トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
バックストレート半ばに差し掛かっても、トップのセイウンスカイと2番手以降のギャップは縮まっても広がってもいなかった。一方でキングヘイローとスペシャルウィークの2人だけはどんどんと前に進出し、ギャップを着々と削っている。
《さあ大外を上がっていく影がありますね……》
《キングヘイローとスペシャルウィークですね》
《これは自分のペースを?》
《そんな気もします》
そう、レースもまもなく半分。ジワジワと、精神的には余裕がなくなっていく。これで良い、と思った後続のウマ娘たちも、外を上がっていく影に気づいたところでにわかに落ち着きを失っていた。
見ていなくても、ウマ娘の動きがわかる。誰が上がっていくかわかる。動きのないレースの中で、ライバルたちの動きが、思考が読める……そんな感覚を、2番手以降に控えたウマ娘のほとんどが味わっていた。
どうする? どうする? いつ上がる? 内側に閉じ込められたウマ娘は外に出ようとする。しかし、逆に外を走っている1団はそんなことはさせまいとする。
────あらあら。前をめざした方がいいのにね。
摩擦で速度を失う後ろの争いを尻目に、セイウンスカイは坂に差しかかる。バックストレート中ほどから存在する1つ目の坂。勝負どころのひとつに対し、彼女は意識を向ける。
坂の走り方。さんざんに繰返したトレーニングを思い返し、セイウンスカイは自分を鼓舞した。大丈夫、いけると。1番余裕があるのは私、いちばん上手く走れるのは私だ、と。
《バックストレートもなかほど、最初の上りです》
《ここでセッティングの差がまず出ますよ》
体にかかるGが急激に変化したところで、体をより大きく、強く持ち上げるように足を踏み出す。重力に逆らって坂を登るというのは、大変なエネルギーを使う行為だ。
しかし彼女は、セッティングによる登りやすさに感動していた。重心をいじることで、坂に最適な接地角に調整している。また、前述のように走り方を改善できたことも大きかった。
彼女自身早くした自覚は無いし、まだ上げるところでないと分かっているのでスピードはできる限りそのまま。歩幅はどうしても小さくなるのでピッチを増やし、ロスを最低限にという意識を貫く。
……意識をしたセイウンスカイもロスをしているのに、ここは意識をしなければもっとロスをする。詰まっていた2番手とのギャップはまた開いていき、先頭が坂を登り切ったところで差は約2メートル程になった。
離される。捕まえられない。そういう感情が沸き上がる。この差は、坂で生まれたものなのは間違いない。だが彼女たちの頭から、「得手不得手」という思考は失われていた。
有利な位置を巡る、ほんの数メートルの争い。そして、勝利を決めるコンマ以下の争い。坂という得手不得手で生まれたわずかな差のはずだが、後続にはセイウンスカイが仕掛けたと感じられる。
焦りと戸惑い。スローペースになったレースの中で、彼女達は考えることが出来ていた。レースについて、相手の戦法について冴え渡る思考で考えられていた。
脳の働きは、激しい運動をすれば当然低下する。その中で策について考え実行に移すにはトレーニングも本人の素質も必要だ。
セイウンスカイは、その素質をよく持っていた。自分を抑え、戦場を俯瞰し、考える。だがそれは、誰もが持っているものでは無い。だからいきなりいつも走る時に得る以上の情報を、いきなり得たらどうなるか。
判断に迷う。どうしたらいいのか、これで行くと決めた戦法を貫く以上の情報が流れ込んできて、正しいのか正しくないのか。働きの低下した頭脳で考えることは難しかった。
しかし、ひとつ分かることがある。バックストレートも半ば。つまり、仕掛けるならもうここしかない。
《おや、動きがありました! いきなり加速! なんということだ!》
《いきなりですか? いやこれは……》
《今日のレースは荒れています!》
2400mのレースの中で、バックストレートの上りが終わるのは約1150。残りは1250。そこから150m程度平坦な道が続き、そして3コーナー半ばまで下りとなる。レースも半分が過ぎてしまい、
────雪崩。まさに雪崩じゃない?
後ろの増速はセイウンスカイにもよく分かっていた。バラバラと迫ってくる足音。皆、体力は大きく余っている状態なはずである。それは彼女も同じで先頭を走る芦毛のウマ娘は踏み込みを強くし、スピードを徐々に戻して行った。
《さあ先頭は依然としてセイウンスカイ! 後ろに弾かれるようにスピードを上げた!》
セイウンスカイは焦ってなどいない。後続に合わせてスピードをあげる。先頭は絶対に譲らない。その決意で持って、バックストレートを進む。
後ろもどんどん速度を上げ、彼女の目算では12秒を切る程度。半ばでこのスピードは早すぎると思うかもしれないが、彼女も十分に体力を残している。
だから、後続に合わせてスピードをあげつづけられた。
外側を走っていた2人は、雪崩のように加速した内側のウマ娘を見てギョッとする思いだった。もちろん、易々と前に出て勝てるとは思っていなかったが、こうも急激に状況が変わるとは。
だが、キングヘイローも慌てなかった。今は塊となっている集団だが、さほどせずにバラけるだろうと思っている。特にまもなくコーナーに入る。タイミングをはかれば勝てる。キングヘイローはそんな確信とともに、合わせてスピードを上げていた。
一方、大きく落ち込んでいたペースを戻したセイウンスカイ。後ろに合わせて先頭を譲らず、足を早め続ける。
彼女はバックストレートを降りながら、まもなく3コーナーに差しかかるところだった。降りながらのコーナリング。彼女は全く減速せずに大欅の向こうの走路を駆けていく。
《さあ大欅の向こうを通ります!》
《全く減速せずに突入していきましたね……よほど決まっていると見えます》
大きく回る左コーナー。セイウンスカイに続き、ウマ娘たちがコーナーに突入していく。今まで通過してきた1、2コーナー、と同じRのコーナーのはずだが、走行ラインを膨らませるウマ娘もいた。たまらず減速したウマ娘もいた。
大欅の向こうでグランドスタンドからは見えていないが、位置取りの変化。ライン取りの変化。それは確実に起こっていた。
セイウンスカイがレースを凍結させ、足を残させたのは駆け引きを無くしてウマ娘を詰まらせるためだけでは無い。余裕を持たせ、情報でパンクさせる。それも副次的なものだ。
最大の目的は、このチキンレースだった。焦らせる。前へ行きたいと思わせる。レース後半まで詰まって鈍化した展開でじらし、仕掛けどころを制限させ、一気に加速させる。前へ出ないとという思いひとつを煮え滾らせ、みなの足を早める。
その先にはコーナーがある。よーいドンで加速し、有利な位置を争うために摩擦の中で無理に加速する2番手以降よウマ娘の集団。前へ前へ、限られた距離で前に出ようとすれば、少したりとも速度を緩めてはいけない。
その上下り坂でスピードがのったまま、コーナーに突入する。いつもよりはるかにオーバースピードで、無策にコーナーに突っ込んだらどうなるか。
前述のように、クラッシュこそしないが曲がりきれずに膨らむウマ娘がいる。外に膨らむのを嫌って減速するウマ娘がいる。その中でも、グリップが良くてそのまま曲がり切れるウマ娘もいた。
《おっと大欅のむこうでなにがあったのか! 隊列は大きく乱れています!》
《ちょっと無茶な飛び込みだったようですね》
三々五々。コーナーに対応できるか出来ないかはそれぞれ。それは外側を上がっていたキングヘイローとスペシャルウィークも例外ではなく、内側から押されそうになり、前を塞がれそうになり、もっと早く抜け出ておくべきだったと唇を噛んでいた。だがもう後の祭り。
とはいえ幸いにも、少なくないウマ娘が外側にぶれたことで内側に幾ばくかのスペースが出来ていた。キングヘイローは良い場所と見定めたセイウンスカイの後ろへにじり寄り、スペシャルウィークは外めを走り続ける。
無理にいきなり内側に入る必要は無い。セイウンスカイの後ろに付けられれば彼女は先頭でホームストレートに突入すると踏んだキングヘイローと、一気に切り込むと決めたスペシャルウィーク。
その様子を伺いながら、先頭のセイウンスカイは妨害を受けることなく3コーナーをクリアしていた。下りから上りに切り替わり、じわりじわりと体力を削る残りの900メートル。チキンレースに参加したウマ娘との差はじわじわと広がりつつある。
逆に着いてくる足音は、確実にライバル2人のものだった。やっぱり後ろにいるキングヘイロー。コーナー入口で外側にいたはずなのに今後ろにいるというセッティングの決まり加減や、気迫などを勘案すると非常に手強い。
スペシャルウィークは遠いが、着いていけていないのでそこにいるのではなく、何かを考えてそこにいるはず。とはいえ、スタミナ勝負なら負けるつもりは無い。坂の上りを、自分ほど上手くできるウマ娘もいないだろうと言う判断。
そして3つめのコーナーが終わる。3コーナーに比べてキツく曲がり込む4コーナーへ、セイウンスカイは内ラチへ触れるほどの距離で切り込んだ。
《さあ最終コーナーに先頭が突入します!》
《ここはRがとても小さいので、上手くクリア出来ますかね?》
段々とグランドスタンドの歓声も大きくなり、レースも終わりだという実感が強く湧いてくる。その声に載せられるように、セイウンスカイは身体を大きくかたむけて4コーナーを回る。蹄鉄のグリップはほとんど限界。装蹄師の腕が良い事に感謝をしながら、ふつふつとした恐怖を抑えて走る。
────大丈夫だセイウンスカイ。蹄鉄は最高。なんたってトレーナーさんの親友だもんね。
キングヘイローもできる限りセイウンスカイについて行こうとするが、彼女ほど体を傾けることが出来ない。命知らずにも程があるという感想を抱きながら、逃げる親友の背中を追い続けた。
揺れる視界の中、なにかヒントがないか。キングヘイローは前に食らいつくために貪欲に視線を走らせる。使えるものはなんでも使う。彼女の持論の一つである。
その中で、セイウンスカイの肩が下がっていることに彼女は注目した。普段のセイウンスカイと、あまり肩の角度が変わらない。つまり、力を抜いて走っているのではないかという推察。
事実、セイウンスカイは全身からできる限り力を抜いて走っていた。それを思いついたのは、サイレンススズカとの併走。何度やっても追いつけないそのギャップをできる限り縮めるため、セイウンスカイはその走りを真似てみることにしたのである。
スカイさんができるのなら、私も! そんな思いとともに、キングヘイローも強ばる肩を解し、少し体をかたむけた。
するとじわじわ広がっていたはずの差が広がらなくなって、セイウンスカイは舌を巻いた。 まさか、コーナーひとつ走り終えるまでに走りを修正してくるとは。スピードが想定より落ちたか? と一瞬疑ったものの、こちらが落ちたのではなく、向こうが上げた。それは周りの景色も押し込んだ脳内の時計も同じ結論を出していた。
《さあ先頭はセイウンスカイ! その後ろにキングヘイロー、3番手はスペシャルウィークを含む集団でしょうか》
僅かな上りの加速度を感じながら、ずっとインベタでコーナーをクリアする先頭2人。3番手のスペシャルウィークとはそれなりの差が開いていた。
だが、全く安心できるものでは無い。スペシャルウィークの実力は未知数と言ってしまって良かった。公式練習でも全開で走っているようには見えなかったし、トレーニングする姿もあまり見ていない。
皐月賞では体が重かったと認めた上で、自信をのぞかせていたチーム《スピカ》のダービーにかける思いは想像するしかないが、並大抵ではないだろう。
《さあ1番人気スペシャルウィークは間に合うのか!》
後続に警戒しつつ、最初に4コーナーを終えたのは順当にセイウンスカイだった。その背後にキングヘイロー、まだスペシャルウィークはうしろにいる。
《セイウンスカイが先頭でコーナーを立ち上がってくる!》
その瞬間、セイウンスカイは海原を夢想した。どこまでも広がる青色に、いるのは1人。撒いた餌で獲物を釣る、釣り人としての在り方、心象風景の具現。
息を吐き、目だけに力を込め、横Gがかからなくなった瞬間に地面をどこまでも強く蹴る。芝を思いっきり叩くような衝撃がして、セイウンスカイの体はグッと前に進み出した。
まだまだ始まったばかりのホームストレートがもう少し短ければ良いのだがとこのレーシングコースを設計した人に文句をつけ、それでもスピードを緩めない。
キングヘイローも、虚をつかれたと言った反応を欠片すら見せず、セイウンスカイに追従していた。
《キングヘイローとセイウンスカイ、激しいテールトゥノーズでホームストレートを駆け上がってくる! しかしおっと、その後ろから……》
先頭を走る彼女の前に、当然のごとく足音はない。背後にはキングヘイローの鋭い足音がある。しかし問題はその更に後ろにあった。
《スペシャルウィークだ! スペシャルウィークが肉薄しています!》
重い足音、そしてじわじわというどころでないスピードで近付いてくる。嘘ではない。スペシャルウィークは既にキングヘイローの背中に肉薄し、先頭との距離を確実に削っていた。もう少し離れていたはずと思いながら、セイウンスカイは腕を振る。
なぜスペシャルウィークが急速に距離を詰められたか。それは、4コーナーのコース取りにあった。セイウンスカイとキングヘイローがインベタでコーナーをクリアした中、スペシャルウィークは急速に内側に振ることなくアウトを進んでいた。その後、彼女は急速に内側に切り込みコーナーのエイペックス手前でクリップをつけてそのままアウトに膨らむようにコーナーをクリア。
典型的なアウトインアウトのライン取りでホームストレートに突入していたのである。そのライン取りが正しいかどうかというのはコーナーの形状や展開にもよるが、少なくとも今回、3コーナーから続けてRのキツい4コーナーをクリアするには正解だったということ。
キツい4コーナーを直線的にクリアしたスペシャルウィークの速度は、セイウンスカイが抑え込むには難しいくらいの速度だった。
────やるねスペちゃん!
まず加速したのは、並ばれたキングヘイロー。セイウンスカイも、上がらないという選択肢はなかった。更に強く蹴る。それ以外の力を抜き、エネルギーの浪費を抑えて走れるように。
《さあスペシャルウィークがだんだんと上がってくる! 坂ではスリップを使いたいところだがほとんど背後には付けない!》
ホームストレートに入り、ほんの僅かに走ると最後の難所が彼女たちの前にたちはだかる。高低差2mを数える坂だ。京都を例外とすれば国内のレーシングコースの中でもトップの高低差が、体力を消費してきたウマ娘たちを苦しめるのである。
《さあ最後の登坂に差しかかる! ちょっと前に行く足が淀むか!?》
心臓がうるさい。その上重くなりかける足元からの重力は、坂を登らせまいと足を掴んでくる。しかし、それは誰しも同じはずなのだ。
「行かせるかァッ!!」
《並んだ! スペシャルウィークがセイウンスカイに並んだ!》
だが、そもそものスピード差があってしまえば、同じだけ減速したとしても差は変わらない。スペシャルウィークが1歩踏む事に爆発するような足が路面を叩き、風に負けない音を乗せてくる。セイウンスカイも負けじと限界まで地面を強く蹴る。
《しかし譲らない! サイドバイサイド! キングヘイローはやや不利か!》
そう。譲れない。そして、負けられない。足の使いすぎで、あとで海人に怒られても構わなかった。一生に一度の晴れ舞台、最後の500メートルさえもてばよかった。
《譲らない! 譲らない! あっという間に並んだがサイドバイサイドでまだ走る!》
坂は残りわずか。疲労を訴える足を必死に動かす。辛いのは誰しも一緒だと自分を鼓舞し、ゴールだけを見据える。
坂を登りきる。ここまで来てしまえば、あとは意地の張り合いだ。勝利への花道となるような、至って平坦な残りの300mだ。
《さあキングヘイローがスリップを使って横に出す! 間に合うか!》
キングヘイローの足音が、2レーン分ズレる。外に出す分不利なはずなのに、それでもまだ食らいついてくる。
スペシャルウィークの足音はもちろん緩まない。勢いのまま、紫色の流れ星のように一直線に伸びる軌跡を描きながら走る。
セイウンスカイも負けない。譲らない。ずっと並び、スペシャルウィークに、キングヘイローより先に! キャラじゃないという自覚も自嘲もせず、青い風が駆け抜ける。
《弥生賞の再現となるか! スリーワイドだ!》
残りの200m。僅かに聞こえていた歓声が、隣を走る足音までが消え去り、彼女たちの視界がスローモーションとなる。
一流を目指す。
日本一。
全てを引っくり返す。
勝ちたいという思いは誰も同じで、それを押し通すために走っているのだ。セイウンスカイは破れそうになる心臓を、煮え滾りそうになる脳味噌を、悲鳴をあげる足にもう少しだからと言い聞かせ、ただひたすらにゴールをめざした。
《プッシュ! また並ぶ! こんなゴール手前でスリーワイドになるのか!?》
最後には、セイウンスカイにも時間は分からなくなっていた。中山より遥かに長く全開で駆け抜けてきたこの体も、そろそろ限界だった。
場内放送の実況は何か言っていた。だが、セイウンスカイには聞こえなかった。誰が最初にゴールしたのか。それも彼女には分からなかった。ほとんど横に並んでゴールしたことだけは分かる。
ゴール板と思われるものを通過した後、セイウンスカイはゆるゆるとスピードを落とした。出走前より大きすぎる歓声が耳朶を叩き、うるさ過ぎる鼓動と熱を持ちすぎた体で、結果を見ようと振り返る。
最後に笑ったのは。
《なんと今年のダービーの決着は0.082秒! 弥生賞に並ぶ僅差での決着! なんということだ!》
信じたくなかった。目を疑いたかった。
《勝ったのはスペシャルウィーク! でも負けたセイウンスカイもキングヘイローも勝ったと同然の走りをしました! すごいレースでした今年の日本ダービー !》
しかしもう確定したレースの結果は覆らない。心の底から、胸の奥から、セイウンスカイは叫んだ。
「くっそぉ────っ!!!」
大歓声に負けないくらいの声量で思いを叩き付ける。だがそれはそれ。これはこれ。勝者に歩み寄るのも忘れない。なんて声をかけようか。類を見ない決着に湧く東京レース場の中、セイウンスカイは輝く星を見ていた。