トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない   作:Skyjack02

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Lap.58 Firmament Practice1

 ダービーまで、あと片手で数えられるくらいの日数となった。トレセン学園はの大まかな雰囲気は全く変わらないものの、ダービーに出走を決めたウマ娘はほとんどが熱を持ち、そして滾っていた。

 セイウンスカイもそのうちの一人……と言いたかったものの、彼女の表情はあまり変わっていない。やる気と熱気を眠気で薄めて注いだような表情。

 

 噛み殺したあくびと半分程度に開かれた目。しかしその奥の瞳には一筋の強い光が宿っていて、完全にやる気が無いわけじゃないということが分かる。

 今彼女がいるのは、東京レース場の控え室。手狭な空間に椅子と机とロッカーが並べられ、洗面台や鏡、スライド式カーテンなどもあった。ちなみに椅子はふたつ。

 

「遂に。来ちゃったんだねぇ」

 

 体操服に着替えた彼女は、机の向こう側に座って点字の資料を読んでいるトレーナーに視線を注いでいた。サングラスには景色が反射していて、目元はいつものごとく見えない。海人はゆるやかに動かす手を止めず、セイウンスカイのしみじみと漏らした独り言のような感想に応えた。

 

「念願だったんだろ?」

 

「それはそうですよ。誰しもそうだと思いますよ」

 

「君もか」

 

「もちろんです」

 

 大きく頷く彼女の視線は、黒い画面の携帯電話に注がれていた。

 

「昨日随分と話してたな」

 

「まあ、そうですね。じいちゃんが中々離してくれなくて」

 

 終わってから振り返ると、「通話時間 1:30:14」が目に痛い。純粋に心配してくれている気持ちと心からの応援と。それが大好きな祖父からであるとなれば、尚更切りにくいだろう。

 

「仕方ないさ」

 

「何回も『トレーナーさんの迷惑だからー』って言ったんだけどさ。もう」

 

 やれやれ。そんな声が聞こえてきそうな表情と共に肩が竦められる。とはいえ幸せそうな彼女の様子に、海人はひとつ安心した思いだった。セイウンスカイというウマ娘がこういう大舞台であまり緊張を見せるタイプでは無いのは分かってきたところだが、『ダービーは特別』というのは色んな人間が口に出している。

 その中でも気負わず、できる限り平静で実力を出す。セイウンスカイはそんなウマ娘だと確認出来、海人は満足そうに頷く。手元の紙の束を、真っ白だが彼には情報の塊となる資料を置いたところで、天井に据え付けられたスピーカーがガサついたアナウンスを流す。

 

『東京第3回6日開催、公式練習については10分遅れで進行しています。走行に参加する選手は用意をしてください』

 

「さて。練習走行について確認する?」

 

「あー、タイムスケジュール変わってませんでしたっけ」

 

「さっきの通り10分ディレイ」

 

 今日行われるのは、レースでは無かった。トレセン学園では月水金がトレーニングの為に半ドンだが、それに合わせて行われるのが週末のレースに向けての公式練習(フリープラクティス)だった。

 コースの確認や蹄鉄のセッティング出し、最後のトレーニングに向けての情報収集など。やることは数多い。

 

「調子はどう?」

 

「このまま本番やってもいいくらいです」

 

「それは頼もしい」

 

 立ち上がって靴の紐を締め直し、息を吐いた。足の裏に組み付けられた蹄鉄の感触を確かめてから、スポーツウォッチを手首に巻いた。同期と比べても白めな細い手首に水色の色彩が加わる。

 

「じゃあそろそろ行きますか?」

 

「そうしようか」

 

 頭の先から足の先まで準備を整えたセイウンスカイ。彼女は足をタタンと踏み鳴らすと、海人は微笑みながら立ち上がる。いつも着ている白衣はなく、全体的に黒っぽい色彩。サングラスと相まってあまり近寄りたいと思う雰囲気ではない。

 そんな彼女のトレーナーが呼ぶと、机の下に伏せ、ずっと出番を待っていたセリカが立ち上がる。

 

「セリカちゃんもいい?」

 

「すまないね。お待たせ」

 

 レンズ向こうの目が微笑んだようだ。セイウンスカイは先んじて扉を開け、彼を促す。地下に作られたレースコースへ向かう通路はそれなりの人数がいて、それぞれターフへ足を向けている。今回の公式練習の参加対象はダービーに出るウマ娘だけではなく、同日に行われる十程度のレースの出走ウマ娘全てだった。

 

「人、多いな」

 

「それ皐月の時も言ってましたよね……ほら。行きますよ」

 

 人の流れに乗って歩き出すセイウンスカイの背中を、ぼんやりとした視界の真ん中に捉えて海人も歩き出す。ターフへの道は意外と短く、彼は頭皮を刺す日差しを頭に感じた。

 

「晴れてるのかな?」

 

「そりゃもう」

 

 まだ始まる前なので、コースに出ているウマ娘はいなかった。時間が来る前にレーンの白線を越えてはいけない。遥か遠い白線を思い、彼女はそれを越えるときを思う。

 

「今日はどうします?」

 

「そうね。コースの確認を重点的に」

 

「『道を知れ』ですね」

 

「その通り」

 

「でもセッティング出しもやんなきゃですもんね。あーあ、やることいっぱいだ」

 

「さっきの言葉を返すが、君は練習走行の度に言うつもりか?」

 

 5月の芝の匂いはまだ青い。一生に一度の空気を吸い込み、小さく吐いては手を握り、開く。隣に立つ男の表情は変わらず、緩やかに呼吸を繰り返していた。

 

『只今より、東京第3回6日開催公式練習を行います』とのアナウンスと共にブザーが鳴り響く。控え室で聞いたよりさらにガサガサとした音声に首を縮め、歩き出した周囲に遅れまいと声を張り上げる。

 

「さあ、行きますよ。トレーナーさん」

 

「ああ。行こうかね」

 

 三々五々にターフを横切り、それぞれの出走地点へ向かう。当日行われるレースの全ての出走者がコースに出るので、1周のコースには数え切れないほどのウマ娘とチーム関係者が出ている。

 彼は芝のコースの内側、ラチとラチの間に入って自分の居場所を決め込んだ。セリカに伏せるように指示を出してから、懐から取りだしたのは真っ白なメモ帳。小さな下敷きも一緒にして、ものすごい勢いで紙を突く。

 

「それでメモれちゃうんだからすごいよね」

 

「ひらがななら読めちゃう君もすごいぞ」

 

 次々と点字が打ち込まれて増えていく様子を観察しながら、メニューを頭の中で組み立てる。前半の1時間に行うことはまず走路の確認。そしてセッティングへのイメージ出し。

 

「行ってきます」

 

「うん。気をつけて」

 

 日本ダービーが行われる2400mの発走地点には18人のウマ娘がおり、もちろんその中にはスペシャルウィークやキングヘイローと言った顔見知りもいる。しかし彼女は誰とも声を交わすことなく、全身を確認するとゆるゆると走り始めた。

 中山と様子の違う路面。コースの形状もそうだが、使われている芝も皐月賞の中山とは違うものだ。これまでにレースで4回走っており、未だに足の裏に残るその感覚を消そうと、セイウンスカイは足裏に神経を集中させる。

 

「というか、長いなぁやっぱり」

 

 日本ダービーの発走地点はホームストレートの中ほど。そこから1コーナーに差しかかるまでの長さだけでも、中山のホームストレートと比肩する長さがある。まだ背中にも200m程のストレートが残っているという事実は精神的にも、物理的にも重かった。

 そのままゆっくりと1コーナーへ。ここはまだオーソドックスな90度のコーナー。とはいえ前走の中山よりはタイトなコーナーだ。

 

「ちゃんとクリップつけて、と」

 

 無理なく、無駄なく回る。今彼女がいるのは1番の内側で逃げられるならここを通れる可能性は高い。もちろん何本か走るのでその時は外側の走路の確認もする予定だが、今は1番走る可能性が高い所へ。

 ずっとコーナーを走っていると、早速トップスピードで駆け抜けるウマ娘に次々と追い抜かれる。気合いが入っていることは良い事だと遠ざかる背中を見ながら足元に意識を集中させた。

 

 今彼女がいる東京の1コーナーと2コーナーはただ普通のコーナーである。中山よりRがキツくその分スピードダウンを余儀なくされるが、ここは全くの小細工のない場所。なので蹄鉄のセッティング次第では、ほぼスピードダウンせず走り抜けられそう。

 

「とはいえ、長いストレート、かぁ」

 

 特にバンプやなどもなく、非常になめらかに造成された路面。コーナーの始まりにも勝負を仕掛けられそうなポイントは無い。

 3コーナーから向こうに期待することにして、400mほどの非常に長いバックストレートに入る。中ほどまでは下り、そして急激に登ることになる。体にかかる僅かな力の変化で路面の変化を感じとり、彼女は教えの通りに足を動かした。

 

「あと、スズカさんのも」

 

 そしてこの前、間近で見た走りも参考に。海人がしてくれた講義はとても役に立つものだったが、そんないっぺんに実践できるとは到底思っていない。せいぜい意識できるのは2箇所か3箇所くらいである。

 坂を上がりきり、僅かな平坦区間を挟むと3コーナー終盤にかけては下り。直前がセイウンスカイ1人分くらいの高低差を登るためか、緩やかな下り勾配がとんでもない急坂に思えてくる。意図せず、ほとんど本能でスピードを必要以上に抑えようとする足をわざと前に進ませ、ペースを保つ。

 

 脳内の秒針は常に1秒を知らせてくる。歩幅は一定に。同じ速度で足を回転させれば、消耗は少なくなるはずだ。

 下りながら回る3コーナーのクリップを踏み、続いて緩やかな上りへ。中山と違って、後半はかなりアップダウンの激しい印象が既にある。もちろん、机上のデータとしては知っていた。何m地点から何mの距離に渡って、何mの高低差があるかは頭に入れてある。

 

 しかし知っているだけなのと実際に走るのは違う。データでは見えないことも、実地ではわかる。たとえば、キングヘイローをひっかけた中山のバンプなど。

 3コーナーを超え、4コーナーに差しかかる。ここはコーナー全体が上りのセクションだが、ほかとの大きな違いがひとつある。

 

「結構コーナーきつくない?」

 

 そう。コーナーのRが一つだけキツいのだ。連続するコーナーの前半部分は東京の4つのうち最も緩い200Rだが、後半は160R程度にキツくなる。ホームストレートの争いに向けスピードを乗せたいところだが、何も考えずにインを走って来ると外に膨らんでしまう。しかしインベタで行くのはせっかくの勢いをスポイルすることになる。

 

「コーナリング激ムズだぁ。あーあ」

 

 逆に外側にいれば緩いコーナーとして考えて使うことも出来る。つまり、ウマ娘が進むコースが多くなり、集団がバラける。集団がバラけるとそれぞれトップスピードに乗せやすくなり、よりレースが面白くなる……。

 

 URAの理屈を反芻し、セイウンスカイは余計なお世話だ! と憤慨した。

 明らかに内側へ折れ込むコーナーを走る。緩やかな上り坂。きっと効率よく走らなければ、ホームストレートでの速度に影響する。試しにインを突いたままのラインで立ち上がってみる。それなりに外に膨らむが、セッティング次第ではどうにかなりそうだ。

 

 靴の裏のことは後でくる装蹄師に任せることにして、彼女は長く横たわるホームストレートに差しかかる。まだ、その入口は良い。緩やかな上りがずっと続いてきてなので体には比較的楽。

 しかし100mほど進んだところで、体に良くないGがかかる。ここ、東京のレーシングコースの名物、ゴール前の急坂である。約200mで2mを駆け登るという、コースを1周走ってきた体には辛いという以上の負担になる道だ。

 

 そして、坂はゴールではない。登りきった所から、更に300mストレートは続く。坂を効率よく昇らなければ、後ろから差されて終わり。実走してみて、改めて痛感する。

 

「キッツ……これスパートできる?」

 

 息を数段上げながらも坂を登り終わり、そして最後のストレートを駆け抜ける。コースサイドで何かをメモしている海人を横目に見ながら、ゴール板まで一直線に走り切った。

 すぐにラチをくぐって内側にはけ、スタート地点まで戻る。ラチ間はコースよりも芝が長く、足に絡みつく感覚がある。軽く走っただけだが、とても重く思える足をほとんど引きずるような格好で、セイウンスカイはコース脇に直立する海人の元へとたどり着いた。

 

「なんかすごいヘトヘトじゃない?」

 

「いやぁ東京ナメてました 」

 

「中山とは全く違うコースだからな。それに、ストレートが長いから全開区間が長い」

 

「スタミナも必要だし無闇に筋肉つければいい訳でもなさそう」

 

 水分を補給し、額に浮かぶ汗を拭う。日差しは5月にして強く、走っていた彼女はそれなりに汗をかいていた。逆に海人は日向で微動だにせず、しかも長袖長ズボンの全身黒目なスーツにも関わらず汗ひとつかいておらず涼しい顔をしている。

 

「とりあえずコースは掴めたかな。トレーナーさんの予習用データが良かったんだよ」

 

「うん? そうか。どういたしまして」

 

 彼の「道を知れ」は徹底されていた。少なくとも、本番で作戦のやり取りができるくらいの情報は持っている。これから何回もセッティング出しのために走る必要があるので詳しく知るのはその時でよい。

 

「そういや左鎚さんは?」

 

「もうすぐ着くって」

 

「あと30分したら一旦引っ込んでロガーシューズ使いたいって伝えといてくれません?」

 

「わかった」

 

 携帯を操作し始めたトレーナーを横目に、スーツのポケットに遠慮なく手を突っ込んで紙を引き抜く。縮小した資料が束になっていて、セイウンスカイは改めて情報と感覚のズレを照らし合わせていた。

 

「はぁ。ストレートが長いとスペちゃんもキングも怖いなぁ」

 

「キングヘイローさんはどうだろう。彼女、多分中長距離は苦手かもしれない」

 

「え?」

 

 衝撃の事実に口をあんぐりさせる。声を潜めて解説してくれたその内容に、彼女は立ち尽くした。要約すれば、筋肉の性質、彼女の体格、心肺機能。その他もろもろを総合して考えると、キングヘイローというウマ娘は中長距離はあまり得意では無いかもしれない、というものだ。

 

「体質、かぁ……」

 

「2400ならある程度は喰らい着けるかもしれないが、3000はちょっと……というのが私の見立てだ。もちろん、トレーニング次第ではもっと上に来るかもしれないし、展開次第でということも有り得る」

 

 海人の言う「自分の情報は絶対では無いよ」という前提はもちろんセイウンスカイも分かっている。しかし、ライバルの適性に関する情報は非常にセンシティブなものとして彼女に聞こえていた。

 なぜそれを言うのか。疑問は尽きない。

 

「苦しい戦いになるだろうけど、ってこと?」

 

「ああ。本人はよく分かってるだろうから、補おうとしてくるだろう。警戒は怠るな」

 

「……予想だにしない作戦?」

 

 神妙な面持ちで頷くととも、「それだけじゃないけどね」と漏らす海人。

 適性がない、と言われたウマ娘が勝ちを収めた例は過去多く存在しており、トレーニングで適性を覆し中長距離を制したミホノブルボンという例もある。

 

「私も情報は集めるけど、完璧じゃないしね」

 

「まあ、目は話せないってことですか」

 

「うん。落ち着いた?」

 

「はい。じゃ、もう一本いってきます」

 

 見送る彼はにこやかな表情で、セイウンスカイはいつも通りの薬くささに半分脱力しながらコースに出る。ほんのわずかでも感じられるようになってしまったその匂いを振り切り、彼女はまた2400mを駆け抜けた。

 


 

「さて。取ってきたデータを見てみようか」

 

 1時間後。セイウンスカイと海人は控え室に引っ込み、影貴が広げるパソコンの画面を覗き込んでいた。控え室の決して明るいとは言いきれない照明の下、全体的に黒い画面に目を凝らしている。

 

「さっぱり見えないな」

 

「無理すんなって」

 

 小さな画面に何人もの視線が集まるが、そのうちの一人は残念ながら蚊帳の外だ。細かい表示は見えんね。そう投げやりなセカンドテノールがどっかりと椅子に座り、

 

「いつ見てもさっぱり分かりません」

 

「読めるようになっておくと、役に立つかもだ」

 

 影貴の浅黒い指がキーボードを叩くと、線の上を白い点が移動を始める。コースの形はここ、東京のレーシングコースというのは分かるが、横の複数のグラフは何回聞いても覚えられない。

 

「横Gと縦Gと重心の移動量と速度 。簡単でしょ?」

 

「無茶言うな。お前はロガー使い慣れてるからいいだろうけど」

 

「それもそうか」

 

 机の上には、とても走るのに向かなそうな靴が置かれ、パソコンと繋がれている。厚底で、その上くるぶしまですっぽりと覆うイカついデザインだ。そんな蹄鉄のセッティングに使うロガーシューズは、セイウンスカイがうんざりするほど重かった。

 すっかりと汗で濡れた脚をイスの上にあげてから拭き、そしてトレーナーに軽くマッサージしてもらう。

 

「この坂をこの重さで登るのは辛いですよ」

 

「よく頑張ったね」

 

 あまりやる気のない褒め言葉にむくれるセイウンスカイ。とはいえ褒められるのは悪い気はしない。すぐに表情をもどし、影貴の分析を待っている。

 

「ふむ。コーナーはすごい上手いね」

 

 コーナリング中の姿勢のブレがほとんどないことに彼は感心していた。1周回るうち、ほとんどのコーナーを彼女は綺麗に回れている。重心の捉え方と、シューズのグリップ力をよく理解している証拠であった。

 

「反面登坂はそれなりに辛そうだ」

 

 指さす先のグラフは、ちょうどホームストレートの坂中盤に差し掛かったとこで止まっている。横が時間の流れ、縦が重心の横ブレの数値だが、登り始めたところで途端にグラフが上下する。

 

「接地が良くないのかもね。あと疲れもあるのかな?」

 

 バックストレートの時のログと見比べると一目瞭然。レース中盤の比較的余裕のある時と、追い込まれた終盤と。パフォーマンスに差が出るのは当然だが、ここまで違うのか、とセイウンスカイはグラフを見ながら走りを思い出していた。

 

「方針としてはストレート重視でいいかな?」

 

「そうですね。コーナーはそんなに走りにくさは感じなかったので」

 

 まず決め打ちしたセッティングをロガーシューズで試し、その後セッティングを変更してまた走る。良いと思われるプランを何個か決めたら、勝負服のシューズに蹄鉄を組み付ける。公式練習の後半はこのセッティングに当てることが多かった。

 

「坂を登りやすくするなら、なおのこと足での着地角度は重要、であってるよな?」

 

 問われた海人が頷く。人の足というものは、適切な角度で接地してやればその勢いを反発力に、つまり地面を蹴る力に変換することが出来る。

 そんな解説を聞いて大きく頷いた影貴は、ダービーで使用する蹄鉄のひとつを取り出して指さした。

 

「重心を後ろに移した方が、多分坂は登りやすいと思う……どう?」

 

「私も同意見かな。坂に差し掛かると足との角度が深くなる。その分を重心で補正する」

 

 しかし角度をつけ過ぎれば、平地での接地が上手くいかなくなる危険がある。そこはセイウンスカイのセッティング能力と、影貴の腕前と、海人の知識の見せどころだ。

 装蹄師はデータロガーの画面を閉じて、今度はセッティングソフトウェアを開いた。彼が色んなツテをたどって作りあげたオリジナルソフト。そこに、いくつかのセッティングか既に呼び出されている。

 

「エンジニアとも話して何個か候補はあるんだ。調整しながら決めていこう」

 

「はい。何本か走ることになりそうですね……トレーナーさん。ご褒美欲しいです」

 

「練習頑張ったねって? ダービー終わったらね」

 

 影貴の言葉に神妙に応じてから態度を返すと、唇をとがらせた。海人は苦笑しながらも約束を了承し何を請求されるのか想像して頬をかく。

 

「よし。これから作業を始めよう。頼むよ」

 

「頑張ります。左鎚さん」

 

 絶対に普段なら面倒くさがる作業に、セイウンスカイは前向きだった。ダービーで勝つために、運を引き寄せる努力のひとつと分かっていたからである。真剣な表情の彼女に感心してから、影貴は油紙に包まれたビレヂストンから送られてきた彼女用の蹄鉄を取り出す。

 控え室の一角にはすでに作業スペースが確保されている。頭にタオルを巻き直して作業にかかる背中を、ひとつの明瞭な視線と、ひとつの不明瞭な視線が見つめていた。




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では、次回おあいしましょう。
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