼女がコーヒーをすする音がする。微かに香ばしく酸味の強い香りが鼻腔を抜けていった。動きを感じながら何気なく交わした言葉だったが、皆見と益生の2人には違う意味に捉えられたようだ。
「あ、迷惑でしたか?」
「え? ああいやいやそんなことは。中々しないことですけどね」
セイウンスカイとしては全く思考の外にあった発送に彼女も激しく首を振ることになる。
「なら良かった」
「というかトレーナーさん。変なこと言わないでください」
「すまんね」
そう言って深く腰かけてから頭を下げた海人。面白がるように笑顔を浮かべていたことを見逃さなかったセイウンスカイは、つま先で彼の脛をつついた。何も言わず、片眉だけ吊り上げて抗議するのを黙殺し、さらに2発攻撃する。
「君ねぇ」
海人がそういって口を開こうとしたところで、皆見の携帯電話が知らせを告げた。画面をのぞきこんだふたりは急に当たりを見回し出す。
「どうしたんです?」
「その、知り合いと待ち合わせしてまして。着いたらしくてですね……見えるか?」
「いや。わからん」
そう言いながらも荷物をまとめ始める2人。
「すいません。急なんですが」
「今日はこの辺で」
「ああそうですね。早く迎えに行ってあげた方がいいですよ。お兄さんたち」
しかし彼らは全てまとめ終わっても直ぐに立ち去らなかった。
「あの、もし良かったらなんですが」
「ああ、サインですか? うーん」
視線を感じた海人は微笑みを崩さないまま「していいよ」と頷く。差し出された小さな色紙に皐月賞前くらいに考えたサインを書くと、2人は目を輝かせてそれを見つめていた。
「直筆だぞ……家宝だな」
「永久保存しないとな」
いやいやそんな大層なもんじゃないですよ、と言ってみたものの聞く様子はない。大事に大事にしまわれる様子に身体中が落ち着かなくなっていると、なんと海人もなにかをさしだした。
「では激レアアイテムをひとつさしあげましょう。これでどうか今日のことは内密に」
「これは……」
「名刺って、ただのファンが貰えるものじゃないぞ……」
彼が渡したのは、チーム〈アルゴル〉の名刺だった。海人とセイウンスカイの名前が刷られているもので、基本的には取引先にしか渡さないものだ。
「情報流出とかはしないと思いますが」
「もちろんです! これも額縁に入れて飾ろうと思います」
「いや、そんなもんじゃないですけどね」
聞く耳を持たないファンに苦笑いを浮かべる。しかし、海人も悪い気はしていない。よく勉強している上に偏見なくレースというものを見ている。今どき珍しいファンの姿に、彼も少し嬉しくなったのだ。
「しかし、早く行かなくていいんですか?」
「いえ! 行きます! 今日はありがとうございました!」
「忘れません!」
そう言って皆見と益生のふたりは慌ただしく去っていった。忙しない退場に呆気に取られていた海人は雰囲気がなくなってから耐えられないと言わんばかりに笑いを漏らした。
「愉快な人達だったな」
「そうですねー。ダービーも見に来てくれますかね?」
「来るかもね」
「なんかこう。ファンって人に対して解像度が高まった気がします」
あまり一人一人の顔は見えなかったが、なんか一気に見えるようになった。そんなことをセイウンスカイは感想として述べる。新鮮な体験であったことは事実だった。先週皐月賞で勝利を上げてから、確かにクラスで見る目が変わったような気はするが、友人たちとは余り変わらない付き合いが続いている。
先週の日曜日に中山レース場を出てからずっと学園の中にいた上、土曜の朝はトオダの車が学園まで迎えに来た。衆人環視に身を置くのは昨日の夜からで、そして他人と言葉を交わしたのは今日がほぼ初めてだ。
「けど、あまり個人が見えるのも問題だ。あまりに具体的に見えるのもね」
「ほうほう?」
「人の想いってのは尊い。力になる。だが、1度それを重荷に思ってしまえば、後に残るのは呪いだけ」
実感の籠った言葉。空になった紙カップを握りつぶしながら、サングラス越しの視線はどこに注がれているのだろうか。
「期待をあまり意識しない方がいい。願いをあまり聞き届けない方がいい。君の世界には、少なくとも走る理由は君だけでいい」
「そういうものですかね?」
「人によるとしか言えないけれどもね。でも君の場合はそうだと思うよ」
「まだなんとも言えませんけどね」
あまり大きな期待を寄せられるのが得意では無いのは事実だ。だがそれもこれから変わらないとは言いきれない。そう指を立てながら語る彼女の言葉を聞き、彼は顎を触って頷く。
「それでも覚えておいて損は無い。君の性格上ね」
「むー。それどういうこと?」
向かいの脛をまた小突く。君ねぇ、と呆れた声こそ出すが逃げることも怒ることもしない。
「それは自分に聞きなさい」
「はーい。ならセイちゃんちょっと山篭りしますね」
「ダービーまでには帰ってこいよ」
「ヒド! 普通止めませーん?」
ガタガタ! と椅子を鳴らし、尻尾は天を突く。海人は背もたれに体を預け、顎を上げて彼女の顔があるであろう方向へサングラスを向けていた。レンズに移るセイウンスカイがずり落ちそうになったキャスケットを慌てて直し、沈黙の後で笑い声を漏らす。
「もう。ホントに行っちゃったらどうするの?」
「君はそんな勝手にどっか行くようなウマ娘じゃないと思っている。少なくとも何かしら、私にわかるようなヒントは残すだろう」
「それどういう信頼の感情ですか? まあ、そんなことは多分しないですけど」
座ろうとしたところで手が触れて、これまた空のカップが倒れた。ほんの少し残っていたコーヒーはこぼれなかったが、早めに捨ててしまおうと思い直した。
「ゴミ捨ててきます。また何か買ってきます?」
「ああ、セリカに水を頼む」
「あ、すいません。初めから持ってくれば良かったですね」
出された水皿を持ち、気にするなとの声を背中に席を立つ。人の声を受けて走るのも悪くない。新たな発見を胸に秘めながら、彼の言葉の意味を考える。
「……まぁ、溜め込みやすい性格なのは自覚してるよ。うん」
独りごちながらゴミ箱近くの水道から水を汲んで戻る。
難しいことを考えるのは後にしよう。ハーネスを外し、椅子の下でおすわりをするセリカを見たらもうそんな考えになってしまい、彼女はニコニコと笑いながら水皿を運んでいた。