トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
「というかキングも大変だったねぇ」
「何に対して?」
「チーム移籍の話」
パドックからレーシングコースへ向かう地下道で、セイウンスカイは前を歩く緑の影に声を投げた。耳だけ振り返り、キングヘイローは深々と息を吐いた。
「別に。あなたに心配されるような事じゃないわ」
「言うねぇキング」
「だって、問題は何も無いもの」
「ほう?」
どこまでも覇気に満ちた声。移籍もダービーも、自らを阻むものでは何もないという高い自信が顔を覗かせるだけでなく、全身から立ち上っていた。
「でも蹄鉄変わってるでしょ?」
「そんなものはこのキングの障壁にすらならないわ」
「またまた、言うねぇ」
胸を張り、そして視線はまっすぐ。耳だけはセイウンスカイに向けられているものの、足先も全て前に向いていた。
キングヘイローは蹄鉄の変更が障壁にすらならない、と言ったが、足元を変えるのは大きくコンディションに影響する。曲がりなりにもギアンナで何戦か戦い上位にいるのだから、それを変えるというのは非常に勇気のいることだ。
「ウェッジズはどうなの?」
「そうね。ジアンナと比べても一長一短……って、何であなたに言わなくちゃいけないの!」
「引っかかんなかったか〜ちえっ」
床を蹴り飛ばしつつ唇をとがらせる。とはいえ、セイウンスカイとしてはありがたいと思うべきかもしれなかった。片方の調子を見ればもう片方もある程度の推測ができる。判断がしやすくなった僥倖に感謝しながら、少し後ろから着いてくる足音を気にかける。
「気合十分だね。スペちゃん?」
気合いと気迫。どちらも十二分に滾らせ、そして歩くウマ娘が1人。
「うん。勝ちたいって気持ちでいっぱいだから!」
夢の為に走る、だけでなく、夢のために勝つ。決意新たにスペシャルウィークは、光差す方を見ていた。その向こうに、戦場がある。これまでに積み重ねた何日を、何ヶ月を、何年かの成果となる2400mがある。
「それは私もよ。大舞台だからこそ、勝ちたいと思うわ」
「私含めみんな夢があるからねー。当然さ」
3人だけでなく、このレースに挑む18人全員が勝ちたいと思っている。その熱気は空気を揺らし、レース場全体を包み込んでいた。
「まあでも、2冠に挑めるのは私だけだからね。頑張っちゃおっかなー」
不敵に笑い、ライバル2人を交互に見る。言ってなさい、という表情。メラメラとやる気に燃える表情。それぞれ『らしい』顔になったところで、頭上に薄曇りの太陽がやってきた。
かすかに耳と髪の毛が温められ、その熱が改めて全身に回っていく。歓声の大きさは、今のところ想定通りだった。
「ありゃ。今回はゲート近いね」
「あなたの事だから『歩く距離が短くていい』と言うと思ったのだけれど」
「色々考えたいこともあるんですよーだ」
セイウンスカイはゲートは嫌いだが、勝つためなら仕方ないと割り切れる。だがその境地に到達するには少しばかり時間が必要。それに、作戦の最後の詰めをするための情報を集めたいというのもあった。
「ま、程々になさいな」
「へいへーい」
やる気のない返事をしてから足を緩めると、キングヘイローは先に行ってしまった。スペシャルウィークも「先行ってるね」と言い残すと小走りでゲートの方へ向かう。
《URAスーパートゥインクルズ 第65回東京優駿 東京芝2400mレース。改めまして、コメンタリーはレポートを片橋士郎さん、解説は勝負服デザイナーの由良川純也さん、実況は私塩田でお送りします》
前回と変わらない実況席のメンツに何故か安心感を覚え、グランドスタンドを見上げた。人、人、人。何人いるのか検討もつかないが、皐月賞より少ないということは無いだろうと思った。
『ダービーは特別』というのは、はるかな昔から繰り返されてきた言説。普段はスーパートゥインクルズを見ないが、ダービーだけは見るという人は少なくない。
《さぁ年に一度のダービーです。由良川さん、毎年ドラマが生まれるこのレースですが……》
《大注目ですよね。その証拠に今日はスタンドに人が多いですよ。何人でしたっけ?》
《URAの発表によりますと、16万8000人ということです》
ぐるりとスタンドを見回し、セイウンスカイは人の多さに背筋をふるわせる。狭いところも苦手だが、人の多さも彼女は苦手だった。
《こんなに来てくれるとはありがたいですよね。やっぱり特別なレース、ってことがよく分かります》
《いやぁ、本当にそうですよねぇ》
セイウンスカイがゆっくりとゲートに向かっていく間にも、早いウマ娘は既に銀色の檻の中に収まって、精神統一でもしているのかじっとしていた。
気の乗らない足をゆっくりと前に出す。ゲートなどいらないしクラウチングスタートでもスタンディングスタートでも、なんならローリングスタートでも良いというのは私だけ? と辺りを見回すが、彼女より後ろにいるウマ娘はいなかった。
《えー、ビレヂストン提供のデータによりますと気温は16度、湿度は57%、路面の状態は稍重となっています……ちょっと湿度が高いですかね?》
《そうですね。汗が蒸発しないとコンディションにも大きく影響が出ますから、その辺の対策も必要になってきます》
そんな対策したっけ? と思うような事を解説のおじさんが言っていた。確かに、空気は重めで肌にまとわりつくような感覚がある。それがどれほどの影響を実際に与えるかは未知数だが、頭に入れて置いて損は無いと思った。
《では出走者についてレポートして頂きましょう。パドックの、士郎さん!》
《はい。こちらパドックの片橋です。注目されるウマ娘としては2番のキングヘイロー選手ですね。仕上がりとしては悪くないのですが、やや緊張しているようでした……陣営としては、斬れ味勝負にどう持ち込むか、と考えていると思います》
《なるほど。移籍の影響はどうでしょう?》
《それに関しては問題ないように見受けられました。他に、スペシャルウィーク選手ですが脚力強化に成功した、と言うのは見る限り信憑性の高い情報かと思われます……パドックからは以上です》
《士郎さんありがとうございまました。台風の目になりそうですが、他のウマ娘からも目を離すことは出来なさそうですね》
セイウンスカイのことが話題に上がらず、パドックからのレポートは終了した。と言っても、出走前のレポートは簡易的なものだ。事前情報含めての詳細なレポートはランナーズアピアランス前に終わっているのが通例。
とはいえ、あまり注目されていないのは良い傾向と言えた。
《さあ、ウマ娘達が次々とゲートに収まります。ダービーという競争は、1870年にイギリスで始まったと伝わっています。当時は片田舎のレースであり、規模もそこまで大きくなかったそうですが年を重ねるに従い格式が上がり、そして勝ちの名誉、そしてかけられる熱気も大きくなりました》
そんな歴史があったとは知らなかった。ためになる知識を披露してくれたアナウンサーの人、ありがとう。と心の中で感謝を述べてから、チラチラと左右を見渡す。
既に横にも誰もいない。ゲート手前で最後のストレッチをしている娘はいるが、ゲートに近づかないでうだうだしているのはセイウンスカイ1人。
《その熱気は大陸に広がり、海を越え、世界の反対側である日本まで届き、そして根を下ろします。日本でも、レース関係者最大の栄誉となったダービー》
後ろに控える係員が持つロープも段々と狭くなってくる。彼女がゲートに入らなければレースは始まらないのだから当然だ。
「もうちょい考える時間が欲しいなぁ」
とは言いつつゲート近づく。銀色の檻はいつでもウマ娘を静かに迎え入れるが、そこに優しさなどない。
《毎年熱い戦いが繰り広げられますこのレース。今年のダービーが、間もなく出走を迎えます》
実況にまで急かされてしまっては彼女もかたなしだ。また大きく大きく息を吸って、覚悟を決めて檻の中に入る。ようやくか、という空気が後ろの係員から一瞬して、退路が無くなった。
《『最速』『豪運』『最強』それぞれの称号を得られるのはただ1人ずつ。一生に一度。ただ1度の挑戦に、彼女たちは全てをかけるのです。さあ、全員がゲートに収まりました》
格子状の扉から、はるかに伸びるホームストレートが見える。今目の前の範囲だけでも、中山のホームストレートと同等の距離。後ろにまだ伸びていることを考えると、嫌になってくる程の長さだった。
コースグリーンがフラッグによって知らされ、慌ただしかったオフィシャルの動きが落ち着く。ああ、まもなくだ。そう思うと共に世界から音が消えていく。
代わりに響くのは、正確無比な秒針の音。リズミカルな機械音が、彼女の世界を支配する。
《近年稀に見る拮抗した実力。条件は完全なるイーブン。誰もが憧れる頂上決戦! 勝ちたいか。ならば、策を練り、脳細胞をフル稼働させ、その先のゴールに突入せよ!!》
赤いシグナルが増える。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつと増え、その度に決着の2400mの始まりが近づいていく。勝つのは私という感情を、セイウンスカイは改めて握りしめた。
《URAスーパートゥインクルズ 東京優駿、2400m先の栄光に向かって今スタート!》
そしてシグナルが消えた。同時に彼女は自由になって、ゲートを飛び出した。誰が形容しても、素晴らしいという冠が似合うスタート。内側に入り、各々自分の場所を決めていくウマ娘たちだが、セイウンスカイはそのまま加速していた。
《さぁセイウンスカイがいいスタートを切りました。ホールショット争いが激化します》
スタートから1コーナーまでは、およそ300mの平坦路面が続く。個人の能力差で速度に違いが出やすいコーナーまでに、有利なポジションを取るのは逃げウマ娘にとって至上命題だった。
ぐんぐんと加速し、ハナ争いを繰り広げるのはセイウンスカイと14番のエスペリオ。だが、スタートダッシュはセイウンスカイの方が良かった。完全に差がついたところで、彼女は内側に寄せていつものポジションを確保した。さあそして、ここから位置取りをどうするか。近づくコーナーを見ながら、セイウンスカイは考える。
後ろがしかけてくれたのなら、2人のマッチレースを展開して後続を引き離すことも考えられたが、エスペリオは彼女の後ろについていた。引っ張ってもらうことで気力とスタミナの温存を狙ったのかもしれない。
セクタータイムとしては、11秒前後の早いペース。さすがにそのまま走るのは難しい。セイウンスカイはじわりじわりと速度を落とし、コーナーの進入でおよそ13秒まで落としていた。
────コーナーを全開でクリアできるウマ娘なんて居ないからね。
皆少なからずペースは落ちるもの。聞こえてくる足音からすると、セイウンスカイに合わせて2番手以降もスピードを調節しているらしい。全員の耳目がこちらに集まっていることを確かめながら、彼女は17人を引連れて1コーナーをクリアしていく。その途中で、対軸を左右に振る動作を入れながら。
《さあコーナーに入るまで、最初の400は22.23と由良川さん。かなりハイペースですね》
《影響しないといいですが》
《そしてセイウンスカイがウィービングを見せます……ピックアップにしては早くないですかね?》
ダービーのコースは、スタートから1コーナー半ばまでの約500mはほとんど平坦だ。しかしその先はしばらく下り。1コーナーエンドから2コーナーに入ると、ホームストレートで作られた隊列が段々とバラバラになり始めた。
《おっと、何人か横に拡がったウマ娘がいます。ラビットタンクリバーやソウヤウォリアー、ミチルリュウオウなどでしょうか》
《ここからしばらく下りなので、気をつけないと外に膨らんでしまいますからね》
下り坂でスピードがついたウマ娘たちの中で、僅かに外に振られて走行ラインを膨らませたウマ娘がちらほらと出てきていた。
────何人か蹄鉄合ってなさそう。違いないね。
そのウマ娘たちは、蹄鉄のグリップが弱いと見ることが出来る。それか、極度にコーナーに合わせた調整をしているか……どちらにせよ、コーナーで仕掛けられないのは確実だ。
チラ、と曲線を利用して後ろを確認する。キングヘイローもスペシャルウィークも、それなりに遠くにいたがしっかりと内側のクリップをつけて回っており、調子は万全と言ったところか。
下りながら回るコーナーを抜け、各々はグランドスタンドから正反対のバックストレートに入る。
《さあバックストレートに入ります……しかし、ちょっとペース落ちましたか?》
《そうですね。セクタータイムを見てもちょっと遅いですね。とはいえ、コーナリングはスピード落ちますから》
ジワジワとコーナーでペースを落としたセイウンスカイ。バックストレートに入っても、彼女はペースを上げなかった。スタート時とは違い、明らかな減速。
《あー、やはり遅くないですか?》
《そうですね。明らかに遅いですね》
後ろはこれを見て心中顔を見合せた。追い抜かしても良いものか? 特に逃げを志向するエスペリオは、セイウンスカイをパスする良いチャンスだと一瞬考えた。
しかし、2400という距離が判断を迷わせる。特に、前走覇者のセイウンスカイ陣営は「400mは重いという」言動をしていた。だから、遅くても……と思う。
《やはり未知の距離は遠いようです前走覇者セイウンスカイ!》
なら、皐月賞までの走りはどうなのか? と言う疑問も湧いてくるだろう。弥生賞含めた皐月賞までの彼女は、逃げで戦っていなかった。だから、展開によっては逃げウマ娘を前に出していた。スタートが得意な先行ウマ娘というのがかつての売り文句。
しかし、今のセイウンスカイは逃げウマ娘。エスペリオには、遅いからと言って仕掛けたら競り合ってくるだろうという考えもあったのである。
だから、彼女はトップを走るセイウンスカイとのギャップが縮まっても、追い抜かない程度の速度に調整する。すると、後ろが詰まる。そして後続もおおよそは同じ考えだった。
距離が長い。だから抑える。
むしろ、後ろのウマ娘にとっては前が抑えてくれた方が好都合。後半になってよーいドンのレースとなれば、「逃げて差す」ができない限り後方有利。そんな思いもあって、バックストレート立ち上がりからレースは鈍化して行った。
《最新のセクタータイムは14.04……かなり遅くないですかね?》
《これはどう言うつもりなのか……後ろ詰まってますよ》
逃げも先行も差しも追い込みも前との距離がつまり、慌てて減速するような状況。しかしそれでも自分のポジションを維持しようとするウマ娘たち。
悪いことではない。それぞれに勝ち筋というものがあり、それを押し通したものが勝つ。しかし、こうも混雑してしまっては考えられるものも考えられなくなってしまう。
それほどまでに、400mという距離は長かった、持つ魔力は重かった。ひょっとすると、ダービーに出走する程の力をもつウマ娘にとって追加の400mはなんでもない距離かもしれない。だがここまで来ると、誰も彼もリスクは負いたくない。
脚を溜めた時点で、それはセイウンスカイの思考であって自分の戦法ではなくなってしまう。
それを理解しているのは、付き合いの深いキングヘイローとスペシャルウィークのみ。だから彼女たちは外に出し、ただひたすらに自分のペースを保っていた。
《キングヘイローとスペシャルウィークは上がっていきます……由良川さん。これは?》
《ペースを保っているのだと思います。掛かっているようには見えませんし》
《押し出されている、と言ったところでしょうかね? ……しかしどうしたセイウンスカイ!》
外から上がってくる足音は、彼女にもはっきりと聞こえていた。散々、学園で聞いた、クラスで聞いた、体育で聞いた。練習をしている時に聞いた。
────やっぱりさ、引っかかってはくれないか。
ジワジワと上がってくるふたつの足音を認識。ギャップとしてはまだある。安全圏だ。そしてここで、2人の動きに思考を向かわせる。
なぜ上がってくるのか、どうしてペースを落とさなかったのか。耳を済ませてみると、キングヘイローの足音は一定のペースで近づいてきていた。今の自分の速度、そして近づく距離から大体の速度を出す。
────なるほど。12秒かなぁ?
完全に正解とは思っていない。しかし、キングヘイローはペースを維持している。その意図はただひとつに思われた。
「2分24秒でゴールする」
今現在、ダービーの勝ち時計は最速で2:25.3。それよりも遅くなることはあれど、いきなり2秒も3秒も早くなることは無いはず。だから、キングヘイローはペースを維持し、体力の消耗をできる限り抑えて走ろうとしている。
スタミナ不安、距離の不安。的中しているらしいと考え、それをもたらしたトレーナー、右堂海人の顔を思い浮かべる。常に冷静にデータを集めそして冷徹に分析する姿は、どこか恐ろしさも感じさせる。
敵に回さなくてよかったと思いながら、伺うはキングヘイローの動き。スペシャルウィークの動き。そして残りの後ろの動き。
鈍化するレースと、それに付き合った2番手以降。各自の思惑を持って動くセイウンスカイをよく知る2人。勝ちたいという思いの渦巻くレースは、バックストレートの中程を超え、後半に差し掛かっていく。