トレーナーは『青空《スカイ》』が見えない 作:Skyjack02
歓声ばかりのレーシングコースを後にしレース後の検査を終え、1人で薄暗い廊下を歩く影はセイウンスカイのものだった。汗まみれの全身、それに張り付く土埃。それだけではなく、勝者を称える歓声すら耳の奥にこびりついていた。
「はっ、はは……」
あーあ、完璧だったはずなのに。レースを支配した。そして、目論見通りスローペースにもちこめた。体力は十分に残っていた。最後、3人串刺しのテールトゥノーズになっていたらまだ違ったかもしれないが……。
「ぜーんぶ、後の祭りだね」
掠れた声で漏らして、地下遠くにある《アルゴル》の控え室にたどり着く。金属のフレームに、歪んだ姿のセイウンスカイが映っている。どんな顔をしているのか全く伺うことができないが、きっと酷い顔をしているのだろうと彼女は思っていた。幸いのひとつは、この酷く歪みそうな顔を見られずに済むところだろうか。
大きく息を吸い込み、そしてノブに手をかける。軋む蝶番の耳障りな音を聞きながら戸を開くと、ほのかに薬臭い空気が鼻に流れ込んできた。
「ただいまで〜す」
「ああ、おかえり」
海人に何を言われるか待ち構えていたセイウンスカイだったが、「おかえり」で終わったことに拍子抜けする。弥生賞の時はどうだったか首をひねりながら、すっかり力の抜けた身体を硬い椅子に落とした。
彼は壁によりかかって手帳に指を走らせたまま何も言わず。もちろん、セリカが何かを言うはずもない。自分を慕ってくれる後輩はいなかった。空調機がかわいた空気を吐き出す音だけが部屋に充満する。何を言っていいのか、何を言えばいいのか。彼女は分からないで唇をかみ締めて俯いていた。
「ドリンクとタオルはいらない?」
「……いります」
滴る汗のひとつすら拭かず、椅子に座りこんでいることにようやく気づく。やっぱりね、と小さく笑いながら、海人はカバンから大きなタオルとドリンクのボトルを取り出した。
小脇にそれを抱えながら、机のヘリをつたって彼はやってくる。いつもならこっちですよ、などと声をかけるが、今の彼女にそんな気力は露ほども残っていない。
「ほら。お待たせ」
差し出されたタオルをまず受け取る。ボトルは机に置かれた。真っ白なパイル生地のタオルをじっと見つめていると、何もかも投げ出したくなる衝動に駆られた。
顔を柔らかな白に埋め、大きく深呼吸。業務用のクリーニングなので柔軟剤の良い匂いなどはしなかったが、オゾンのツンとくるにおいは彼女を少し落ち着けてくれた。
「あの」
「なんだい?」
試しに呼びかけてみると、椅子のすぐ近くから声が降ってくる。まだそばに居るらしい。言葉を続けるか、止めるか。1ハロン走るくらいの時間をかけて悩み、そして口を開く。
「何も言わないんですか?」
「何か言って欲しいのか?」
その言葉になんてアホなことを聞いたのだろうと肩を強ばらせる。しかし出した言葉は戻らない。時間も同じ。
「まあ、そりゃあ。チームのウマ娘が帰ってきたんですよ?」
「ふむ。ならひとつ聞こう」
「何です?」
どんなことを問われるのかと身構える。敗軍の将は首を切られるだけなのだから……。
「君は、全力を出したか?」
「もちろん。もちろん、です」
それは確実に言えた。ただ、全力を出したと認めたからといって、負けが無くなるわけじゃない。1000分の82秒、差にして10センチ強が逆転する訳では無い。自分から全力だったというのは、仕方なかったと言い訳をするように聞こえていた。
「そうか。仕方なかった、ベストを出せたのならそれでいいとは言わないさ。スペシャルウィークさんが強かった。それだけ。2400という距離に置ける今の実力差」
「ただ」と続け、彼は言葉を切った。サングラスのレンズが僅かに動き、蹲るセイウンスカイを捉える。
「まず自分を褒めなさい。良くやったと。反省はこれからいくらでもできるし、いくらでも付き合う。今やっても意味なんてないよ」
未だに顔をうずめながら、海人のセカンドテノールの声を聞く。
「結果は変わらないけど。でも、セイウンスカイはとても素晴らしい走りをしたんだ。まず、そこを認めよう」
「それで、いいんですかね」
「そりゃね。君の実力はまだまだ伸びる一方だし。これから『全力』をその度に上書きしていけばいい」
言っていることの理はわかる。しかしやはり、今全力だったというのは、全てを出しても負けたのだから……と仕方ないに繋がってしまうように彼女は思った。自分への言い訳である。全力でも負けたのだから仕方ないというのは。そう思おうとしていた。
「全力でまた負けたらという気持ちは……分からんでもないけど」
無言が続く。なぜ、こんなにも彼の言葉を認めたくないのかセイウンスカイには分からなかった。ただ頑なに、認めたくない! と心が叫んでいる。
「まあ、君が認めなくてもね」
強く顔に押し当てたタオルが、彼女の息で熱を帯びてきた頃、海人がまた切り出した。先程より柔らかく、包むような声色だった。そしてゆらり、と海人の手が動く。持ち上げられた右手は優しく、ゆったりと。
「トレーナー、さん……」
セイウンスカイの後頭部に着地していた。大きく左右に、慈しむような温もりが、汗をかいてべちゃべちゃのはずの髪の毛を梳いていく。
「私は君を今は思いっきり認めよう。素晴らしかった。格好良かった。惚れ惚れする走りだった。心の底から褒め讃えたい」
「そんなこと言っ、言ったって……」
なんも出ませんよ。その言葉は続かなかった。何も見ていないはずの視界が歪む。熱が雫になってタオルに吸い込まれる。
「今はいいんだそれで。あとで冷静になって、何が良くなかったのか考えよう。そうすれば、今の全力に満足することにはならないだろう?」
声を押し殺すセイウンスカイの頭を、海人の手が撫で続けている。汗で湿った白群かかった芦毛が指の隙間を通り抜け、静かに元に戻る。
「自分を褒めることは大事だ。認めることは大事だ……君が、どんな考えをしているのかは分からないけどもね」
何も答えず、背中は震えるだけ。海人はサングラスの奥の目を一瞬細めたが、何も変わらずに彼女の頭に置いた手を動かし続けていた。
10分ほどそうして、ようやくセイウンスカイは落ち着いたようだった。目は赤い。頬には押し付けていたタオルの跡がついているという有様だったが、顔を上げて、レンズ越しの彼の目を見ようとしていた。
「すっきりした?」
「まあ、少しは……ごめんなさい。セイちゃん負けちゃった」
そこまで言うと、にへらと力抜けたように笑う。それを聞いた海人は呆れるようにまた、彼女の頭をぽふぽふ優しく叩く。 謝る必要などないのに、彼女は謝る。変なところで見せる優しさと律儀さを好ましく思いながらも、必要ないものは必要ない。
「勝ちだけが意味ある訳じゃない。人生負けることもある……いいか、冷静に乗り切れ。案外周りを見回せば、味方はいるものだ」
「例えば?」
「私」
そう言って自信満々に自分を指さすトレーナーを見て、セイウンスカイは呆れたように笑うしかなかった。
「もぅ。それは間違いないけどさ……」
「不満?」
「いやいや。不満なんて……それに、トレーナーさんを味方だって忘れたら、なんか最後な気もする」
「最終的に思い出してくれればいいさ」
「それもそっか」
ひといきついて、ようやく髪の毛を拭く。随分放置された自慢の芦毛は汗で纏まってしまっていて、そんな髪を撫でられたことに抗議するべきか悩んでいた。しかし、悪気があった訳では無いし、純粋に励まそうとしてくれたのも事実なのだから不問に伏すことにする。
「なんで泣いたのか……イマイチ私もよくわかってないけどさ」
「うん?」
「なんか、安心したんだと思う。トレーナーさんは、負けてもちゃんと私を見ててくれたんだって。考えてくれたんだって」
「なら良かった」
唇の端を吊り上げた海人に笑顔を返してから、シューズを脱いで濡れた靴下も脱いで足の先までタオルで拭く。全身の汗をぬぐってから、着替える為に席を立つ。この部屋に帰ってきた時よりは前を向けた事に感謝しながら、ロッカーを開けた。
「ライブあるんで着替えまーす」
「はいどうぞ」
カーテンで仕切り、取り出したライブ衣装を壁にかける。完全に彼から姿が見えなくなってから、セイウンスカイは強く、強く拳を作った。
スーパートゥインクルズでは2度目の敗北。人生では何度目だろうか? 何度しても、負けが悔しいというのは変わらないし、悔しさから目を背けたくなる気持ちもあった。
しかし海人がいるなら。同じ方向を向いてくれる大人がいるなら少しは乗り越えられるかもしれないと、セイウンスカイは思っていた。
ライブが終わってから私服に着替え、汗にまみれた勝負服と衣装はクリーニングに出してしまい、セイウンスカイは海人の肩を叩いた。
「お待たせしました〜」
「ああ、帰ろうか」
ライブをやっている間に、もう既に準備を終わらせていた彼はハーネスとカバンをそれぞれに持ち、セイウンスカイが開けた扉から外に出る。レーシングコースから帰ってくる時よりは明るい光が天井にある。
「またひとつ聞こうと思うんだけど」
「なんです?」
「悔しいか?」
歩きながら放たれた言葉に詰まる。ここで感情を出して良いものか。全てをさらけだしていいものか。丸いライトを浴びながら、セイウンスカイはずっと考えた。
「トレーナーさんには言いますけど……悔しいですよ。そりゃ。一世一代の大舞台でしたし」
どんな表情を向けてくるのか気になったが、見たくないという感情もあって彼女は足を早めた。海人は相も変わらずの歩調で歩き続け、ゆっくりと口を開いた。
「うん。なら、君は伸びる」
「なんでそう思うんです?」
「今いる場所に甘んじたら、悔しいとは思わない」
声音が少し暗くなる。ハッとして振り返るが、やはり表情は読めない。黒々としたレンズに押し込められた目は、どのように開かれているのか。
「というのはだいぶ厳しい言葉だけど、悔しいと思うのなら、まだ君は前に進んでいる。挑もうとしてる」
一瞬のうちに笑ったその顔をみて、さっき見えたのはなんだったのだろうと首を傾げる。
「そういうトレーナーさんはどうなんです?」
「私か? 私はなぁ……そりゃ悔しいさ」
「ほんとですか?」
セイウンスカイとしては疑いたくもなる。帰ってきた時も何も言わなかったし、反応のひとつすら海人は見せなかった。きっと、彼女が何も言わなかったら敗戦にすら触れず、今ここにいただろうと断言出来る。
「私は走ってないしな。当人じゃないのに、君を差し置いて騒ぐわけにもいかないだろうからね」
「別に気にしないでいいのに」
変な律儀さを貫こうとするトレーナーに対し呆れたように首を振る。ただ、彼がなにも考えずに喜んでいたり、大袈裟に悲しんでいたり。そんなことをしていれば「やりづらいな〜」という感想を抱いていた可能性があるのも、また事実。
「トレーナーさんは当人じゃないけど、当事者だよ?」
「理解している。もちろんね」
口元だけがゆっくりと三日月を描く。やはり、レンズの下。暑さ数ミリの黒い樹脂に閉じ込められた感情はいくら明かりが当たろうと見えない。
「それに。走る者としての気持ちは……それなりに分かるつもりだから」
ただひとつ走るという競技に関して、彼が並々ならぬ思いを抱えているのは薄々察していた。もっとも、彼の場合は自分で、ではなく車で走る競技のよう、ということまでもわかる。そのほかのことは全くわかっていないのでこれ以上何も言えはしなかったが、少なくとも。
セイウンスカイというウマ娘の気持ちを尊重しようとしているのは、彼女にも分かっていた。
「いいんですよ。トレーナーさんも喜んでくれないと……1人で喜んだり悲しむのって、結構恥ずかしいんですよ?」
おどけたようにいうと、意外だ、というように片眉がぐいっと持ち上げられる。まるで、君にそういう「恥ずかしい」と思うことがあったんだな……そう言いたげな動作に頬をふくらます。
「失敬な。私だって年頃なんですよ?」
「自分で言うか」
いつもより饒舌な気もするトレーナー。その奥の奥にある感情を類推し、彼女は自分の足元に視線を落とした。そして、ゆっくりと噛み締めるように言葉を吐き出す。
「気、使ってくれてるんですね?」
「そりゃ気でも使うさ……」
狼狽えるような色をつけた彼の声。自分にとっての大一番は、トレーナーにとっての大一番でもあるということをセイウンスカイは改めて認識する。
「ありがとうございます。でも、今日っきり要らないですからね」
「その言葉を信じようかな。明日からまた忙しくなるし」
「あー、そっかー……」
露骨に沈む様子を見せるセイウンスカイにオイオイ、と突っ込んでから顔を覆う。大きく大きくため息をついてから肩が落ち、ジャケットがずり落ちそうになった。
「なーんて。ちゃんとやりますよ明日から」
「頼むぞ。私だけ頑張っても意味ないからな」
海人が苦笑してサングラスを直す。正面に戻ったレンズには、ずっと続く天井の明かりが道のように連なっていた。
「そうだね。トレーナーさんについてくよ?」
「なんで疑問形なんだ」
「そこは力強く『ついてこい!』って肯定して欲しかったなー。ウマ娘こころ的にはさ」
『力強く』のところを特に強調しペロと舌を出したセイウンスカイだが、その光景を彼が見ることは無かった。表情に無反応という事実にやはり、彼女は一抹の寂しさを覚える。しかし、そんな物が見えなくても上手くやって行ける確信がたしかにある。
「あ、そろそろ外ですよトレーナーさん」
「ありがとう……人多いんだろうな」
そして、話しているうちに2人は関係者入口から外に出ていた。5月も終わりの東京。メインレースが終わりライブも終えての17時過ぎだと、やや涼しいくらいだった。
人の波はかなり厚くうねっていたが、城内で行われたレースとライブの興奮も、外に出ると静かに収まってきている。すると、話して頭の片隅においられていた約1時間前の現実が、再び彼女を侵食するのだ。
「はーぁ、負けちゃったなぁ」
「そうだな。敗北だ……だが、ゴール直前の歓声は下にいてもうるさいくらいだったぞ?」
「お、それほんと?」
その轟音は彼の鼓膜を叩くだけでなくセリカの落ち着きを失わせる程のものだったという。普段は訓練されているので大きな車のエンジン音や人混みでも動揺すらしないセリカが、落ち着きをなくす。
「よっぽどじゃないですか」
「よっぽどだよ。私も耳塞ごうかと思ったよ。テレビ聞こえないし」
悪い事をしたと少しは思うが、そのレベルまで観客を湧かせられたということに密かにガッツポーズを作る。セイウンスカイ、スペシャルウィーク、キングヘイローの3人によって作られた熱狂。耳目が集まるというのはプレッシャーでもあるし普段は嫌だが、ターフの上なら良いだろうという思考。
「どう思いました?」
「ま、小間切れには君が先頭ってことはわかったから、誇らしかったかな」
テレビがもっと近かったら良かったのに。そう控え室に文句を言う海人に、URA公式アプリでも入れればと言ってみる。
「あー、そうか。でも地下電波悪いから……考えとく」
前向きとはとても言えない返事だが、仕方ないと頷くほかない。控え室は地下なので電波が弱い。文字のやり取りならいけるが、動画の視聴はかなり厳しいと言わざるを得ない。
レース関係者が使えるWiFiも整備されてきているが、エリアが限定されているのが痛いところだ。どうにかしてよね、と背後のグランドスタンドを振り返り……もう1箇所、彼がレース観戦できるエリアがあったと思い出す。
「いや、それよりも上で見ればいいじゃん」
あ、その手があったか。中空に向けられたサングラスのレンズがしばらく固まってからセイウンスカイを映す。言い訳を考えていた動きだ、とぼんやり思い、何を言うかを楽しみにする。
「東京の上って遠いんだよね」
微妙に我慢してとはいい辛い言い訳が出てきて、セイウンスカイは何も言えずに黙り込む。上の関係者用スタンドに行くのが彼にとっての負担になるなら、無理に行ってと無遠慮に言うのは憚られた。階段の昇り降りすら、彼には危険な冒険になるのだから。
「……なら仕方ないかなー」
「次は努力するよ」
「京都ってどうなんです?」
「東京程じゃないかな」
東京レース場前の信号。渡ろうとしたところで赤に代わってしまい、セイウンスカイは海人のスーツの裾を引っ掴んで止める。後ろにつんのめった彼だったが嫌な顔一つせず感謝を述べた。
周りには、レースを見終えた観客たちがとても多く、盲導犬を連れた男というのは目立つ。おかげで、キャスケットを目深に被っただけのセイウンスカイが目立たないのは良いと言えた。いくらスーパートゥインクルズのファンと言えど、トレーナーの特徴まで網羅している人間は稀だ。
「しかし、スペシャルウィーク強かったな……こんなん、菊花賞も決まったんじゃないか?」
だから、隣で信号待ちをしているファン2人も気づいていない。今日のレースを振り返り、興奮した様子で話し続けている。
「ああ、2人とも凄かったがあの子の強さは本物だよ。特に注目してもいいかもな」
次に何を言われるか耳をすませたが、その前に信号が青になる。行きますよ、と海人に声をかけてから歩き出し、先程の会話を思い出しながら口を開いた。
「やっぱりスペちゃんすごい人気だねぇ」
事前の人気から、そしてレース結果に到るまでスペシャルウィークは人気者で、実力者だった。
「いやいや。セイウンスカイ、君も強かったぞ?」
「嬉しいけど……スペちゃんがまだ伸びてくってのは私も同意だしね」
遠くを見つめ、彼女は同級生への感慨を述べた。実力はよくわかっていたが、今実際にダービーを取った。彼女は自信を深め、夏合宿に挑んで更に能力を伸ばしてくるのは確実だ。
「それは私も同意だ。だが、むざむざ負けてやるつもりなんてないだろ?」
「それはそう。菊花賞までに強くなる予定ですからね。頼むよトレーナーさーん……なぁんて」
横断歩道を渡りおえ、最寄り駅へ向かう人波から外れて学園へと向かう。負けてしまったのは事実だったが、セイウンスカイの足取りは意外と軽い。それはリベンジに意味を見い出しているのもあるがまた別にひとつ。
右堂海人という人間となら、まだまだまだまだこの先伸びていける。そんな未来予知めいた思いを彼女をはかみ締め、隣を歩くトレーナーの横顔を見つめ続けていた。